地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

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盃の底

 灰色に覆われた地面を踏むたび、砂のような灰が足元で崩れる。

 

 目の前に、一人の男が立っている。肩を落とし、どこか軽やかに見えるのに、眼だけは静かで、何を考えているのか読めなかった。

 

 男が口を開いた。

 

「珍しく現世から堕ちてきたと思ったら……こりゃまたえらく元気が良さそうで」

 

 声に笑いも苛立ちもなく、淡々と皮肉が混じっていた。

 胸の奥がぞわりとする。警戒心が自然に立ち上がる。

 

 思わず眉をひそめ、ぎゅっと視線を返す。

 男は気にせず灰を踏み、距離を詰めてくる。

 

「お前、名前は?」

 

「……轟」

 

「そうか。お前の居場所は、まだ決まってないな」

 

 遠くに控えていた監視役が小さくうなずき、札を掲げて何かを記録している。

 その視線が、背筋をわずかに冷たくした。

 

 灰が足元で小さく鳴る音だけが、二人の間に残る。

 呼吸を整え、男を見据える。怒りか、警戒か、あるいはその両方か。まだ、何も掴めない。

 

 男は少し間を置き、俺を見つめる。

 視線は重くもなく、軽くもなく、ただ静かに俺を測っているようだった。

 

「お前、まだ怒ってるな」

 

 思わず顔をしかめる。

 

「当たり前だろ」

 

 男は肩をすくめる。対等に見ているわけではない、そんな態度だ。

 

「そういう奴は珍しくない。でも、そのうち、沈む」

 

 沈む――風に溶ける砂のように、その言葉が胸の奥でぼんやりと震えた。

 

「沈む……って、どういう意味だ」

 

「力が抜けて、怒る気もなくなる。ただ、それだけだ」

 

 平坦な口調に、苛立ちよりも違和感がある。

 地獄の空気そのものがそうであるかのように、言葉は自然に漂っていた。

 

 体が少し強張る。反発したくても、どう抗えばいいのか分からない。

 

「……あんたは、沈まなかったのか」

 

「さあな。自分ではまだ沈んでないと思うけどな」

 

 灰が足元で崩れる音だけが、二人の間を満たす。

 

 沈む――簡単な言葉だが、目に見えない力が胸を押し下げていくようだった。

 

 俺は拳を握り直し、視線を男から逸らさない。

 抗うべきか、静かに受け流すべきか、まだ答えは出ない。

 

 ここに来る前のこと、どれくらい覚えているかと訊かれる。

 少しだけだ、と答える。

 

 それで十分だと、男は静かに頷く。

 その“少し”が重くなる。その重さが沈む原因になる――そう言う。

 

 思い出が重りになる感覚が、胸の奥でじわりと広がる。

 監視役がわずかに身を引き、小さな合図を送る。

 男は軽く頷き、もう一度だけ俺を見た。

 

「お前がどう沈むかは知らん。けど、早い奴もいれば、ずっと抗い続ける奴もいる」

 

 声にならない返事を胸の奥で呟く。

 

 俺は沈まない。そう思っても、何かが少しずつ静かになっていくのを感じる。

 

 目の前の男の背中は淡々として、何も教えてくれない。

 男が振り返り、監視役と斥候を連れて歩き出す。

 その背中は軽やかで、迷いも苛立ちもないように見えた。

 

 灰の上を踏む音だけが、静かに残る。

 俺はその姿を見送りながら、拳を握り直す。

 怒りも苛立ちもまだ確かに残っている。

 

 でも胸の奥に、わずかな静けさが広がり始めているのを感じる。

 沈む――男の言葉がふと脳裏に蘇る。

 

 声に出してつぶやいた。

 

「……俺は沈まねえ」

 

 その声もすぐに風に消え、灰の上でわずかな余韻を残すだけだった。

 

 空は赤みを帯び、世界は再び静かになる。

 俺は深く息を吸い、次にどう動くかを考えながら、その場に立ち尽くした。

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