一旦、自室に帰ることに帰ることになったがこの脚でどうやって帰るべきか。頭を悩ませていると、佐藤さんは懐から鍵の束を取り出した。一体どこにしまっていたんだと言わんばかりではあるが、以前青狸の万能ポケットを持っていたことを思い出しそれを使ったんだろう。
「では帰りましょう。その前に種田さんの脚、ちゃんと医者に診てもらわなくてはいけません」
そう言った佐藤さんの顔は微笑んでいたが、目だけは笑っていなかった。その顔を見るのは2度目だが3度目はないように願いたい。
「先輩、この資料どうしますー?」
「そうですね。たしかシールの余りがあったのでそれを台車に貼りつけてください。送り先は種田さんのお部屋で」
巻尾さんと宮田さんは、台車に資料を詰め込み始めた。手伝おうかと思ったが、佐藤さんが制止する。
怪我人は怪我を治すのが仕事とでも言いたいようだ。
佐藤さんが、今は使われていない扉を見つけ鍵を挿す。するとガチャリと鍵を開ける音が聞こえると同時に、医務室に繋がったようで消毒用アルコールの匂いが鼻に沁みた。
タイミング悪く医者はおらず、佐藤さんは奥から消毒セットを持ってきて患部を消毒する。
爪は剥がれてなかったようで一安心したが、痛みはあった。激痛とは言わないがものすごく沁みた。思わず声を上げそうになったが佐藤さんの前で妙にカッコつけたがったのか我慢する。
消毒を終えると、佐藤さんが奥の冷蔵庫から一本の瓶を取り出した。一本のドリンク剤のビン。そのビンには既視感というべきだろうか、以前この部屋に担ぎ込まれた時の記憶がフラッシュバックする。
「…これ飲まなきゃダメですか?」
「種田さんのいまの怪我を治すにはこれが一番です」
「ちなみに味は?」
「チーズ牛丼味です」
「…他の選択肢は?」
「今日は珍しく在庫が掃けているようでして…残っているのは辛味噌味と駅中のそば屋味ですね。どれがいいですか?」
どれを選んでもハズレの予感しかないラインナップの中で苦渋の選択だったが、チーズ牛丼味を選んだ。
味を感じる余裕など見せぬよう一気に飲み干す。
口の中に残ったのは、脂っこさとチーズの風味。
リピーターには到底なれない味だった。
◇◇◇
自室に戻ると、見慣れないものが山なりに置いてある。
ベビーベッドと粉ミルク、そしてオムツだ。いったい誰がと首を傾げていると、佐藤さんが赤ちゃんを寝かしつけるように抱きながら教えてくれた。
「そのベビーベッドは、使われていないものがあったので再利用しました。ミルクとオムツは私が現世に行って買ってきました」
「えっ、ありがとうございます」
「いえ、この子を育てていくとなるとミルクは必要になるとは思ったのですが…領収書が切れるかわからなかったので少しヒヤリとしました」
そう言った佐藤さんは、手慣れた様子で赤ん坊をベッドに寝かしつける。手持ち無沙汰になってしまったので、巻尾さんが持ってきてくれた資料を読み進めていく。
数冊読み進めたのはいいものの、頭の中では語録が渦を巻き、頭の中で竜巻のように暴れまわる。
産みの苦しみとはよく言ったものだと考えていると、佐藤さんはなにやら台所に篭っていた。
何をしているんだろうと思っていると、芳しく甘い香り。コーヒーかな?でもいつもの匂いと違う?
「とりあえず一息つきましょう。こういうのは、頭で考えると出てこないものです」
「ありがとうございます。…いつもと香りが違います?今日のはなんだか甘く感じるような…」
「ええ、いつもは中煎りのものを出してますが今日は香り付きのコーヒーを選んで見ました。お口に合うと幸いです」
コーヒーが注がれたマグカップを受け取り、口をつける。口に含むと、香り付きとはこういうことか。口の中でバニラのような香りが広がっていく。
苦味と酸味はそこまで尖っておらず、飲みやすい印象のコーヒーだ。
「すごく美味しいです」
「それは良かったです」
しばし無言が続く。今はこのコーヒーをただ味わいたいだけ。コーヒーを飲み終えると、いくつか名前の候補が浮かんできた。それを手元にあるタブレットに打ち込んでいく。
いくつかの名前の候補の中からさらに厳選していくと、またも行き詰まった。ふと赤ん坊を見てみるとスヤスヤと寝息を立てている。
「そういえば、あの子って生まれたてのわりに大きいですよね」
「ええ、あの子の場合は生まれたというより地獄に転生したという扱いになってるようです。今までの前例がないのでどうもいえませんが…あの感じですと、生後数ヶ月は経ってると思います」
「地獄って成長の速度とかって変わるんですかね?ほら、植物とかでも環境の違いで育ち具合が違うじゃないですか」
「それは種族と個人差にもよりますね。あの子には角がなかったので人型と変わらないと思いますが…調べてみないとわかりませんが彼女は角なしの鬼なのかもしれません」
「角なしの鬼ですか」
「ええ、角なしの鬼といっても稀に生まれるんですよ。ですのでそんな顔しなくても大丈夫です」
「…そんな酷い顔してました?」
「ええ、判決が決まった亡者のような顔をしてましたよ」
それは佐藤さんが珍しく言った冗談のようにも聞こえた。判決の決まった亡者のような顔とはまた面白い冗談だ。
日が落ち、空に星が輝く時間。名前の候補はいくつか絞れた。ただこの中で一つ選べと言われたら、期限の二週間なんてあっという間に過ぎてしまう。
候補のリストを作り、佐藤さんに見せた。この中で良さそうなものがあったら意見も聞きたいところだ。
「…なるほど、種田さんらしい名前の候補ですね」
「問題はこの中からどれを選べばいいか…」
「そうなりますね。一度、閻魔様に相談してみますか?」
「お願いします」
佐藤さんが閻魔様に連絡を取っている間、赤ん坊の顔を眺めているとパチリと目が覚め、視点が交わった。
その目は純真無垢な瞳で、奥に吸い込まれそうだ。
「種田さん、アポイント取れましたよ。今すぐにきてもらって構わないとのことです」
「じゃあ行きましょうか。この子も連れていった方がいいですよね?」
「ええ。何かあると大変ですから、一緒に行きましょう」