灰色の闇がどこまでも広がっていた。
私は犬の姿で、四肢を押し広げながら冷たい地面に身を落とす。
足先にざらつく感触、鼻に届く灰の匂い、耳に触れる静寂。すべてが生き物としての本能に直接訴えかけてくる。
「うお……ここ、マジやべぇっス」
低く唸って四つ足で立ち上がる。足裏から伝わる冷たさと地面の振動を確かめながら、周囲を探る。
空はなく、光もない。灰だけが静かに舞い降りていた。
目の前には、壊れた建物の影が並び、瓦礫が積み重なっている。
道の端には、割れた名札や焦げた紙片、半分砕けた時計の破片が散らばっていた。
まるで、この場所で消えた誰かの痕跡のようだ。
鼻先で匂いをかぎ、耳を澄ませ、足を踏みしめながら慎重に歩き出す。
人間としての記憶はない。経験もない。あるのは狗神としての本能だけだ。
それでも、どこかに向かう理由を求めるように、私は前に進む。
灰が降り積もる音はしない。ただ、舞い散る粉が毛をかすかに湿らせるだけだった。
振り返ると、後ろは無限の灰。先に見えるのは、崩れた廃墟と微かに揺れる影。
「……さて、どっから行くっスかね」
小さく唸りながら四つ足で地面を蹴る。
目の奥には、まだ形を保つ何か――名もない想いの残滓――を見据えていた。
灰の中で、狗神としての目が、この地獄の世界を読み取ろうと必死だった。
そして、この先で何かに出会うことを、私はまだ知らなかった。
廃墟の街は、まるで誰もいないオフィス街の廃棄物みたいだった。
瓦礫の間に積もった灰はふかふかしているけれど、足を取られることはない。
割れた窓、溶けかけた看板、焦げた階段の残骸。
すべてが、かつてここに“生活”していた何かの記憶をかすかに残している。
視界の端で、黒いスーツを着た影が動いた。
職員らしいが、動きはぎこちなく、無言で並んだまま机や書類に向かっている。
人間のように見えるけれど、どこか違う。
息遣いもなければ、目の奥に感情もない。
ただ、淡々と同じ動作を繰り返している。
私は鼻先で匂いを嗅ぎ、耳を立て、地面の振動を確かめながら歩く。
「……なんか、変な連中っスね」
思わず呟くけれど、声に反応する者はいない。
灰の中に溶けるように存在しているだけだ。
道の端で、半ば埋もれた骨や、焦げた紙片に鼻を押し当てる。
これがここで消えた者たちの名残なのか、それとも単なる廃棄物なのかはわからない。
でも、犬としての感覚では、何か“重み”が残っていることがわかる。
灰の風が舞い上がり、足元の瓦礫を揺らす。
私は四つ足で踏みしめ、毛を逆立てながら慎重に前に進む。
視線の先には、まだ見ぬ何かが待っている気配。
狗神としての本能が、微かな振動と匂いからそれを察知していた。
「……さて、どこ行くっスかね」
独り言を呟きながら、私は灰に覆われた廃墟の間を進む。
耳に届く微かな音、鼻に残る遠い匂い。
それらを頼りに、狗神としての私の地獄探検が始まった。
灰の街を進んでいると、遠くから微かに人影が現れた。
黒いスーツに白い手袋、そして傘を持った女性の姿だ。
歩みを止めて観察すると、足取りは静かで、空気を乱すこともなく、まるで灰の中に溶け込んでいるようだった。
私は警戒しながらも、犬の本能で匂いや振動を確かめる。
“人間ではない”と直感するが、なぜか畏怖や敵意は湧かない。
好奇心だけが、毛先をざわつかせる。
「立てますか?」
女性は静かに声をかけてきた。
その声は柔らかく、低く、しかし明確にこちらに届く。
「……あ、あんた……誰っス?」
思わず四つ足のまま身を低くして後ずさりする。
会話の口調は自然に「〜っス」が出るけれど、心の中は警戒でいっぱいだ。
「職員です。この場所を整える役目を持っています」
女性は淡々と説明するが、その言葉の端に、わずかに人間らしい温度がある。
その冷静さの中に、確かな存在感が宿っているのがわかる。
私は首を傾げ、低く唸る。
犬としての本能が、相手を評価しようとしている。
敵か味方か、危険か安全か、それを瞬時に判断しようとしているのだ。
女性は傘を差し、私の方に近づく。
「濡れると、形が崩れます」
その一言で、灰が降りしきる中でも少し安心感が生まれた。
私は軽く唸る。
「ふーん……助かるっス」
心の中で、まだ何も信じてはいないけれど、この人物となら歩いてもいいかもしれない、そう思った。
灰に覆われた街の中、二人の距離は徐々に縮まり、私の犬としての直感は、この出会いがこれからの地獄での物語の始まりになることを知らせていた。
女性は傘を広げ、私の上に差し出した。
灰の粒が毛を湿らせる。思わず身をすくめると、傘の下の空間だけが少し乾いた空気で守られているのがわかった。
「濡れると、形が崩れます」
その一言に、私は少し安心する。
「ふーん……助かるっス」
思わず口に出す。まだ心は完全には開いていないけれど、少なくとも敵ではなさそうだ。
灰の中、二人でゆっくりと歩き出す。
遠くには黒服の職員たちが整列し、無言で列を成して歩いていた。
人間的な秩序とは違う、地獄の静謐な規律。
その列に圧迫されることはないけれど、自然と足を止めてその動きを観察する。
「ここでは、まだ終わっていないものを拾うことができます」
女性は傘を片手で持ち、私の横で静かに歩きながら言った。
灰の降る街に、言葉だけが静かに響く。
「まだ終わってないもの……っスか?」
私は首を傾げ、耳を立て、地面の振動を確かめながら応じる。
犬神としての感覚が、灰の奥に潜む微かな振動や匂いを拾う。
そして、私の直感は、この先で何か大きな出来事に出会うことを告げていた。
灰の街の中、二人の影がゆっくりと伸びる。
私は四つ足で歩きながら、目の奥にまだ形を保つ何か――名もない想いの残滓――を見据える。
そして、狗神としての私の地獄の旅が、本格的に動き始める。