【本編完結】Take me to paradise.─Scenario of Manhattancafe(prototype).   作:春華ゆが

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Scene02:Light and darkness.

 いよいよマンハッタンカフェのメイクデビュー当日だ。トゥインクル・シリーズの初戦、正しくウマ娘にとってのデビュー戦。それがメイクデビューであり、すべての始まり。彼女が待ち望んでいたレースへと、ついに連れてくることができた。

「さて……ようやくですね」

 マンハッタンカフェは控え室でコーヒーを嗜んでいた。

 淹れたてで湯気が出ているそれを苦もなく飲んでいる。ごく、ごく。コーヒーとはそんなに勢いをつけて飲むものだっただろうか?

 黒い湖面に柔らかい唇を沈め、腕を持ち上げて少しカップをあおる。黒い髪と対照的に白い喉が、流れ込む液体の熱さにも構わず蠕動する。彼女はその熱さすら楽しんでいるようで、少し脂汗が浮かぶ。

 黄金色に輝く眼をゆっくりと閉じて、艶やかな睫毛が顔を覆う。

 喉がごきゅり、ごきゅりと音を立てて、彼女は一気にコーヒーを飲み干した。カップをテーブルに置き、こちらに向き直る。水分を含んで黒い彩を湛えた上唇だけが、残滓のように残っていた。

「どうしましたか、トレーナーさん」

 ……見惚れてしまった。

「ああいや、よく飲むなと思って」

「……私の飲みっぷりはそんなに関心高いものでしたか……? ふふっ、おかしなトレーナーさんですね」

 彼女は少し、くすりと。……緊張が解けたのなら何よりと思おう。

「さあ、カフェ。頑張ってこい」

 初戦。だけど彼女は微塵も油断など見せず。あるのは強者たらんという欲求。

「ええ……お任せを。血に飢えた猟犬のように、レースを制してみせましょう─────」

 ゆっくりと、彼女はパドックへ向かう。狩りが始まるのだ。

 

 ※

 

 血が沸るという表現では足りない。私の全身は何処を切っても噴水のように鮮血が溢れそうなほど。それほどまでに、血が疼く。けれどまだ足りない。レースは一人で走るものではない。同じように熱狂の中にあるウマ娘達を差し切る。喉笛に食らいつき、血祭りに上げるように。

 そうしてこの黒い身体を紅く血に染めてこそ、楽園への道は開かれるのだ。

「……あの、マンハッタンカフェさん!」

「はい」

 声のする方を見れば、一人のウマ娘が。

「サイン、お願いできませんか!?」

「……ああ」

 珍しいことではなかった。ターフの上で頼まれるのは初めてだったが。

「レースの後でもよければ」

「やった……! ありがとうございます!」

 そう言って彼女は小さくガッツポーズをしながらゲートへ向かっていった。……ファンであろうと手加減するつもりはない。ここは狩場。闘技場。あるのは喰われるもの同士の喰い合い。それだけだ。

 さて。平等に皆、血を喰らわせてもらおう。

 

 ※

 

 ゲートに入り、開幕を待つ。ようやくだ。ゴールを目指して、ようやく駆動する。

「スタートしました!」

 ぱん、という破裂音に合わせて、一斉に走り出す。後方に位置して全体を見渡す。終盤のスパートまでは、ゆっくりと獲物を見張るのだ。……先ほどのウマ娘が先頭か。ちょうどいい。彼女をマークして最後に差す。そこに意識を向けて、身体を風に任せる。気持ちいい。

 空の青さと芝の緑。その間を吹き抜ける風は、心臓の鼓動を加速させるようだ。きっと皆、同じなのだろう。

 ターフを走る者は皆、命の輝きをあらんかぎりに響かせる。……そして。

「マンハッタンカフェ、ここで一気に抜け出す!」

 その輝き全てを狩る。この私が。

「マンハッタンカフェ、差し切ってゴール!」

 最高だ。久しぶりに、退屈しない。

 

 ※

 

 恐ろしいと思った。テレビで見るのとは違うとか、そういう次元じゃない。走り切った時、ゴール板の奥でその顔を見た。嗤っていた。眼を細めて、口を歪ませて。舌なめずりをしたようにすら見えた。

 サインなんて、頼めなかった。

 

 ※

 

「……ふう」

「お疲れ様、カフェ」

 平然と整った息をしているマンハッタンカフェをねぎらう。心なしか高揚しているように見える。

「いえ。……おっと、少し目眩が」

 

 レースを終えて疲れてしまったのか、ふらふらとマンハッタンカフェは脚を崩す。危ない! だから思わず駆け寄ったのだが。

 近寄った瞬間、金の瞳が怪しく輝いた気がした。

 がしり、と掴まれる。ふらついたはずの脚は俺の脚を絡めとり、しっかりと捕まえている。

「カフェ、何を……つっ!」

 鋭い痛みが首元に走る。何が起こったのか、すぐには理解できなかった。痛みの奥にある柔らかい感触。少し尖ったものがちくりと刺す。暖かく滑りを伴ったものが俺を舐めとる。……これは、血……!?

「……んっ……あむ……ぇぉ……っ」

 マンハッタンカフェは、俺の肩に噛み付いていた。……それも、僅かに血が出るほどに。

「……ふぅ。トレーナーさんの味、ですね」

 感触が首元から離れる。訳も分からず問う。

「……何を、急に……」

「ちゃんと吸いましたから、すぐに止まります。……絆創膏で隠したりなんて、やめてくださいね?」

 確かにもう痛みは引いて、甘い痺れのようなものだけが残っているが。

 彼女は一体、何を考えて……。

「さて。ではライブの準備があるので。……次のレース、計画しておいてください」

 そう言って、彼女はまた離れていく。要領を得ない不思議なところはある。でもその実力は本物だ。彼女なら、きっと求めている物を手に入れられる。それが何かはわからなくても、行くべき道はわかっているのだから。

 楽園への道筋は、妖しく胎動する。

 

 ※

 

「ライブお疲れ様、カフェ」

 マンハッタンカフェ、最初のウイニングライブ。そして最初のレースが終わった。彼女とのトゥインクル・シリーズは、ここから始まるのだ。一着を取ったマンハッタンカフェには、ウイニングライブでセンターに立つ権利が与えられる。勝者の特権。それを彼女は見事完遂した。

「演技の舞台とは、また違う熱狂。血湧き肉躍るとはこのことですね」

 ふう、と息を吐く。流石の彼女も少し息が上がっている。……露出の多いライブ衣装も相まって、すこし扇情的だ。

「どうかな、カフェ」

 さて、ここはまだ終わりじゃない。

「どう、とは」

「君の望む、なにか。そこに少しは近づけたかな」

 きっと、今日では足りない。でも少しは。そう聞くと、カフェはすこし表情を緩める。

「……ああ、そうですね。……不覚にも、少し忘れていました。

 それだけ、私は熱中していたのでしょう。退屈を忘れられるなんて、本当に久しぶり」

「それならよかった」

「走り続ける限り、退屈せずに済みそうです。……ええ、おかげさまで」

 彼女はそう言って、じっとこちらを見上げてくる。……距離が近くないだろうか。

「次」

 その言葉は端的で、待ちきれない己を抑えるかのようで。狼狽えてしまいながら返事をする。

「……ああ、次。次だな。そうだな、弥生賞はどうだろう」

「はい」

 クラシック戦線の登竜門的存在。そこから目指すはクラシック三冠だ。……立ち向かうことになるであろう強力なウマ娘の存在は聞いているが、それでも彼女なら。

「お望みとあらば」

「……任せてくれ。俺が、君を連れて行く」

 楽園へ。それが何で、何処にあるかはわからないけれど。

「……では。そろそろ帰らなければ。明日も仕事があるので」

「大変だな」

「ええ、思いのほか疲れました。次はスケジュールを考えなければいけませんね」

 彼女を楽園へ連れて行く。そう約束したのだから。

 

 ※

 

 次の日。カフェは仕事なので、今日は作業に費やそう。そう思っていた時だった。コンコンと、トレーナー室の扉が叩かれる。

「お邪魔するよ」

 一人のウマ娘が入ってきた。透き通るような瞳を兼ね備えた、少しシニカルな感じのウマ娘。……まさか彼女の側から出向いてくるとは思わなかった。

「アグネスタキオンだ。よろしく」

 アグネスタキオン。レース界でも高名な家に生まれた異端児。……今のうちから既に、クラシック三冠は確実とさえ言われている有力ウマ娘。

「よろしく。……タキオンは、どうしてここに?」

「いやなに、ライバルの偵察というやつだよ。有力なウマ娘を探すことは、後々のためにもなるしねえ……」

 後半が少し引っかかったが、それよりライバルという単語だ。

「もしかして、弥生賞に」

「ご明察だね。おっと、出走回避はやめておくれよ? 嫌味ではなく、これ以上避けられると流石にレースが成立しなくなってしまう。……ところで、マンハッタンカフェくんは?」

「……今日は仕事だよ。彼女は女優業とレースを両立しなければいけないんだ」

「ふぅン……」

 

 アグネスタキオンはその言葉を心底興味深そうに受け止めていた。侮るでもなく、恐れるでもなく。ただ純粋に。

「なるほど。カフェくん……いやカフェは女優だったのか。これは驚いた。そういった立場からレースを見ると、どういった世界が見えるんだろうねえ……いやはや面白い」

 カフェのことを知らないとは、驚いた。誰もが一言目には、「あの」マンハッタンカフェだと彼女を指さすのに。……これは、彼女にとって新鮮な体験になるかもしれない。

「弥生賞、出るよ。君が出るんなら尚更だ、タキオン」

 勝てるかはわからない。けれど、一度の勝敗が全てを決めるものではない。

「いいね。楽しみにしているよ。私もモルモット君に念押ししておこう。マンハッタンカフェの情報を集めておけとね」

 そう言って、タキオンは去っていった。カフェにとってライバルとなるかもしれない相手の登場。楽園には一筋縄ではたどり着けないということか。

「よし、やるぞ」

 そのまま勢いでカフェに電話する。……すぐに繋がった。ひょっとして俺は専用の番号でも教えられたのだろうか。いやいや、カフェがそこまでする筋合いはないか。たまたまだ。

「……はい、トレーナーさん。まだ傷は痛みますか?」

 そんな言葉に軽口を返す。

「カフェが血を吸ってくれたおかげで、なんとか生きてるよ。それより、弥生賞に強敵が出る。三冠確実とまで言われているウマ娘、アグネスタキオンだ」

「ふむ。なるほど。つまり、その人に勝てば良い。そういうことですね」

「……流石カフェ。理解が早い」

 こうして、狙いを弥生賞に定めて。マンハッタンカフェとのクラシック戦線がスタートする。

 動き出す闇の引力は、超光速を捉えられるか。

 楽園への道筋に、波乱が迫る。

 

 

 何も恐れることはなかった。君が見ていてくれるなら。何も違うことはなかった。君が見ていてくれるなら。私の舞台はどこにあっても変わらない。何個あっても変わらない。

 だから大丈夫。きっと楽園へ辿り着ける。

 君が見ていてくれるなら。

 そう、そのはずなのだ。だから、あり得ない。どこかで何かを盲目的に信じていたけど、信じていたものが何かわからない。

 それを暴いたら、取り返しがつかない気がする。だからわからない。わかることはただ一つ。

「アグネスタキオン一着! マンハッタンカフェは四着に終わりました!」

 その結果は、揺るがない。ドラマにやり直しはあっても、現実にやり直しはないのだから。

 

 

 ※

 

 

「うん、いいタイムだ。この調子だカフェ」

「……はい。すみません、最近撮影が忙しくて」

 弥生賞は着々と迫っている。それなのにレースのために割ける時間が限られてしまうのは心苦しい。君は全てを捧げてくれているというのに。

「いいんだよ、カフェにはカフェのやるべきことがあるんだから」

 やるべきこと。トレーナーさんはよくそのフレーズを使う。だから、私は何かを投げ出すわけにはいかない。

「まあ、正直なところ。次の相手はベストでも勝てるか分からない。だから……いや、そんなことを言ってはトレーナー失格だな」

「アグネスタキオン……ですか」

「そうだ」

 アグネスタキオン。未来の三冠確実とさえ言われるウマ娘。彼女の出走を受けて既に弥生賞は出走回避が続出し、私は数少ない出走者の一人となっている。

「……以前、トレーナー室に来たと言っていましたね」

「ああ。ライバルの視察だと言っていたな。その後会ったりしてないのか?」

「……いえ」

 アグネスタキオンを名乗るウマ娘が会いに来たという話はマネージャーからも聞いていない。私を見たいなら私に会いに来るはずなのに。それなら何故、彼女はトレーナー室に?

 ……まさか。

「……トレーナーさん」

「どうした、カフェ」

「いえ」

 心に湧き上がる何かを言葉として処理できず、問いかけは中断される。

「よし、今日はこの辺にしよう。お疲れ様」

「お疲れ様です」

 これが不安だとすれば、何に対する不安なのか。答えは導き出せず、ただ日数が過ぎる。

 

「……負けるわけにはいかない。君が命ずる通り、私は全てを喰らう」

 そう何度も、何日も。願うように口にする。ただ、君が見てくれるなら。それが私の祈りなのだから。

 

 ※

 

 わからない。意識をここまで巻き戻しても、この結果を認識できない。

「ふぅ……お疲れ様だね、カフェ」

「……そのように親しげに呼ばれるような覚えはありませんが、アグネスタキオン」

「それは申し訳ないね。……時に君」

「……なんでしょう。敗者に情けの言葉でもかけるのですか? それなら結構。私は──」

「これが情けだと取られてしまうなら申し訳ないが。……その調子じゃ春いっぱいは無理だね。休暇をトレーナーに嘆願した方がいいよ。……おっと、副業もあったかな。それもだ」

「なに、を」

 何を馬鹿な。何をわかっているというんだ。何を、なにを。言葉は空を切り、ただ己の身体を鑑みる。力は、明らかに入り切っていなかった。でも、私に休むなんて。

「助言の類ではなく、警告だよ。……走れなくなっては元も子もない、だろう? こういう目については一家言あるのさ」

「私には、トレーナーさんとの約束が」

 楽園へ行く。そのためには、一歩だって止まるわけには。

「……とにかく療養することだね。走れる刻は永遠ではないとしても、その時間を伸ばすことは重要だ」

 そう言ってアグネスタキオンは立ち去る。このレースの主役は彼女で。私はただ、それを見ているだけの黒子だった。

 

 ※

 

「……お疲れ様」

 労いの言葉。私はまともに答える価値もない。

「気休めは要りません。全力を出せなかったが故の結果です」

「そんなことは……!」

「……少し、一人にさせてもらえますか」

 邪険に扱い見捨てられるしか、方法がない。

「……わかった」

 トレーナーさんを追い出して、控え室に一人。私は敗北を噛み締められなかった。私の牙は勝利のためにだけ生えていて、挫折を飲み下すようにできていなかった。

「うまくいかなかった。だから私のこの生活には、無理がある」

 そういうことだ。アスリートと女優の両立。そんなものは不可能なことで、まだ密室殺人の方がありふれている。

「……違う」

 違う。それが出来ないのは、己が無力だから。もっと、もっと。退屈を埋めるほどのワーカホリックが、私の見る世界には必要だ。それに身体が耐えきれないとしても、そんなの。

「もしもし。休暇を取ります。よろしくお願いします。……何と噂を立てられようと、構いません」

 マネージャーへ休暇の連絡を入れる。文句を言われても構わない。どうせ事実だから。

 私が耐えられなかったのは、事実だから。

「……それでも、レースは」

 休みたくない。完全に休むべきだとしても、こちらは手を離したくない。全身の疲労は、数日分一気にのしかかってくる。でも。

「皐月賞を、目指す」

 よろめいてしまうのは、今回の疲労のせい。まだ、私は喰らいつける。さあ、トレーナーさんに心配をかけた。何事もなかったかのように出ていかなければ。

 ……そこで、意識は途切れた。

 

 ※

 

「……これは、過労ですね。しばらく休ませた方がいい」

「……わかりました」

 こえがきこえる。あなたのやさしいこえ。

「……トレーナー失格だな、俺は」

 なかみはわからないけれど。あなたのこえは、あんしんする。……また、ねむくなってきた。

「……ごめんな、カフェ」

 そうだ。わたしもあやまることがあったのだ。

「タキオンとのレースのことばかりで、君の体調管理を忘れるなんて」

 まけてしまってごめんなさい。

「……次があるなんて思わないよ。お別れをしよう。君をレースに連れ出すなんて間違ってた」

 つぎは、かちます。だから──────。

 楽園への道筋は、黒き闇に閉ざされた。

 

 ※

 

 私たちの道のりはまだ始まったばかりだ。ようやくオープニングが終わるところなのだ。開幕戦を終え、ライバルとなるべき相手を見つけた。だからまだ走る理由はある。

 そうであるべきだ。そうでなくてはいけない。

「……ここは」

 白い天井。身体に力が入らず、状況を把握できない。私は弥生賞でアグネスタキオンに負けて、それで。

「ここは、病院だよ。……カフェは控え室で倒れてて。運んできた」

「それは、申し訳ありませんでした。ありがとうございます」

「申し訳ないのはこっちのほうさ」

「どういうことですか」

「医者は過労だって言ってた。働きすぎたんだ。頑張りすぎてたんだ。俺が止めるべきだった」

 否定の言葉を発するほどの元気もなかった。頭にも身体にも血が足りない。喰らう獲物を失って、みすぼらしく飢えている。

「……だからさ、カフェ。これで終わりにしよう」

「それは、どういう」

「君には大事な仕事がある。今まで培った生活がある。俺とのよくわからない約束なんかに惑わされず、レースは辞めよう」

 声がかすれる。反論を返せない。

「それが、俺からできる最後の指導だ」

 なんで。どうして。答えの分かり切っている問いは、口から出て行こうとしない。

「……じゃあ、これで。さよならだ」

 私の沈黙を肯定と受け取って。君は病室から独りで出ていった。

「ねえ」

「連れて、行ってよ」

 一つとして、言葉は届かない。

 

 ※

 

 それから。病室に来たのは、共演していた俳優だとか、マネージャーだとか。そういう人たちばかりで、レースと私の縁は途切れてしまったようだった。でも、忘れられない。血を求める感覚は、私の中で強く強く。

 そんなある日のことだった。

「こんにちは、カフェ」

「……あなたですか、アグネスタキオン」

 本当に求めている人ではなかったけれど。あの世界と私がまだ繋がっている気がして、少し嬉しかった。

「今度の皐月賞だけど」

「出れません。出ません。私は走れない」

「そんなことは知っているよ。だからお見舞いに来たんじゃないか」

 クククっと、アグネスタキオンは笑う。けれどその深層に、愉快そうな感情は見えなかった。

「残念だったなどと言うつもりはないよ。そういったお節介は聞き飽きているだろうしねえ……」

「要件は。皐月賞に何か」

「私は皐月賞に出る」

「……ああ、そんなことですか」

 分かり切ったことだった。弥生賞を勝っておいて出ない選択肢もあるまい。そして彼女がその後のダービー、菊花賞を勝ち取るのさえ。分かり切ったことだ。けれど。

「君には見てほしい。できれば君のトレーナーにも……と思ったのだが。居ないようだね」

 その口ぶりは真剣なもので。まるで、できたばかりの硝子細工を触るかのように。壊れかけの硝子細工を愛おしむように。そんな印象を与えた。

「……わかりました。トレーナーさんも呼んでおきます。まだ連絡はできますから」

「何かあったのかい」

「……これは私の問題です」

 私が耐えられなかったから。弱き獣には何の権利もないのだ。

「……ふぅン。それなら今すぐ呼んでくれるかな。君の問題だと言うのなら、トレーナー君は何の問題もなく元気にしているのだろう? きっと暇をもてあましているに違いない」

「その通りですね。お任せを」

 手荷物の中から一つの携帯電話を取り出す。

「流石女優だねぇ。連絡用とプライベート用で通信機器を分けてあるのか」

「……これは」

「これは?」

「……いえ」

 これは、君専用の電話。君の番号だけが閉じ込められた優しい牢獄。だけど今はもう、飛び去ってしまった。

「……もしもし」

「……お久しぶりです。マンハッタンカフェです」

「久しぶり」

 心臓が熱くなる。再び血が流れ出すような。

「……今度の皐月賞。一緒に見ませんか」

「……いいのか」

 いいも悪いもない。

「……続きは、その日に」

 私が生きていくのには、君が必要なのだ。

 

 ※

 

「……そろそろです」

「タキオンが君に言ったんだったな。皐月賞を見てくれと」

 久々に君と話せるだけで、嬉しい。彼女には感謝しなくては。

「各ウマ娘、スタートしました! 断然一番人気のアグネスタキオン、光を超える素粒子の名を冠するウマ娘はどう出るか!」

「……まさに好位追走だな」

 アグネスタキオンは中団、先行バとして理想的な位置からレースを進めていた。彼女にはおそらく勝利の可能性が眩いほどに見えている。

「……彼女の見る景色とは、どのようなものなのでしょうね。確実に勝てるとさえ言われ、その重圧をも跳ね除ける」

 本物のスターダム。星より疾い超光速の景色が、彼女の眼前に。

「……君にだって、見える」

「私には見えませんよ」

 君が、連れて行ってくれなければ。

「……アグネスタキオン抜けた! アグネスタキオン一着! アグネスタキオン、まず一冠です!」

 やはり、彼女は勝った。これを見せてどうなると言うのか。彼女は走れて、私は走れない。その現実を突きつけたかったのか。

 その疑問は、すぐさま明らかになった。

 

 ※

 

「私はダービーには出走しない。未来の三冠ウマ娘のインタビューが聞きたかった諸兄は残念だが、これはもう決めたことだ」

 

 

「なん、で」

 耳を疑う。そんなこと一言も言っていなかったではないか。彼女が扱っていた硝子細工は、彼女自身だったとでも言うのだろうか。

「……きっとこれを見てくれている彼女に、Bプランを託す。追って詳細は発表しよう。では」

 騒然となる会場を後に、アグネスタキオンは去っていった。……ライブにすら彼女は現れなかった。脚に異常があったということだろう。でもそれ以上の覚悟が、彼女の語気には込められていた気がした。

「Bプラン」

 その詳細は不明だが、その託す先はわかる。

「トレーナーさん」

 私にまだ走る理由が、走らなければいけない理由が生まれた。

「あなたがなんと言おうと、私はまた走ります。協力して貰えますか」

 そして、そのためには。

「わかった」

 君がいてくれなくてはいけない。

 ここより始まるのは、最初の約束を忘れたかのような一方的な契約。その形は歪んでいて、壊れている。でも、私を見ていてくれるなら。私は、それでいい。

 失楽園の漆黒は、閉ざされし闇を喰らう。

 




Interlude:Rainy day.

 雨が降っている。雨が創る物語というのはなぜ悲しいものばかりなのだろう。雨雲は不安と不吉を予感させるからか。雨の後の虹は爽やかな別れを連想させるからか。
「……はうぅ、ライスがお祈りするといっつも雨だ…」
 道すがら、一人のウマ娘を見つける。彼女も雨に悩ませているのだろうか。
「……あの」
「……はい!……って、マンハッタンカフェさんですか!?あの、私あの映画観ました!『幸せの青いバラ』……」
 私がナレーションをやった映画だ。
「そうですか、ありがとうございます。……あなたは、雨は好きですか?」
「……えっと、ライスは……その。嫌いじゃないんですけど、いつも降らせてしまってるのが迷惑かけてるかな……って」
「……そうですか。あなたが好きでいられるのなら、雨もきっと応えてくれますよ。あなたの世界の主人公はあなただから、あなたは何者にでもなれる。迷惑だなんて思ってはいけません」
 現実と物語は違うのだ。全てに因果があって、全てに因果がない。
「ライスも、ヒーローに……」
「お名前を聞いていませんでしたね。覚えておきます」
「……はい、私の名前はライスシャワーです!」
 祝福の名を冠するウマ娘。彼女の創る雨は、悲しくない気がした。
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