【本編完結】Take me to paradise.─Scenario of Manhattancafe(prototype).   作:春華ゆが

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本編とは完全に繋がりがないですが、本編を読んでいるとニヤリと出来るかもしれないので投下します


PaRalleL Scene:「幽霊」

 足音と心拍は似ている。規則正しいリズムを刻み、私自身にしか聞こえない。徹頭徹尾己のためだけに動いているのに、私たちは必死になってそんな利己的なものを維持しようとする。何故ならそれを止めてしまえば、その瞬間終わるから。足を止めてしまえば、心臓を止めてしまえば。全てが、終わるから。

 こつ、こつ。とく、とく。そういう理由で止められないところまで、その二つは似ている。つまるところ誰しも終わりは怖い。昔の私はそれとは違うつもりだったが、後から類に漏れずそうでないとわかった。終わった後に、終わらなければよかったのに、と思った。足早に競争生命を駆け抜けたのは、それきり心臓の動きが緩やかになってしまったのは。今こうやって冬空の下の街道を歩くのも、自分の幕引きはまだ訪れていないと誤認するためのものに過ぎない。

 死にたくない。そんな当たり前の正気によって、必死に築いていた狂気は呑まれた。それが、今のアグネスタキオンだ。

 そんな思考を撫ぜるように、びゅう、と冷たい風が上着の隙間から身体中に吹き抜ける。私という死体はまだ温かく、そこにある温度差に身震いしてしまう。されど、臆せず歩き続ける。

 こつ、こつ。とく、とく。今の私に於いても、それなりの目的意識というものは存在している。こんな寒い日にわざわざ外出しているのはそのためだ。彼女が私を呼んだから、必要としていたから。それにしっかり応じるほどには、私も彼女を利用している。

 そんな持ちつ持たれつに見せかけて、私は彼女を自らの生きる理由にまで仕立て上げようとしているのだが。正確には、生きているふりをする理由、だけど。そうやって思考を彼女に近づけているうちに、彼女との待ち合わせ場所も近づいてきた。

 こつ、こつ。とく、とく。されど足並みは乱れない。早鐘は打たない。たとえ、生きる理由がそこに近づいているとしても。何故ならもう、死んでいるから。だけど彼女は生きているから、私はそれに縋り付くのだ。

「ああ、そろそろ着くよ。……見つけられるとも、待ち合わせとはそういうものだろう?」

 かじかむ手でコートのポケットからスマートフォンを取り出し、待ち合わせ相手に連絡を入れる。控えめな声が心配しているのは、普段と服装の違う自分を私が見つけられるかということだった。彼女が出会った時から何度も言うには、自分はいつも幽霊のようなものだったらしい。存在感がなくて、消極的で。私に言わせれば、私よりはよっぽど生きているというのに。

 

「……まったく、つい昨日有マで華々しく勝ったばかりだろうに。もっと自信を持ちたまえよ」

 

 そう言ってやると、やはり臆した声で「はい」とだけ。今年の十二月二十三日に行われた有マ記念、その勝者が彼女だ。年末の中山で勝利を挙げるというのはそれなりの偉業なのだが。たとえば私には、永遠に掴めない栄光だ。まあ、それを祝ってやるのが今日の主題だ。

 

「さて、見えてきたね。うん、君が見えている。その大きな噴水の目の前だろう? 動かないでいてくれれば、あと数十秒だ」

 

 こつ、こつ。とく、とく。有マ記念の次の日、それ以外に特になんということもない一日。そして明日からもきっと、死人には何も祝うようなことはないだろうけど。私の人生は、永遠にこのままだとしても。

 

「おはよう、カフェ」

「あっ……おはようございます、タキオンさん……!」

 

 幽霊のような少女の人生を変えるくらいのことは、本物の幽霊にも出来ると信じている。

 

 

 たとえば、魂の色合いが違っても。

 もしも、世界の成り立ちが異なっていても。

 それでも出逢い巡るなら、それはきっと運命だ。

 

 

「すみません……私なんかのために、タキオンさんを呼び出してしまって」

「そういう反省はこんな寒い日に外に出向かせる前にしてほしいねぇ。……っと、冗談だよ、一応念を押しておくが」

「……はい。タキオンさんが本気で言うわけありませんから」

 

 私と待ち合わせをしていた、青鹿毛の長髪が特徴的なウマ娘。彼女の名前はマンハッタンカフェ。その少し自信なさげな態度とは裏腹に、昨日並みいる強豪を打ち破り有マ記念を制覇したばかりの有望なウマ娘だ。

 そして恐れ多くもそのサポート兼友人として、私ことアグネスタキオンはそれなりの価値を担保している。

 それにしても、今日はわざわざ彼女から呼び出しがあったのだが。彼女の性格からすれば珍しいことだ。無論ウマ娘としての本能は当たり前のように持っているのだが、彼女の場合はとにかく自分に自信がない。「私なんか」と何度聞いたことか。

 とはいえそんな態度に対して興味を示した私の方も、ウマ娘としては大概変わり者なのだろう。さて、それはそれとして。

 

「で、どこへ行くんだい」

 

 まさか待ち合わせ場所から一歩も動かないことはないだろう。そもそも目的がなければわざわざ呼び出さない。先に私が言った通り、こんな寒い日に、だ。そんな当然の疑問を眼前の彼女に示してやると、やはりしどろもどろながらもちゃんと返答は返ってくる。

 それもいつも通り。控えめで臆病で、けれど譲れない芯を持つ。私のよく知る、マンハッタンカフェというウマ娘だ。

 

「そうですね……散歩がしたい……そう思っていました。ゆっくり、あてもなく……幽霊のように、ふらふらと」

「なるほど。確かに君には休息が必要だろうね。なにしろ昨日の今日、だ。何かを考えるのすらやめるくらいに、しっかりとした休息が」

 

 まるで、死んでいるかのように。そんなことは口走らなかった。どこまで世界を止めたとしても、休息はいずれ動き出すためのもの。合間の行動であって終わりにはなり得ない。つまるところやはり、私と彼女は違うのだ。

 そんな思考の軛を意図的に無視して、私は彼女に向けた言葉を続ける。私ではなく、彼女に向けたものだ。私自身に適用しないという前提であれば、どんな前向きな言葉でも吐くことができた。心の底から。

 

「けれど、目的はあったほうがいいんじゃないかい? たとえばどこまで歩くとか、何かを見たいとか。せっかく時間を割くのなら、少しでも有意義な方がいい」

 

 提案された概念は肯定しつつ、より彼女にとって有意義な形式をこちらからも提案する。これは常日頃からアグネスタキオンがマンハッタンカフェに向けて行っているアプローチであり、引っ込み思案な彼女には適したやり方だと自負している。走り以外にそういった方面での才があることは、私にとって幸福だったのかはわからない。だが少なくとも彼女のためにはなっている。

 つまり、これは正解だ。だから理屈の上で、私はまだ生きている。今日もまた、そう言い聞かせている。自分独りで問題提起して、自分独りでそれを説き伏せる。それを繰り返している。……だから、たとえば。

 

「……はい。タキオンさんが、そう言うのなら。いつも、お世話になっていますから」

 

 たとえば彼女が私を信頼し慮っているとしても、私の中の自己完結には届かない。決して。永遠に。とっくの昔に、終わっているから。

 

「さて、そうと決まれば歩こうか。歩けば多少は寒さも感じなくなるだろう」

「はい。……そうですね、あちらへ行きませんか」

 

 冬の空気に身震いし、むき出しの耳がぴくりと反応する。互いに、の話だ。こうした生体反応は、私も彼女も変わらない。この気温では呼吸すら白く視覚化され、否応なしに「生きている」実感を突きつけられる。それなら、さっさと歩き出した方がいい。終わりに進む足音の方が、そんな感覚よりはマシに思えた。

 そんな私に同調したのかはわからないが、カフェは私の言葉に呼応して目的地を指差す。その指の先には……黒い時計台があった。ここからでも見えた。とりあえずのゴール、といったところか。

 

「あの時計台まで、か。うん、いいだろう」

「……ゆっくり、行きましょうか」

「そうだねぇ。時間はたっぷりあるのだから」

 

 彼女の場合は、長い休息の始まりで。私にとっては、長さもわからなくなった終わりの後で。だから時間はいくらでもある。互いの時間の性質に限りない断絶があろうとも、その時間を過ごす相手については同じだった。やがてまもなく、二人の脚はゆっくりと動き出す。

 こつ、こつ。とく、とく。横を歩く彼女の心臓の音までは、流石に聞こえなかったのだが。

 それも同じだった、と思う。

 

 

 その日の空は白かった。どこまで歩いても変わらなかった。雲が空を覆っていて、逃げ場はなかった。閉じた箱庭のように錯覚した。歩けば歩くほど横の景色は変わるのに、上には何も広がっていなかった。いつもの私と変わらないと思った。とはいえいつもと今で違うところがあるとすれば、それも分かり易すぎるくらいに明白なのだが。

 

「……曇りなのは、残念ですね……」

 

 空ばかり見ている私を気遣ってか、私にそんな言葉をかけてくる彼女、マンハッタンカフェの存在。そういえば今日は彼女のための一日なのだから、反対に私を気にかけさせるのはよくないかもしれない。そう考えて、適当な話題の転換を試みる。

 

「ああいや、そんなことはないとも。あの弥生賞の日も曇りだったからね」

「……そう、ですね……。懐かしい、かもしれません」

 

 私にとっての弥生賞といえば、横にいるウマ娘と唯一鎬を削った一戦だ。もっともあの頃のカフェは本調子ではなかったから、まともな勝負とは言い難いのかもしれない。とはいえレースは一期一会。その日の調子や枠の問題、レース展開にも運は絡む。だからウマ娘同士の所謂格付けは一度の勝負では決まらないし、だからこそ負けてもまだ挑むチャンスがある。

 勝ってもそこでは終わらない。終わってしまうとしたら、私のような場合だけ。マンハッタンカフェが昨日のように勝利を重ねたとしても、もう永遠に勝てない相手がいるのだ。永遠に勝てない。二人とも。

 こつ、こつ。とく、とく。それでも、歩みと会話は進み続ける。永遠に、届かないとしても。

 

「懐かしい、か。あの頃はカフェのサポートに回るなんて思いもしなかったねぇ」

「そう、ですね」

 

 冗談めかして言ってみたが、漏れたのは紛れもなく本音だった。可能性としてはずっと頭の隅にあったのに、頭の隅にしか置いていなかった。そんな頃の話だ。今歩いていることに疑いを持たないのと同じくらい、これからも走れることを疑わなかった。

 

「四戦四勝。勝率100%。それだけ勝てたのだから十分だけどね」

「そう、ですね」

 

 今度のは真っ赤な嘘だった。未だにそこに「もしも」を求めるからこそ、私は終わりに閉じ込められているのに。けれどあの頃はそう思っていなかったから、全力で走り抜けて。今はそう思っているから、終わった話を悔やみ続ける。救い難い話だ。

 いや、もう救えないのだろう。死んでいるのだろう、と。

 

「……結局湿っぽくなってしまった。今日は君の祝勝会だというのに。すまないね」

 

 さて、私の言う通りだ。死人の思い出話は無意味で無価値で、目の前の少女のためにはならない。彼女は過去に縛られていないから、まだ歩んでゆけるのだ。道は半ば。たとえば時計台までの道のりも。ならばここらで軌道修正が必要だと、そのつもりだった。

 

「……祝勝会、ですか……。本当に、そのつもりですか?」

 

 そのつもり、だった。くるり、不意に彼女は目の前に現れ出でて。

 

「……もっと他に、何か。そうは、思いませんか……?」

 

 くすり、妖しく笑って。時折冗談やからかいを織り交ぜるのは、確かに私のよく知るマンハッタンカフェなのだが。

 

「君は」

 

 非常識的な思考変遷。その時の私は、確かに。

 

「君は、誰だ」

 

 マンハッタンカフェを名乗る存在にそう問うた私は確かに、狂っていた。終わったはずの、過去のように。思考は狂い、認識は狂い。だからこそ、未知を言い当てた。それはくすくすとまた嗤い、もったいぶったお辞儀をする。

 

「そういえば、自己紹介をしていませんでしたね……。私の名前はマンハッタンカフェ、タキオンさんと親しいウマ娘です」

「そう、理屈ではその通り。そもそも弥生賞の話が通じた時点で、君がマンハッタンカフェでないことはあり得ない。けれどその上で、私には違和感があるんだよ」

 

 先程からの含みのある言い回し。それだけじゃない、控えめでこちらを頼ってくる物言い。それらを私は知っている。知っているが、違和感がある。知っていることそのものに、違和感がある。

 そんな狂った発想こそ、私にとっては馴染み深いものだ。そして目の前の「マンハッタンカフェ」は、そんなこちらの思考を掬い取るように。

 

「流石ですね、タキオンさん……。過去に置いてきたあなたらしさを、見つけられたようですね」

「やはり君は私を知っているようだね。こちらとしても知っているはずなんだが、どうにもしっくりこなくてね」

「……それで、いいんですよ……。あなたなら、大丈夫……」

 

 この少女の口ぶりは、結局私のことを慮っている。彼女にとってアグネスタキオンとは、それほどまでに大事な存在なのか。そんな私は、なんなのか。既に終わった堂々巡りに閉じ込められていた思考が、軋んだ音を立てながら再び回り始めていた。久方ぶりの未知の世界。

 こつ、こつ。とく、とく。あり得ないものへと、動き始める。

 ……当面の私の生きる理由は、彼女のサポートというものから少し訂正しよう。彼女の謎を解く。「祝勝会」の本当の意図を。会話が途切れると、「マンハッタンカフェ」はゆっくりと私の横に居直った。

 

「……さて、もう少し歩きましょうか……。とはいえ、もう少しです」

「時計台まではまだ距離がありそうだけど。ここから走る気かい?」

「走りはしませんよ、特別な日なんですから。……そうではなく、もう少し、です」

 

 そうして、再び彼女は視界の先に指を差す。遠く遠くの時計台より、近くの目標を。白い空に閉じ込められた箱庭にある、一つの出口を。

 ……比喩ではなく、そこには一つの扉があった。透明な壁に張り付くかのように、道の上に浮かんでいた。非現実的な光景だけど、狂った私はそれを受け入れる。あり得ないとは、言えない。

 

「その扉は……一人用、ですから……。私は、私の役割は、そこまで、です……」

「どういうことだい? 二人で時計台の所に行く、それが目的だったはずだが」

 

 それに彼女の謎かけを解かねばならないのに、彼女が居なくなっては意味がない。それに彼女が私を気にかけるように、私も彼女を置き去りにはできないはずだ。そんな意味合いを含んだ問いかけに返答はなく、代わりに彼女は私の手を取って。

 ぐい、と私の手を取って、やはりいつもの彼女のように、あるいは初めてのことのように少し躊躇って。けれどそのままゆっくりと手を引いて、小さな扉の前へと導く。私の手を、そのドアノブへ添える。そして、最後に伝え残す。

 

「『私』は、ここまでですが……それは、別れではありません……」

「答えになっていないんだが」

「すぐに、分かりますよ。……さあ」

 

 そう、促されるままに。がちゃり、まもなく扉は開かれて。

 

「……さようなら。どうか、良い人生を」

 

 こつ、こつ。とく、とく。眩い光が覆う世界で、私のそれと彼女の声だけが響いていた。

 

 

「……ここ、は……」

 

 光にアテられた目を擦る。残りの感覚で状況把握を試みる。少なくとも冬の寒さを感じないのは確かだった。

 こつ、こつ。とく、とく。よろめく脚とそれでも動く心臓が、私の実在性を担保していた。まだ私の道のりが終わっていないことを示す、二つのリズム。

 今の狂った私なら、それを聞いて一つの結論が出せる。まだ私は、終わっていない。そうやって、思考を激情に寄せながら。視界に焼き付く残光を、何度もの瞬きで削りながら。私はまた、聞き覚えのある声を聴覚で捉えた。

 

「……なんで、アナタが」

 

 ひどく聞き覚えのある声。チラつく視界でも、その存在くらいは認識できた。

 

「やあ、久しぶりだねぇ。私としては、ほんの一秒前にも会っていたのだが」

 

 視界がはっきりするにつれて、まず目に入るのは空間を包む異常。けれど極彩色の歯車たちの中心にいる彼女は、どうしようもなく見覚えがある。

 

「タキオンさん。アナタは相変わらず、よく分かりませんね……」

 

 こちらとしては、現状カフェの方がよっぽどよく分からないのだけど。とりあえず、それは黙っておいた。何はともあれ、そこにいたのは。こちらに対して呆れるような口調を携えた少女は。青鹿毛の長髪を湛えた、私ことアグネスタキオンがサポートしているウマ娘。

 紛れもなく彼女が、マンハッタンカフェだった。……先ほどまで確信していた認識とは、食い違っているのだが。そこに答えを出すのはまだ早い。研究とは、実験を完了してからでないと結論を出せないものだ。まず今の私がやるべきことは、目の前の「マンハッタンカフェ」との事実確認だろう。

 

「カフェ。君は昨日有マで勝った。それは間違いないかな」

「……それは、そうですね……。ところで、そんなことを聞いて何を」

「ありがとう。では次の質問なんだけど、君は私を呼び出したかな」

「それは、あり得ません……。何故ならこの場所には、私と『お友だち』しか来れないはずです」

 

 認識が食い違う。というより、それは彼女という「マンハッタンカフェ」の役割ではないのかもしれない。先ほどまでの「彼女」は、私を呼びつける役割。そういう性格をしていたから、私を誘うことができた。そして次の「彼女」にも、おそらく何かしらの目的がある。役割がある。なんとなくそういう直感があった。死んだはずの私には、もう失われたはずのもの。

 けれどそんな感覚ほどに、生を実感させるものはない。終わったはずの人生に、ゆっくりと脈打つ胎動の如く。じっと、カフェの後ろを見る。夢幻のような空間に於いて、それは逆に目立っていたから。そしてその前に立ち尽くす、誰かの後ろ姿も。

 

「ところで、カフェ」

「はい。……何から何まで、こちらも理解できない状況ですが」

 

 それはどうやらそうらしい。先ほどまでの「マンハッタンカフェ」は明らかに何かを知っているそぶりだったが、こちらの彼女はそうではないのだろうか。むしろ私の目的がはっきりしていた。そこにあるものを見れば、概ね理解できる。すぐに分かると、「彼女」が言ったように。

 

「あそこに見える時計台と、その前にいる人影。あれに心当たりは」

 

 そう、聞いた後。

 

「……タキオン、さん……!?」

 

 彼女は、明確に狼狽した。そのまま後ろを振り向いて、しばらく硬直していた。ここに来て謎は深まったようだ。けれど、わかることは二つある。あそこにいる影は、じっとこちらを待っている。振り向かず、ただ追いかけられるのを。そしてそれよりさらに奥にある時計台は、紛れもなく。

 紛れもなく、私と君の目的地だ。

 

 

「そもそも、ここにタキオンさんが来ることがおかしいとは思っていましたが」

 

 そんな身もふたもない否定から、カフェはゆっくりと自らの認識を述べてゆく。彼女なりの推理だった。

 

「まず、一つ。私の知っているこの場所には、あのような時計台はありません。おかしな点です」

「なるほど。君もあれは知らない、と」

「はい。そしてもう一つ、おかしいのは」

 

 そう言うと、彼女は一点を指差す。少し前にも何度か見た動作だったが、今回その指先にあったのは。

 

「アナタに、『お友だち』が見えていること。それがもう一つ、おかしな点です」

 

 ここには場違いな冬着を着込んだままの、アグネスタキオンというウマ娘だった。指先を突きつけられたまま、私も彼女の言葉に繋げる。

 

「そういえば、君はよくその存在と話していたようだけど。結局私はお目にかかったことがなかったね」

「はい。だから……もしかすると」

 

 彼女の周りには不可思議なことがよく起こるらしいが、今回ばかりは困惑しているようだ。なにしろその根本にいるのは私の方だから。

 そういう意味では、彼女もまた私にそれなりの気遣いをしてくれているのかもしれない。問題解決のための協力。そんな意図を込めただろう、彼女なりの推理はこうだった。

 

「もしかすると。この場所は、私の知っている空間ではない。……のかも、しれません」

「ふむ。そうなると、カフェにも手が負えないか」

 

 噴水で待っていた「マンハッタンカフェ」は、おそらく自らのテリトリーを十二分に理解していた。終わっていた私を、呼びつけることでまず目覚めさせた。

 こつ、こつ。とく、とく。そう二つの音が動き出すのにも、彼女の助力があった。それと比べると、今の「マンハッタンカフェ」は何も知らない。現状を掌握していない。今まで出会った二人は、そういう意味で真逆だった。まあそんな彼女にも、「役割」があるのだろうけど。「マンハッタンカフェ」が言っていた通りなら。

 

「すみません……でも、ある程度は似ているのは確かです」

「君の知っている場所に、だね。それなら私が問うべきは、君がいつもどうしているのかだね」

 

 けれど彼女の役割がどうであれ、私がやるのはあくまでマンハッタンカフェのサポートだ。彼女の意思を汲み、それを止揚した提案をする。どこまで行っても、私は元のようには。

 

「それなら、決まっています。タキオンさんも協力してください」

「いいとも。私たちはそういう関係だからね」

 

 そう、協力だ。その範疇であれば、なんでも──。

 

「走りますよ。一緒に」

 

 ──は?

 

「何を呆けてるんですか。私にとって『お友だち』は、走るための目標です。私の前に彼女が現れたのなら、私は走るしかありません」

「君は自分が何を言っているのかわかっているのかい? 一緒にと言ったが、私は」

 

 その先を遮るように。決して、言わせないように。

 

「ここは、そういう場所です。今現在私たちがいる場所が、私の知っているそれに似ているのなら、ですが」

 

 それが今目の前にいる「マンハッタンカフェ」の役割だと、彼女は私に告げる。そうして彼女は、有無を言わさず私の目の前に立ち。「走るのには邪魔だ」と言わんばかりに、前の空間から着っぱなしだったコートをぐいぐいと引っ張ってくる。

 そうして私がいよいよ観念して、着ていた冬着をあらかた脱ぎ捨てると。その下にあったのは、真新しい白色。皐月賞で一度着たきりの、私の勝負服だった。

 

「なんだ、走る気あるじゃないですか」

「なあカフェ、一つ聞きたいのだが」

「はい」

「この怪奇現象は、本当に君の仕業じゃないんだろうね」

「知りませんよ……そもそもいつも書類が燃えるのも、私のせいじゃないですからね……」

 

 コートを脱いだら別のコートだった、などというのは、怪奇現象という他ないのだが。彼女は相変わらず突き放すので、自分で理屈をつけるしかない。こんな奇怪な事象にも、簡単な理屈はつけられる。それこそ、彼女の言っていた通り。

 私にはまだ走る気がある、そういうことだ。

 

 

 スタートラインらしいスタートラインはなかった。夢幻色の地面には、遠近感すら失われている気がする。どこまで走っても、どこにもたどり着けないような。私自身もそうかもしれない。けれど今なら「走れる」ということだけは、私にとって確かな事実だっただろう。

 

「……お待たせ、しました」

「おや、カフェも勝負服に着替えたんだね。それだけ本気で走らなければ、『アレ』には追いつけないということか」

 

 どこでどうやって着替えたのかは分からないが、この空間ではなんでもあり、というやつなのだろう。それこそ、少し離れてこちらを待つ後ろ姿も。

 そういえば、あの青鹿毛の長髪はカフェそっくりだ。もっとも今日は二人も「マンハッタンカフェ」を見たから、もう一人似たようなのが出てきても驚かないが。有マ記念優勝記念で増殖中、といったところか? いや、そんなふざけた答えではこの現象に答えはつかない。一つ前の「彼女」が言っていた、今日に秘められたもう一つの意味。それは結局、まだ結論が見えていない。

 ……まあ、今はそんなことを考えている時間も余裕もないのだが。ぴくり、と遠くに見える影が反応した。こちらの臨戦態勢に呼応して。ゴールの時計台まで、どれだけの距離があるのかはさっぱり分からないが。

 

「……行きますよ」

 

 横から聞こえるその言葉を合図にしたか、あるいはたまたま。どちらにせよ。

 だん、と三人同時に地面を蹴って。彼女にとってはつい昨日ぶりで、私にとっては終ぞ得られないだろうと思っていた感覚が。私たちの脚は、間違いなく世界を捉えていた。

 

「……なんだあれは。余裕綽々に叩き出せるペースじゃないだろう」

「そうですね。私は一度も追いつけていません」

 

 前を行くウマ娘は、最初にあった距離を保ったまま。ただの一度も振り向くことなく、その上でこちらの全力疾走を振り切っていた。

 

「一度も追いつけていない、か。それでも闘いを挑めるから、君は挑み続けている」

 

 呼吸にも必死なはずなのに、不思議と言葉を紡ぐのは苦にはならなかった。「一度も追いつけていない」というフレーズ自体は、他人事ではないから。少し前に「彼女」に言った通り、きっと今「彼女」も知る通り。アグネスタキオンとマンハッタンカフェの対決は、弥生賞の一回きり。それきりで、永遠に終わり。

 

「仮に『お友だち』を追いかけられなくなったら、君はどうするんだ」

 

 だから、そんな問いが出るのは必然で。突然の終わりなど、ありふれているのだから。それから暫し、風を切る音と。あとはいつもの足音と、鼓動の音だけが。いつもより足早で、いつもより早鐘を打っていて。そうやってただ走りながら、彼女はやはり答えを返した。

 

「それは、あり得ませんよ」

 

 論理的ではない返答だった。けれどきっぱりと、そう返してきた。走りながら、まだ会話は続く。前を行く誰かも、それを聞いているのだろうか。

 

「私にとっての走る理由が、『お友だち』です。ウマ娘にとって走る理由がなくなるなど、あり得ませんよ。永遠に、です」

 

 それこそあり得ない。彼女の言葉を聞いて、そう言いたくなってしまう。おうむ返しの反論をしたくなってしまう。だって、現に。現実に於いて、私は。そこまで出かかっていた、私のどうしようもない言葉は。

 

「だってタキオンさんだって、走ってるじゃないですか」

 

 そんな素朴で当たり前の指摘を受けて、たちどころに霧散した。

 

「走ることは辞められない、か」

「はい。ウマ娘にとって、それは人生のようなものですから」

 

 代わりに一つ、また当たり前を呟いて。返された返答も、当たり前の内容で。時計台は少し近づいたような気がした。相変わらず距離感も何もわからない、歯車だらけの幻想空間だったけど。

 前を行く誰かも、少しだけ近くに。感覚として掴むのなら、これらは多分間違いではない。走ることで得た感覚に、間違いは存在し得ない。

 

「……さて、私はどうやらここまでです」

「君の役割は終わった、ということかな」

「役割かは、わかりませんが。もうこの場所に長居できないことは、わかります……そして、アナタはその先に行くことも」

「やれやれ、結局カフェには煙に巻かれてしまうねぇ」

「タキオンさんにだけは言われたくないですね……」

 

 彼女は私をなんだと思っているのか。まあ、それなりに信頼してくれていることの裏返しだと思っておこう。それに。

 

「今日は一緒に走れて楽しかったよ」

「……ええ、私もです。アナタとまた──」

 

 そのやりとりを合図にして、世界の風景は飛び去るように消えてゆく。走る私の視界からは、光さえも何も描写しなくなっていた。

 

「さようなら、タキオンさん」

 

 それは唯一、聞こえた。一気に加速する変遷は、全てを置いていく。光も、音も、世界も、彼女も。残るのは私と、前を走る青鹿毛のウマ娘と。あとは近くに見えてきた時計台と、それだけを残して。世界はモノトーンになる。黒と白のコントラストが書き割の如く立ち並び、奥には相変わらず黒いままの時計台。

 残りは立ち止まった私と、前を行っていた一人のウマ娘。程なくして、彼女は振り向いた。

 最後の一人だった。

 

 

「君も、マンハッタンカフェなのかな」

「御明察ですね、アグネスタキオン。貴女の言い当てた通り、私はマンハッタンカフェと申します」

「最初の彼女とも、次の彼女とも違う」

「ええ。変人偏屈のアグネスタキオンを叩き直すために現れた、三人目の幽霊です」

「随分手厳しいねぇ……。でもなんとなく、君のことも知っている。その口ぶりも」

「そうでしょうね。やはり我々は、どうあっても繋がりを持つ運命のようです」

 

 それは、「マンハッタンカフェ」の言葉なのだろう。どの彼女も、私のことをよく知っていた。私も彼女のことを知っていた。内気で幽霊のような彼女も、時折突き放すような態度の彼女も、此方への敵意すら滲ませる彼女も。

 一人の人間に三様の印象を同時に抱くなど、気狂いとしか言いようのない状態だが。それが今の私なら、死体よりは幾分まともだろう。そしてそんな狂った私なら、彼女の埒外の発言にも同意を示せる。

 

「運命、か。そんなもの碌でもないと思っていたけれど、たまには肯定するべきかな」

「それが、貴女の望みなら。運命が未来を定めてしまうとすれば、碌でもないというのには同意しますがね」

 

 運命。それはあるいはあの時計台のように、揺るがず我々を縛るもの。そうだとしてもこの瞬間、運命は我々を結びつけている。それはどうにも否定しようがない。そんなことを考えながら、時計台を見つめていると。

 

「時計台が気になるようですね。無論、その理由はわかります。『私』が貴女とした約束ですから」

「君と私の目的地はあそこだ。君をあそこまで連れて行くのが、今の私の役割なんだよ」

 

 そのために、ここまで歩んできた。そのために、ここまで生きてきた。結局「彼女」の目的がわからないとしても、私の役割は変わらない。私の役割はマンハッタンカフェのサポートであり、今日は彼女の有マ記念を終えての祝勝会だ。それなのに。

 

「……はあ」

 

 それなのに、彼女はため息を吐く。やれやれ、といったふうに。

 

「この状況でまだ、『私』のため、ですか。『私』が貴女になんと言っていたか、覚えていないはずがないでしょうに」

 

 彼女が何を言わんとしているか、私にも当然察しはつく。「祝勝会よりも大事なことがある」と言っていた、「彼女」の言葉だろう。けれど相変わらず、皆目検討はつかない。

 

「君にとって、有マ以上のものがあるというのか? 今この時に、何か。華々しい勝利の栄誉に浸るよりも、優先すべき事象が」

「……ああ、そういう認識でしたか。それならば、少し訂正すべきですね。それにしてもあのアグネスタキオンが、ここまで手間がかかる子だとは思いませんでした」

「揶揄わないでくれたまえ。私だって、完璧であるはずがないだろう」

 

 そう、その通り。狂気を装い、不敵を嘯き。堂々巡りで自己完結さえしてみせて、終わったものだと己を定義して。そこまで閉じて隙を隠そうとしても、完璧ではなかった。

 まだ私の好奇心は消えていなかった。まだ私は走りたいと思っていた。いくら死人と名乗ろうとも、まだ。まだ、終わっていなかった。

 

「……そう、完璧ではない。今日、『君』に教えられたことだよ、カフェ」

「それは良かった。『私』の今日の目的は、ひとえに貴女のことばかりですからね」

 

 そのまま、彼女はくるりと私に背を向ける。一見私を置いて行くようにも見えるが、今日ここまで「彼女」と話してきていい加減に行動の意図は掴めるようになってきた。

 彼女がそのまま歩を進めるのは、少し先の時計台。ならば私はやはり、そこに並んで歩いてゆく。

 こつ、こつ。とく、とく。もうすぐ、幕が降りる。

 

 

「さて、最後のお話ですね」

「そう、訂正とやらをお願いするよ。愚鈍な私には、自分の認識の過ちが判断できないからね」

 

 こつ、こつ。とく、とく。白黒の世界を二人で進む。歩幅は同じだった。心臓の動きも同じだった。紛れもなく、同じ時間を過ごしていた。

 

「そうですね。貴女を導くのもまた、私の役割です」

「役割、ねえ。私こそ、君をサポートする役割があるのだけど」

 

 そう、私はそういうものだ。だからこそ、今日はカフェの勝利を祝うための日になっている。そう告げた私に返ってきたのは、思いもよらぬ言葉だった。流れとしては、ある種当然のものかもしれないが。

 

「それが、一つ目です。貴女がサポートする、私という主演。そういう物語だとしてしまうことが既に、貴女の抱えた誤りです」

「……何が言いたいのやら」

 

 そう言ってのけた私の内心は、言葉に反してそれほど動揺していなかった。見えていた答えを見ないようにしていただけ。彼女がこれまで私のために行動していたというのなら、この結論はやはり当然のものなのだ。つまり。

 

「今日舞台の中心に立つのは貴女ですよ、アグネスタキオン」

 

 つまり、前提から間違っていた。終わった私の裏方業務という、今日の私の前提が。今日進歩し、変化していたのは。前に進んでいたのは、紛れもなく私の方だった。

 

「……今日は君の勝利を祝う日なのに」

 

 けれど私がそれを今まで否定していたのは、きっとそういう前提があったから。私より優先すべきものがあると、もはや力無く否定は漏れる。

 

「そしてそれが、もう一つの間違いです」

「君の勝利を祝うこと、それも間違っていると」

「ええ。それは過去の話、終わった話です。そもそも私の勝利を、何故貴女が祝うのですか? 私ではなく、貴女もなら。私たちにとって見るべきは、昨日の有マではなく」

 

 そのまま、彼女は一息置いて。立ち止まることなく、息だけを吐いてから。

 

「明日に控えたクリスマス。互いに互いを祝う、ありふれた記念日であるべきなんですよ」

 

 長い長い道のりの先の、終の結論を述べた。

「昨日が十二月の二十三日なら、今日は十二月二十四日。クリスマスイブにやることと言えば、明日の用意に決まっています。過去を祝うのではなく、未来を祝うために。そのために、今日という一日はあるのですから」

「随分と藪から棒だね。サンタクロースを信じるわけでもないのに、クリスマスを祝うのか」

「もちろん。クリスマスとは、誰かと共に過ごす時間のこと。我々が信徒であるかは関係なく、本質は団欒です」

 

 至極当然のことのように、彼女は私にそう述べた。誰かと共に。誰かのためではなく。私たちは死者と生者ではなく、互いに関わり合う存在だと。そう、述べた。

 

「だから私は、あなたに過去を示しました」

 

 そうして、かつての自分を取り戻すように。

 

「だから私は、アナタに現在を示しました」

 

 今でも変わらず走りたいと、その気持ちに気づかせるために。

 

「そして、だから私は。貴女に、未来を示しているのです」

 

 明日。それよりも先。私は死人ではなく、終わっていないと指し示すために。そのために、彼女はここまで私を連れてきた。やがて近づく、時計台の下へと。十二月二十四日の、終わりへと。

 

 

「最後に一つ、聞きたいのだけど」

「はい。なんでしょうか」

 

 概ね結論は出た。私はそれに反論しない。今日が終われば明日が来て、明日が終わればその次が来る。そんな当然の帰結に、反論できるわけがない。私の脚は未だ動いていて、私の心臓も未だ動いているのだから。私が未だ死んでいないのは、当たり前のことだった。そうなれば、全ての前提が変わる。私は生きていて、幽霊などではあり得ない。ならばこの空間に於いて、幽霊のように朧げな存在があるとすれば。それが私の、唯一残った最後の疑問だった。

 

「君は、誰だ」

「……漸く、その質問が出てきましたか」

 

 そう、それを問わねばならない。「マンハッタンカフェ」が三重に重なった彼女は、一体何者なのか。それがやはり私にできること。マンハッタンカフェのサポーターとして、彼女の謎を解き明かそうじゃないか。

 

「まず前提として、君はマンハッタンカフェに相違ない。何故なら私のことをよく知っている。それはずっと変わらなかったから、君たちは三人ともマンハッタンカフェだ」

「なるほど。けれどその上で、貴女は私に誰かと問うのですね」

「当然だ。私の知るマンハッタンカフェは、三重人格などではないからね」

 

 どのカフェにも違和感がない、そのことそのものがおかしい。どれか一つの人格以外は、知っていてはあり得ない。これも当然のこと。理屈など存在しそうにない世界でも、最後に並び立つのはそういった論理の帰結だった。

 

「私が知るマンハッタンカフェは、一人だけ。それ以外の記憶は、今日だけ植え付けられた偽物だ。他ならぬ君によって、ね」

 

 今日という異常の発生源は、横を歩くウマ娘。そう断言する理由は単純で、こう思考する私が異常ではないから。日常を歩む生者が私の方なら、それを導く死者にあたるのは。

 

「……ご名答。幽霊の正体は、『私』が作り出した仮想の『マンハッタンカフェ』です。キャロルは無事、締め括れそうですね」

「それなら、私には問わねばならないことがある。本当に私が知る君は、誰なのか」

 

 今まで現れた三人のマンハッタンカフェのうち、誰が私の知るそれか。私がクリスマスを共に祝うとしたら、それは一体誰なのか。それを問うた。

 こつ、こつ。とく、とく。また結末に近づき、少しそのテンポは速くなる。そして、その問いへの「彼女」の返答は。また不意に、くるり。マンハッタンカフェは、目の前に躍り出て。

 

「……タキオンさんは、『私』が、いいですか……?」

 

 そう、問い。一瞬の間も無く。

 

「『私』は、アナタを待っています……いつかまた、共に走るために」

 

 目まぐるしく、変転し。

 

「あるいは、『私』かもしれませんね。たとえ貴女を憎みさえしているとしても、それが正解かもしれません」

 

 瞬く間に、戻ってきた。けろりとした顔で、眼前の少女は言う。

 

「……と、流石に『私』を演じるのは初めてでしたが。貴女のその発言は、このうちどれかを選ぶことです。私を選び取るために、他の私を切り捨てることです」

 

 彼女の言う通りだった。この空間でのみ、マンハッタンカフェはどの可能性でもあり得ていられる。役目を終えた幽霊は、元の死人へと戻っていく。そしてそこに幕引きを告げるのは、やはり私の役割だった。

 

「怖気付きましたか? 無論あそこの時計台に辿り着かなければ、確率は収束しません。不安定なまま、『私』は『私』のままです」

 

 ここに来て、互いの脚は止まっていた。カフェの脚が止まる理由があるとすれば、それは消滅を恐れるからか。あるいは他の「マンハッタンカフェ」が消えるのを、私のように恐れるからか。それは仕方ない。誰でも終わりは怖い。終わった後になって、誰もが終わりを悔やんでしまう。

 かつての私もそうだった。生きているふりをすることは、終わりながらも終わりを否定する唯一の方法だった。幽霊で居ることだけが、ただ一つの生きていく道しるべだった。

 そういう意味で、君と私は同じなのだろう。他者を支えることそのものを、己の存在証明とするという意味で。しかし、だ。

 こつ、こつ。とく、とく。

 

「……私は、歩き続けるよ。君と一緒に」

 

 それでも、私はその選択をする。理由はやはり、この上なくシンプル。

 

「ここまで私を連れてきた君の意思を、無駄にするわけにはいかないからだ」

 

 かつての私から先へ進んでいると、そこに導いてくれた君に示すために。それだけの理由があれば、私が決断するには十分だった。それが別れを意味するとしても、別れは訣別を意味しない。

 だから、それでいい。いや、そうでなくてはいけない。止まってしまわないことこそが、終わらないために必要なことだから。

 

「なるほど。どの『私』かはわかりませんよ? そこで貴女の隣にいる彼女が、タキオンさんの望む反応をしてくれるとは限りません」

「それでも、確かなことはあるよ。一つだけ」

「ほう。なんでしょうか」

「一緒にクリスマスを祝ってくれる、ということだ」

 

 それを聞いた彼女は、ぷっと破顔して。冷たい仮面のような表情が、初めてほころびを見せた気がした。なるほど、私もまだカフェのことをよく知らない。そんなふうに笑うことも、これからの付き合いで知っていくのだろう。

 

「……さて、では。あと数歩だけ、散歩しましょうか」

「いいとも。もとより、そういう約束だ」

 

 こつ、こつ。とく、とく。漸く、辿り着いた。

 

 

 時計台は酷く普通のものだった。指している時刻は十一時と少し。午前か午後か判断はつかない。そんなアナログの時計盤の不便さまで、たっぷりと現実味に溢れていた。現実に帰るためのトリガーとしては、これ以上ないくらいわかりやすい。

 終わりは近いのだと、二人でその認識を共有する。そうしてこの後どうすべきか、その認識も相違なかった。時計台を眺めていると、そのもう一人がぱちぱちと拍手する音が聞こえた。

 

「……さて、おめでとうございます。見事貴女は、ゴールに到着しました。私と同着の一着ですね」

「ありがとうと言っておくべきだろうね。君のおかげだ」

「いえ。貴女のおかげでもありますから」

 

 それも今日わかったことだ。互いの存在を認識することは、クリスマスを囲う前準備としては悪くない。たとえそこに別れがあるとしても、だ。

 

「今日は楽しかったよ、カフェ」

「こちらこそ。『マンハッタンカフェ』として、心からそう思います。……一つ、思い至ったのですが。お別れの前に、本当に最後に。一つだけ、聞いていってくれませんか」

 

 ここまで来て断る道理もない。無言で促すと、彼女はゆっくりと。「マンハッタンカフェ」はゆっくりと、語り始めた。

 

「私たちウマ娘は、どこかで互いに繋がりを持ちます。種族の持つ運命。あるいは魂の導き。そうも言われていて、私とタキオンさんもその一つなのでしょう」

「運命、魂。どちらも我々を縛るものだねぇ。先程も言ったが、碌でもない」

「はい。しかし、私たちはそれによって巡り逢いました。運命とは、それほどまでに強固なのですよ。……我々の人生を変えてしまうためには、これに抗わねばならない」

 

 なるほど確かに、それは認めざるを得ない。けれどこの会話は、先程交わしたものの再確認に過ぎない。彼女が語るのは、その先にあるものだろう。その予想通り、けれど予想を超えて。言葉は更に紡がれる。

 

「ですが。こうも考えられます。たとえば魂の色合いが違えば、私たちは出逢ったでしょうか。もしも世界がこうでなかったら、マンハッタンカフェとアグネスタキオンは出逢ったでしょうか。……そうなれば、異なった人生があるでしょう。運命は、姿を変えるでしょう」

 

 魂が違う。今日経験したことだ。「マンハッタンカフェ」は今日、三様の人格を私に見せた。もちろん私にだって、彼女のようになる可能性はある。同じ名と魂を持てど、その色合いが違うことは。

 世界が違う。これも、今日あった。どこにでもある冬空の下から、極彩色の夢幻の中へ。果ては何もないモノトーンの世界にも、私たちは存在していた。なればそれ以上に非現実的な世界があることだって、否定する方法は一つもない。

 彼女の最後の言い分は、運命さえ揺らがせかねない出鱈目な理論だった。出鱈目で、だからこそ堅牢な。けれどそれに対する答えなら、既に見つけている。今日の私たちは、見つけている。

 

「そうだねぇ、それはもうあり得ない話ではない。魂も世界も、絶対の信頼を置ける程のものじゃない。だけど、だよ」

「はい」

「それでも出逢い巡るなら、それはきっと運命だ」

「なるほど。やはり運命とは、碌でもないものですね」

「あははっ! そうだねぇ、そうだとも……やはりそれくらいでは、運命は壊せないのさ……けどね」

「はい」

「私の人生は、君のおかげで変わったよ」

「それは結構。私としても、貴女が居なくては張り合いがありません」

 

 だから私たちは、再び巡り逢うだろう。この世界が閉じた後も、アグネスタキオンとマンハッタンカフェは。そうしてまた、運命に立ち向かうのだろう。一人の理屈で壊せないのなら、二人がかりで挑むまでだ。これから先には、そんな未来が待っている。

 それが今日「マンハッタンカフェ」が伝えたことであり、「アグネスタキオン」が認識した事実だ。

 

「さて、それではいよいよお別れです」

「そうだね。早くしないと十二時を回ってしまう。あれが夜の時計だとしたら、クリスマスに間に合わない」

 

 けれど、どうやって元の世界に帰るのだろうか。そもそもこれが終わった後、互いに何処へ行くのだろうか。確定しているのは今の時刻。そしてそれが、クリスマスイブの時刻だということだけ。……まあ、それだけあれば十分か。いずれ出逢い巡ることは、運命によって保証されている。

 

「そういえば、元の世界に帰る方法を教えていませんでしたね。……心配しなくても、きちんと教えます。今更別れに怯えるような人種ではありませんからね」

 

 そう言って、彼女は時計台の前に立つ。高くそびえるそれの支柱に、片方の手を添えて。

 

「簡単です。二人でここに手を添えて、別れの挨拶を述べるだけ。互いの合意があれば、この世界を解くには十分です」

「なるほど。それで、終わりか」

「はい。長い長いお話でしたが、ここがフィナーレです。クリスマス・キャロルは、前日までに歌い上げないといけないのですよ」

 

 なるほど、それなら急がねばなるまい。彼女と語ることがないわけではないけれど、それは後でもいい。「マンハッタンカフェ」には、後で必ず逢うことができるから。

 

「じゃあ、行こうか」

 

 そう言って、私は時計台に手を添える。手のひらを、ひたりと。その金属の柱に冷たさを感じるのだから、やはり私は生きている。

「では」

「はい」

 

 そして。

 

「またね、カフェ」

「はい、また後で」

 

 そこまで。そこまでで、世界の電源はぷつりと落ちた。

 最後に挨拶した「彼女」が、果たしてどの「彼女」なのか。それは考えるまでもないことだろう。結論が収束する。運命が確定する。それがどんなに残酷なものでも、逆に希望に満ち溢れていたとしても。

 そう、こうは考えられないだろうか? 今日「マンハッタンカフェ」が演じた三種の魂は全て実在していて、同じ世界にはいないだけ。そうして同じように、「私」ではない「私」も共に存在する。どちらも仮定に過ぎないが、幽霊であることはあり得ない。

 共に歩こう。共に走ろう。

 あるいは明日のクリスマスのように、共に時間を過ごすだけでもいい。

 それらは今日きりではなく、これから先も続くもの。私は君をサポートし、君も私に何かをもたらす。そう決まっている。私と君は出逢うのだと、それはきっと。

 

 たとえば、魂の色合いが違っても。

 もしも、世界の成り立ちが異なっていても。

 それでも出逢い巡るなら、それはきっと運命だ。

 

 

 こつ、こつ。とく、とく。

 そうして、クリスマスの朝になった。

 さあ、彼女に逢いに行こう。

 




もしかしたらまたごく稀に更新するかもしれないです
期待しないでください
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