地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

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巻尾というもの

 夜、誰も触れていない扉が軋む。

 

 巻尾は目を細め、小さく息を吐いた。

 

「……なんか、不気味っスね」

 

 轟は腕を組み、眉をひそめる。

 

「くそ、誰か触ったのか?」

 

 江藤は肩をすくめ、扉をじっと見つめる。

 

「誰もいないはずだな」

 

 三人の間に静寂が落ちた。扉の軋む音が、巻尾の胸の奥に何かを呼び起こす。

 

 扉の軋む音に、胸の奥がざわつく。

 

 犬だったころの記憶が、ひょいと顔を出した。

 草の匂い、湿った土の感触。小さな体でそっと歩くたび、背筋に冷たいものが走る。何もかもが敵に見えて、体は勝手に低く縮こまる。

 

 安心できる場所なんて、どこにもなかった。声をかけられれば少しだけ安心する。でも、すぐに消えてしまう温もり。孤独だけが体にまとわりつく。

 

 怖がっている自分を見せるわけにはいかない。小さく鳴き、軽く尻尾を振ってやり過ごす。怖いのに、必死に平静を装う。

 

 その癖は今も残っている。普段の「っス」口調は、弱さを隠すための小さな仮面だ。

 

 暗闇に枝が折れる音、遠くで揺れる影。すべてが敵に思える。心臓は小さく跳ね、体は緊張にこわばる。

 

 でも、ただ怯えているだけでは生きられない。どう動けば少しでも安全でいられるか、どうやって自分を守るか。体と本能が、無言で教えてくれる。

 

 ◇◇◇

 

 草むらを逃げ回る犬の体は、いつの間にか重く、違和感を覚えていた。

 

 耳が敏感すぎて、森の微かな音が鋭く突き刺さる。鼻先の匂いは濃すぎて息が詰まりそうになる。体が、自分の意思とは違う動きを始めていた。

 

 小さく声を漏らす。だが返事はなく、森の奥で人間の手がじっと体に触れる。何かが、自分を押さえつけ、体の形を変えようとしている。

 

 逃げたい。必死に体を振りほどこうとする。だが、本能と新しい感覚が交錯して、思うように動けない。

 

 体が勝手に硬直し、動きが鈍る。手足の感覚が鋭くなりすぎて、触れるもののすべてが刺激になり、恐怖が増していく。

 

 頭の奥で声が囁いた。

 

「これが、使命……」

 

 でもその声が自分なのか、人間の意図なのか、わからない。犬としての自分と、何か別の存在が混ざり合う感覚。恐怖と孤独が体を覆い、心臓は小さく跳ねる。

 

 それでも、体は必死に反応する。耳を伏せ、呼吸を整え、震える体をどうにか支える。逃げられない恐怖に押しつぶされそうになりながらも、生き延びるための小さな本能が無言で体を守る。

 

 変化は少しずつ、しかし確実に進む。恐怖と孤独に耐えながら、私はただじっと耐え続けるしかなかった。

 

 森の奥、体が異様に敏感に反応する。風に揺れる葉のざわめき、遠くでかすかに揺れる影、地面に落ちる小石の音まで、すべてが体に刺さる。耳が痛い、鼻がむずむずする。視界は過剰に明るく、色彩が強すぎて目が痛む。

 

 怖い──でもそれだけじゃない。

 

 あの孤独、あの恐怖、犬として生きていたあの小さな体で抱えた不安と無力感。すべてが胸の奥でぐつぐつと煮えたぎり、怒りに変わりつつあった。

 

 「……どうして……どうしてこんなことを……」

 

 声はかすかに震え、吐き出すように繰り返す。体は小刻みに震え、心臓は跳ね、呼吸は浅く速くなる。逃げたい、本能は逃げろと叫ぶ。でも体は止まらない。

 

 目の前の人間が動くたび、体が自然に反応する。犬としての本能が、狗神としての力が、怒りに駆られて反応する。手足が硬直し、筋肉が張りつめる。全身の感覚が過敏になり、触れるものすべてが刺激となる。

 

 怒りは体の奥からじわじわと湧き上がり、恐怖の冷たさを押し流す。

 

 けれど恐怖が完全に消えたわけではない。心臓の奥に小さな恐怖が残り、孤独もまだくすぶっている。体と心は不協和音を奏でながら、復讐という行動に巻き込まれていく。

 

 「……許せないっス……!」

 

 声は小さい。でも体全体が怒りで震える。呼吸を整え、筋肉の緊張を感じながら、全神経が相手に集中する。逃げられない恐怖と、抑えきれない怒りの間で体が勝手に動く。

 

 人間は慌て、動きを止める。目の前にいる存在が、自分に何をされたのか理解する暇もない。巻尾の体は怒りに従い、抑え込まれていた力が解放される。

 そして、静寂が訪れる。

 

 荒い呼吸、震える手足。怒りは収まったが、心の奥には孤独と恐怖が残る。勝利の喜びは小さく、胸の奥で静かに芽生えただけ。声も表情も、まだ「っス」の仮面で覆われている。

 

 それでも、ほんのわずかに、確かな感覚があった。

 自分が、確かにここに存在しているという、微かな手応え。

 

 孤独と恐怖に揺れながらも、私の体は生き延びることを学び、怒りを、力を、身に刻み込んでいた。

 

 扉の軋む音が止む。森の記憶が、巻尾の胸の奥でゆっくり溶けていく。

 

 現実の感覚が戻ると、三人は静かに立っていた。轟が腕を組み、扉を見つめる。江藤は肩をすくめ、視線を巡らせる。

 

 巻尾は深く息をつき、手を握りしめたまま、少し俯く。

 

「……ちょっと昔のこと、思い出しちゃったっス」

 

 口に出した瞬間、胸の奥がざわつく。まだ小さな傷のように、あの日の孤独と恐怖が残っている。

 

 轟は無言で頷く。江藤も何も言わず、扉の向こうを見つめたままだ。

 

 三人の間に、短い静寂が流れる。時間も場所も異なるはずなのに、巻尾の胸にはあの恐怖と孤独がまだ生きている感覚があった。

 

 それでも巻尾は、かつての自分を超えた力を思い出す。体は強く、感覚は鋭く、あの時の怒りや恐怖を乗り越えてきた自分がいる。

 

 小さな「っス」の口調の仮面をつけながらも、心の奥では確かに、自分は生き延びたと感じていた。

 轟が扉の前で短く口を開く。

 

「行くぞ」

 

 江藤は軽く頷き、巻尾を見やる。

 巻尾は肩をすくめ、少し息を整えてから、三人で扉をくぐる。

 

 過去の記憶が体を震わせるが、それも今は通過点だ。地獄の冷たい空気が体に触れると、現実が戻る。

 闇の中、三人は静かに歩き始める。

 

 巻尾の胸の奥には、孤独と恐怖の残響がまだ微かにある。だが、同時に、自分が生きてここに立っているという実感と、かつてないほどの集中力が宿っていた。

 あの日の恐怖、孤独、そして復讐の感覚が、今の巻尾を形作っている。

 

 小さな体と心で刻んだ記憶は、仮面の向こう側で確かに生き続けていた。

 

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