【本編完結】Take me to paradise.─Scenario of Manhattancafe(prototype).   作:春華ゆが

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Scene10:You are my wing.

 一つ、やはり夢を見て。わかりきった内容なのに、何度目覚めても忘れられない。マンハッタンカフェという存在は、凱旋門賞で敗北する。架空の記憶に過ぎないそれは、パリにやって来てから更に現実に近づいた気がする。

 1週間の滞在はあっという間。こちらの馬場にもある程度慣れて、体調も悪くない。何もかもが順調なはずだ。だから、私の心臓に起こる迷いはきっと誤りで。

 凱旋門賞を明日に控え、今日は一人での休息の日。だけど、君に会いたい。君と会えば心臓の迷いは取り払える気がする。君と会えばまだ進める気がする。君となら、楽園へ。運命の先へ。

 そう、想うだけ。そうやって断頭台へ連れられるのをただ待つだけだった私を、誰かがどこか別のところへ連れて行ってくれるとしたら。その誰かは、君しかいないのだろう。

「……もしもし、トレーナーさん。寂しくなりましたか? ……冗談ですよ、おはようございます」

 トレーナーさんからのモーニングコール。トレーナーさんから言い出してくれたことだけど、私が密かに望んでいたことだ。君は私のことを日に日に理解してくれている気がする。思い遣ってくれている気がする。

「明日に向けて、今日はお休みの日ですから。……え? ……ええ、もちろん」

 リラックスできているか。そんな質問に、当然だと返す。嘘を吐く。君の声を聞くまで、不安ではち切れそうだった。君の声を聞いてから、疼きが止まらない。

「えっと。……おっと、いえ。トレーナーさんから、どうぞ。……はい、はい。エッフェル塔に9時……? それって」

 それって。逢引きという言葉が口を突いて出そうになる。だって、今日はトレーニングではない。リフレッシュのためのお出かけの日でもない。本当の、休息の日。かけがえのない休息を、誰かと過ごすなら。

「いえ、なんでもありません。……もちろん行きます。部屋に居たって何にもならないというのは同感ですから。……では」

 電話を切る。素っ気なすぎただろうか。君からのデートの誘いだというのに。わからない。私が愛しているほどに君が愛してくれる保証はどこにもない。何度も演じた愛の告白は、その時になって私の口から飛び出していけるだろうか。わからない。

 わからないけど、わからないからこそ。私は君を追い求めよう。

 寝間着を脱いで、装いを吟味して。まるで少女のように、私の心臓は高鳴る。否、今はきっと本当に少女なのだ。運命に縛られた哀れな道化ではなくなるのだ。

 たとえ、明日私の競争生命が終わるとしても。明日までは、私は生きていられるのだ。

 さあ、行こう。

 

 

 ※

 

 冷たい朝。……急に呼び出して、よくなかっただろうか。待ち合わせの時間が近づいて、俺の不安はどんどん大きくなる。

「……まったく」

 しっかりしなければ。これくらいの不安、マンハッタンカフェは何度も何度も経験してきただろう。撮影を目の前にして、レースを目の前にして。俺には見えないものを見ていただろう。

 ならば、それを和らげること。それだけが、俺に可能なことなのだ。

 今日の待ち合わせは、トレーナーとしては越権行為に近い。アンタッチャブルな担当ウマ娘のオフの日を、レースの前振りとして使ってしまっている。それだけなら到底許されない。

 けれど、一人の人間として。彼女に夢を見る存在として。力になろうとするならば、許されるのではないだろうか。

 無論、許されなくても構わない。それが彼女のためになるのなら、俺は喜んで劫火に身を投げよう。

 そして、時間は進み。

 遠くに、彼女の姿を見た。

「トレーナーさん、お待たせしました」

 薄い桃色のセーターに、黒いロングスカート。落ち着いた格好のマンハッタンカフェが、此方に向かって駆けてきた。

「おお、おはようカフェ」

 しゃなり。彼女は薄く笑う。レース場の彼女は煮えたぎるほどの黒を背負っているのに、今の彼女は柔和な雰囲気を漂わせている。演技ではなく、本当に安らいでいるのだと思う。

 

 ※

 

「エッフェル塔で、と言われて。それだけではどこで待ち合わせるのかわかりませんでした」

「ああ、それはごめん!」

「もう、それくらいで怒りませんよ」

 パリの街を周るコースは考えたのだが、実際に見てみると全く勝手が違う。

 今自分たちの横に聳え立つエッフェル塔は、とてもとても高く大きくて。これを人が作ったなんて信じられない。

「……こうして見ると、さながらバベルの塔ですね」

「……バベルの塔?」

「そうです」

 バベルの塔。聖書に出てくる大きな塔……だったか。それ以上の知識がなくピンと来ていない俺を察したのか、カフェは説明を始める。

「かつて人は皆、一つの言語で繋がっていました。団結し、協力する。それができていました。そうして大勢の人達が一緒になって造り上げた塔の名前が……バベルの塔」

 あくまで宗教上の伝説ですがね、と彼女は付け足す。

「この塔の目的は、神のいる場所まで到達することだったのですが……それに神は怒りました。神の怒りで全ての人は言語を分たれ、塔は未完成のまま。……傲慢なお話ですよね」

 傲慢。おそらくこれは、人が神へと到達しようとする傲慢を罰する説話なのだろうが。

「なるほど、確かに傲慢な神様だな」

「ご名答。我々は信徒ではないですからね」

 神の傲慢。全てを掌に乗せようとすること。運命に逆らうことを許さないこと。その傲慢に対する怒りを、確かにマンハッタンカフェから感じ取った。

「……大丈夫。俺も君と同じ気持ちだ」

「……ありがとうございます」

 カフェが何処へと行くのか。何を射抜くのか。それがどのような大それたことであっても、俺の役目は彼女をその先へ連れて行くことなのだから。

「……さあ、じゃあ行こうか。意外と時間はないんだ」

 そう言うと、彼女は無言で此方へ手を伸ばす。……甘え上手になったものだ。

「……よし、行こう」

 手を取って、ゆっくりと。パリの10月は寒い。温まりながら行くことは間違いじゃない。

 

 ※

 

「ここが、ノートルダム大聖堂だ」

「……写真で見たことはありますが、やはり肉眼では違いますね」

 小一時間歩いて、最初の目的地であるノートルダム大聖堂に着く。煌びやかなバロック建築に、カフェは目をキラキラさせている。

「曰く、この建物は様々の苦難に遭ったそうです。芸術品である以前に、政治的、宗教的立ち位置も持っていた。それ故にここまで偉大な建造物となったはずですが、それ故に何度も破壊と略奪に見舞われた」

「……よく知ってるな、カフェは」

「パリに来るのが楽しみで、沢山調べていました。……冗談ですよ」

 くすりと笑い、彼女は話を続ける。ステンドグラスの下を歩く少女は、その舞台と一体化したようだった。

「……それでも、立ち直る。何度壊れても、焼かれても。もしこの大聖堂が現代において再び大規模な破壊に遭ったとしても、きっと立ち直るのでしょう……真の強さとは、そういうことかもしれませんね」

「……君は、そうじゃないのかな」

 なんとなく、羨むような口調。けれど俺は、目の前の彼女にだって立ち直る強さがあると思う。あの超光速の名を持つウマ娘が、立ち直らんとしているように。

「……私は立ち直れたと思いますか? 弥生賞の時から、ずっと闇の底に沈んでいると。そうは思いませんか?」

 失楽。彼女の強さが飢えと渇望にあるのだとしたら、ずっと足りないものを求めて苦しんでいるというのは間違いではないかもしれない。

 けれど。

「君は、間違いなく成長してるよ。俺が保証する。……俺じゃ足りないかもしれないけど」

 俺の全身を懸けて、君の存在を保証する。闇に沈むというのなら、そこから這い上がるための踏み台となろう。

「……いいえ。トレーナーさんが言うなら間違いないのでしょう。私自身よりも、私を一番見ている人なのですから」

 厳かな雰囲気の下、二人の繋がりを確かめ合う。相手が沈むなら、代わりに己が沈む。そういう繋がり。

 まだ、二人の時間は終わらない。永遠ではないとしても、今は時間を忘れよう。

 失楽園の漆黒は、闇と光を溶かし合わせる。

 ※

 

「どうだ、美味しいか?」

 レストランでトレーナーさんと二人、小さなテーブルを囲んで昼食を取る。

「トレーナーさんと同じ料理を頼んだんですから、トレーナーさんが美味しいなら私も美味しいですよ」

 そう、言って。私はトレーナーさんが頼んだコースと同じコースを頼んだ。メインは寒い時期にぴったりのポトフ。たとえメニューの一つでも、お揃いというのは心が躍るから。……でも。

「……カフェ、周りが気になるか?」

「……ああ、すみません。やはり外国の方というのは見目麗しいものですから」

 

 本当は。きっとあそこの二人も、遠くの二人も。所作から恋人だとわかること。私たちはそうではないこと。それが少し、狂おしい。

「カフェだって綺麗だよ。自信を持ってくれ。なにせ日本代表で凱旋門賞に挑戦するんだからな」

 冗談めかして言われるその言葉はきっと親愛で、情愛ではないのだろう。嬉しい言葉だけれど、苦しい。切ない。でも、それが正しい。間違っているのは私で、私に君を愛する資格はないのに。

 だけど、求めてしまう。だから、私は明日勝たねばならない。君に漸く報いることができるとすれば、それは私が敗北の運命を超えたときに相違ない。

「……と、ごめん。ちょっと席を外すよ」

 唐突に、君が席を立つ。……なるほど。わざわざ言葉を伏せてくれてはいるが、手洗いに駆けてゆく君の姿が見えた。

 ……と、そこで。ほんの少し、思いつく。いじらしく、おぞましく。ホンを読む上では登場人物の恋心ゆえの行動にも論理を求めてしまうが、実際にはそこに理屈など存在しない。そう自らの行動から思い知らされる。

 

 ※

 

「おまたせ、カフェ。わざわざ食べずに待っててくれたのか」

「ええ、一緒に食べたいですから」

「いつも気を遣ってしまわせてるな」

 そんなことはない。今さっきの行動だって、全て己のためだとも。

「……さ、早く」

「そんなに見なくても」

「トレーナーさんが食べたのを確認したら、私も食べ始めますから」

 そう言うと、トレーナーさんは食べかけのポトフに銀食器を挿し入れる。……ああ、たまらない。気づかないだろう。気づくわけがない。

 "まさか、皿を入れ替えられているなんて"。

「さ、カフェも食べなよ」

「……! ……ええ、ええ」

 ……君の指示で、君を求めるなんて。向かい合って、互いを喰らうことの幻視。ああ、まるで。

 たとえ罪に手を濡らすとしても、私はそこに幸せを見てしまうのだ。

 かち、かち。銀食器の擦れる音は、布擦れの如く。

 

 

 

 

 

 

 歩く、歩く。ゆっくりと、トレーナーさんと手を繋いで。それだけで私は幸せだけど、どうも先ほどからのトレーナーさんはしきりに腕時計を見ていて落ち着かない様子だ。

「やっぱり……いや、これくらいなら想定内だ」

 今日の"お出かけ"のコースはトレーナーさん主導だ。次はどこへ連れて行ってくれるのだろうか。そう、私が心を弾ませていると。

「よし、カフェ。ここら辺で徒歩は終わりにしよう。その、間に合わない」

 む。

「私と歩くのは嫌になりましたか……?」

 そうではないとしても、そう言いたくなるのが乙女心というものだ。

「いやいや! そう、ここからは自転車を借りようかなと」

 むう。君との触れ合いがなくなってしまうのは忍びない。……しかし。

「約束する。絶対君を最後まで連れて行きたいんだ。そのために」

 彼の言う最後とは、この道の終わりか、はたまた。

「わかりました。トレーナーさんを信じましょう」

 そう、決めた。ずっと前から決まっている。

 

 

 

 ※

 

 パリにはヴェリブという市が提供する貸自転車システムがある。景観を損なわない程度に自転車置場とレンタル待ちの自転車がそこかしこに並んでおり、最初の30分は無料。つまり街中で出発地点から目的地まで30分以内に移動してしまえば、レンタルの料金はかからないという寸法だ。

 けれど、一つ問題があって。

「じゃあ、私は並走しますから」

「いいのか、トレーニングでもないのに。……ほら、これだけ空きはある。ちゃんと二人分あるんだ」

 問題というのは。

「……その、自転車は」

「自転車は?」

「……乗ったことが、なくて……」

 私は自転車に乗った経験がない。子供の頃から部屋の中で過ごすことが多かったし、走れば移動には困らなかったから。現に今だって、自らの脚を使えばなんの問題もないだろう。

 だけど。

「そうか、そう言われるとその可能性はあったな……。しかし、カフェを一人走らせるというのは……」

「トレーナーさんには、私を連れて行きたい場所があるんですよね」

「ああ、そうだ……。確かにそのためには、急がないと」

「……それなら、尚更。トレーナーさんと同じ目線を持ちたいです」

 だから。

「私も乗りましょう。……体幹ならそれなりに鍛えていますから。初めて、ですが」

 他愛もないことだけど、君の手で。君の手で、初めてを経験するのだ。それはどんなにか素晴らしい。そう、想う。

「……っと、止まると転けてしまいますね」

 サドルに跨り、ペダルに足をかけ。まるで生まれたての子鹿のように、よろよろと動き回る。

「……さて、行きましょうトレーナーさん」

「……よし、カフェが勇気を出してるんだしな」

「ふふっ、大袈裟ですよ」

 並んで、走り出す。戸惑う私を、君がリードする。まだ手を引かれているような幻覚。何度も丁寧にこちらを確認する君は、きっと優しいのだと思う。そうして視線が合うと、私は少し笑ってみせる。

 あくまで私は君を捕える者だから、強者の余裕を誦じるのだ。たとえ、心は既に君に囚われているとしても。

 

 

 

 ※

 

「……っと」

 気は抜けない。確かに走るよりは楽だけれど、操縦はなかなか難しい。ハンドルに汗が滲んでいる気がする。

「うまいぞ、カフェ」

「ありがとうございます……。……っ!」

 不意に。

 がたん。気の緩みからペダルを踏み外し、バランスを崩す。危ない。維持を諦め、そのまま倒れ込もうとしたところで。

「カフェ!」

 横から飛び込んできた人影が、私を包んで引っ張る。倒れゆく方向は反転し、暖かいクッションが私を包んだ。

 がしゃん、と二台の自転車が倒れる。それと同時に、私の心臓が跳ねる音がした。

 トレーナーさんが、私を抱きしめている。私が倒れるのを庇って、そのまま地面に己を引き摺り込んだのだ。私の身体に一分の痛みも走らないように。その気遣いを理解しただけで、私の心臓は切り裂かれたように血を流す。

 私は、君のことを愛してしまっているから。

 日はまだ陰らない。まだ、私はこれを逢い引きと幻視できる。

 

 ※

 

 我々ウマ娘は運命の担い手である。神に選ばれ、鉄のレールをひた走る。決まりきった栄光と、その先の滅亡へ向かって。

 それを直感した。それを夢に見た。私と君の歩んだ道は、己の手で切り拓いたものではないということを突きつけられた。

 ならば、私の行くべき楽園は。神と運命の掌の上で、そこにさえ自由がないとでもいうのだろうか。凱旋門賞を明日に控え、今日は君が私をエスコートしてのお出かけだ。とても楽しい。とても幸せ。進むほどに、明日が怖くなる。

 芸術に富んだパリの都は様々のインスピレーションを人々に齎すと言われている。それは神からのメッセージなのか、己の底にある更なる可能性なのか。どちらにせよ少なくとも今の私は、まだ完成されていないと信じる。今日何かを見つけて、また、まだ進めると祈る。

 君は私の勝利を信じているのだから。私が破滅を予感していたとしても、私よりも君が正しいのだから。

 さあ、次に向かうのはルーブル美術館。人々は芸術に夢を託し、人々は芸術から希望を見出す。それはさながらウマ娘のレースのようなものかもしれない。我々は誰しも夢を背負う。最低人気でさえ、誰かのために勝利を求めて突き進む権利がある。たとえここに飾られた素晴らしい絵画のように完成されたものでなくても、だからこそウマ娘は人の願いとなれるのだけど。

「ふう、すごい人だな……」

 膝に手をついて。トレーナーさんは若干息が上がっている様子だ。レンタルの自転車を使っているとはいえ、美術館内を今まで練り歩いてきたのはなかなか堪えたのだろう。

「……手を貸しましょうか?」

 言って、私は手を差し伸べる。何度も何度も君と触れ合ったけれど、幾度経験しても胸がはち切れそうだ。

「ありがとう、カフェ」

 君も素直に手を伸ばす。心や命さえ、繋がる気がした。

 

 ルーブル美術館。そこに展示されている芸術品は、紛れもなく全てが至高の逸品だ。……それであっても、その中に更に格付けのようなものは存在してしまう。全員平等とはいかない。

 他の絵画が平均凡そ4秒しか観覧されないのに対して、その約13倍。50秒もの間人の目を釘付けにしてしまう絵画がルーブルには存在する。

 いわば大本命、断然の一番人気。万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチが手がけた真に"完全"たる柔和な微笑み─

「お、カフェ! あれだ、あれがモナリザだよ」

「……そうですね」

 

 モナリザだ。彼女には何の罪もない。私とは違って。彼女には永遠がある。私とは違って。だから、私はああはなれない。だけど、私は明日栄光を手にして見せよう。我々はあそこで柔和に微笑む『完璧な存在』とは違い、そのおよそ1/13の刹那しか目に留めてもらえないかもしれない。それでも、私と君はここまで積み重ねてきたのだ。確かに明日、凱旋門に立ち向かうのだ。

 そう、だから。

 客全ての注目を集める美の象徴を、憎悪さえ込めて睨みつける。傲慢と言われようと、大罪と言われようと。君に勝利を捧げるための全てが、誤りだとだけは言わせない。私と君がたどり着いた場所が、運命に仕組まれたものなどとは言わせない。

「十分見ました。行きましょう」

「大丈夫か、カフェ」

 やはりトレーナーさんは鋭い。私についてはもう隠し事はできない気がする。もしかしたら明日の敗北を予感してしまったことすら知られているのかもしれない。

「もちろんです」

 それでも、私は前へ進む。楽園へと連れて行ってくれるのは、君の手によってだから。それを証明するために、運命を否定するために。信じるように、手を更に強く握る。

「明日、勝とう」

「ええ。凱旋門の栄光は私たちのものです」

 完全なるモナリザはあらゆる人の目を奪ってしまう。しかしそれは、他の絵画には価値がないということなのか? そうではない。五番人気、マンハッタンカフェ。私も決して一番人気ではない。敗北が目に見えている。だから走る意味はないのか? そうであるはずがない。

 広大な美術館の外に出ると、すっかり日は翳っていた。もうすぐ、明日が来る。けれど、まだ明日は来ていない。

「……よし、急ごう。今日のゴールはもうすぐだ」

「なるほど。楽しみにしています」

 そう言って、二人で自転車の方へ向かう……が。君は明らかに息を切らせていて、見ているだけで心配だ。

「トレーナーさん」

「どうした……って、うわっ、カフェ!?」

 よっ、と。腰を落として、全身でトレーナーさんを持ち上げる。所謂お姫様抱っこと言うには、あべこべな立ち位置かもしれないが。

 

「これで行きましょう。トレーナーさんは疲れていますから」

「わっ、ちょっ……その、いくらなんでも目立つ……」

「さて、目的地を教えてください。ゴールに向けて走るのは我々の役目ですから」

 私の身体も燃えるように熱い。けれどおくびにも出さず、君の指示を待つ。

「……凱旋門。エトワール凱旋門、だよ」

「了解しました……お任せを」

 だん。コンクリートの上を、軽く駆けてゆく。藍に染まり、星が見え始めるパリの空。その下で、黒翼の摩天楼が風を切る。シャンゼリゼ通りを突っ切れば、すぐ、ゴールだ。

 

 ※

 

 パリの中心、雄大に聳え立つエトワール凱旋門。皇帝ナポレオンが、アウステルリッツの戦いに勝利した記念として建てられたものだ。

 ……凱旋門といえば、一般的にはこれを指す。そうでなければ、あるいは。パリはロンシャンレース場に於ける凱旋門賞。未だに日本から勝利者は出ていない難攻不落の門。

「ここ、ですね」

 地下道を通り、外に出ると。そこには仰ぎ見るほどに巨大な門が建っていた。

 

「……ああ、凱旋門でゴールしなきゃ締まらないだろ?」

「トレーナーさんも粋なメッセージをくださいますね」

 二人で、自然と手を繋いで。数秒の沈黙と共に、凱旋門を見上げる。

「カフェ、君なら勝てるよ」

「当然のことです。勝つつもりでなければ、走る意味がない」

「……でも、君は震えてる」

 まさか。そう言われて自分の手を見ると、細かく震えていた。その程度のことも隠せないなんて。

「恥じることじゃない。勝てる、というのは必ず勝つって意味じゃないから。俺に君の恐怖がわからないのはもどかしいけど」

「恐怖……そこまで見抜いていましたか」

「俺は君のトレーナーだからな」

 怖い。一人で神に叛くのは、怖い。運命が決めた破滅に飛び込むのは、怖い。君を信じて走るけれど、私自身にはなんの取り柄もないようなもので。凱旋門賞での敗北と引退。それが真実なら、私の命は今日までなのと等しい。

「そこでだ。……カフェ、目をつぶってくれないか」

「目、ですか……?」

 

 唐突な提案に面食らう。けれど疑う余地はない。君の言うことなのだから、私はすっと目を閉じる。

 ……髪を少し引っ張られる感覚。数瞬の後、止まる。

「目を開けてごらん」

「……ん、はい」

 恐る恐る、目を開ける。何も変わっていない? ……と、君は思い出したように手鏡を私へ差し出した。手に取って、示されるままに自分の顔を確認する。

 そう、した。

「これ、は」

 曇りのない眼でそれを見れたのは一瞬だった。瞳から涙が流れるのを認識するのすら遅れてしまった。白い羽根を模したヘアピンが、髪に留められていた。

 泣いた。意図を推し量るより前に、理解してしまったから。

「俺も君と一緒だ。君の翼になって、一緒に走るよ。君は、一人じゃない」

 言葉を返せない。喉が詰まって、息が苦しくなる。

「だから、明日。勝とう。一緒に、勝とう」

 言葉に出来ない。幸せに呑み込まれ、胸が陽光に灼かれるようで。

「マンハッタンカフェ。君は最高のウマ娘だとも」

 君は最初から、私の恐怖を見抜いていた。私は独りぼっちじゃなかった。孤独に戦う必要なんてなかった。

 確信した。運命を垣間見ても尚、私は確信できる。

 君と私は、明日勝てる。間違い、ない。

「だから……つっ!」

 君の胸元に飛び込み、首元に噛みついた。瘡蓋の上から傷をつけ、吹き出す血をまた舐めとる。私の舌が、紅く染まる。君に、染まる。

「勝ちますとも」

 少し口を離して、耳元に囁く。

「トレーナーさんの、命ならば」

 私は君の猟犬だから。

「……今日は、ありがとうございました」

 そこまで言って、また泣きじゃくるように君に齧り付く。暫く、一時。それが刹那であろうと、那由多であろうと変わらない。私と君にとって、時の流れは無意味に等しいのだから。

 そこにあるのは、時空を貫く愛の華。

 失楽園の漆黒は、闇の空に光を齎す。

 

 

 




Interlude:Starting Gate.

 恐怖は消えた。君がいるとわかったから。君からのプレゼントを髪に留めて想う。純白の羽飾りは、決して私自身のパーツにはならないだろう。でも、私と君は一つなのだから。君が翼を担うなら、私も翼を得れるとも。そう、想う。
 向かうは凱旋門。誰も討ち果たせなかったそれに、私もまた挑む。運命が私の敗北を定めたとしても、先達のように私も立ち向かうのだ。この決意も、君のおかげだ。日に日に増していった恐怖はきっと、本来なら私の脚を絡め取っていただろう。君がいなければ、私の身体は震えて縮こまることしかできなかっただろう。
 やはり楽園に辿り着くには、君が必要なのだ。君がいなくては、いけないのだ。だから私に出来るのは恩返しだけ。勝利を分ち、愛を捧ぐ。それだけ。ならば、全霊を以って遂行する他ない。
 砕けよ我が脚。滅せよ我が心。ただ、ただ君が為。
「さあ、日本からやって来たのはこのウマ娘。五番人気、八番マンハッタンカフェの登場です!」
 パドックに立ち、勝負服を顕にする。とはいえ普段との差異はひとつ。それもパリの人間にはわからないだろう。 違いは、白い羽根のアクセサリ。それをくれた君にだけ、伝わればいい。
 さあ、開幕だ。
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