目が覚めた瞬間、息の仕方を思い出すのに少し時間がかかった。
灰の匂いがやけに喉に刺さる。湿気のない風が頬を撫で、冷たくも熱くもない空気が、体の内側に入り込む。
寝転がっていた地面は灰色の粒で覆われていて、触れるとゆっくりと沈んでいく。
手を動かすたび、灰が指の隙間から零れ落ちた。
どこまでも同じ色だった。
空も、地面も、遠くに見える瓦礫の影も、みんな灰をまとったみたいにぼやけている。
音はない。ただ、自分の心臓の鼓動だけが確かに響いていた。
体を起こすと、背中に乾いた痛みが走る。
筋肉が固まっている。昨日の緊張がまだ抜けていない。
あの男。そう呼んでいいのかもわからないけど、あいつの顔が頭に浮かぶ。
沈む、って言ってたな。
怒りが抜けて、何も感じなくなるって。
馬鹿げてると思ってたけど、こうして静けさの中にいると、妙に納得しかける自分がいる。
灰が風で舞い上がり、視界の端をぼやかす。
息を吸うと、粉っぽさが肺に刺さる。
それでも、痛みはない。むしろ、空気が薄いぶんだけ感覚が鈍っていくような気がした。
遠くで小さな光が瞬く。
昨日の監視役の連中だろう。
ぼんやりとした人影が、一定の距離を保って俺を見ている。
姿勢も表情も読み取れない。ただ、こちらを“観ている”という感覚だけが伝わってくる。
背筋が冷える。
昨日、あの男の背中を見送ったときのあの感覚が蘇る。
この世界では、誰もが誰かを監視している。
それが何のためなのかは、まだわからない。
俺は立ち上がり、灰を払った。
手についた灰はなかなか落ちない。
手の甲をこすっても、ざらつきだけが残る。
空を見上げる。
太陽のような光はどこにもないのに、ギリギリ昼と夜の区別はあるらしい。
灰色の空が、ほんのわずかに明るみを帯びていた。
昨日よりも少しだけ息がしやすい気がした。
けれど、その分、何かを失っているような感覚もある。
沈む、ってこういうことなのか――そう思いながら、俺はもう一度息を吐いた。
灰がまた少し舞い上がり、世界を曖昧にする。
視界の先、ぼやけた地平線の向こうで、何かが動いた気がした。
その影が近づいてくる。
歩き方に迷いがなく、まるでこの灰の大地を知り尽くしているような足取り。
俺は身構える。
昨日の男――あの静かな目をした奴だ。
砂を踏む音が、やけに澄んで響いた。
背後から届くそれに、思わず振り返る。
昨日と同じ、あの男――オールバックに整えた髪に、飄々とした顔。
「よ。まだ沈まずにいたか」
声だけは軽い。
けれどその眼差しは、底を測るように冷たい。
「……お前、名は?」
ほんの一拍、空気が止まった。
この場所でその問いを口にするのは、慎重さを欠いた真似だとわかっていた。
それでも訊かずにはいられなかった。
「江藤だ」
短く答える声。
それだけで十分だった。
それ以上の音を、こいつは出さない。
そして、出させない。
「……江藤、ね」
「気に入らねぇか?」
「いや。ただ、硬い響きだと思っただけだ」
小さく笑ったように見えたが、表情は読めない。
風が吹き抜け、地面に散った灰が舞い上がる。
灰が二人の間を通り過ぎ、少し遠くの瓦礫に落ちた。
「お前、何のつもりで来てる?」
「何の、って?」
「監視か、それとも探りか」
江藤は肩をすくめた。
「どっちでもいいさ。必要とあらば、どっちにもなる」
その言い方が、妙に憎らしかった。
理も情も要らない。
ただ、役割があれば立ち現れ、終われば消える。
そんな生き方をする者の声。
灰の匂いが鼻を刺した。
その奥で、まだ名を交わしたばかりの相手が、こちらの呼吸を測っている気がした。
江藤は、灰の上にしゃがみ込んだ。
掌で灰をすくい、指の間からこぼす。
その動きは、まるで何かを測っているようだった。
「ここは、まだ浅い」
「浅い?」
「地の層の話だ。お前が立ってるのは、落ちたばかりの奴らの層」
灰が風に流され、砂のように形を失っていく。
その中に、どこか微かな光が混じっていた。
目を凝らすと、それは小さな欠片のように揺らめいて消える。
「光……?」
「残滓だよ。生きてた頃の思考とか、感情の欠片」
「そんなもん、残るのか」
「しばらくはな。けど、いずれ沈む。さっき言った“沈む”ってやつさ」
江藤の口調は淡々としていた。
説くでもなく、脅すでもなく、ただ当たり前のことを言うように。
沈む――
その言葉が再び胸に引っかかる。
昨日よりも重く、はっきりとした形で。
「……お前は、沈まなかったのか」
「どうだろうな。気づかないうちに沈んでたかもしれねぇ」
風がまた吹く。灰の匂いとともに、微かな焦げの匂いが混ざっていた。
江藤は立ち上がり、視線を少し遠くへやる。
「お前、まだ戻れるかもしれない」
「戻る?あっちに?」
「現世じゃねぇ。心の方だ」
その言葉の意味を掴みかけたところで、江藤はそれ以上を言わなかった。
その背中は静かで、何も押しつけない。
俺は無意識に拳を握る。
胸の奥で、昨日までより少しだけ冷たい何かが沈んでいく。
それが怒りなのか、静けさなのか、自分でも判別がつかなかった。
江藤は振り返らず、灰を踏みしめて歩き出す。
「……必要になったら呼べ。名はもう知ってるだろ」
その声が遠ざかる。
俺は、灰の中で微かに光る欠片をもう一度見下ろした。
手を伸ばしても、指先に何も触れない。
沈む――
あの言葉の本当の意味が、ようやく輪郭を持ち始めていた。
◇◇◇
江藤の足音が遠ざかる。
灰の上に残るその跡が、風に少しずつ消えていった。
名前を知っただけのはずなのに、胸の奥に妙な感触が残る。
あいつの言葉は、まるで底の見えない水みたいだった。
何かを映しているようで、何も見せない。
「……戻れる、か」
思わず、呟いていた。
自分でも、その言葉の重さが分からない。
怒りを支えに立っていたはずが、今はそれも揺らいでいる。
周囲を見渡す。
灰の地面は果てしなく続き、遠くに小さな光がちらついていた。
まるで、生きていた頃の記憶がまだどこかに漂っているみたいに。
風が吹き抜け、足元の灰を舞い上げる。
その灰の中に、一瞬だけ、江藤の影が見えた気がした。
目を凝らしたときには、もう消えている。
「沈む、ねぇ……」
その言葉を、もう一度口の中で転がす。
昨日より、少しだけ冷静に。
沈むというのは、ただ落ちることじゃない。
何かを受け入れることでもある――
そんな感覚が、うっすらと胸に浮かぶ。
拳を握る。
まだ重さはある。怒りも、後悔も。
でもその奥で、何かが微かに動き始めている。
ふと、遠くで灰を踏む音がした。
監視役たちの影がゆっくりとこちらへ向かってくる。
江藤の姿はもうない。
それでも、あいつの気配がどこかに残っている気がした。
俺は背筋を伸ばし、灰を払いながら歩き出す。
沈まないためにではなく、沈むことの意味を確かめるために。
灰の匂いの向こう、遠くの闇の中で、微かな光が瞬いていた。