【本編完結】Take me to paradise.─Scenario of Manhattancafe(prototype). 作:春華ゆが
夢日記をつけてみようと思う。きっかけは単純で、私が夢を見て飛び起きたというだけ。精神の不安定に繋がるとも聞いたが、上等だ。私は危うい地点に立って、安寧という退屈からはかけ離れていたいのだから。
寝ぼけ眼は擦らない。普段起きたら必ず行うであろうルーティンは一つも実行しない。何故か? 私が夢の内容を覚えているためには、私が寝ていた時の脳を出来るだけ弄ってはいけないからだ。脳が目覚めれば瞬く間に記憶の回廊が動き出し、行き場を失った夢の思い出はその大移動に揉まれて粉々になってしまう。
さて、今日見た夢を文字に起こす。断片的に書き連ねる。「私は化け物を殺戮する存在だった」「私は人型の生き物に会った」「憎悪に駆られて何度も殺した」「繰り返していると突然私は崩れ去った」「粉々のブロック状に切り分けられた」「殺した生き物は私をせせら笑いながら蘇った」
覚えている限りを散文的に書き留める。心伝う奈落とそこにあった恐怖をなんとか生かそうとする。支離滅裂であったとしても、夢は一人の空想が作り出した物語なのだから。私は物語に消えて欲しくないと願う。
しかし、やれやれ。もう書くことは無くなってしまった。しかもここに連続性を感じられているのは未だ夢の感覚が私に残っているからに過ぎなくて、明日になればこの記述は文字通り行間にあったナニカを失ってしまう。そんな行為に意味はあるのだろうか? 頭の4割を微睡みに支配されながら、途方もない行方もない哲学に思いを馳せる。
夢は何らかのメタファー、あるいは単に現実のオブジェクト化。そういうものだとも聞く。この夢は現実の何かしらに自分が意識を向けていることを示唆するものなのだろうか?
私が現実で、こちら側で重要に見ているもの。それは言われずともわかる。レースと、女優。別々の私を創り出し、退屈から救い出してくれるものたち。そして、トレーナーさんだ。……この3つの中に、私が殺した夢化け物の本質があるのだろうか。そこにあったのは嫌悪で、どれにも相応しくない気がする。掠れ始めた記憶をゆっくりと炙り出す。
恐怖があったはずなのだ。蘇り嗤う怪異に対して。諦めがあったはずなのだ。どこかで無駄だと思っているから、その願い通りに夢は運ばれる。夢というのは時折恐ろしい光景を見せてくるが、そこにある感情は常に「ああ、やっぱり」という絶望で。夢で起きることは、想像と想定の範疇を絶対超えないようにできているのだから。
※
言い換えれば、私が弱気だから夢の中の化け物に打ち勝てなかったということになる。……私が弱気。そういえばそんなことは考えたことがなかったな。でも、心当たりはある。私が今恐れているもの。
私を拒絶する、トレーナーさん。夢の中の脅威を、そう結論づける。まだ頭は起きていない。もう少しだけ、夢を探ってみよう。
様々の手段を夢の中で講じた。その恐怖すべき対象を討ち滅ぼすため。戦法、道具、心構え。けれど全ては平等に無に帰して、悍ましい人型はそこに立っていた。これはどうしようもないということの表れというより、私が全て無駄だと思っていることの表れだろう。夢の中に本来不可能はない。可能性は自分自身にしか閉じられない。
私を拒絶するなら。別れを告げられるなら。私は君を恐れずにはいられない。君だけが、私と君を別れさせることができるのだから。そんなことはないと表では信じているが、心の裏にはそのことへの恐怖があった。これはつまり、私は君を信じ切れていないということだ。そのような可能性を頭に残しているという事実は、そんな弱い自分を曝け出す。
また、眠気が襲ってくる。夢日記はいよいよ文字の形すら怪しくなってくる。つけ続けるべきなのだろうか。私の弱さを明らかに出来るだろうか。明らかにしたいだろうか。
まだ少しだけ、夢の感覚が残っている。人型を見つけた時に覚えた使命感。殴り削り血が出なくなるまで傷をつけ続けたときの焦燥感。当たり前のようにズタズタの死体が再び人型となって立ち上がった時の諦観。
私にはやらなければならないことがある。そして、私にはそれをやらなければ大変なことになるという不安がある。最後に、私はどうやってもその不安が現実化するのを抑えられない。
そう夢を抽象化して心の動きだけを取り出すと、答えはシンプルに近かった。
トレーナーさんが私を拒絶することへの恐怖。それは、去りゆく時間に対する畏れに等しい。タイムリミットがどこかにあって、今の日々は永遠ではない。いつかどこかで別れが来てしまう。私自身が永遠という退屈なゲームを望んでいないのだから、永遠を信じられない夢が浮かび上がるのも当然のことだ。
或いはそれは真逆かもしれない。君を信じられなくなる私が、またどこかに潜んでいる。今の私を嘲笑うために巣食っている。あるいは嘆きながらのさばっているのだ。
でも。不安とは全て、期待の反転。紙一重の同位体。思考の揺れが、この感情をポジティブに活用してくれるかもしれない。だから。私は私自身を全て映す鏡として、この感情たちを捨て去らないようにしよう。
勇気は恐怖からしか生まれないのだから。君のために、君に立ち向かおう。いずれ、別れを告げる時が来るとしても。
夢日記を記そうとすれば不思議と夢を見れなくなるもので、ページは一向に進まない。とはいえ夢を見ようとして睡眠の質を落とすのは馬鹿らしい。しかし一日だけでも収穫はあった。夢として現れた自分の奥底にある恐怖。それを忘れることなく過ごせている。
夢を見つめることで、己を剥き出しにする。寝ている間は無防備なものだが、それは思考も変わらない。私には珍しいくらい感情の起伏が出来上がる。だから気づけなかったはずの思考回路にも気づき得る。
私はトレーナーさんが怖い。君が私の前から去るのが怖い。もう君なしでは生きていけないのに、そんなことを思ってしまう。もし楽園へと辿り着いたなら。君と私の繋がりはそこで終わってしまうのだろうか。そんな不安が最近止まらない。
引退という言葉がいつかは私にも迫り来る。その時の私はもう、トレーナーさんを必要としていないのだろうか。それは成長だとしても、私はそれが嫌でたまらない。この感情を過去にしたくない。全て持ったまま、歩んでいきたい。一つだって捨てていいものはないのだ。恐怖さえ、私は背負うと決めたのだから。
それはきっと矛盾を孕む。私は己で己を傷つける。だとしても。別れを恐れて何がおかしいだろうか。立ち止まることを恐れて何か間違っているだろうか。私は普遍的な感情を持っているに過ぎない。その深度が病的と言われようとも、その方向はありふれているはずだ。
自己矛盾。私が夢から得た見識が、それ。私は確かに君と歩んでいきたいと思っている。私はそれでも歩みの先にある別れを拒絶している。これが大元の矛盾だが、無数の板挟みが他にも鏤められている。つくづく醜い存在だと自嘲する。
美しい個別のパーツを気にするあまり、その全体像はグロテスク極まりない。それが自己矛盾の先にある人物像で、私はそうなることを受け入れてすらいるかもしれない。ああ、でも。
そうなってしまっては、君の横にいるのは相応しくないかもしれないな。私はあくまで、君の隣に居続けたい。永遠に。永遠というものをつまらないと散々嘯いていた私は、ここでまず大きな矛盾を露出する。あまりにも滑稽。醜悪。見せ物にすらならない。
私はどうすればいいのだろう。虚空に石を投げ込んでも、一つの波紋も浮かばない。私はどうしても、もう無駄なのかもしれない。順当にどこかで立ち止まり、楽園に辿り着けず。摩天楼の頂上へは至れず。そして君と離れ離れになる。既に私の運命はそう決まっているような気すらした。追い縋れば。
例えば君に追い縋れば、君は私と一緒に居続けてくれるだろうか。走ることは出来なくなって、一緒に居る意味を失って。それでも、私を看取ってくれと頼んだら。全てを棒に振って、君は私と共に暮らしてくれるだろうか。
そうであってほしいと黒い囁きが聞こえる。君にはずっと、私を見ていてほしい。絆や信頼、そんな綺麗な言葉ではない。でも、かけがえのない存在になりたい。君なしでは私が生きていけないように、私も君の心臓を掴んでいたい。
そんなことは赦されないと、わかっているのに。私たちは楽園へと行くために契約した。私はその景色を見たいと願っている。それは今も揺るがない。揺るがせてはいけない。そのはずなのに、どうして正反対の欲求が呼び覚まされるのだろう。
今すぐ自分の脚を粉砕して、君に車椅子を押してもらいたい。私の一部は、確実にそう願っている。
※
我々の走りが捕食者の歩みだとすれば。1人抜き去るたびにその喉笛を掻き切り、最後の勝利は血みどろと屍の上に成り立っているとすれば。それでも走り続けられるだろうか。
捕食者は罪を重ねる。殺さなければ生きていけないから。自らの生を他者の生よりも上だと断じたから。血を啜ることが我々の美徳であり、草を食むだけに飽き足らない者と己を説いているのだ。
けれど誰か一人。最後に一人だけ生き残るとすれば、それは捕食者ではない。肉を食らう以上必ず一人では生きられない。老いれば捕らえられず、そもそも獲物がいなければ飢えるしかない。
だから私は、限りある生を生きるのだ。誰も捕まえられない捕食者に価値はなく、その後に生きる意味はない。生殺与奪を握るが故に、儚い炎を瞬く間に燃やす。
追いつけないほど速い獲物もいる。例えば光を超えるそれには追いつけない。たとえ私の黒が光すら飲み込む闇だとしても、超光速はその重力すら脱するのだ。だからそれを追いかけるのは無駄なのだろうと、私は密かに思い込んでしまっている。
それでも、我々捕食者には掟がある。常に飢え続け、必ず追い続けよ。そうでなくてはどこかで満足し、あっという間に命を枯らしてしまう。私に止まることは許されていない。
※
そうして鏖殺の罪を重ね、捕らえきれない逃亡者を目の当たりにし。絶望と失意の中で無為に帰すのが定め。そういうことになっている。だから。
だから、そんな大罪と敗残に包まれた私が楽園を目指すなどというのは。太陽に焦がれて身を焼かれたイカロスのような話であって、烏滸がましい思い上がりなのかも知れない。
それでも私は楽園を目指している。何故か? 当然。君がいてくれるからだ。私一人では届かず失墜するしかない天上の園に、君がいるから手を掛けられる。私は哀れな捕食者の定めから、赦しを得て解き放たれる。救済を得て、楽園へと羽ばたける。
そう信じている。そうでなくてはいけない。何故なら君がそう信じている。ちっぽけな私を、連れて行けると言ってくれている。
君が掲げる大翼は、罪深い私さえも拾い上げられるに決まっている。他ならぬ君の願いが、叶わないはずがないのだ。
でも。もし。私が楽園に届かないとしたら。あり得ないと信じているけれど、もし。そうであるなら、それは私の罪悪だ。私が抱える罪を過少に信じていたからで、断じて君を過剰に信じていたからではない。
救えないほど罪深い捕食者が哀れなのであって、救えないモノを救おうとした君が愚かなのではない。だから私は、これ以上罪を重ねるわけにはいかない。つまり、誰かを抜き去り悲しみに暮れさせるべきではないのかも知れない。他者の競走生命を一撃の下に奪い去るべきではないのかも知れない。
そうだとしたら、私が走ることは間違っていたのだろうか? 私の走りは捕食者の歩み。殺戮と死の頂点に座する。誰もが持つ夢を踏み躙る。あるかもわからない楽園への糧と嘯き、咎を重ねる。
まだ、時折言われる。女優として既に生活を得ているのにも拘わらず、レースに身を投じることの強欲さ。二兎を追い、得ようとする傲慢さ。謂れのないバッシングとは思わないし、全てに目を通している。
それでも私に正しさがあるとすれば、君の行動を肯定していることに尽きるだろう。だから私には、君がいなくてはいけない。君が連れて行ってくれなければどこにも行けない。独りでは煉獄にすら辿り着けない。
偶に、不思議に思うことがある。君はどうして私の傍にいてくれるのか。私は醜く、浅ましく、穢らわしい。
何度も何度も君の存在を求めてしまう。普通ならとっくに飽き飽きしているはずだ。私だけが、飽きずに同じことを繰り返そうとしている。
それほどまでに君を何かで縛り付けて、動けなくしているのだとしたら。喜ばしいことなのだろうか。常識と理性は反論するが、私の獣性はそれを悦ぶ。ああ、君はまだいてくれる。君のことなら、骨まで喰らえそうだ。
そう、そうだ。私の本性は。優しく寄り添う君の腕を、骨ごと噛んで飲み干そうとしている。
あまつさえ、かけがえのない存在まで。ただの餌としか見ていない。喰らい、砕き、血を吹き出す様を見たいと願っている。
なんて、救いようがない。
これが愛だというのなら、獣欲を愛だと名乗るなら。私はもっと情けなく叫び、弱さを晒さなければならないのに。いつまでも捕食者を気取り、欲求を満たす道具としてだけ君を使い尽くす。
だから、本質的に。根本的に。弱さも強さも持たない私は、人を愛する権利のない獣なのだ。私が抱える最大の罪。何人の夢を砕こうと届かない。欲に欲を重ねても見劣りする。
君を愛してしまったこと。それ以上に、獣の抱える罪はない。
※
「ねえ、前から気になっていたのだけど」
「どうした、タキオン」
カフェの指導について、タキオンと会話をしていた時。藪から棒にタキオンが問う。
「キミ、カフェについてどう思ってるんだい? いやあんまり私もトレーナーとウマ娘の関係について詳しいわけではないけど、君たちの距離感が正直よく分からなくてね……」
「ああ、それなら」
それなら答えは簡単だ。
「俺は彼女と約束したんだよ。彼女を、連れて行く」
だから、例えるなら。
「そうだな……俺はカフェが羽ばたくための翼の一部になれたらいいと思ってる」
付かず離れず、己の身体のように扱って欲しい。
「俺の意思はいらない。彼女が思うように動くために、俺はいる」
「……なるほどねえ」
飛び立つための翼。それは白だとすれば、彼女の黒とは普通なら決して相容れない。でも。俺がその継ぎ接ぎを担えば。彼女に翼を与えられる。
「身体の一部、か。それで満足なのかな」
「ああ、もちろん」
「ふぅン……果たしてそのスタンスはどうなるのか。興味深いと言っては少し失礼かな」
「だから、そのためならなんでもするさ」
彼女が目指す楽園へは、まだまだ程遠いのだから。
「まあ私としても協力は惜しまないとも。カフェは優秀だ。そして君も、優秀だと思っている」
「俺はカフェのためにいる唯一のトレーナーだ。俺に優秀なところがあるとしたらそれだけで、あとはへっぽこの半人前だよ」
「……なるほど。私も久しぶりにモルモット君の様子でも見に行くかな……。じゃあね」
そう言って、アグネスタキオンは部屋から出ていった。
「トレーナーと担当ウマ娘の関係、か」
元はといえば、俺とマンハッタンカフェは全く別の世界の人間だ。少し前まで俺はトレーナーですらなかったし、彼女は芸能界で輝くスターだった。それが何の因果か、こうして契約を結んでいる。
途方もない存在である彼女に対して、俺ができることは何か。それを考えて、考え尽くして。きっといつか、彼女を楽園へと連れて行く。そして、辿り着ければ。
役目を失った羽根は焼け落ち、朽ち果てても構わない。
失楽園の漆黒は、接がれた翼で光を覆う。
Interlude:Actress.
「死ね!死ね!ねえ!はやく死んでよお!」
「なぁカフェ……」
ある日のこと。
「なんですか?」
担当ウマ娘であるマンハッタンカフェと共に、彼女の出演したドラマを観ていたのだが。
「あは、あはは。やった、やっちゃったあ……」
画面に映るのは、血糊をべったりとつけた女優マンハッタンカフェの姿。
「……いや、ちょっと怖いな……」
「トレーナーさん、これはフィクションですよ」
正確には、隣に座る少女がなんの意図でこれを俺に観せているのかわからないのが怖い。ズタズタにされた男がもし自分だったらなどと思ったりはしないが……。
「これで、あたしはひとりぼっちだ。やっと、やっとひとり」
「結構お気に入りの役だったので、見てほしいと思ったのですが」
隣から少し気落ちしたような声が聞こえる。その変化は僅かだが、もうこれくらいなら声色の差を感じ取れるようになった。
「うん、でもこの子の気持ちはよくわかる。難しい役だろうに、さすがだな」
やっとひとりぼっち。そう言った画面内の少女からは、晴れやかな感情が読み取れる。でも。
「……この子は誰か、わかってくれる人が欲しかったんだ。それがあの芝居だけで伝わった」
「……ええ、その通りです」
一見すれば、このドラマに出て来るマンハッタンカフェは愛と血に狂った少女の役だ。男の存在にうんざりして、殺してしまった。
「台本から逸脱しない程度に、細かい色を付けていく。演技における醍醐味ですから」
本当は誰も愛せなかった。愛してもらえなかった。そんな情景が、彼女の演技によって色付いていく。
「……すごいな、カフェは」
「お褒めいただき光栄です。…そうだ」
カフェが目の前へやって来る。黄金色の瞳が、吸い込むように見つめる。
「……今度、歳上の男性に恋する役をやるんです。そのきっかけとなる事柄が一つあるのですが、経験がなくよくわからなくて」
「俺が力になれるのか?」
彼女の演技は研ぎ澄まされたもので、俺に何か手を加えられるだろうか。
「簡単です。頭を撫でて、えらいぞと」
「……なるほど」
少し気恥ずかしいが、それくらいお安い御用だ。
「偉いぞ。よく頑張った」
さすり、さすり。艶やかな黒髪を撫でると、彼女の耳がぴくぴく動く。緊張でぎこちなく、俺にはやはり演技は向いていないようだ。カフェはというと目を閉じている。演技に活かすため、感覚を集中させているのだろうか。
「……カフェ、どれくらい撫でたら」
「もう少し。もう少し、しばらく。お願いします」
本当はすこし、嘘をついた。そんな役の話など回ってきてはいない。
そのまま、幾億の時が経って欲しいような。
目を閉じていれば、永遠にすら続きそうな気がした。