かりのおうさま to next SUNRISE 作:黒の鴉・白の蛇
かりのおうさま
――どこの時代の、何処の国の物とも知れぬ草原で二人もしくは二匹は踊る。
嗚呼、何て月がきれいなのだろうか。幼顔を蕩かし狩りに酔う幼子は陶酔し、妖艶にも美しい女のカモシカに似た足取りを追いかける。星明かりをも掻き消す大きな月を祭壇にして、二人はその神秘的な香りに酔っていた。
女が矢を射れば、幼子は兎のように跳ねてそれを躱す。飛散した土を背に受け加速すれば、その先には女が居る。
右拳を獣爪のような手刀と成し、女の首筋に打ち込もうとする。対する女はひらりと身を躱し、その背に短剣を振るった。
腕を振った勢いのままに幼子は転げ、この短剣を避ける。二人の距離は、矢を射るには近すぎ、刃を振るには遠すぎて。
嘆息が漏れる。それは誰が漏らしたのか。
月に照らされた顔を見合い、やがて視線が絡み合い、それは性交するかのように熱く混ざり合う。
嗚呼、と。嗚呼、嗚呼――
“この瞬間が、永遠となれば良いのに”
どちらかがそう言い、どちらかが答えた。
“続けよう。夜は長く、けれど夢は一夜限りなのだから”
そして二つの影は交わった。
熱く、熱く、蕩けるように、獣のように互いを貪り合う。
愛し合う者らのように、彼らは互いの肉を啄んで。血と返り血、肉と臓腑の欠片、鏃と剥がれ落ちた爪の区別がつかない体になるまで、深く、深く愛し合う。
最後に、事後の慰めのように、接吻のように長く体が重なると――
――血露に満ちた草原から、命は絶え。ただ冴え冴えと巨大な月のみがそこに佇む。
脳の覚めるような、酷く冷たく、けれどもどこか生暖かい夜の話だ。
***
コツコツコツ、と指先で机を叩く。チョークと黒板の打ち合わさる音に紛れて、それは静かさに隠れた。
教壇に立つ教師は数式の証明を述べ、基幹となる部分に印をつける。決まり文句を吐いて生徒に板書を急かすと、それを見て毛量の怪しい彼はふんと鼻を鳴らす。
シャープペンシルが生徒のノートに文字を綴り、量産された部品は不愉快な軋みを上げるだろう。その音に溜まらなく吐き気を感じる為に、今時珍しく鉛筆でそれを書き写した。
飾り気のない筆箱は草臥れていて、本人の気質を示すように安物めいていた。何処からどう見ても一山いくらの量産品であるそれが、ましてや手作りであると見抜けるものは居ないだろう。とはいえ高名な職人の作ではなく(筆箱作りの名人など、むしろ顔を見て見たいものだ)自作のそれだが。革を張り、綿を詰め、金具を取り付ける器用さがあれば、大抵のものは安く済む。
流石に鉛筆や字消しまでは自作する気も起きず、寧ろ店頭で買った方が安上がりだが、それ以外であれば身に着ける殆ど全てが自作と言っても過言ではない。器用というよりもむしろ偏執的で、経済的というより吝嗇である。
無論、ただ只管に金を使い惜しんでいるような男でもなく、それなりに娯楽に金は掛けるし、手間であれば間に合わせの物を買うことも珍しくはない。そもそも機材を揃えるのにも、それを扱うのにも、それ相応の金銭がかかるのだ。一概に自作が安いとは言えない。だのに態々多くを手作りしようとするのは、偏に趣味という理由があり、それだけでは済まない執着故だ。
手先の器用さを好むのは、それこそ夢を見る前と変わらず。指の一本一本を独立した蛆のように器用に動かせる様は、友人からすれば気味が悪くも感じられるらしく、一時期は『びっくり人間』として扱われていた。
その扱いは、自身と深く交友を持っていたある幼馴染のそれ以上の『びっくり人間』さに、たちまち立ち消えたものだが。
さて、そろそろ終業の鐘がなる頃だろうか。躾けられた犬のように目を盗んで時計を見やる生徒が半数を超えた折に、漸く授業の終わりが告げられる。この教師は話が簡潔で、間々決められた授業時間より早く終わらせるために生徒からの人気が根強かった。それはその分、聞き逃しがあれば大いに後れを取ることもあるという事を指す。それを恐れるならば、机に齧り付く姿勢は当然の結果だ。
「それじゃあ、今日の授業はここで終わりだ。日直、挨拶を」
「はい。起立っ、きょーつけ、礼っ」
『ありがとうございました』
舌が回らず、『気を付け』の上手く言えない号令と共に、足並みのそろった挨拶が響く。隣の教室まで聞こえただろうそれは、この教師の指針だ。挨拶はちゃん揃っていなければ認めないと、初めの一回にさんざっぱらやり直させられたものである。
「はい、じゃあ他の教室ではまだ授業やってるし、騒がず静かにしているように」
そうとだけ言い残し、教室を出てどこぞへと向かう。職員室へ戻るのだろうか、何て疑問が晴れる事はない。態々後を付けたり、或いは本人に聞いたり、そこまでの興味を抱かない。
一斉に騒がしくなった教室は、先の教師の注意を忘れたか。席を立つ音や机にぶつかる音、しゃべり声の混ざり合い、喧しいの一言に尽きる有様となった。
特に話の種があるわけでもなければ、人と話していなければ落ち着かない鮪の亜種とでもいう気質でもない。空き時間はのんびりと、背凭れに体を預けて微睡んだり、図書室から借りた本を読んだりするのが大半だ。
三年のもう終わりともなれば、そんな人減だというのはクラス中が把握していることだし、ともすれば他のクラスにも知れ渡っている。故に無駄に話しかけるものは居らず、ああまた一人だよアイツ、と言った風にちらりと見やられるのが精々だ。別に嫌われているわけではない。嫌われているわけではない。
……嫌われてないよな?
少し不安になったが、今更人間関係を改善しようとして間に合うわけもないので、事態の把握は諦めた。もう一か月もなく二学期は終わり、冬期休暇に入る。今年の年越しは何を食べようかと考えながら、瞼を下ろした。
眠る心配はない。眠気など無いのだから、意識を落とすことなどありえないだろう。
だから、だけれど。
……休みは、取るためにある言葉だ。
喉を鳴らし、思考を止める。体は息を止めたように脱力し、眠る様に脳を休める体制に入った。
夢も、霧も見ない。相変わらずの仮眠だった。
六枠の授業が終われば、担任の小言を聞き、漸く家へ帰ることを許される。
鈍り雲の下を歩む足は寒さに震えてか、いつもより重く感じる。それは纏わりつくような倦怠感で、今日に限らないものだ。街行く人は普段より少なく、偏に冬の寒さの為だと首に巻いた襟巻が主張する。
確かに、冷える。さながら、夜霧のように。
埋めていた顔を上げ、息を吐いてみる。結露したそれは、獣の牙か、或いは涎のように尾を引いて気中に溶ける。真白の霧であった。
自らの吐息で温い襟巻へ冷たい外気が雪崩れ込む。紅潮した頬はそれを良しとした。雪に埋めたように震える手足と正反対に。
「良い空だ」
見上げた鉛色の雲は垂れ掛かるほど重く、重苦しい。息苦しく、まるで鎖と首輪と拘束具とで雁字搦めにされたように。それが、それこそが好きだった。人が服を着ることを常とするように、この僅かな圧が心安らぐのだ。
有体に言えば、曇った天気が好きで、今にも土砂降りの雨が降りそうなそれが好きだという、それだけの事。個人的な趣味嗜好を、ふと漏らしただけ。
それに応える数奇者が、果たして、居た。
「――相変わらず曇りが好きなんだな。こんなに冷え込んでるってのに、手袋もつけねーで」
「……護堂か」
振り返れば、そこには見慣れた幼馴染が立っていた。中学に進学してから三年、めっきり顔を合わせる機会は減ったが、それでも度々顔を合わせる。家が近所だという理由もあるし、護堂が違う学校の者を遠ざける性分でもなく、そして身内に甘い所があるのが理由だ。
つまりは、関係が続いているのは向こうの一方的な好意。こちらから返せるものはなく、それに臆していればむしろ呆れたように「そんな見返りを求めたもんじゃない」と喝破された。
一年に渡ったこまごまとした騒動。雨降って地、固まる。護堂は一番と言ってもいいくらいの友人で、故に敬意と友愛をもって、時折「親友」と呼びかける。
どちらが呈したわけでもなく、足並みを揃える。示し合わせた呼吸は、長年の連れ添いの賜物だ。もう一人の幼馴染を差し置いて、「夫婦」とからかわれる遠因でもある。
「最近、冷え込むな」
「そうだな。そっちは大丈夫なのか?」
「腹巻を、昨日、引き出した」
「腹巻……あー、明日香が編んだあれか」
「そうだ」
おお、口下手と言う勿れ。これでも精一杯言葉にしている方なのだ。
元より多く使わない発声器官は、猿が人になった間にしっぽを捨てたように、大分機能を落として掠れている。発声練習もしているのだが、声の掠れの原因が対話経験の不足なために如何ともしがたい。
此処で言う腹巻とは、押し入れの中に置いて幾分か経つ、今年の夏ごろに贈られた代物だ。何故夏かというと、当の本人が冬に間に合わせようとして間に合わず、半年ほど更に時間をかけてしまったためである。
編み物に必要とされる手先の器用さと、あの几帳面で生真面目なきらいの有る女を思えば、生半な出来では納得しなかったのだと容易に想像がついた。
手渡されたときの恥じ入る様な顔は可愛らしかったものだ、そんな女に惚れられていて気付かないのも、また面白い。横目で見た幼馴染は、自分が祖父と同じ人誑しの気風を持つことにまだ気づいていない様子で、すっとぼけた顔で何だと聞いてくる。
「いや、今年のクリスマスは七面鳥でも焼こうかと思ってね」
「七面鳥……爺さんの伝手を辿れば買えそうだけど、都内で普通に売ってんのか?」
「あまり良さそうな店は見つからなかったが、いざとなれば現地に向かえばいいさ」
「気合入ってんなー」
苦笑する護堂に釣られ、笑みを零した。クラスでも滅多に見られることのない貴重な笑顔は、偶然見かけたものによれば胸打たれるほどに柔和であったという。
ついでに意外にも手料理ができるらしい、という情報を得た彼がクラスの内で細やかな人気を得るのは明日の話であり、語られることのないであろう、知ることの無いだろう話だ。謎めいた先輩の、意外な家庭的な面に、後輩らは想像を膨らませた。妄想を肥大させ。
結果が、卒業式のコールに繋がったのだ。
その話を語ることは、きっとない。無い。
絶対に、無い。
「今年の冬も厳しそうだ。早めに、こたつを引っ張り出すと良い」
「あれ出すとついつい居間に居ついちゃうんだよ。暖かいし、落ち着くし」
「まぁ、抜け出しにくいものだな」
いつぞや、七輪で餅を突いたな。あんときは焼き過ぎた餅が爆発して驚いた。砂糖醤油のせいでべたついて、面倒だった。でも割と美味しかったぜ。マシュマロも良かったぞ。箸に刺して、焼いてな。ああ、中は蕩け、外はさくさくと、良く焼けた。
旨かったなー。
ああ。
そんな取り留めのない雑談を、護堂の自宅に着いたことで打ち止めにする。自分の家はもう少し先で、帰れば課題もあるのだから。
「それじゃあ」
「ん、それじゃ」
軽く手を挙げて、さっぱりと別れる。別れ際に泣きだした幼少期を思い出して、目が軽くうろつく。護堂の知らない、昔の話だ。今となっては夢の跡である。
商店街を抜け、住宅街に入り、暫くすれば一見の奇妙な家が見えてきた。妙に古び、そして恐ろしさの有る一軒家。原因は放置された庭の草か、それともその建築物の年齢か。
軋む門尾を開き、生い茂った雑草に隠された水盆を、砂利に埋められた飛び石を踏みつけて通り越す。冷たい取っ手を引いて、玄関へ踏み入る。
「……ただいま」
ひゅうと木枯らしが吹く。
その気紛れもまた、いつも通りだった。
***
襟巻を解き、居間のちゃぶ台に学生鞄を置く。廊下の見える扉脇の帽子掛けに、構うものかと学生服の上着をかけて一息ついた。
さて、その部屋で何よりも異質なものは、壁際で座り込むように置かれた、眠るように精巧な人形だろう。不気味なほどに美しいその寝顔は、ともすれば血の抜けた死体にも見えてしまう。だが、手袋のしていない剥き出しの球体関節を見れば、如何に真に近くとも被造物であることを確信する。
頬に触れれば、在りし日の温もりを感じることができるかもしれない。或いは、それは幼気な偏執にも似て。愛というものが独占欲であるのなら、きっと彼女は愛故に生み出された。
床暖房なんてものなど知らぬとばかりに、藺草の畳は思うがままに冷たさを孕んでいる。足裏から体の芯の熱を奪い、それも留め置けずに凍えていく。壁際に積み上げた座布団を二、三重ね、人形の前に置く。
座布団の隣に置いていた古めいた道具箱を脇に持って、胡坐をかく。漸く人心地吐いた。
「……ただいま」
さらりとした銀糸を掻き上げ、朽ちた人形の顔を伺う。閉した瞳の向こうでどんな夢を見ているのか、教えてはくれない。
撫でるようにして破損を探ると、後頭部の被膜の一部に解れを探り当てた。経年の劣化によるものだろう。本来は医療用の糸と針を道具箱から選び、すいすいと縫い合わせる。一撫ですれば、そこに傷の跡などはもう感じられない。
昨日も手入れした人形に積もる埃など無く、手持ち無沙汰になった為、人形な端正な顔をじっと眺めることにした。
すっと通った鼻梁、色褪せない唇、白魚に似て透き通るような肌、嘗めてしゃぶり噛み付きたいほど艶めかしい瞼、一目で恋するごとに、胸を掻き立てる彼女。
美しい、可愛らしい、愛おしい、麗しい。
ああ、違う、違う。それでは足りないのだ。
美麗、可憐、霊妙、妖艶、幼気、人形的。
どうして人の言葉は、こうも不自由なのか。啓蒙の無い身は、こうももどかしいのか……っ。
美味しそうなほどに整って、ぐちゃぐちゃにしたいほど美しく、染め上げたいほどに無垢な、そんな、そんな……。
「ああ……っ、嗚呼ッ」
喉を鳴らし、瞼に口付ける。含んだ瞼を味わい、もっと、もっとと求めればコツリと歯が当たる。口を少し開き、甘噛みをした。そのまま力を込めて、瞼を噛み千切る――前に、弾かれるように正気を取り戻す。
「は、ぁっ。はぁ、はぁ……」
口端から涎が零れ、人形の右瞼にもそれが塗りたくられている。てらてらとした粘液の光沢に猛る性欲を押し殺し、手巾で拭う。丁寧に丁寧に、歯の跡すら残らぬよう、優しく、強く、乱暴に、いたわる様に。
頭を振って、居間を出る。駄目だ、今は少し、頭を冷やさなくては。高ぶる獣性に水をかける為、替えの衣服を手に浴室へ。
――何を考えているのだ、己は。
そんな言葉が脳裏をよぎる。自分で自分を止められない。それでは、まるで理性の無い獣ではないか。
ああ、駄目だ駄目だ。その蕩けた脳髄で、果たして何を覚えていられようか、果たして何が見えようか。
常に冷静で、冷徹で、冷酷でなくてはならない。獣を狩るというのは、そういうことなのではないか? なぁ、助言者よ。何故、答えてくれない。
冷えた水に息を呑み、バクバクと脈打つ心臓のままに息のできない苦しさを味わう。
温めていないこの時期の水は、まるで氷になりかけているかのように冷たかった。急な仕打ちに喘ぐ体の危難信号の中にこそ、理性の呼び水があるのだ。過呼吸になりながら獣性を押さえつけていると、次第に冬場の水の冷たさも気に成らなくなってくる。
むしろ水のかかっていない所が寒いぐらいで、空っ風にすら触れていないのに、腕に鳥肌が立っていた。
浴槽に頭を打ち付ける。ボイラの唸りすら響かない浴室に、細雪のように静かにタイルを打つ音が満たす。その鈍く重い音は、何処へも響かない。
髪を濡らし、それは色素を奪って滴るようでもあった。水は無為に流れ、排水溝に流れ込む。水道代が、という心配からシャワーを止めた。滑稽な心配だと笑うだろうか。笑うだろう。
「……ぁ」
立ち上がりざま見た浴室の鏡の中、紫に色褪せる唇の、色白の貧相な少年の裸体が見えた。それが酷く苛立たしく感じられ、後先考えず叩き壊そうと拳を振り上げる。
だが、結局、それは鏡を砕くことなど無かった。握りしめた拳で右腿を叩き、目を閉ざす。次に目を開いた時、鏡など、世界から消え去っていた。そのまま正面に進んで、タオルを取る。洗濯籠にかけておいた着替えをひっつかみ、その妙な温もりに今更凍えていたことを実感する。問題はない。腕を抱え、しかし直ぐに離す。もう廊下に出ていた。
何を、しようか。
先の性欲にも似た衝動を恥じ、禊紛いの行水を終え、手持ち無沙汰になった自分は課題を進めることにした。
鞄の中に必要な道具はあり、それを取るには居間に向かわなければならない。その時、もう一度人形を目にして、果たして集中しきれるのだろうか。
懸念の末、極力目を向けないことで以て対策とした。
意味はなかったが。
花のように香る居間の、藺草の畳に胡坐をかき、課題をノートに書き込む。頬を擽る視線も含めて、この安穏とした心地良さは幻想だ。芳香剤など生まれてこの方買ったこともないのだから、当然の結論。
只管にペンを走らせ、出されたばかりのそれらを手早く終えた。元々、授業内で終わらせたものが大半だった為に、それは十分と掛からず終わる。全くもって、時間潰しに成らなかった。
「……飯でも、作るか」
気まずい空気に一人、立ち上がる。何もこの家には余人などいないのだから、気遣うことも起こり得ない筈なのに。じっとしてられないのは、性分というやつなのだ。
冷蔵庫を探れば、それなりの種類の食材が揃っていた。明太子パスタにしよう、手軽で、美味い。
そうと決まれば、まずは湯を沸かすのが先だ。小さな鍋に水を半分ほど入れ、火にかける。塩を少し加え、湧くのを待つ。
待つ間に明太子とバターとを冷蔵庫から取り出し、まずは魚卵を掻き出す。一本まるまる掻き出し終えたところで、残った皮を千切って、それもまた皿の中に入れてやる。
少し前から、湯は出来上がっていた。手が空いたのでパスタを一人分ぐらい湯の中に入れる。包丁を取り出し、バターを切り、処理した明太子の上に乗せる。調味料を集めて置く戸棚から濃縮された麵汁をその上にかけ回す。
さて……、後の品はどうするか。
「……」
いやもうこれでいいか。
食材が無いわけじゃない。野菜はあるし、果物も肉も調味料も、香辛料もある。買ったのは自分で、それらが何処にどれだけあるのかだって把握している。
だけれどこれ以上を作るのは、少し気が向かなかった。面倒臭がった、と言えばそうなのだろう。
ふつふつと、茹で上がるのを待つ間に幾度となく背後を振り向く。ありもしない視線を感じるのは、精神病の兆候だろうか。堂にもそれが妄想だと思えないのは、夢の見過ぎだろうか。
反対の壁際に寝る彼女が、どうしてか、起きているようにも感じるのだ。指一つ動かない、ただの人形でしかないというのに。啓蒙があれば何かわかったのだろう。啓蒙が足りないのだ。
脳に瞳ができたところで、目を開くことすらままならない幼少では意味など無く、光を見るには幼すぎる。熟し始めた卵のように、瞳孔も虹彩も結膜も角膜も水晶体も硝子体も網膜も、へその緒のように垂れる視神経のみがそうと見える形を成しているのだろう。
額に手を当てると、うっかり沈み込みそうなほどに、その瞳は幼く感じる。溶けて、蕩けて、まるでバロットのよう。頭蓋を殻に、それが脳に根付いていく……それもまた、妄想なのだろうか。
もう夢は見ない。眠ることもない。
酷く空々しく、夜は何時も冷たい光で満ちている。
人ではないのだろう。そうなのかもしれない。
ああ、でも。その確証があろうと、その核心ができないのだ。
夢現。
まだ夢の中に居るように、自分が正常だとしか思えない。
自分の異常を、心が認めない。
「――あっ」
鍋が噴き零れる。
答えの出ない思考は打ち切られた。
湯気の立つ麺を用意した明太子とバターと麺汁の合わせ物に乗せる。麺の熱でバターが溶け、明太子と絡まり、柔らかな味になる。混ぜ合わせれば完成だ。
「ごちそうさまでした」
簡単にできるだけあって、食べ終わるのも早い。おざなりな礼だけして、食器を水につける。
窓の外は、黒に挟まれたオレンジ交じりの赤が見えた。彼方の空が、夕日に染まっているのだろう。もうこんな時間か。意外と時間が潰れていたことに、つくづく冬は夜が早いと愚痴を言う。
月が昇るのももうすぐだ。食器を洗うのもほどほどに、居間を出て自室へ向かう。こじんまりとした家で迷うわけもなく、居間から出て僅か二歩で扉に手を掛けられた。
――蒼褪めた光が、部屋を照らす。
安物のベット。粗末な本棚。押し入れ。家具といえるものなどその三つだけ。あまりにものが少ない。
居間と正反対にあるこの部屋は、こちら側の庭の広さもあってか、この街でも一番に早く月の光が満ちる。
時間がない。目を細め、月明りに目を焼かれないようにシーツに放られている草臥れた包帯を目に巻き付ける。額まで覆うような、過剰ともいえる覆いをして、ズレぬように中折れ帽を被る。緊箍児のように緩く頭を締め付けるそれが、上から包帯を抑えていてくれる。
そこでようやく一安心し、ほっと胸を撫で下ろす。難儀な体質だと、また苦々しく口を歪めた。
少し早まった血の巡りを抑えるために、ベットに腰かけて深呼吸を繰り返す。耳をそばだてても聞こえるかどうかといった、浅く長い呼吸を、何度も繰り返す。
漸く、落ち着いたか、どうか。
その時、鼻腔いっぱいに血と臓物と酒と甘味と――獣の臭いが雪崩れ込んだ。
「――――ッ!!」
背後からの奇襲を躱し、戦闘態勢に入り、刺客の正体を捉え。
息を呑む。
それは獣だった。
夢に見るような、人の内の獣が居た。
……獣が、居たのだ。
もういない筈の、それが。
***
少年は狩りに酔っていた。少年は狩りに溺れていた。少年は狩りに魅入られていた。
そして少年は――狩りに愛されていた。
酒の似合わない齢でその蕩けた顔を見せるのは、血に酔っていたゆえだろう。何時しか少年は街を飛び出し、草原に逃げ込んだ。人波から逃げ出し、深緑へと飛び込んだ。人の温もりが、どうしても肌に合わないのだと、最後に言い残して。
そして少年は、月の様な狩人と出会う。世にも美しい女狩人と出遭う。
少年は問いかけた。貴女は何者か。
狩人は問い返した。貴方にはどう見える。
答えて曰く、まるで月のようだ。
ならば、狩人は応えた。私は月なのだ、と。
ただ、それだけの話。
月香の竜骨 Moongrass Feel
鋭く研がれた釘剣
手の内に握りこむことにより、血の歓びを想起する
また、柔らながらもそれは、急所に叩き込めば致命の手助けとなろう
狩人の昏い一面、内臓攻撃より女狩人の内から見出した血の温もり忘れぬ右の第六肋骨
夜を開けてなお消えぬ夢の名残は、果たして愛か称賛か
或いはそれは、研がれて尚鈍らぬ守りの意志なのだろう
月の草原に狩人は散る
“夢は醒め、還すものだ”
小夜曲 serenade
嘗て夜に忍んだ曲は、時の流れと共に夜を想う曲と遷移した
だが恋し人に捧げる本質に変わりはない
それは、優しく寂しい、夜の草原の子守歌
夢は一夜に溶け
けれど明日もまた夢を見る
愛し子よ、今宵も安らかに眠りなさい