続きました
「率直に聞こう。キミは、何故走った?」
物々しい雰囲気を放つ、校内のとある一室にて退院直後の俺に詰問しているのは日本ウマ娘トレーニングセンター学園理事長、秋川やよいその人だった。
この部屋──理事長室には、普段なら一端のトレーナー風情は足を運ぶことすら無い。わざわざここに呼ばれたということ、それ自体が話の重大さを物語っている。
問われているのは紛れもなくナリタブライアンとの「競走」についてだろう。
こうなった以上、下手に誤魔化しても逆効果か。
「……少し、身の上話になりますが────」
────────────────────
「遅かったな」
部屋から出た俺を待ち構えていたのはナリタブライアンだった。いつもと変わらない様子で腕を組み、壁にもたれかかっている。
俺は両親以外に初めて「声」のことを打ち明けた。走っている最中、体に降りてきた”何か”についても。
転倒した後何か重要なことを夢で見たような気もするが、朧気にしか覚えていない。四足歩行の……動物だろうか……?そんな影が記憶の端にチラつく。
恐らくかつて存在したウマ娘たちが遺した『走りたい』という思いが積もり積もって何の因果か俺に宿り、力を与えていたのでは──というのが俺個人の見立てだ。
無論、バカ正直に言ったところで信じてもらえるとは思っていない。通常ならば心療内科にでも叩き込まれるのが関の山だ。
しかし俺が走ったターフには血痕が残っていたらしく、おまけにあの日は昼間だったことから目撃者も多かったようでほとんど与太話に近い俺の証言も予想以上にすんなり受け入れられた。
何よりあの大怪我から何事も無かったかのように立ち直った時点で現実離れしている。度重なるイレギュラーに理事長も頭を痛めている様子だった。
学園内でも俺についての噂が少しずつ広まりつつあると理事長は言っていた。
さらに確たる証拠として監視カメラに血を吐きながら駆けている
「大怪我を負うとは予測できなかったのか」「仮に問題なく走ることが可能だったとして、多感な時期に置かれている彼女達ウマ娘が”人間”に追い抜かされたことで動揺、またはショックを受けるとは思わなかったのか」
などと問い詰められたが俺の
物心がついた時から『走れ』と囁かれ延々と耐えてきたが気が狂いそうだった。我慢の限界だった。今も声が聞こえて走りたくて仕方がない、と半ば本音混じりに訴えたところそれ以上の追求はされなかった。
通常なら考えられないようなありえない事態に迅速かつ的確な対応を取ることができる理事長の手腕を少し憎らしく思ってしまう。なにせ、俺は走ることを再び禁止されてしまったのだから。
「で、どうなった」
「どうもこうもない。走ることを禁止された」
戒告処分と禁止令だけで済ませてくれた辺りかなりの温情だとは思う。が、それはそれとして相変わらず──
『走れ、走れ』
声は聞こえる。つまり、俺はレースを望んでいる。
噂はあくまで噂。映像が拡散されているわけでもないので、しばらくすれば生徒が面白半分で広めた怪談話として片付けられることだろう。
ターフに付着した血液は既に洗い流されている。あの場にはウマ娘以外に他のトレーナーや用務員の人も居合わせていたようだが「一人の男がナリタブライアンと並走していた」などという話を言いふらしたところでまともに信じる者などいない。
……俺が再び走らなければ、の話だが。
「そうか」
眉一つ動かさず俺を見据えるナリタブライアン。何故何も聞いてこないのか、何故俺を待っていたのか、疑問に思うが次の瞬間、その思考はあっさりと打ち切られた。
「明日だ。明日の夜なら生徒会も暇になる。放課後の方がアンタも都合がいいだろ」
そう、小さく呟かれ思わず目を剥く。
「いいのか?」
「ああ」
「そうか」
たったそれだけのやりとりで一切の躊躇は消え失せた。生徒会副会長ともあろう者がそんなことをしていいのか、俺がもう一度走りたいと思っていたことを見抜けた理由、そんなものはどうだっていい。
俺は飢えていた。レースに。勝利に。闘争に。
コイツと再び
────その後は、どうなる?
理事長は──ナリタブライアンには念の為このことを伝えてある、と言っていた。
流石に
生徒会副会長の身でありトゥインクルシリーズの真っ只中に置かれているコイツが、何故それを承知の上で俺と戦おうとする?
歩き出したナリタブライアンの背中を見やりながらふと考えた。しかし、
『走れ、走れ』
僅かに息を吹き返した罪悪感は、やがていつもの声に埋もれて見えなくなった。
────────────────────
「まだ他の子もちらほらいるな……どうする?」
「構わない。
放課後にやってきたのは前と同じ芝2000mコース。気のせいだろうか、いつものナリタブライアンと比べ切羽詰まった様子に見える。
『走れ、走れ』
まあそれもどうだっていいか。コイツとまた走れるんだ。それ以外に考えることなんて無い。
今回こそは、最後まで。
────────────────────
スタート地点に立つ。周囲から視線を感じるが俺もナリタブライアンも気にしてなどいない。
他の子を巻き込むわけにはいかないので携帯端末のアラームを合図にすることになった。
息を吸い込む。そして
『「──────」』
記憶が降りてくる。今だけ、■は自由だ。
「──────?」
風が吹き荒ぶ草原の香りがした。
前はこんなことは無かったな、と首を傾げたのも束の間。アラーム音と同時に■とナリタブライアンは勢いよく駆け出した。
────────────────────
「確保ッ!」
第一コーナーか第二コーナーを回った辺りで少女の声が聞こえた。思えばスタートしたすぐ後からナリタブライアン特有の威圧感を感じない。
「────え」
気づけば目の前には「白」が広がっていた。避けることなど、走っているだけで精一杯な■には叶わない。
何だこれは?と認識するよりも早く■はそれに飛び込んだ。
柔らかい。毛布?パラシュート?のようなものに包まれている。いや、そんなことよりも、
──────また、走り切れなかった。
「……やはりこうなったか」
少女の声が聞こえる。身体から何かが抜けていき──ブラウン管テレビの電源を切るように──ぶつり、と意識は黒く閉ざされた。
────────────────────
以前よりも遥かに短い距離しか走っていなかったため命に関わる程の重傷、ということはなかった。
それでも”降ろした”影響で足の筋肉はズタズタ、骨には至る箇所にヒビが入っていたこともあり医者(前と同じ先生)からは大目玉をくらった。
あの怪我から治っただけで現代医療の根底をひっくり返す程の奇跡だというのに何故またこんな無茶をしたんだ、だのなんだのとこっぴどく叱られ、やっとこさ解放されたかと思えば今度は理事長室に呼び出された。
「…………」
「…………」
俺と目を合わせるわけでもなく、理事長は窓に向かって立っている。
向こうが黙っているので俺は何も言えない。弁解する気も特に無いのでこちらとしては下される処分を待つだけだ。
戒告処分を受けた次の日にこんなことをしたんだ。良くて出勤停止……もしかしたら解雇も……考えすぎか?
もしそうにでもなったら────どうやって走ろうか。いっそのこと一人でも……いや、せめて誰か競う相手が欲しい。
そんなことを考えていると理事長は静かに語り始めた。
あの夜からナリタブライアンは口を閉ざしたきりで、同じ生徒会の面々に問い詰められても何一つ答えようとしないらしい。
俺が無断で走ろうとするのは既に読んでいたので少々荒い手段をとらせてもらったとのこと。理事長の鋭さには改めて舌を巻かされる。
さて、どうしようか。
トレセン学園がダメなら海外で野良試合でも挑むか?当然まともに相手などされないだろうが……かくなる上はこの力を────
「キミは」
ビックリして肩が跳ね上がってしまった。そういえば今は理事長が話している最中。意識の外にはみ出していたがたづなさんも同じ部屋にいた。
「仮に
図星だった。あまりにも的中しているものだから声も出せず、息を呑む。
ようやく振り向いた理事長の表情は、かつて見た事がない程に苦いものだった。
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「ほ、本当に……いいん、です、か」
「………………ああ」
思わず膝をついた。頭を垂れ、泣き喚きながら感謝を述べた。
自分より年下の少女に跪きみっともなく涙を溢れさせてしまったが、そんなことは微塵も不快に感じない。
これまで歩んできた人生の中でここまでありがたいと、嬉しいと、生きててよかったと思ったことは無い。
とにかく感謝を伝えたかった。謝りたかった。喜びで胸がいっぱいだった。
「ちょ、ちょっと待ってください!もしそれでトレーナーさんの命に関わるようなことでもあったら……!」
「……全責任は私がとる」
たづなさんの言うことも尤もだ。なにせ理事長は、俺を
もちろんウマ娘として登録はできない。俺が正式な舞台に立つことなど、トレセン学園理事長の権力を以てしても不可能だ。
しかしこのままではいくら重い処罰を与えようとトレーナーを辞めさせようと俺はまた同じ事を繰り返す。そうなればいずれ外部にも情報が漏洩する。
ならばいっそのこと学園内で走らせ、その記憶や経験をトレーナーとしての指導に活かさせる。
しかし中途半端に隠したところで俺が走り続ければ生徒間での噂は広まり、やがて学園の外にも拡散されてしまうだろう。現に二度の疾走とターフに残った大量の血痕によって噂を本気で信じ始めた者や不安に感じる者も増加している。
あの夜は血を吐いていないが、ナリタブライアンと一回目に走った時は真っ昼間だ。トレーニングに励むウマ娘も多い時間帯。
普段自分たちが使用している場所におびただしい量の血液が飛び散っていたともなれば精神的に傷を負う子も少なくないだろう。ましてや彼女たちは中高生だ。色々と繊細な時期だというのに、俺は……。
心から申し訳なく思う。退院した後あの場に居合わせた子たちには平身低頭して謝罪した。しかし相も変わらず『声』は聞こえる。「走りたい」という衝動はもはや罪悪感や責任感では抑えきれない所まで来てしまっていた。
話が脱線してしまったがとにかく下手に隠蔽するよりも大々的に学園内レースを開催し、生徒に数々の名ウマ娘の実力を体験させあるいは見学させて学習させる方針にしていく────ということらしい。
「……それなら、トレーナーさんのお体のことも考えて短距離レースを組む……ということでしょうか」
「いや、俺は多分中距離でしか
いつかたづなさんにも謝らなければならない。
俺は今嘘をついた。恐らく短距離やマイル、体のことを考えなければ長距離用に「脚を作る」事も可能だろう。
だが……俺はどうしても中距離で走りたい。
まだナリタブライアンと決着がついていない。それまではどうしても退くわけにいかないんだ。
「しかし、レースを開くとしてもメンバーは……」
そこが疑問だった。俺という得体の知れない男と走ってくれるウマ娘など果たしているのだろうか?
「……既に一人、出走を決めてくれた者がいる。それは────」
────────────────────
「私だ」
「どういう、ことだ……?」
ようやく長い尋問が終わったかと思えば唐突に学園内レースが開催されることを知らされ、有り体に言うと私は混乱していた。
あの男と……他の奴らが……走る……?
「ああ、もちろん君が望めば出走登録は可能だ。彼は元々君のトレーナーだからな。そうだろう?ブライアン」
当然だ。アレは私が超えてみせる。そんなことよりも何故アンタが、ルドルフが出走メンバーに入っている?
「大した話ではないさ。生徒会長として、生徒の模範たる者として先陣を切っただけに過ぎないよ。────いやしかし、道半ばで倒れたとはいえ君を下した相手と競い合えるんだ…………ふふっ、正直なところ、少し高揚しているのかもしれないな」
「……意外だなルドルフ。アンタと言えど、血は騒ぐものらしい」
「ふふふ……君たちと
”皇帝”ともあろうものが、闘争心を剥き出しにして微笑んでいるとは、な。
なんでもいい。誰が相手だろうと全員まとめてブッちぎるだけだ。奴との決着は、誰にも譲らん。
────────────────────
その後、全校集会という
当然、「ウマ娘並の速度で血を流しながら駆け回る男がいる」などという戯言を鵜呑みにする者はそれほど多くない。
それを無理矢理信じ込ませる為、全校生徒に俺が走っている映像を見せつけられた。何気にあの夜ちゃっかり撮影していたらしい。監視カメラの映像は刺激が強すぎるということで使えなかっただとか。
しかしいずれにせよ本番では一人の人間が血を吐き重傷を負うというかなりショッキングな光景が展開されることになる。
一応あの夜のようにゴール地点にて数人がかりでクッションを広げ、走り切って満身創痍の俺を受け止める、という寸法らしいが途中で転倒でもすればそれも意味を成さない。
この件に関しては理事長も生徒会長も苦虫を大量に噛み潰していた。
ということでこのレースはあくまで「自由参加」。観戦も出走も生徒一人一人の判断に委ねられる。
しかしここで注目を浴びたのはあの”皇帝”が、シンボリルドルフが出走するという点だ。良くも悪くもこのレースへの関心が寄せられる。
さらに続いて名乗りを上げたのがナリタブライアン。出走登録は早い者勝ちではあるが、あまりの面子に生徒達も気が引けている様子だった。そもそも一人の男とレースをするという時点で参加しようと思っている子は限りなく少なかったが。
レースが始まるのは半年後。それまでに出走メンバーを集め、「力」を使った際の負荷を減らせるように体を鍛えることが俺に与えられた役割だった。
仮に参加者がこれ以上現れなかったとしてもレース自体はやってくれるらしいのでそこまで心配はいらない。そもそもこれはただの野良レース。選手達の戦績やURAという組織に関わってくることは無い。
そして、
「──うん。楽しそうだね。せっかくだからアタシも出走しようかな?」
全校集会の直後に決まった四人目のメンバーは、まさかの三冠ウマ娘、ミスターシービーだった。
「とっても”自由”で”楽しそう”なレースだなって思ったんだ。久々にルドルフとも本気でやれそうだし────キミも自由なレース、好きでしょ?」
まるでこちらの真意を見抜いたような言葉に思わず笑ってしまった。確かに俺は「自由」が欲しい。またあの走る喜びを味わえるなら、俺は────。
その後は「お互い楽しい走りにしようね〜」と言いながらミスターシービーは去っていった。凄まじい実力を持ちながら自由奔放なことで有名な彼女と競い合える。そう実感すると共に抑えきれない程の闘争心が湧いてきた。
────────────────────
「姉貴も出走してくれ。頼む」
「…………」
少し前から疑問に思っていた。何故ブライアンは自らのトレーナーである彼と走る事にここまで固執しているのだろうかと。
彼が重傷を負い病院に搬送された日のことは……当分忘れられないだろう。
あの取り乱し様は酷いものだった。普段からは想像もつかない程に見開かれた両目から大粒の涙をこぼし、私に縋り付きながらも何処かへ行こうとして……完全に錯乱していた。
私が昔そうしたように優しく撫でてやると少しは落ち着きを取り戻したが、それでもしばらくの間は震え続けていた。
明らかに何かがおかしい。
私が知る限りそのような状況──例えば誰かが怪我をして意識を失っている場面など──に出くわそうと冷静に処理できる肝力が彼女には備わっている。
昔の幼く泣き虫だった頃ならまだしも……これではまるで、何かのトラウマを刺激されたような……。
……あくまで第三者視点なので詳しくは分からないが、彼とブライアンの関係はそこまで深いものには見えない。彼の方から直接踏み込んでくるわけでもなく、一匹狼な所があるブライアンがアプローチを起こすこともない。仲が悪い、というよりもお互いに発展しない、という言い方が正しい。
彼女が親しかった異性と言えば……それこそ昔近所に住んでいた少年……ぐらいだろう。
私が不慮の事故によって入院していた間、彼はブライアンに対して兄弟のように接していたらしい。人見知りな妹があそこまで嬉々として兄ちゃんが兄ちゃんがと友人について語ってくれたのはアレが最初で最後だった。
姉である私以外の誰かと、しかも「かけっこ」以外の事で打ち解けているということが衝撃的だった。
近所付き合いもそこそこということで面識はあったが話したことは数える程しかない。退院したら妹と仲良くしてくれたことへの礼でも言おうかと思っていた矢先、彼は突然引っ越してしまった。
訳を聞こうともしてみたがブライアンはただただ泣きじゃくるのみ。私がしてやれるのはそんな妹をなだめることだけだった。
後にも先にも彼女がレース関係無しに心を開いたのはその少年ぐらい────いや、まさか。
「まさか……彼は、お前が言っていた……」
「……とにかく、頼む」
「待て!話は終わって────」
私が言い終わるよりも早くにブライアンは立ち去ってしまった。
……仮にあのトレーナー君が昔近所にいた少年だったとして、彼女にとって少なからず重い存在だったとして、何故彼と走る事にそこまで執着する?
聞くところによるとブライアンは彼が重傷を負った現場に居合わせていながらも彼が退院した次の日の夜に再び勝負を挑んだらしい。
彼を走らせれば怪我をさせるリスクも必然的に高くなる。それを当事者のお前が知らない筈がないだろう。
例のレースは彼抜きにしてもいい経験になる。私とて参加することもやぶさかではないが……。
……お前は彼に何を求めているんだ?
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「ふッ……、ぐ……!」
「……弱いんだな。アンタ」
100キロを優に超えるバーベルを苦もなく上げるナリタブライアンの横で、人間用に調節したソレに苦戦しているのが俺だった。
少しでも怪我のリスクを減らせるように俺は体を鍛えなければならない。しかしレース場から離れたら俺もただの一般人。ウマ娘の身体能力には遠く及ばない。
だとしてもせめて最後まで走り抜けるぐらいには力をつけておきたい。そうすれば「彼女たち」をより深くより多く”降ろす”余裕も増えていく筈だ。
そんな感じで近頃はナリタブライアンに指示を出し、ナリタブライアンと共同でトレーニングに励む……というなんとも奇妙な生活を送っていた。
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「いくらなんでも少食すぎないか?もっと食ったらどうだ」
「お前らと比べられても──ってオイ。サラッと野菜持ってくるな」
「…………チッ」
共に練習をするようになったことで共に食事を摂る機会も自ずと増えていった。
一応知ってはいたがそれにしてもナリタブライアンは食べ物の好き嫌いが激しく、よく自分の皿に盛られた野菜を俺の方に移してくる。毎度毎度すぐにバレては戻されるというのに中々懲りない。
相変わらず俺とコイツの間に会話らしい会話は少ない。トレーナーとしてもう少し親睦を深めた方がいいのだろうが、元々ナリタブライアンとはお互いに深く踏み込まないという条件付きで契約を結んだ。
……まあ要するに、俺は相手の性格を言い訳にしてコミュニケーションを図る努力を怠っていたということだ。
一応見舞いに来てくれただけ最低限の信頼関係は築けて────いや、よくよく考えてみれば自分の専属トレーナーが倒れたら色々と聞きに行くのが当然か。
『走れ、走れ』
気を削がれる。食事中だろうとお構い無しに囁いてくる声の前に走る事への欲望ばかりが膨れ上がり、思考が徐々に支配されていく。
…………そういえばあの場にいたウマ娘への謝罪に向かった際、ナリタブライアンを心配する声が多数寄せられた。
今のところ入院前と退院後を比べてもコイツが何か変わったようには感じない。ドライな態度は変わらず、俺から行動を起こすことも無い。
俺が倒れた瞬間にナリタブライアンがどんな顔をしていたか、どんな様子だったか、俺は知らない。ただ最後まで走り切れなかったことへの無念だけが、今も残っている。
────────────────────
食事後に廊下を歩いていると、芦毛のウマ娘二人組とすれ違った。タマモクロスと……オグリキャップか。両者共に中央においても指折りの実力者で─────
『神■■る。■う■■た』
「──────オグリ、キャップ……?」
「ん?オグリキャップは私だが……キミは、確か……」
不意に呼び止めるような形で呟いてしまった。何故かは分からない。ふと脳裏に浮かんだ言葉が、彼女を呼んでいる────そんな気がした。
「今度の学園内レース、君達も参加してくれないか」
迷いは無かった。
────────────────────
タマモクロスには断られてしまったが、それも仕方の無いことだと思う。むしろこんな怪しいレースに二つ返事で出走を決めてくれたオグリキャップが少し心配になるくらいだ。
もちろん、ウマ娘一人の一存で出走登録を決められるものではない。彼女のトレーナーにも話を通し、許可をとった上で行なったことだ。
改めて本当にありがたいなとしみじみ思う。
シャドーロールとはなんだ?確かにナリタブライアンは”怪物”と呼ばれている。しかしそんな言葉は一度たりとも聞いた事がない。
気になって色々と調べてみたが、シャドーロールという物は
……いや、そんなことを気にする必要は無い。
オグリキャップとも戦える。そうだ。レースに向けてやらなければならないことは山ほどある。
今はその為に手を尽くそう。今も昔も、俺は走る為だけに生きてきたのだから。
───────────────────
「は……ぁ……っ、は、ぐ」
倒れ込んだ俺を夕日が照らしている。投げ出した五体に伝わる砂の感触がイヤに鮮明だ。
夏合宿の時期を迎え、俺は密かに砂浜でのトレーニングを行っていた。昼間はトレーナーとしてナリタブライアンに指導を行っていたため満足な運動ができなかったからだ。
一緒にやればいいと言えばそうなのだが、昼間は他ウマ娘の姿が多かったこともあり一人の男が体を動かすには少しばかり窮屈だった。
「あ────ぁ────」
そこで誰もいないタイミングを見計らってトレーニングを始めたのはいいが……調子に乗ってやりすぎた。
熱中症を起こしているのかもしれない。汗が止まらず、頭痛もする。おまけに寝っ転がったきり動けない。
火照った頭では何を考えようとしても無意味だ。とにかく誰かの所に────────
「いきなり飛び出していったかと思えば……こんな
上から冷たい何かをかけられる。それが水だと認識するのにそれほど時間はかからなかった。
それとは別にドリンクの容器が差し出される。なんとか上体を起こし、むしり取るようにそれを受け取って一気に中身を飲み干した。
「───────悪い。助かった。」
「勝手に倒れられたら迷惑を被るのはこっちだ。走りたいなら私が付き合ってやる。とにかく一人で何処かに行くな。…………………………トレーナー」
その後は十分に休憩を取ってから軽めのトレーニングをナリタブライアンと共にこなした。
……本来、
走る事だけに取り憑かれて生きてきた。それが
トレセン学園の中ひた走っている彼女たちは、どんな気持ちで日々を送っているだろうか。毎日が幸せなのだろうか。人に言えない悩みを抱えながらも必死に育っているのだろうか。
どちらにせよ羨ましく感じる。
「……おい、どうした」
考えながら宿に戻っていると、つい足を止めてしまった。はてさて、俺はここまでセンチな奴だったか。
「……いや、何も無い」
もう二度と戻らない汗と涙の日々。悩み、苦しんだあの頃は、それでも光り輝いていたんだろう。
こうして影をなぞろうと、決して戻ることはできない。
その残り香の中を俺は歩いている。
ふと、そうも考えてみた。
────────────────────
長い半年間だった。
今日この日の為に幾度となく念入りに準備を重ねてきた。蹄鉄を拵え、シューズを用意し、徹底的に肉体を鍛え上げてきた。
所詮俺はただの人間。どれほど筋力を付けようとウマ娘には遠く及ばない。そう分かっていてもやはり挑みたくなるのが男心というものなのだろうか。
しかし俺には一つの手段が残されている。この体を犠牲に、彼女たちと渡り合うという唯一の方法が。
たとえそれでこれまでかけてきた時間が無に帰すことになったとしても構わない。最後まで走り通せるのなら、この体ごとき幾らでも犠牲にしてやる。
出走メンバーは俺を含めて十人。
走れるならなんでもいいということで参加してくれたサイレンススズカ。
すんなりと了承してくれたオグリキャップ。
楽しそうという理由で出走してくれたミスターシービー。
レースを開催するにあたり真っ先に名乗り出てくれたシンボリルドルフ。
ナリタブライアンと、ナリタブライアンに誘われ乗ってくれたビワハヤヒデ。
興味深いデータが取れそうだということでやって来たアグネスタキオン。
誘ったらノリノリで参戦してくれたテイエムオペラオー。
そして……
ゴールドシップとたづなさんも誘ってはみたもののあえなく断られてしまった。
思えば何故たづなさんを誘おうと思ったのか。理由は分からないが、彼女が走ってくれたなら更に面白いレースになりそうだと感じた。
いや、それも過ぎたことだ。今はこの時、この瞬間だけに集中すればいい。
「えっ……カイチョー、勝負服着てきたの!?」
ゲート入り前、驚いたような声に釣られて目をやると、勝負服を身に纏うシンボリルドルフが視界に入った。
「先人の方々を前にして、手を抜くわけにはいかないからね。────今回はよろしく頼むよ、
俺がかつて存在したウマ娘の力を身に宿すことができる──あくまで推測でしかないが──ということを知っているのは秋川理事長とシンボリルドルフ、たづなさんの三名だけだ。
こちらにわざわざ声をかけてきた”皇帝”に、その発言を責める目的も兼ねて視線を返す。正直肝が冷えた。
「な、なんかよくわかんないけど────ってうぇ!?ブライアンまで……!?」
「……私は、全力でこの男を叩き潰す。それだけだ」
ナリタブライアンまでもが勝負服を着て挑んできた。これはただの野良レースだというのに、だ。
そしてこれは強制されるものではない。勝負服を着るということは、「全力で戦う」という意思表示のようなものだ。
観客は多い。単純に三冠ウマ娘の走りを見に来た者や、面白半分で顔を出した者など様々だ。ウマ娘以外に他トレーナーの姿も確認できる。
今回のレースは他言無用、門外不出ということで録画機能のある電子機器は全て禁止され、検閲も厳しくなっている。本来観戦に回る筈だったアグネスタキオンが出走を決めたのはこれが大きな理由でもある。自身のトレーナーに観戦、分析を任せて自分は肌でその力を体感する……ということだとか。
仮に生徒によって口伝されたとしても「ウマ娘と並走する人間」などにわかには信じ難い話。映像という証拠が無い限り信じる者はいないだろう。
────
鼻背に付けた絆創膏を指先で確かめ、スターティングゲートに入る。
ナリタブライアンに触発されて退院後に俺も鼻腔拡張テープを付けようとしてみたのだが、「アンタにはこっちの方がいい」と言われ絆創膏を貼り付けられた。それも頻繁に。
意外としっくり来たので以降も抵抗することなく受け入れていた。それは今日も変わらず。
スターティングゲートに入るのは生まれて初めてだ。しかしこの独特の圧迫感に、どことなく
全員がゲート入りしたのを確認し、降ろす────
「──────」
草原に立っていた。真正面から迫り来るのはいつかの景色。記憶。無念。栄光。
届かないもの、消えていくものに、それでも手を伸ばし─────
「──────っ」
一瞬意識を失っていた。気のせいかは分からないが……以前より身体が馴染んでいるようにも感じる。
夢を見ていたような気がする。どうでもいい。今は自分が誰なのかも、分からないのだから。
ゲートが開く。
そういえば、今日はよく晴れていた。
────────────────────
……それにしても、今日のレースはメンバーがとてつもなく豪華だな……。
ナリタブライアンさんにシンボリルドルフさん、ミスターシービーさんが揃ってる時点でありえないぐらいレベルが高い。あたしには手の届かない領域だ。
三人の三冠ウマ娘に加えてオグリキャップさんやオペラオーさんといったツワモノばかり。「例のトレーナーさん」を抜きにしても見に来てる子は多い。
というか観戦に来てる子のほとんどはトレーナーさん以外に注目してる。それぐらい今日のレースは凄いんだ。
────始まった。
……わ、ホントに男の人があたしたちウマ娘と同じ速度で走ってる。
それにも目が行くけどやっぱり先輩方は凄いなぁ。フォームが洗練されてる。コース取りもキッチリしてて無駄が無い。
例のトレーナーさんにもビックリだけど……今日は調子が悪いのかな?半年前に見た映像だと先行っぽい走り方だったけど、スタートしてからずっと最後尾。いやでも今回はホントにメンバーが凄すぎるからついていけるだけ────あ、スズカさんが向こう正面に入った。
う〜ん……やっぱり勉強になるなぁ……。こんなレース、滅多に見られるものじゃない。ちゃんと目に焼き付けておかないと。
あたしが応援してるのはテイオーさんだけど、どうかなぁ……勝てるかな……
第三コーナーに入って……ミスターシービーさんが一気にペースを上げた!速……!?
あ、そういえばあのトレーナーさんはまだ後ろに──────────え?
────────────────────
ついて行くだけで限界に近い。
鼻からは血が流れている。視界も薄れ出している。足の感覚も途切れ途切れ。
──そしてここからが、「最速」を刻む時間だ。
前を行くミスターシービーが一気にペースを上げ始める。流石三冠ウマ娘だ。驚異的な加速力を持っている。
■は未だ最後尾。だからといって焦ることはない。躊躇うことはない。
降ろす。
「───────」
どこかで何かが焼け落ちた。頭のネジが吹き飛んで、留まることを忘れさせる。今だけ
ターフを抉る。
「───────ギ」
あまりの痛みに目の前がハジケた。チカチカと点滅する景色。研ぎ澄まされた感覚が剥がれた爪を、潰れた肉を意識させる。
何かと引き換えに身体は進んだ。脚を入れると加速する。当たり前だった筈のそれが、嬉しくて、楽しくて、幸せで、
「あハ、ひ」
つい喜んでしまう。この時をずっとずっと待ってきた。こうして全力で走る事を何度も待ち望んできた。
ミスターシービーよりも更に大外へ回り込む。横に移動するだけで身体中が悲鳴を上げる。今はそれすらも愛おしい。
「は────ッ────ぐ」
地面を蹴るその前に、息を入れる。追い込みのコツは知っている。自分のやりたいように、自由に、喰らい尽くせばいい話。
そして。
眠れる獅子を呼び起こす。
「───────オ、グぼ、は、はァ……!」
血を吐くことは先刻承知。そのためにこの走り方を選んだ。
今回出走してくれたみんなは全力で走ってくれている。ああ、ああ……こんなにありがたいことはない。だからこちらも───全身全霊を以て相手しよう。
「オ──────お」
一人、また一人と追い抜いていく。その度に指が潰れる。この半年間鍛えてきた身体が、音を立てて千切れていく。
「オ、オぉおオ、ご」
裂ける。喉か、足か、それとも別の何かか。
「ぐ、ふ、ぉ、ご、オおぉ、お────」
前回の比にならない程に大量の血液が内側から溢れ出る。とめどなく迫り上がる鮮血を垂れ流しながら、それでも口元は歪んでいた。
「ごぼ、オ、ォォオ゛オ゛オオォオ──!」
吠える。目の前が点滅を繰り返す。
先頭集団まであとどれくらいか。現在は第四コーナーだろうか、先頭を走るのは恐らくサイレンススズカ。
「─────────?」
あ、れ?
なんで?
目の縁が熱くなる。なんで?
■は泣いている?
分からない。分からないけど、彼女が無事に走っていると思うだけで涙が止まらなくなる。
両目から涙が流れる。鼻と口から血液を吐き続ける。それでもこの時間が幸せで、笑みがこぼれる。
『ひっ……!?』
誰かの怯えた様子が伝わってくる。
悪いが今の
最後の直線に差し掛かる。残りあと五人。
喚く頭に鞭を入れ、
「ぁ」
我に返る。
痛い、苦しい、息ができない、目の前が分からない、何も聞こえない、足が、ぐちゃぐちゃで、潰れてて、折れてて、裂けてて、なんで、いやだ、
なんで最後まで走らせてくれないんだ。
だって
だからなんだと言うんだ。
走りたかった。たとえウマ娘に敵わないと知りながらも願わずにはいられなかった。
だから
たとえそれがハリボテで、ツギハギだらけの遺志だろうと、関係ない。
寄越せ。俺が、お前らを連れて行ってやる────
「あ──────」
忘れた。
一歩ずつ、もっと速く、もっと強く、踏み込む。
残り
連鎖的に一つ一つ足の中身が折れていく。
視界が白と黒に染まりかける。
残り三人。最後の背中に迫る影。
残り
筋の支えを失い倒れかける。それを利用してもう一度加速。胸にヒビが入った。透明な涙と鮮やかな血潮が混ざり合い、芝を汚していく。
全身全霊。全身全霊。全身全霊。
最高の末脚を以て追走する。
残り
前には既に誰もいない。今ここは、■の領域だ。
噴き出る血液に息を邪魔される。どうでもいい。
折れて砕けて裂けて潰れて掻き回された足では持たない。どうでもいい。
闘える。走れる。勝てる。ならどうでもいい。
これでくたばろうが、最後まで進めるのなら■の勝ちだ。
残りあと僅か。
前には誰もいない。
それでも前に進む。加速する。続けて力を込める。
風を拾って、風を──────
「──────は」
最後に呟いたのは勝利の微笑みか、苦悶の喘ぎか。
目の前に広げられたクッションに飛び込むのと同時に全てが白く染め上げられ、ようやく俺は許された。
────────────────────
俺の体は酷いものだった。当然のように足は再起不能レベルにまで傷つき、体全体や内臓にも大きな負担がかかっていた。
それでも治る俺を見て医者はありとあらゆる感情が混ざったような表情をしていた。
……しかし、気のせいだろうか。
以前より、治癒の速度が遅くなっているような────
「おい、もう飯の時間だ。そこまでにしておけ」
「…………ナリタブライアン?」
あれからどうなったかは覚えていないし誰にも聞いていない。ただ間違いなく言えるのは学園のウマ娘やトレーナーから距離を置かれるようになったということだ。
特にトウカイテイオーからは完全に避けられており、偶然遭遇しただけでも逃げられるようになってしまった。
元々交友関係がそこまで広いわけではないので俺と話すのは依然変わらずナリタブライアンぐらい。後強いてあげるならあのレースで共に競い合ったシンボリルドルフとミスターシービー……といったところだろうか。大体の生徒からは敬遠されているが彼女たちからは何故か以前より話しかけられている気がする。
現在俺は先のレースについて体得したことや覚えていることなどをレポートにまとめている。
……
何故ナリタブライアンは俺の所に来た?
「どうした?なんでわざわざ俺を────」
「……何を言っている。アンタは私のトレーナーだろう」
トレーナー、トレーナー?
俺は……そうか、俺はトレーナーだった。
そういえば俺はトレーナーだった。
椅子から立ち上がり、怪訝そうに見つめてくるナリタブライアンの元へ歩き出す。
もう昼食の時間か。時が経つのは早いものだ。
並んで歩きながら熟考する。
あのレースの経験はナリタブライアンのトレーニングにも活かせそうだ。
そして─────
「どうした?」
「………………いや」
ナリタブライアンは何故か俺の方を見ていた。
少し気になったが……まあそれほど大した問題は無いだろう。
今のところナリタブライアンはトゥインクルシリーズで数々の強敵たちを相手にしながらも次々に勝利を収めている。
コイツの性格上何かしらの心配事を引きずったりすることも無い筈だ。
『走れ、走──』
そう、何も心配はいらない────筈だ。
ナリタブライアンがここまで重要な存在になってることに一番戸惑ってるのは俺なんだよね。
たまたま遭遇したマンハッタンカフェにめちゃくちゃ怯えられるシーンも書こうかと思いましたがよくよく考えて入れる必要無いなということで割愛させていただきました。
正直今回の話でやりたいこと全部やっちゃったので今回が実質最終回というか、
仮に続いたとしても次くらいで