見えるのは暗闇。視界は10センチ先も見えず、脚はぬかるみ、空気はねっとりと湿気を帯びて、絡みつく。
鼻が曲がるような汚臭が、鼻腔の奥まで突き刺さり爆発するような感覚に襲われる。例えるならば、飼育小屋と下水道の匂いを同時に嗅いでいる感じだろうか。
脳が危険信号を出し、嗅覚がどんどん感じなくなっている感覚に襲われる。ふと、臭いに気を取られ気づかなかったが、感覚として数メートル先に何かがいる。
おそらく、大型の獣だろうか。パキッと枯れ枝を折るような音と、クチャクチャという音が聞こえてくるから何かを捕食しているのだろう。
急ぎ、離れようとするが足が動かない。先ほどまで、ぬかるんでいた足元は、固まったセメントのようになり、身動きが取れそうにない。ジタバタと動いていると、獣がこちらに気づいたようで、青緑色の2つの瞳をこちらに向けた。
『人の子よ、去れ。これ以上此方に深入りするな。』
おそらく獣が喋ったのであろう。理解できずに、固まっているとゴロリとなにかが足元に投げられた。暗闇で見えるはずがないのに見えたそれは、まだ温かい人間の腕。脚。頭部。
その顔は、生涯忘れることはないであろう、ーーーの顔だった。
◇◇◇
意識が覚醒する。そこは自室で、さっきのは夢だったのだろうか。なんとも寝覚めの悪い夢だ。もう一度、横になるが目が覚めて眠れそうにないので、シャワーを浴びることにしよう。
部屋のレイアウトは、以前住んでいた部屋と変わらないので、迷わずに済んだ。お湯の温度は、以前の部屋と違い、安定していて水圧も変化しない。
シャワーを浴び終え、ぼうっとしていると端末に通知が入る。確認すると、佐藤さんからの連絡のようだ。
『本日の業務は、昨日と変わらず通常業務になります。諸事情により同行指導ができません。ですので、私の後輩を送りますので、その人と行動してください。』
今日は、佐藤さんとは別行動らしい。残念なようなそうでもないような不思議な感覚だ。
数時間後、部屋の扉をノックする音が聞こえたので扉を開けると、そこには佐藤さんより頭一つほど背が低い、小柄な女性が立っていた。例えるなら、佐藤さんが猫ならこの子は犬。そういう印象だ。
「おはようございますっス!!!佐藤さんの後輩の巻尾っす!!本日は、よろしくおねがいしますっス!!」
「あ、はい。種田と言います。今日はよろしくお願いします」
「はいっス!!あ、種田さんは朝餉はいただいたっすか?まだなら一緒に行くっス」
「そうですね。まだ、何も食べてないので行きましょうか」
せっかくなので、コミュニケーションも含めて巻尾さんと朝食を一緒にとる。食堂に向かうと、今朝も変わらずごった返していて、騒がしさが耳につく。
今朝は、ガッツリ食べる気分ではなかったので、シリアルとヨーグルトのセットを頼む。巻尾さんは、いつものをお願いするっスと何かを頼んでいた。
注文した朝食が届くと、巻尾さんは、むかし話に出てくるような山盛りの丼飯と、大きな玉子焼きを美味しそうに頬張っていく。
昔、何かの広告にあったいっぱい食べる君が好き、というフレーズを思い出すくらいにとても印象的な光景だった。
食事を済ませて、執務室の扉に手をかけ開くと先日と変わらず、執務机と椅子のみの部屋だったが、机の上には眼鏡ケースが1つ置かれ小さな付箋が貼られている。
〔業務中はこちらの眼鏡を掛けてください。必要以上の情報をカットするようになっています。 佐藤〕
付箋を読み終えると、巻尾さんが何やらニヤニヤしながらこちらを見ている。何か気に障った行動でもしただろうか?
「……いやー、まさか先輩がここまでするとはおどろきっすね。色々ウワサされるはずっス」
色々ウワサされるというのは少し気になるが、今回は気にしないでおく。用意された眼鏡は、シルバーのフレームの比較的シンプルなものだった。掛け心地も、悪くない。
「おっ、結構似合ってるっス。あ、写真撮ってあげるっス。ハイ、ピース」
他人に写真を撮ってもらうことなど、そんなにないからか恥ずかしく感じてしまう。これも慣れればなんとかなるのだろうか?