夕暮れの街は、まだほんのり赤みを帯びていた。
蝉の声が遠くの建物の間を抜け、アスファルトに反射する光に溶けていく。
俺は、その光の下で拳を握った。
夏の熱気が肌を刺すようで、血の匂いも混ざっていた。
俺はあの頃、毎日喧嘩ばかりしてた。
頭の中で自分の声が響く。殴っても、殴られても、何も変わらなかった。
でも、その虚しさの中で、心の奥にわずかに残っていたものがある。
それは小さく、かすかな光のようなものだった。
誰かを傷つける前に、誰かを守れる自分でありたいという、ほんの一瞬の願い。
思い出すのは、学校の後輩の顔だった。
「あいつだけは、俺のことを怖がらなかった」
弱さをさらけ出しても、見捨てられなかったあいつの瞳。
あの瞬間、俺は自分の中の本当の気持ちを、ほんの少しだけ思い出した。
放課後の路地裏。夕焼けに街がオレンジ色に染まっている。
日差しはもう弱く、空は群青に変わろうとしていた。
風がわずかに冷たく、夏の名残の熱気と混ざる。
そんな中、俺はいつものように仲間とたむろしていた。
俺は拳を握り、肩でぶつかり、怒鳴り声を響かせる。
心の奥では何も変わらないことを知りつつ、でもやめられなかった。
その時、路地の隅で後輩が絡まれているのを見つけた。
「おい、やめろよ!」
叫ぶ間もなく、相手の腕が後輩に伸びた。
体が勝手に反応する。
俺は大きく声を上げ、後輩を押しのけた。
力の加減も意識もできないまま、二人の体勢は崩れ、路地から道路へ倒れ込む。
夕暮れの光はほとんど消えかけ、街灯の光と遠くの車のヘッドライトだけがぼんやりと照らす。
目の前に迫る道路。心臓が早鐘のように打つ。
「まずい……」
咄嗟に後輩の体を抱き寄せるも、足元のアスファルトが硬く、冷たく、逃げる余裕はない。
胸の奥がざわつく。怒りでも恐怖でもなく、ただ──必死だった。
誰かを守ろうとする、自分のほんの小さな良心だけに従った瞬間だった。
時間の感覚が少しだけ止まった。
視界の端に光が飛び込んできた。
遠くから近づく、車のヘッドライト。眩しく、刺すように目を突く。
クラクションが耳を裂くように響く。
「まずい……」
言葉にならない声を口に出し、後輩を抱き寄せる。
でも、体はもう制御できない。
アスファルトの硬さ、冷たさ、腕に伝わる後輩の小さな震え──
すべてが、時間の流れを引き伸ばすように意識に迫る。
衝撃が来る。
体が宙を舞うというより、世界そのものがひっくり返る。音は遠のき、息が途切れ、景色は白く滲む。
「……終わったのか?」
思考も声も、すべてが遠くに行ってしまう。
そして、目を開ける。
赤い土の上。燃えるような熱と、焦げた匂い。
風が頬を打ち、遠くで火のような光が揺れる。
耳には炎のパチパチと小さな音。
街も車も、何もかもが遠くに感じられる。
「……ここが、地獄か」
頭の中で、最後に後輩の顔が浮かぶ。
あいつが無事であれば……それだけで、少しだけ気持ちは救われる気がした。
でも、同時に、自分はもう二度と戻れない場所に来てしまったという現実が、胸に重くのしかかる。
地獄の夜は静かで、火の揺れる音だけが周囲に広がる。
赤と黒の世界に立ち尽くし、俺はただ呼吸を整えながら、落ち着かない胸の鼓動を感じていた。
赤い土の上に立ち、周囲を包む熱風に身を震わせながら、俺は状況を整理していた。
ここが地獄──まだ現実味がなく、ただ目の前に広がる火の川と焦げた匂いだけが存在を証明している。
その時、炎の揺れる影の中から一人の人影が近づいてきた。
足音は静かだが、砂利を踏む音が確かに俺の耳に届く。
俺の視線が合った瞬間、相手も止まった。互いに、身を引く。
「……お前、ここで何やってる?」
低く落ち着いた声。初めて、地獄に自分以外の存在がいることを知った衝撃で、俺の心臓が跳ねた。
その男は面識はなかったが、その視線だけで、こいつがただの生者ではないことは分かった。
火の光に照らされ、顔の輪郭が揺れる。
視線をそらさずに、俺はただ一瞬だけ立ち尽くした。
心の奥では、驚きと警戒、そしてわずかな好奇心が混ざる。
地獄という場所にいる以上、理由なんて考えても仕方ない。
だが、目の前の男の存在は、妙に無視できなかった。
熱風と焦げた匂い、赤い光が揺れる中、俺たちはただ互いの気配を確かめる。
時間は数秒しかなかったが、永遠のように感じられた。
そして、俺は小さく息を吐く。
炎の揺れに混ざり、俺の影もまた、地獄の夜に溶けていった。