三日という猶予は、交渉の時間では決してない。
あの部屋に満ちていた甘い匂いと、鈴のような声を思い出す。
時間がない、と彼女は言った。身売りの契約は今は保留になっている。
……だが、止まっているわけではない。
衆合地獄の一角。影が集まる色街へ足を運ぶ。吊るされた赤い灯りがゆらりゆらり揺れている。
甘い香が石畳に落ち、遠くで誰とも知らない笑い声が重なっていた。匂いは、あの部屋とどこか似ている。指先にはわずかな感触が残っている。
「これで、あなた様は私を助けることになる」
目の前の女は穏やかにそう言った。願いではない。確認に近い響きだった。
小指はすでに離れている。それでも約束は成立している。
助ける。そう言ったが内容は示されていない。
顔を上げると、少し離れた場所に男が立っていた。
装いは目立たない。色街にいても不自然ではない。 ただ、こちらを見ている立ち方だった。
目が合う。男は表情を変えないまま、数秒後、人波に紛れて消えた。
「知り合いですか?」
「さあ」
女は短く答え、視線を逸らす。嵌められた感覚はない。だが、選択はとうに終わっている。
助けるという文言だけが残る。対象も方法も示されていない。それでも、この街では言葉が先に効力を持つ。
「約束は守ってくださいね」
振り返らずに言う。その声の調子が、どこか既視感を伴っている。あの部屋の主と、完全に同じではない。だが、響きの芯が似ていた。
右手を軽く握る。温度はもう残っていない。色街の奥で鈴が鳴る。
三日。
その間に、この勢力の輪郭を掴まなければならない。身売りの契約が偶然とは思えない以上、ここもまた無関係ではない。
助ける。
その中身は空白だ。だが空白のままでは終わらせない。
歩き出す。
主導権はいまだ向こうにある。それでも、動ける余地は残っている。
契約と約束。
どちらが先に効力を持つのか。それを確かめるために、ここへ来た。
灯りが揺れる。
あの部屋と似た甘い匂いが、わずかに強くなった気がした。
◇◇◇
──会議室。机の上には簡易的な配置図と、数枚の書類。佐藤はすでに席についていた。扉が開く。
「先輩、急ぎの案件っスか」
「急ぎです」
佐藤は今の現状と状況を淡々と答える。
「種田さんの身売り保留案件について。種田さんは現場確認に出ています」
「……単独っスか」
「おそらく」
巻尾の眉がわずかに動く。
佐藤は資料を広げる。
「先日、衆合地獄の色街の中枢に動きがありました。通常、保留案件は水面下で処理されます。ですが今回は少し違うようです」
「違うってのは?」
「意図的にこちら側に“見せている”可能性が高いです」
静寂。
「この状況をどう思いますか?」
「誘導っスね」
「その通りです」
佐藤は図に印をつける。
「色街のこの区画。ここに最近、主犯と接触のあった魂が出入りしています」
巻尾の目が細くなる。
「繋がってる可能性は」
「否定はできません」
佐藤は資料の一枚を裏返す。
「問題は三日という期限です」
「契約確定までの猶予っスね」
「ええ。ですが――」
佐藤は一瞬だけ言葉を選ぶ。
「これは猶予ではなく、試験の可能性があります」
室内の空気が変わる。
「種田さんを測っている?」
「あるいは、地獄の判断そのものを」
巻尾が椅子にもたれかかる。
「面倒っスね」
「現状の介入は最終段階のみ。三日間で色街の動きを洗います」
「了解っス」
「ところではなちゃんに変化は?」
「今のところないっスね。たしか先輩が託児所に預けたっスよね?」
「はい」
「だったらあそこは大丈夫っスよ。今はセキュリティーも以前よりだいぶマシになってるっス」
「そうですね……」
会議はそれだけだった。扉が閉まる。