目の前の灰の大地は、一歩踏み出すたびにふわりと沈んだ。
指先に絡みつく粉を払いながら、俺は息を詰めた。
空気は重く、湿りも熱もないのに、肺に圧がかかるようだった。
江藤は前を歩いている。
淡々としていて、飄々としている。
でも――なんでこいつは、こんな場所で平然としていられるんだ。
その背中を見ているだけで、胸の奥がざわつく。
灰が舞い上がる。微かな光が足元でちらちら揺れる。
江藤は手で灰を払い、足元の沈み具合を確かめるように歩いている。
俺はその一挙手一投足を追いながら、少し息を詰める。
無意識に拳を握っていた。
表情は読めない。
俺は振り返らず、ただ前を向く。
灰の粒の舞う中、微かに残滓の光が揺れ、足元を照らす。
踏まないように気をつけながら歩き、俺は気づいた。
――あいつの背中を見ているだけで、俺の感覚が少しだけ鋭くなる。
理解でも依存でもない。
ただ、引き込まれる何かがある。
俺たちは言葉少なく歩き続ける。
灰が舞うたび、視界が揺れるたび、江藤の異質さを確かめる。
心臓の鼓動が、やけに速くなる。
これが、俺にとっての“緊張感”なのかもしれない。
俺たちは言葉少なに歩きながら、足元の灰を払い、踏みしめる。
歩くたびに柔らかく沈む地面が、微かに音を立てる。
残滓の光がちらちらと揺れ、踏まないように気をつけながらも、どこか惹かれるように目で追う。
「ここはまだ浅い階層だ」
江藤がぽつりと言った。
浅い階層――俺はその意味をかろうじて理解する。
地獄に堕ちた者たちの最初の層。まだ形を失わずに残っている心の欠片がちらつく場所。
「お前は、慣れてるように見えるな」
思わず口に出してしまった。
江藤は少しだけ振り返り、肩をすくめる。
「そう見えるだけだ」
その声には笑いが混ざっていたのかもしれないが、表情は読めない。
俺は胸の奥でざわつく感覚を押さえつけながら、足を進める。
なんで、こんな場所で平然とできるんだ。
そして、なんでこんなに引き込まれるんだ。
「この層は、人の思考とか感情の欠片が大量に残ってる」
江藤の声に、俺は少し足を止める。
踏みしめる灰の中に、光の欠片が瞬く。
確かに――生きていた誰かの痕跡のように見えた。
「そう簡単には沈まない、ってことか」
俺が口を挟むと、江藤は振り返らずに足元を見ながら言った。
「浅いうちはな」
その言葉の意味を理解した途端、胸が少しだけ重くなる。
沈む――その言葉が、ここでもまた、じわじわと心に刺さる。
俺たちは再び歩き始める。
灰の粉が舞い、残滓の光が揺れ、足元の沈み方が変化するたび、互いの呼吸や足取りが微かに同期する。
対等感――それは、互いに引き込まれながらも、どこか一歩も譲らない張りつめた距離感でもあった。
俺は拳を緩め、手の平で灰を払いながら思った。
――あいつに見透かされてる気がする。
でも、見透かされていること自体が、なぜか心地いい。
灰の上の光と影を見下ろしながら、俺は小さく息を吐いた。
沈むこと、残ること、互いの距離。
まだ何も決まってはいないけど、確かに、この瞬間に何かが芽生え始めている気がした。
足元の灰を踏みしめながら歩いていた瞬間、地面が軽く沈み、次の瞬間に大きく崩れた。
反射的に踏みとどまろうとしたけど、足が滑り、腰が半分落ちる。
俺の心臓が跳ねた。
「気をつけろ」
江藤の声がすぐ後ろから響いた。
振り返る間もなく、彼の腕が俺の手首に絡みつく。
その力は強く、妙に温かく感じた。
でもどこか、ためらいもある。灰が舞い上がり、足元が揺れる。
俺は必死に手を握り返す。
心臓が喉に飛び出しそうなほど早く打つ。
――助けてもらってるのか、それとも……胸の奥で妙なざわつきが走る。江藤は俺の目を見ず、ただ前を向いたまま、腕に力を込める。
「踏ん張れ」
短い声。言葉はそれだけだ。
俺は必死で足を踏みしめ、腕の力を感じながら、ようやく崩れた地面から這い上がった。
息を整える間もなく、俺は江藤を見た。
表情は相変わらず読めない。
でも、手の力、腕の角度、沈黙――すべてが彼の意思を示していた。
支配でも、押しつけでもない。
ただ等価に、互いの存在を確かめ合う行為だった。
俺は拳を軽く握り直し、灰を払いながら歩き出す。
まだ胸の奥に微かに緊張が残る。
でも、変な安心感もあった。
――この人間となら、危険も逃れられる。
けれど、逃れたあとに何が待っているかは、まだわからない。
灰の舞う地面を二人並んで歩きながら、俺は思った。
――俺たちは、互いに等しい立場で揺れている。信頼でも依存でもない。でも、確かに、この人の存在は俺の中に刻まれた。
沈む者たちの階層を抜けるたび、俺の胸の奥のざわつきは少しずつ広がる。
灰の上に残る足跡は、互いに重なり合いながらも消えていく。
この先、俺たちがどうなるかはわからない。
でも、今、ここで交わった緊張は、確かに二人を結びつけていた。
灰の大地に残った足跡を確かめながら、俺はゆっくりと歩いた。
崩れた足場の緊張はまだ胸に残っている。
でも、それと同時に、妙な静けさもあった。
江藤は前を歩き続けている。
俺は言葉を発しない。必要もない気がした。
歩幅も呼吸も、自然に互いのリズムに触れ合う。
対等――互いに揺れる立場。
この感覚が、妙に落ち着くと同時に、ざわつく。
灰の舞う空気の中で、残滓の光がちらちらと揺れた。
あの光のひとつひとつが、俺たちの過去の欠片を映しているように見える。
足元の灰を踏む感覚、風に運ばれる粉、江藤の背中――すべてが、確かに俺の中に残った。
俺は小さく息を吐く。
――あいつは、俺と等しい。
でも、あいつの内面は見えない。
その距離感が、妙に心地いい。
過去の過去――あの崩落の瞬間も、初めて江藤の背中を見た瞬間も、すべてがこの一歩の中に溶けていく。
灰の上に並んだ二人の影は、微かに揺れながら、遠くへ続いていた。
俺たちは沈まないためでも、救われるためでもなく、
ただ、この関係の意味を確かめるために、歩き続けていた。