「やぁやぁ、たねちんと佐藤。そろそろ来るころだと思ったよ」
執務室に着くと、相変わらず閻魔様は書類仕事に追われていた。その隣には恐ろしいほどの山積みの書類。…果たしてこれ終わらせるのに何日ぐらいかかるんだろうか。
閻魔様は、一瞬あくびをかみ殺すようにして息を吐いた。自分で用意した湯のみに茶を注いでいく。
「聞いたよ。その子の名前決めかねてるんだって?」
「ええ、いくつか候補はあるんですが絞りきれなくて…それで閻魔様に相談しようと思い、連絡を取ってもらった次第です」
「へぇー、じゃあその名前の候補見せてよ。リスト上がってるでしょ?」
名前候補のリストを閻魔様に渡した。閻魔様は画面に目を通す。
…どれが選ばれるだろう。
「うーん、どれもいいと思うけど…何を悩んでるの?」
「え?これでいいのかな……と」
「ふーん……種田くんは、その子にどんな子に育って欲しいの?」
どんな子に育って欲しいか。自分でも考えてはいたが、どうなって欲しいんだろう。はたしてその願いをこの子に押し付けていいのだろうか。
「……まだそこがはっきりしてないみたいだね。なに、まだ時間はある。ゆっくり決めるといいさ。そういえば他の部署から見学に来ないかって申し出があったんだった」
「見学ですか?」
「うん、他部署との交流も含めて一度どうですかだって。どうする?」
他部署か…実際、地獄に来てから業務としては裁判しかしていない。メリハリがないといえば嘘になるが、ここら辺で新しい風を入れてみてもいいのかもしれない。
「閻魔様、私は反対です」
「あれ、佐藤は反対なんだ?」
「ええ、今はあの子の名前を考えるのが最優先です。そちらを先に終わらせるのなら反対はしませんが……」
「うーん、そっかー……」
そう言うと閻魔様は、懐から何かを取り出した。それは、小さな巾着袋だった。袋は生成りでできていて、赤の組紐で結ばれている。
それを渡され、手に持つとかちゃかちゃと音が鳴る。どうやら中に何か入っているようだ。
「最後の期日まで決まらなかったら使ってよ。大丈夫、中身は危ないものじゃないから」
「わかりました。ありがとうございます」
「あっそうそう、それとは別の話になるんだけど……例の淫魔なんだけどさ、国に帰せそうにないんだよね。どうしよっか」
「えっ、それまたどうして?」
「なんでも問い合わせたら、うちには一切関係ありませんの一点張りでさ……本当にどうしたものやら」
そう言った閻魔様は、こくりと一口湯のみに注がれた茶を飲み込んだ。飲み終えると、何かを思い出したかのように話を進める。
「それと関係あるんだけど…はいこれ」
閻魔様が渡してきたのは、一枚の紙。見てみると、それは請求書だった。見ると、記載されていた額が想像以上だったので目玉が飛び出そうになった。
「こここここ、これって……」
「うん、例の淫魔騒動の際の清掃費その他諸々の請求書。期日までに払ってね」
「ど、どどどうしましょう……こんなお金ないですよ……」
「落ち着いてください、種田さん。この話には、どうも続きがあるみたいです」
閻魔様を見ると、真剣な顔でニコニコと笑っている。
まるで何かを試すかのようだ。
「ふふっ、種田くん。君には選択肢が二つある。一つは大人しく支払う。もう一つは……」
「も、もう一つは?」
「三途の川の清掃。とりあえず一週間はやってももらおうと思うんだけど……どっちがいい?」
三途の川の清掃?請求書の額を払いきれないより確実に精算できるのだったらそっちの方がいいに決まってる。何より今は給料日前なので現金が乏しい。
「三途の川の清掃、喜んでやらせていただきます!」
「うん、わかった。じゃあ、明日からね〜。がんばれ〜」
ニコニコと閻魔様は笑っていた。まるでこうなる未来を予見していたかのようだった。
◇◇◇
「では失礼します」
閻魔様の執務室を出た後、自室に戻ろうとすると赤ん坊が目を覚ました。佐藤さんは、おむつを確認すると足を急がせる。
「どうやら排泄したようです。急いで戻りましょう」
「わかりました。ここからだと走って10分ぐらいかかりそうですけど」
「ショートカットをしましょう。確かこの辺りに使われていない扉がありましたから。種田さんは、扉をあけてください。鍵は……私の胸ポケットに入ってるので取り出してください」
「え!?」
「早くしてください。他の方の迷惑になります」
「わ、わかりました。失礼します!!」
佐藤さんの胸元から鍵束を取り出す。かすかに柔らかな感覚が指先を襲ったが、心頭滅却すれば火もまた涼し。そう考えながら鍵を開いていた扉に差し込んだ。
扉を開けると自室につながっていた。やっぱりこれ相当すごいアイテムだな……やりようによっては悪用できそうだけど。
「とりあえず私が着替えさせますから、種田さんはミルクの準備を。できますか?」
「わ、わかりました。やってみます!!」
哺乳瓶にミルクを入れ、熱湯で溶く。
このままでは熱すぎて飲むのに苦労するので水道で冷ます。
…あれ?どれぐらいまで冷やせばいいんだ?
うーんと唸っていると冷蔵庫が小声で囁く。
「人肌くらいじゃ……不安なら一滴肌に滴らせろ」
冷蔵庫の言う通りにほどほどに冷やし、皮膚に一滴垂らす。……うん、ちょうどいい温度みたいだ。
「佐藤さん、ミルク準備できました!」
「わかりました。こちらに持って来てください。こぼさないようにゆっくりと……」
赤ん坊の口元に哺乳美の乳首を持っていくと勢いよく吸い始めた。よかった、飲んでくれた。
飲み終えると、ゲップを促す。すると、時間はそんなにかからずにゲップをした。ぐずらないでいてくれるだけマシだな……
「ひとまずこれで落ち着きましたね。あとはこれが3時間おきぐらいにやってくるでしょうが……」
「さ、3時間おきにですか?」
「ええ、赤ん坊というのは得てしてそういうものなのです。まぁ、私たちにできることでしたら手を貸しますよ」
「ぜひお願いします」
「わかりました。それと執務中は、宮田さんのところに預ける事になりますがよろしいですか?」
そうか……育てながら仕事をするとなるとそういう問題が発生するのか。今まで気づかなかった視点が得られた。
「そうですね……その方が、後のことを考えても良さそうです。いつも面倒見てあげられるとは限りませんし」
「わかりました。では、そのように話を進めていきますね」
◇◇◇
その後、赤ん坊は定刻通り3時間ごとに目が覚め、泣く。それは空腹なのかおむつが汚れているのかそれともただ機嫌が悪いのか……言葉を喋るのってありがたいと思うのと同時に母というものはこれを乗り越えて育てたという感謝の気持ちも不思議と湧いて来た。
佐藤さんは、赤ん坊が寝付くと部屋を出て自室に戻っていった。赤ん坊が目がさめる前には、部屋に戻ってきて色々と手伝ってもらい大変助かった。
気づくと日は上り、部屋を明るく照らす。
身支度を整え、準備を終えると佐藤さんは赤ん坊を抱き玄関先で待っていた。
「まずは宮田さんにこの子を預けましょう。そのあとは朝食を食べにいきましょうか」
「わかりました。俺が抱いていきますよ」
「……今日は私に持たせてください」
珍しい。佐藤さんが自分のしたいことを言うなんて……付き合いは短いながらも今まで聞いたことがなかった。それが望みなら叶えてあげるとしよう。
「じゃあ、お願いします」
「はい」
そういった佐藤さんは、少し微笑むとキュッと少しだけ強く赤ん坊を抱きしめていた。