焼け焦げた土の匂いが鼻をくすぐり、耳に遠く唸るような音が届く。
私の体はまだ不安定で、骨も肉も、形を保っているだけの感覚だった。
地獄――ここがどこなのか、何をすべきなのか、まだはっきりわからない。
ふと意識を辿ると、頭の奥に何かが浮かぶ。
名前――それが何だったか、思い出せない。けれど、私の存在を呼ぶ声が、どこかにある気がするっス。
その感覚は、暖かくもあり、寂しくもあり、胸の奥をくすぐるようだった。
目の前の景色は不安定で、地面は遠くで揺れ、空もぼやけている。
けれど、確かなことがひとつある。私はここにいる。
呼ばれることを待っていた存在。誰かの声で形を取り戻す日を、ずっと待っていた――そんな気がするっス。
耳の奥で、かすかな記憶が震えた。
誰かに名前を呼ばれた瞬間のこと。
それはまだ、ぼんやりとした光景で、形も色も、はっきりとは思い出せない。
でも、その光が少しずつ、私の中で膨らんでいくっス。
――あの日の空気、匂い、感触。
祀られなかった狗神として過ごした孤独の時間。
そして、私を呼ぶ声の記憶。
体が小さく震える。
あの瞬間、世界の輪郭が少しずつ戻ってくる気がしたっス。
呼ばれることで、存在が確かになった――そんな実感が、胸の奥でじんわりと広がっていった。
目の前に広がるのは、ただ土と草の匂いだけの世界っス。
私はそこにひっそりと伏せ、誰の視線も届かぬまま日々を過ごしていたっス。
祀られることもなく、名を呼ばれることもなく、ただ存在しているだけの影。
それが、私――犬だった頃の姿っス。
風に揺れる草の音で、微かに世界の存在を確かめる。
鼻をすませば、遠くで獣の匂いが混ざり、湿った土の匂いと入り混じる。
耳を澄ませば、低くうなるような風の声と、自分の心臓の鼓動しか聞こえないっス。
孤独――それは温かいものではなく、重く、ずっしりと胸にのしかかるものだったっス。
地獄に来てこの人に言われるがままついていった先。とても大きな扉があったっス。その扉を通った先にあの人はいたっス。
「ん?どうしたんだい、佐藤」
「すこし入用でして。見てもらったほうが口頭で説明するよりわかると思います」
「ん?あーなるほど……理由は不明だけどこっちに堕ちてきたってわけか」
「おそらく」
その声の持ち主はそっと近づいてきたっス。身構えると、手を握りしめて匂いを嗅ぐように手を差し出してきたっス。
「大丈夫だよ。きみ、名前はあるのかい?」
その声は冷たくもなく、威圧的でもなく、今までの他者のように殴ってきたりせずただこちらが動くのをを見つめているだけだった。
私は体を小さく縮め、耳を倒して見上げる。
答えられなかったっス。名前を持たない私には、声に応える言葉もなかった。
するとその声が、静かに続く。
「では、巻尾と呼ぼう」
――巻尾。
その音が、初めて私の存在を外に固定した瞬間だったっス。
声に反応して胸がわずかに跳ねる。
名を呼ばれることで、私は存在を認められた――そんな感覚が、初めて全身に広がったっス。
閻魔様――その時は名も姿もまだよくわからなかったけれど、私に名を与え、世界に居場所をくれたその存在に、小さな感謝の念が芽生えたっス。
それからの日々、私は少しずつ、自分の輪郭を感じながら過ごすようになったっス。
孤独ではあるけれど、呼ばれた名が胸にあるだけで、どこか安心できる気がしたっス。
◇◇◇
ある日、閻魔様が静かに言ったっス。
「そうだね……人の形を取ってみるかい?」
最初は理解できなかったっス。
犬の姿のままで生きることが、私には当たり前だったからっス。
けれど、何かが胸の奥で囁くっス。
――このままでは、もっと遠くへ行けない。
覚悟を決めて腹を括ったっス。
最初の試みは、ひどく醜い姿だったっス。
足の骨格はバラバラになり、手のひらの指も柔らかく伸びたり縮んだりするだけ。
声は掠れ、言葉にならず、笑おうとしてもぎこちない音しか出なかったっス。
痛みはあったけれど、それは恐怖ではなく、違和感として体を覆った。
それでも、閻魔様は微動だにせず、淡々と見守っていたっス。
「焦らなくていい。まずは真似るところから始めよう」
その言葉に、少しだけ胸の荷が下りたっス。
閻魔様の指示に従い、私は観察することから始めたっス。
鏡に映る閻魔様の手の動き、歩き方、声の抑揚。
一つずつ真似してみるっス。
最初はぎこちなく、体が勝手に崩れ、尾や耳も暴れたっス。
けれど、何度も繰り返すうちに、少しずつ形が整っていった。
ある時、閻魔様が静かに頭を撫でたっス。
「悪くない。もう少しだ」
その一言で、心が少し軽くなったっス。
自分がここにいていいのだと、初めて信じられた瞬間だったっス。
時間が経つにつれ、耳も尾も残ったまま、人型として安定していったっス。
まだ完璧ではない。声も仕草もぎこちないけれど、
犬としての自分と、人としての自分――二つの自覚がぎりぎりで共存している。
それでも、私は確かに、“人型の私”として立てるようになったっス。
閻魔様の手が、静かに私の頭を撫でたっス。
その温もりは強くも鋭くもないけれど、胸の奥にじんわりと広がったっス。
「ここにいていい」――その言葉がなくても、体と心がそう理解している気がした。
呼ばれることで、名前で存在を認められることで、
私は初めて、この世界で安心できる自分になれたっス。
人としても、犬としても、どちらでもなくても、私は私だ。
その実感が、胸の奥で静かに膨らんでいったっス。
そして、意識がゆっくりと遠のくっス。
記憶の中の時間はまだ流れているけれど、今の私を取り囲む世界は徐々に消えていくっス。
耳に届く風の音も、草の匂いも、骨に伝わる感覚も、少しずつ薄れていったっス。
◇◇◇
目を開けると、現実の地獄――廃墟施設の床に体が戻っていたっス。
鉄の梁、落ちた瓦礫、冷たい空気。すべてが変わらずそこにある。
けれど、体は安定していたっス。
私は確かに、ここに存在しているっス。
小さく息を吐き、頭を振って意識を整える。
過去は消えないっス。痛みも、孤独も、呼ばれた名も――どれも、今の私を作ってるっス。
だから今、私はここに立っているっス。
――ここから先の時間を、私は歩いていけるっス。