【本編完結】Take me to paradise.─Scenario of Manhattancafe(prototype). 作:春華ゆが
息をする。私は二酸化炭素を口の中から捨てて、新しい酸素を取り込む。息をする。私はこの場に広がる空気を吸い込み、そこに自らの空気を撃ち出す。息をする。まるで血を啜るかのように。息をする。狩場に蔓延る獲物たちへと口を開く。脚は自然と動く。
ゆっくりと、ゆっくりと。後方に位置して様子を窺う。心は牙を研ぐ。既に狙いは定めている。集団から抜けて一人逃げている彼女。わかる。
彼女はきっと、勝つ。皆に勝つ。私以外の、皆に勝つ。だから。
私は彼女さえ捕らえればいい。レースとは時にシンプルだ。徐々に、徐々に。集団が前へと移動し、私はその中でゆっくりと位置を進める。
菊花賞。3,000mという距離は、あらゆるレースの中でも随一の長さだ。長距離のレースで勝つにはスタミナが必要。それは私も夏合宿で言われたことだし、きっと今走る皆が知っている。けれど。
私はもう一つ、この距離での勝利に必要なものを知っている。そしてそれについて、私は負けるつもりはない。この場の誰にも、いや。全てのウマ娘にも、だ。勝ちたいというのがウマ娘の本能。だから私たちは走る。そう言われている。でも、私は。ずっと走らなかった。
走ること以外の人生に身をやつし、人生の退屈さをどこか他で埋め合わせしようとしていた。私にはもしかするとその本能が備わっていないのかもしれない。レースの話を聞いても、血湧き肉躍ることはなかった。面倒だ、とさえ思った。
そんな私が今走っているのは。君が。君が、私を連れて行ってくれるから。私はその命に従って、走り出す。楽園へと黒く羽ばたく。
「さあいよいよレースも終盤! 先頭から二番手以降は4馬身ほど離れています! マンハッタンカフェは中団から徐々に上がってきました!」
もうすぐ、もうすぐだ。全ての敵を喰らい尽くし、私が屍の頂点に座する。瞳孔が開き、薄く笑みを浮かべる。マンハッタンカフェにとってのレースは狩りに等しい。
首を掠め取るように抜き去り、一瞬で喰らい尽くす。命奪に必要なのは刹那の切れ味なのだ。
私が、長距離において負けないと自負する理由。それは────。
「内からマンハッタンカフェ! 内からマンハッタンカフェ! 差し切るか! 躱せない! マンハッタンカフェゴール! 菊花賞の栄光はマンハッタンの手に!」
長い雌伏の時を知っているから。目の前の勝利を渇望することはできても、視界の外にあるゴールを目指し続けることは難しい。そこは本能の埒外で、誰もが集中力を切らして苦しみに耐え抜けない。
でも、私は違う。私は今も苦しみの中にいる。常に遠い遠いゴールを目指している。その中でたった3000を走り切ることなど造作もない。いや、造作もなくてはいけない。
ワアアアァ──────。
大歓声が私を迎える。……息を整え、スタンドに向き直る。彼らは私を見ている。私自身を見ている。その感覚は新鮮で、得難いものだと思った。……ここが、楽園に近いのだろうか? この歓声を浴びる一着の場。そうであるなら、嬉しい。
楽園への道はまだ閉ざされていない。君はもう私を見限って、ただ言われるまま私に着いてきてくれるだけなのかもしれない。それでも、そうだとしても。今日のこの勝利は、私と君のものだ。
※
「マンハッタンカフェさん! 重賞初勝利、それも菊花賞で! おめでとうございます!」「マンハッタンカフェさん、女優業との両立についてインタビューを是非」「マンハッタンカフェさん、何か一言」
やれやれ、せっかくの気分が台無しだ。喜んでもらえるなら結構だが、これは君以外の誰かと分かち合うための勝利ではない。胸の内を明かす相手など必要ない。
「次は」
「次は有馬記念を目指します。では」
この一言で、充分だ。
「……お疲れ様、カフェ」
「ありがとうございます、トレーナーさん」
「すごいな。あんまり息が上がってないみたいだ」
「ええ。でもそろそろ、喉が渇きました」
「ああ、それなら……」
かぷり。
「……っつ……!」
ちゅう、ちゅう。
「カフェ、いた、痛い……」
「……痛いですか?」
それは素晴らしい。首筋の噛み跡を新しいものに上書きする。溢れ出る血で喉を潤す。
「これで。傷が疼くたび、私のことを思い出せますね」
唇の血を舐め取り、口角を持ち上げる。気分が安らぐ。君に勝利を捧げられる、そこに私の価値はある。
「……それより、カフェ。次は有馬記念って、本気か?」
「不服ですか?」
「いや、まだ信じられなくて。でもそれだけの力はあるよなあ、うん、うん」
信じられない、という言葉がピンとこない。私は実力不足に感じられるということだろうか。少し気落ちしてしまう。するとそれを察してか、トレーナーさんが発言を訂正する。
「ああいや、そうじゃない。俺が有馬に出走できるようなウマ娘の担当になれるなんて信じられない、と思って。ありがとう、カフェ」
「いえ、それほどのことは」
私は本当に、大したものではない。
「トレーナーさんがいてくれたからですよ」
「……そうか」
私の言葉はどうして君に届き切らないのだろう。歯痒さが身を包むけれど、どうすることもできない。
「まあ、そうと決まれば。時間は短いが、頑張らないとな」
「ええ、お任せを」
こうして、次なる指針は定まる。
傷だらけの船はその傷を闇で覆い、血を流しながらもまだ進んでいる。
失楽園の漆黒は、闇より目覚める。
有馬記念。一年の最後を締め括る大レースであり、シニア級とクラシック級のウマ娘が一堂に会する。つまりマンハッタンカフェにとってはシニア級チャレンジの登竜門となるべきレースなわけだ。
「やあ、こんにちは。まずは菊花賞おめでとう」
電話をかけてきたのはアグネスタキオン。今年の皐月賞を勝った強力なウマ娘であり……今はレースから身を引き俺とカフェのサポートをしてくれている。
「ありがとう、タキオン」
「……で、次はどこを射抜くんだい?」
次の勝利。アグネスタキオンにとっては手に入りそうで手に入らなかったもの。どんな気持ちでその言葉を紡いでいるのだろう。
「次は有馬記念だ。カフェがそう言った」
「へェ……。彼女にも一厘の積極性が見えてきたかもねえ」
「彼女はいつだって真剣だよ」
彼女から逃げたのは俺の方だ。
「いや……まあいいか。姑役をするために君たちに関わっているわけではないし……ふむ」
電話の外からぱらぱらと紙を捲る音が聞こえる。
「さてさて、君はシニアの有力ウマ娘を知っているかい? 有馬に出走するなら当然同世代だけに注目していてはいけない」
「特に注目しなきゃいけないと思ってるのは……二人だな。ライバル関係にあり、一着二着を独占してシニア級を暗黒で染め上げたというウマ娘たち」
「さすがだねえ。君もカフェのために努力を惜しまないというわけか」
そうでもない。俺が彼女のために出来ているのは最低限のことだけだ。全力を尽くしても何にもならない。彼女の道標という最低限の役割すら果たせているか怪しい。
「……テイエムオペラオーと、メイショウドトウ。少し衰えが見えてきているとはいえ、他の追随を許さない存在だろう。スターウマ娘に近しい」
世紀末覇王と怒涛王。二人の王がシニア級の壁として立ち塞がる。勝てなくても仕方ないとすら言える。……けど。
「勝てるかはわからないかもしれない。でも。勝てなくても仕方ない、って思うのはもうやめたんだ」
「ふぅン……」
「俺は、今でも。カフェなら君に勝てたと思ってるよ。タキオン」
「それは仮定の話、だね」
「過去の話さ。体調管理をしっかりしていれば、今日のパフォーマンスが出せるなら。カフェは誰にも負けない」
負けるとしたら、全て俺が悪い。
「それが君の信頼の形」
「そうだ」
「なら見せてもらうよ。私の幻影を追いかけるというならそれでもよし。なんであれ勝利すればいい……じゃあ」
電話が切られる。勝利。そのために、必要なものは。
※
「ふぅ。ウイニングライブというのは体力を使いますね」
センターに立つのはメイクデビュー以来か。観客の数は段違いだったけれど、私にとっては差がない。どちらも君が見てくれている。その一点が重要だ。
「んっ……ごくっ……ふぅ」
黒塗りのコーヒーをじっくりと飲み、疲れた身体に鞭を入れる。一人の空間は落ち着く。昔はこれが一番好きだった。今はもう少し好きな空間があるけれど。
私の独奏。人生は独りによって動かされるものだと思っていた。揺れ動く何かをあくまで自分が捉え、それを命の糧にする。退屈を噛み殺すには自分から動かなければならない。獲物を捕らえるには自分の働きが必要である。
私の独創。だから、私は私でいる。私にしか創れない人生があって、それはつまらなくても私の価値を担保する。他者とは違う、他者とは関わらない。それが私を生かしている。
けれど。今の私には。君とのデュエットが必要だ。君と二人で創る何かが必要だ。そうでなくては退屈だというのは、私に課せられた呪いなのかもしれないけど。この呪いは心地よいのだから構わないと思う。獣であるためには私たちは餌を多く喰らわねばならない。
二人でいる方がより多くの餌を得て強い獣になれるというのなら、私は喜んで二人になる。しかしそれなら果たして。餌を分け合うことが弱さに繋がるとしたら、私は君と分たれるべきなのだろうか?
「……いけませんね」
今日は勝利に酔うべき日だ。それなのに不穏なことばかり考えてしまう。偶像の蠢く未来ばかりを描いてしまう。しっかりしなければ。君の隣に立つのに、相応しくならなければ。
「……カフェ、入っても大丈夫か?」
「ああトレーナーさん、どうぞ」
そう言ってトレーナーさんを招き入れる。部屋に二人きり、その状況は少し心を揺らしてくれるけれど。まだ、私は相応しくない。
「有馬記念、警戒すべきはテイエムオペラオーとメイショウドトウだ。歴戦のウマ娘で、実績も実力も申し分ない」
「なるほど」
「でも」
「勝つのはカフェだ。それを伝えに来た」
「ええ、お任せを」
当然だ。君がそう言うのだから、私は勝つ。今の私の行動指針は、全て君の中にある。
「……トレーナーさん」
「……なんだい」
「……まだ、連れて行ってくれる?」
「……ああ。約束したからな」
約束した。君は私を楽園へと連れて行く。それを脅迫材料にするかのように、今の私は君を繋ぎ止めている。
きっと君の心は私をもう見たくない。
でも、私は君に見て欲しい。君のためを想うには、私は弱すぎる。君を求めなければ直ぐに死んでしまう。
「じゃあ、帰るか」
「トレーナーさん、もう一つだけ」
「……いいぞ」
「……今日は、独りになりたくない。朝まで、手を。繋いでいてくれませんか」
これも脅迫のようなものだ。きっと求めるほどに、君は私に恐れ慄く。心は離れていく。
「わかった」
それなのに、君は私を赦してくれる。私はいつまで君に甘えられるだろう。きっとこれも永遠ではなく、いつかは退屈極まりない私の存在を見限る時が来る。でも、それまでは。
※
「ここが私の家です」
「……なあ、大丈夫なのか」
私の家はトレセン学園の寮とは離れたところにもう一つある。女優業ばかりをしていた頃の古巣だ。
「なんですか。今更手を離したりはしませんよ」
君の手は私の掌の中に。
「言いましたよね? 朝までって」
「言ってしまったしなあ。……カフェが大丈夫なら、いいよ」
勿論。
「ではいらっしゃい。風呂とご飯を用意しますから、寛いでいてください」
ぎぃ、と扉を開いて。一瞬、愛の巣という言の葉を幻視する。そうでなくても、この時間は誰にも邪魔されたくない。
失楽園の漆黒は、闇へと手招きするが如く。
「大きな家だな」
マンハッタンカフェの別荘は大きな一軒家で、彼女が人気女優だという事実を再確認させられる。
「私は狭くて暗い家でも良かったのですがね」
カフェはそう言う。この家は彼女の好みで選んだものではないのだろうか?
「ただ、広い空間で独りになりたい時もありますから。開放的なようでいて、牢獄のようであって。退屈を殺すためには、様々のものを体験しないといけません」
ぱち、ぱち、ぱち。明かりのスイッチを入れて、カフェは奥の部屋へと入っていく。
「……とりあえず、着替えさせてもらいます。……トレーナーさんは」
「ああ、俺はいいよ! そうだな、そこで座って待ってる」
着替え部屋に誘うなんて、冗談でもどきりとしてしまう。しばらくすると、彼女は装いを変えて出てきた。ルーズな部屋着。少し緩い雰囲気は、今までの彼女にはなかったものだった。
「では、食事を用意しますね。ごゆるりと」
「ああ、ありがとう」
そのまま彼女はキッチンに消え、間もなく包丁でまな板を叩く音が聞こえる。……カフェと包丁の組み合わせはなんだかマッチしている気がした。
カフェの家をぐるっと見回す。彼女の私物が全面に広がっていて落ち着かない。
「気になるものがあったら、ご自由に手に取ってください」
そうキッチン越しに言われたので、大人しく目に付くものを見てしまう。
※
「大きな本棚だな」
ずらりと小説が並ぶ。演技の本などもあるし、果ては犯罪者のプロファイリングや実在の事件をまとめた本まで……これは一体。
「ドラマは現実ではないですが、作中の人間は現実にいてもおかしくない思考を持っていなければなりません。それは悪役でも然り。私はそれを映し出す鏡ですから」
「君にとっての女優業は、フィクションに現実を憑依させること?」
「ご名答。さて、続きはシチューと共に」
いつのまにか彼女は鍋に入ったシチューを机に置いていた。家の中を回っている間にそれなりに時間が経っていたようだ。
「いただきます」
「……召し上がれ」
彼女と二人、食卓を囲む。今夜は一人になりたくないと彼女は言った。だから俺はここにいるけれど、彼女はどれほど俺を信頼しているのだろう。期待外れなトレーナーでしかないはずなのに、俺は彼女を縛ってしまっているのか。
「美味しいな」
「それはよかったです」
身体の芯から温まる。彼女の得意料理なのだろうか。
「女優について。私は女優であることを、物語の鏡になることだと思っています」
「……鏡」
「限りなく物語を落とし込み、私から私を消し去る。それが役割で、だから私個人には何の色もついていない。白黒の無価値。そう思っていました」
それは何となく、初めて誰かに話すかのような。
「でも、今日の菊花賞。歓声は私に向けられていた。私自身に向けられていた。……初めての世界でした」
「そうか、それは」
「トレーナーさんのおかげです」
虚をつかれた思いがした。
「トレーナーさんがいたから、連れて来てもらえたんです」
「……違う」
「俺なんか、足手まといだろう」
そうに決まっている。そう言うと、それ以上の言葉は交わされなかった。
※
「これ、私のお気に入りのコーヒーです」
「ありがとう。いただくよ」
悪いことをしただろうか。彼女は未だに俺に幻想を抱いているのだろうか。それでも、それでも。彼女が走る理由は俺にある。そうだとしたら、俺のするべきことは。
「さて、お風呂はもう湧いていますが。どうしますか、トレーナーさん」
「どうって……」
「……入りますよね?」
正直いくら担当とトレーナーの関係だとしても、女性の家で風呂まで借りて良いものなのだろうか。
「安心してください。風呂場で襲いかかったりしませんよ。先、いただきますね」
それは冗談のはずなのだが、そうは聞こえなかった気がする。
彼女が風呂に入っている間、一人先程の言葉を思い返す。俺がいたから走れたと彼女は言った。俺なんか足手まといだと俺は言った。どちらが正しいのだろう。ここに噛み合いがないことは、俺たちにとって致命的なことなのだろうか。
いくつか漠然とした疑問は浮かぶが、答えは出ない。答えを出したくないのかもしれない。俺にだけ落ち度があれば、それは俺の問題になる。そこに疑問を挟み込みたくない。
そういうことだ。
連れて行く。俺が彼女を連れて行く。その約束をまだ彼女は握りしめている。それは既に壊れたる幻想なのかもしれないけど、確かに彼女を生かしている。
「先、いただきました」
もう少しだけ、考えてみよう。俺たちのことを。
「……ああ、ありがとう……」
そんな考え事をしていたので。
「……あっ、まだ振り向かないでくだ……きゃっ!」
「あっ、ご、ごめん!」
あられもない白い肢体が目に焼き付くのを、必死に堪えた……。
※
「着替えは外に用意してあります」
「……ごめん、カフェ……」
風呂のドア越しに会話が為される。ここは自分の家ではないのに、気を抜きすぎていた。……そもそも何故カフェは俺を自らの家に誘ったのだろう。やはり、それだけの信頼が寄せられているのだろうか。その理由があるとすれば、結局トレーナーである自分との契約に帰結する。
ずらりと並ぶコンディショナーの列から、ボディーソープとシャンプーを取り出す。当たり前だが美容には気を遣っているようだ。彼女が女優だから……というのもあるだろうが、それ以前にマンハッタンカフェは一人の少女だ。
完全無欠な存在をイメージしていたが、そんなことはない。それを知る。
湯船に浸かり、身体の疲れを取り払う。……ここにカフェも入ったのか。そう思うと何だか落ち着かなくて、さっさと上がる。風呂から上がるとそこには一枚のバスタオルと……バスローブがあった。見てみれば先程脱いだ服は皆洗濯機の中でぐるぐると回っている。
やられた。
「お風呂、ありがとう」
バスローブ姿でそんなことを言う。カフェもバスローブに着替えていて、テーブルでまたコーヒーを飲んでいた。
※
「ああ、トレーナーさん。こちらへ」
とんとん。カフェが自分の膝を叩く。疲れた頭は意図も読めず、ふらふらと言うがままに。
すとん、と頭を優しくおろされる。彼女の膝から上半身に目を向けると、カフェは耳掻きを手にしていた。ローブの隙間から見える鎖骨が艶かしい。……いや、そもそも。今俺が寝かされている脚には根元まで何も……。
そこまで気づいた頃にはもう遅い。身体をうまく抑え込まれ、力が入らない。
「じっとしていてくださいね」
そうして。
耳の中をゆっくりと、じっくりと。寝かしつけられているような体勢は、自然と心を安らげる。
「今日は、お礼がしたかったんです」
かり、かり。少しずつ掻きながら、彼女は語る。
「私には、表現の仕方がわかりません。物語に出てくる人々は、言葉で全てを解決できるのに」
「でも、どうしても。今日の勝利は二人のものだから。トレーナーさんが、私を連れて行ってくれたから。だから、お祝いされるべきは私だけではない」
熱い息が当たる。彼女の顔は見えないが、今までで一番近づいている気がする。
「それで、わざわざ家に誘ってくれた。……ありがとう」
「……ふふ」
しばらくの間、言葉が途切れる。薄い布を互いに一枚纏い、それだけの境目を以って関わり合う。耳掻きの擦れる音と、布の擦れる音。二つだけが響く静かな空間。
「では、こちらを向いてください。反対側も耳掻きしますから」
ぐるりと、彼女の身体側に顔を向ける。なんとなく身体が熱くなってくるのは気のせいではない。彼女の身体が熱くなっているのも気のせいではないだろう。肌と肌の密着が、少しの布で仕切られている。それを取り払って仕舞えば。
「いいんです」
「……カフェ」
「……トレーナーさんなら、いいです、よ?」
それが、彼女の言うお礼だとすれば。それを受け取らないのは、シツレイナノカモシレナイ。
けれど。
「駄目だ」
これは彼女の否定ではない。
「まだ、俺の役目は終わっていない」
「だから、カフェ。まだ君は走れるよ。有馬がある。その先にはシニアと、URAファイナルズがある。どちらも大きなレースがたくさんだ。俺はそこへ、君を連れて行く」
「……トレーナー、さん」
「だから。俺を繋ぎ止めようとしなくていい。俺は君のそばにいるよ」
今までの俺の、否定だ。
※
ずっとあった違和感。俺はカフェの足手まといだと思っていた。けれど、カフェからすれば逆だった。俺と離れたくなくて、怖くて。不安ではち切れそうだった。
ぽたり、ぽたり。熱い雫が、俺の頬に落ちる。
「……しばらく、こっちを見ないでくれますか」
「……ああ」
穏やかに、互いの熱が解けていく。
※
「こちらが来客者用のベッドです」
「すごいな、俺の家のやつの倍はある」
「そしてこれが、ダブルベッド」
「……なんのために?」
「広々と寝るためですが、今日は違います」
こともなげにカフェは言う。
「一人で寝るのは、嫌ですよ?」
そう言って、彼女は少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
朝が来るまで手を繋いで、目覚めた時には抱きつかれていた。彼女は存外甘えん坊なのかもしれない。今日から有馬記念に向けてのトレーニング。
立ち向かう敵は強大だが、今度こそ大丈夫だ。再び繋がりあえたような感覚。ひとつ、ひとつずつ。心の糸を結べた気がした。二人で一人、二人三脚で。そうありたい。
失楽園の漆黒は、光に照らされる。
Interlude:Roommate.
「カフェさん!久しぶりだぁ〜!」
「……そうでしょうか?」
別荘での宿泊を終えて、寮に帰るなり出迎えてくれたのはユキノビジンさん。私と同室のウマ娘だ。
「そうですよ!だってカフェさんいっつもどこかに出掛けてますし!…いいなぁ、シチーガール…」
目の前の彼女は本気で私を羨ましそうな目で見つめてくる。少し罪悪感が生まれる。
「ユキノさんには寂しい思いをさせてしまいましたね」
「カフェさん……。そンだ!お詫び?というか、これから仲良くなるために!」
そう言って、ユキノさんはスマホを取り出し。
「待ち受け!一緒のやつにしませんか!?二人の写真に!」
「なるほど」
それはいい案だ、と思って、私も鞄からスマホを取り出す。一個、二個、三個…。
「カフェさん、そんなに沢山持ってるんですか……?あれま〜……」
「分けておいた方が、便利ですから。……さて、どれから撮りますか?全部の待ち受け、用意しなければなりませんよね?」
「……う、うん!がんばっぺ!シチーさんよろしくの撮影会!」
その日。マンハッタンカフェの持つスマートフォンの待受画面は、全てユキノビジンとのツーショットに塗り替えられた。……ある一つを、除いて。