ウマが憑依(ぴょい)する三秒前   作:散髪どっこいしょ野郎

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ウマを放遺(ぽい)する三秒後

「──────」

 

 

息を吸って吐き出す。腕を振って両足を前に運ぶ。

 

唯一露わになっている頬に夜の冷気が突き刺さる。スポーツインナーを着込んでいることもあり肌の露出は少なく、風の冷たさがよりハッキリと顔に伝わってくる。

 

夜のトレーニング場は人影が少ない。自主練に励むウマ娘は多少確認できるが、そろそろ開放時間も終わりを迎える頃合いだ。俺は事前に申請を済ましているのでこの後も心置き無く練習に身を投じることができる。

 

あれから学園内で遠巻きにされることが増えた。当然のことだと思っているし何か感じるわけでもない。それに元々俺は人付き合いが悪かった。

 

それよりもレースを開催できなくなったことの方が重要だ。

 

恐らく理事長はなるべく俺に走らせない為に半年という長い準備期間をとったのだろう。そうしておけば暫くはトレーニングという名目で(このイカレ野郎)を縛り付けることができるからだ。

 

しかしいくら鍛えようと無駄だった。俺は無様に吐血を繰り返し、身体中をガラクタ寸前に追い込んでゴールしたと同時に意識を失った。半年間で埋められたのは僅か10mばかりの差のみ。

 

あのレースに居合わせた者のほとんどが大なり小なり精神的ダメージを負ったと聞く。それは生徒たちに限った話ではないとも。

 

現にゴール地点でクッションを広げ保護してくれた用務員の方々は涙と血を流し尚も笑いながら迫り来る俺を見てそれなりのショックを受けたようで、退院後に礼を言いに行くとすっかり怯えられてしまいまともに取り合ってもらえなかった。

 

それ以外にもトウカイテイオーに廊下で遭遇する度全力で逃げられるようになった話……などなど避けられる例を挙げ出したらキリが無いが、とにかくもうレースは開催できなくなってしまった。

 

ウマ娘が出走するにあたり最も必要なのは「相手」だ。たとえどんなに強かろうと競い合える(なかま)がいなければレース場に立つことすら叶わない。

 

そして俺に友はいない。あのレースをきっかけに、走ってくれる相手はナリタブライアンただ一人となってしまった…………いや、一応アグネスタキオンも乗り気ではあったか。

 

どうやら彼女は俺の体に興味津々なようで、この前もよく分からない薬を飲まされかけた。その際に『機会があったら並走してくれないか』と頼んでみたところ向こうもやぶさかでないようだったから恐らく競走を持ちかければ喜んで了承してくれることだろう。彼女のトレーナーが許可を下ろすかは別として。

 

だが現実はそう上手くいかない。仮にメンバーが揃ったとしても俺の出走は認められなくなってしまったのだ。模擬レース野良レースに関わらず。

 

一番の問題点はやはり「体が持たない」という点だ。最後まで走り切ろうが、血を吐いてしまえば処理にも手間がかかる。また受け止める側の精神強度も気にかけなければならない。

 

何より一回のレースで命を落とす危険があるという時点で走る事を許される筈がない。

 

とはいえこのままではいずれ俺の欲求が爆発するのは目に見えている。一度走ったことで完全にブレーキが壊れたのか、十数年に渡り蓄積され続けてきた闘争心はもう収まりがつかなくなっていた。

 

そこで特例として夜間に限りトレーニング場を使用することが許可された。

 

今まで出走を禁止されてきたことについては俺の力──厳密に言えば俺自身の力ではないが──が外部に漏れる危険性がある、というのも理由の一つだった。学園のウマ娘ひいてはトレーナーによって世俗やマスコミに拡散されでもしたら学園側も大きな厄介事を抱えることになる。

 

トレセン学園からすれば俺は爆弾のような疎ましい存在だろう。

 

しかしあのレースをきっかけに生徒や用務員等に敬遠されるようになったのが逆に功を成した。

 

俺が走ろうが何をしようが物珍しそうに目を向けてくる者はいなくなった。まあ冷静に考えてあんなバケモノのような走り方をする人間に近づこうとする方が異常だ。

 

あの場に居合わせなかった者にも俺に関する情報は行き渡っている。単純に観戦人数が多かったのもあるが、俺の走りがあまりに強烈なインパクトを放っていたのも話を広げる要因となった。

 

一部を除いたほとんどのウマ娘とトレーナーに避けられるようになり────俺はやっと────やっと自由になれた。

 

誰も怯えて関わろうとしない。なら、いくら走っても撮影される心配は無いというのも道理。

 

ということで俺はとうとう、とうとう念願の「トレーニング場を使って走る許可」を手に入れた。無論模擬レースはできないが、()()()()()()()()()()()使()()()()は許された。

 

 

・喀血、もしくは怪我をした時点で即刻練習を終了すること

 

・血液の処理は自分一人で行うこと

 

・完全に「力」を使いこなせるようになるまで勝負は禁止

 

・「力」については毎週一通のレポートにまとめて提出すること

 

 

など多くの条件付きだが──────(オレ)は早速その一つを破っていた。

 

 

「──────っ」

 

「……痛むか?」

 

 

隣で並走しているナリタブライアンから声をかけられた。当然、痛いなんてものではない。

 

両足が燃えるように熱い。内側から肉が裂け骨が割れ、絶えず赤熱を繰り返し脈を打つ。引っ掻き回された筋繊維に血液が無理矢理叩き込まれバラけた骨髄を強引に束ねられて”ぐちゃぐちゃになった肉の塊”をなんとか足として使っている。そんなイメージだ。

 

降ろしてから一歩踏み出すだけで負傷は免れない。ならば先ずなんとしても彼女たちの”脚”をこの体に慣れさせる。

 

通常、ウマ娘に限らずここまで負傷した足でレースはおろか運動自体不可能だ。それでも現に今(オレ)はトレーニングをこなせている。なら細かいことはどうでもいい。

 

「────悪い、少し、休憩だ」

 

「…………ああ」

 

ナリタブライアンに声をかけてから道を逸れる。後ろからついてくる気配を感じるが気にかけてやれる余裕は無い。

 

原理は不明だが俺の体はどんな重体になろうと()()()()()()再び走れるようになるまで回復するらしい。加えて走り切る──トレーニングを終えるまでは、意識が限界を迎えない限りいくらでも”俺”を使えるようだ。今こうして筋断裂を起こし、骨が折れても走る事ができているのが動かぬ証拠。

 

だからといって吐血するまで追い込んでしまえば(ワタシ)としても余計な手間が増える。ので、

 

「───────グ、」

 

時間も時間ということでトレーニング場脇に設置されている水道は薄暗く、また滴り落ちる鮮紅も相まっておどろおどろしい雰囲気を醸し出している。

 

一応、水道まで我慢できるようになっただけある程度体が馴染んできたのだろうか。

 

喀血をするイコール内臓に大きなダメージを負っているということだ。その時点で病院送りは必然だが、生憎俺の感覚はすっかりイカれてしまっている。

 

何度か咳き込むと呼吸も大分落ち着いてきた。息を吸って吐き出す度痛みがぶり返すがこちらも慣れてきた。

 

『走れ、走──』

 

それからはつい先程まで俺の体内を巡っていた細胞の数々が排水口に吸い込まれていく光景をただぼんやりと眺めていた。背後からナリタブライアンの視線を感じながら。

 

 

 

 

 

────────────────────

 

 

 

 

 

「や、久しぶり……ってわけでもないかな?」

 

「ミスター、シービー」

 

「あれ、お昼時は走らないんだね、ミスター・トレーナー?」

 

「許可が下りなくてな」

 

「あはは、そっか…………ところで、具合はもう大丈夫なの?」

 

「ああ」

 

「キミって結構嘘つくの下手だったりする?」

 

「?」

 

「だってほら────すごい汗」

 

「────────」

 

「最近毎日ブライアンと走ってるって聞いたからさ、アタシもたまには参加してみようかなー、とか言ってたけどさ……やっぱやめとくよ。ごめんね」

 

「分かった。わざわざすまないな」

 

「うん。それじゃ────そうだ、最後に一つ質問。…………キミは今、楽しい?」

 

「──────ああ。当然」

 

ほんの僅かに微笑む。

 

 

 

 

 

────────────────────

 

 

 

 

 

「げほ────ッ、ご、ふ────」

 

今日も変わらず脂汗を浮かべ、水道に向かって咳き込んでいる奴の背中を何をするわけでもなくただ黙って見つめていた。

 

……何をするわけでもなく。

 

「行くぞ」

 

私は声をかけた。一切の気遣いも、優しさも込められず。

 

喘ぎ苦しむ自らのトレーナーに発破をかけた。『私と走れ』と。ただ己の渇きを満たす為だけに。

 

「ぁ゛、あ」

 

ひび割れた奴の声。私は言葉を返してやれなかった。

 

私は、

 

 

 

 

 

─────────────────────

 

 

 

 

 

走って怪我をして治ってまた走ってのサイクルを繰り返す内、少しずつ体が適応し始めた。

 

初期の頃は二~三ハロン程度”全力疾走”しただけで意識が落ちかけていたが、練習を続け徐々に徐々に馴染ませていったことでコース半周分くらいはなんとか持つようになった。

 

自分で言うのもどうかと思うが、普段の日常生活は艱難辛苦を極めていた。息をする度、歩く度に鋭い痛みが身体中を駆け巡る。二日程安静にしていれば治りはするがどの道治った傍から練習を始めることになるのでハッキリ言って体調(コンディション)は常に最悪だった。

 

自ら飛び込んだ地獄なのだから誰に文句を言う気もないが、それはそれとしてつらいと感じる時もある。

 

しかし今日はいつもと比べやけに調子がいい。

 

 

「─────っ、ハ────」

 

 

思わず口角が吊り上がってしまう。なぜなら今日はやけに調子がいいからだ。芝を踏み締めてもいつもの痺れるような苦痛は感じない。奥底から血液がせり上がってくる気配も感じない。

 

向こう正面に入っても狂いなくペースを刻めている。今日はトレーニング場に誰もいないからだろうか。酷く頭の中がスッキリしている。

 

この調子ならナリタブライアンとまた模擬レースができるだろうか────そんな期待を込めながらラップを刻み、()はとうとう意識をしっかり保ちながら一周を走り切った。

 

「はぁ……っ、はァ……っ!」

 

呼吸を整えながらもつい喜びに頬を緩めてしまう。こんなことは初めてだ。まだ許可が下りるまでは時間がかかるだろうが、これなら──────

 

 

『走れ、走れ」

 

「づ─────ッ?、!?、、、?、?!、」

 

 

熱、脳、焼け、

 

 

「走れ走■走れ走れ走■走れ走れ走まだ私はやれれ走れ走れ走■走れ走れ走■走れ走ごめ■ね走れ走れ走れ■れ走れ走■こ■蹄鉄■い■■す■走れ走れ■れ走れ走れ■れ走れ走■走れ走れ走れ走れ走れ■れ走れ走ありが■■れ走れ走れ■れ走れ走ト■ーナーさ■れ走れ走■走れ走れ■れ走れ走れ走れ走れ■れ走れ走■走■走れこ■から一気■追■上■■れ走れ走れ走れ走■走れ走れ走れ走れ走■走れ■れ走れ走れ■れ走■走れ■■ちゃん■れ走れ走■走れ走れ走■走れ走■走れ走れ■れ走れ走れ走次に出走■るレー■はれ走れ走れ■れ走れ走■走れ走れ■れ───────」

 

「あ、が、ぁ、ああぁああああぁッッッ!?!!!??!!!?」

 

 

そう簡単に消えるわけなかった。

 

レース中伝わる筈だった痛みは、走り終わった後、今、フィードバックされている。

 

頭を抱えてのたうち回る自分をどこか他人事のように俯瞰していた。あー今俺は叫んでるな、とか、人がいなくてよかったな、とか。

 

どれくらい経ったか分からないが、よくもまあここまで長い間喚けるものだと思う。もう喉なんてとっくに枯れ果てているだろうに。

 

「あ…………?、あ、…、ぁ」

 

この感覚もいつか消えてなくなる。だから、今のうちにしっかり確かめておこう。

 

 

 

──────────

────────────────────

 

 

 

『走れ、────』

 

時々思う。

 

もし彼女たちの声が聞こえなかったら、俺はもっと普通の人生を歩めたのだろうか。

 

トレーナーになることはなく、こうして身も心も壊されることなく、人らしく生きることができただろうか。

 

「行くぞ」

 

「ああ」

 

そんな思考は無意味だ。こうして生まれてしまった以上、どれだけ嘆こうがこの体で生き抜くしかない。

 

俺は走る事を望んでいる。彼女たちは走れと囁く。なら、進まなければならない。

 

振り返る道など存在しない。元よりこの身は、決意と覚悟に食い潰されている。

 

 

 

──────────

────────────────────

 

 

 

俺が編集したウマ娘育成論(レポート)は教官*1勢にも割と好評らしく、単純な基礎トレーニングにおいてもそこそこに役立っているようだ。

 

それぞれの脚質に適した走法のコツやスタートに重要な集中力を磨く方法といったところから登り坂の上手い捌き方や冷静に息を入れるテクニックまで、俺が体験してきた多種多様な戦法(スキル)をまとめてある。

 

他人に何かを教えるなら、先ずは自分で体験するのが一番だ。そういう意味では俺の”練習”は指導者として最適な方法……なのかもしれない。

 

選りすぐりの精鋭揃いな中央のトレーナーなら上手いこと()()()()()担当ウマ娘のトレーニングに活かしてくれることだろう。

 

そのように昼はトレーナー、夜は走者として、俺は毎日を過ごしていた。

 

まともに睡眠がとれなくなった。普段の仕事に加え体を文字通り酷使するようになったのだから当然のこと────だというのに()()()俺はつつがなく働けている。

 

肉体の急激な修復により僅かばかりの自由時間も苦痛に呻く為だけに浪費される。元から人並み以下だった性欲が今は欠片とも感じられず、疲労困憊の中で食欲も減退した。

 

それでも脳内では絶えず闘争心が渦を巻いていた。たとえどんな状況に置かれようとそれだけは尽きることなく消えることなく湧き続け、苦患たる日々の中でただ一つのよすがとなっていた。

 

やがて模擬レースくらいなら許されるようになった。体も完全に馴染むようになり、吐血することも少なくなったからだ。共に走ってくれるのはナリタブライアンくらいしかいないが、それでも俺は幸せだった。

 

俺は幸せだった。こんなに満たされた日々を送ってきたことなどなかった。囁きに耐える必要も無い、自由で、何もかもをさらけ出せる。レース場の上でなら。

 

そして何度か降ろしてやっと分かった。「声」と「力」の源は、それぞれ別の場所にある。

 

走り切れば走り切る程「声」は小さく、不明瞭になる。治癒の速度もそれに比例して遅くなっているが……問題は無い……と思いたい。

 

そしてこの「力」は、ウマ娘のものではない。

 

正確に言えばウマ娘に()()()()()()根源的な何者かの(ソウル)。それが有していた能力だ。

 

それはウマ娘と同じように尖った耳と豊かな尻尾を携え、レース場を駆け抜けて観客を賑わせた────

 

……そこまでしか分からない。一つ確信できるのは、()()の魂を宿すには……この二本の足では弱すぎるということだ。

 

ウマ娘並の身体能力を人間の体で無理矢理再現しようと言うのだから無事でいられる筈がない。それも一()に限らず大勢の力をまとめて捩じ込んでいるのだから、当然走っている間は自分が分からなくなるわけだ。

 

しかし声は薄れても()()()()の遺志が消えたようにはどうしても感じられない。上手く言えないが────なんだか────心と体が────溶け合っているような───────

 

「トレーナー」

 

本来、一度死んだ脚は二度と蘇らない。この時点で俺はズルをしている。降ろした瞬間フラッシュバックする記憶は、紛れもなく彼女たちのものだ。それが、何故俺に?何故俺は生きている?

 

「おい、聞いているのか?」

 

継承────この言葉が引っかかる。仮にウマ娘からウマ娘に継がれる何かがあるとするならば、俺に囁く声は─────

 

「……なあどうした。返事くらいしろ」

 

「──────?」

 

ナリタブライアンが俺の肩を掴んで揺すっている。ここは学園内。時刻は昼間。確か今は食事をしていたのだったか。

 

自分がどこにいて、何をしているのか、ゆっくりと思い出す。それでも何故自分がここにいるのか、頭の中が霧がかって分からなくなる。

 

「トレーナー……って、俺のことを言っているん……だよな」

 

「当たり……、前、だろ。アンタ……アンタ以外に……誰がいると、言うんだ」

 

さっきまで考えていた当たり前の事実が、何故か抜け落ちていた。ナリタブライアンについてはすぐに思い出せるというのに、自分に関する情報だけが酷く曖昧で、俺は、ただ「走らないと」とだけ考えている。

 

 

 

──────────

────────────────────

 

 

 

『■■……■■……』

 

いつもとは違う声が聞こえる。現在は放課後、空が赤く染まる時間帯だ。あの後は……あの後は……何をしていただろうか。ナリタブライアンの不安そうな目つき……それと……ナリタブライアンの心配そうな声……アイツにしては珍しかった。

 

『■■……■■……』

 

その後は……たづなさんと業務連絡を行って……レポートを……たづなさんを並走に誘って……ビックリしてたな……どうしてだろうか……

 

『■■……■■……』

 

断られて……それから……それから……

 

『■■……■■……』

 

「それから……」

 

なんと言っているのか聞き取れない。が、それは自分のことを呼んでいる。そんな気がした。

 

『■■……■■……』

 

呼ばれるままに歩いていくと、三女神像の前に辿り着いていた。

 

そして

 

「あ」

 

 

────────────────────

 

 

多くのウマ娘が力を受け継いできた。

 

ウマ娘からウマ娘へ、託されてきたものがあった。

 

それは眠っていた可能性を呼び起こすカギとなり、溢れんばかりの活力と、希望を与えてきた。

 

それだけだった。

 

彼女たちが遺した思いは取りこぼされるばかりだった。当然だ。未練など、誰の救いになると言うのか。何の支えになるだろうか。未来ある選手を、時代を過ぎた老雄が、何も成せなかった亡者が縛ることなど、どうしてできるだろうか。

 

ウマ娘にならなかった魂がある。

 

ウマ娘に宿り、人智を超えた力と「名前」を与える筈の魂が、どういうわけか誰に知られることなく誰に受け継がれることもなかった。

 

それはある種の奇跡(タブー)だった。

 

託されてはならない、生まれてはならないものが、名を失い個を失い「走りたい」という妄執と数多の命の元に築かれた力を遺して一人の男に授けられた。授けられてしまった。

 

理由など無い。この人間は、走る為に生まれていたのだ。

 

 

────────────────────

 

 

「──────っ」

 

意識を失っていた。何を見ていたか思い出せない。なのに、何故か、

 

『走──、────』

 

「あ、ぁあぁああぁあぁっ……!」

 

地面に(うずくま)る。涙が溢れて止まらなかった。

 

 

 

 

 

──────────

────────────────────

 

 

 

 

 

あのレースから、奴は日に日にやつれていった。

 

近頃は体調不良の範疇に収まらない程に消耗している。それでも奴は止まろうとしない。何かに飢えているかのように、ただ闘争心のみを滾らせて。

 

奴を前にして怯える者は多い。あのレースもそうだが、明らかに様子がおかしいからだ。

 

幽鬼のように痩せ細りながらも目だけは鋭く光らせ、取り憑かれたように走る事だけに執着する。それでも普段はトレーナーの仕事を機械的に淡々とこなしている。

 

奴と密接な繋がりがある者は、最早私一人だ。

 

一応他の奴らも偶に声をかけるぐらいはしているようだが、普段から共に同じ時間を過ごしているのは私だけになってしまった。

 

「行くぞ、ナリタブライアン」

 

放課後になるとトレーナーは真っ先に私を誘う。無論私以外のウマ娘にも誘いはしているが、奴らのトレーナーが許す筈もない。

 

「待て。先にやることがあるだろうが」

 

「?、────ああ、そうか」

 

私の言葉を理解するとようやく大人しくなった。

 

座っているトレーナーの鼻背に絆創膏を貼り付けてやる。このたった数秒間が、今やコイツを留まらせる唯一の時間だ。

 

飢えた獣のような目をしていた。

 

私は、

 

 

 

 

 

────────────────────

 

 

 

 

 

現在時刻は真っ昼間。俺はトレーナー室で事務作業に追われていた。

 

俺はなんでこんなことをしているのだろう。

 

昼からあの子と並走する約束をしていた。こんな所で油を売っているわけにはいかないんだ。

 

あの子、って、誰?そもそも此処の景色はどうも見慣れない。

 

いや────違う。ここは■■トレセン学園じゃない。ここは中央だ。

 

これは俺の記憶じゃない。

 

俺は今、昼食を摂ってから仕事に取り掛かっている。俺はナリタブライアンのトレーナーで、中央トレセン学園に勤務している。そうだ。それが正しい。

 

「……あれ、どうした?」

 

ナリタブライアンが部屋にやって来た。何か忘れ物でもあるのだろうか。

 

「飯だ。行くぞ」

 

昼食を摂っていなかったらしい。よくよく考えてみれば俺があんな大盛りの量を食えるわけなかった。

 

 

 

──────────

────────────────────

 

 

 

「ほら、先こっちに野菜寄越しとけ」

 

「ん……」

 

ナリタブライアンの偏食家っぷりは治りそうにない。こちらもすっかり諦めてしまった。

 

思えば何故コイツは俺と食事を共にしているのだろう。あのレース前の半年間とは違い、コイツと共同でトレーニングをすることは無くなった。する意味が無いからだ。

 

いくら筋肉をつけたところで一度降ろせば傷つき、修復の過程で無くなっていく。この体でできることなど、たかが知れているのだ。

 

まあ、俺もコイツに誘われでもしなければ何かを口に入れる気など起こらない。そういう意味では助かっている。

 

……コイツには色々と感謝している。学園の生徒から忌避されている俺と走ってくれる。それだけでコイツには返しきれない程の恩がある。

 

その負債はトレーナーとしての働きで返す。コイツの渇きを満たせるまで、俺は尽くし続けよう。

 

 

 

──────────

────────────────────

 

 

 

放課後にナリタブライアンを迎えに行くと、アイツはウイニングライブの練習、主にダンスレッスンをしていた。

 

「──────」

 

その背中を眺め、どこか郷愁にも似た感情を覚えた。

 

(ワタシ)は歌を歌えない。もう、全て過ぎ去ってしまったことだから。あの熱気も歓声も、思い出と共に霞んで見えなくなってしまった。

 

……歌、か。

 

「────ん、なんだいたのか。一言かけてくれればよかったものを」

 

「……なあナリタブライアン。今度の休み、一緒にカラオケ行かないか」

 

「…………………………………は?」

 

その後、なんのかのと言いながらナリタブライアンは付き合ってくれた。

 

トゥインクルシリーズも佳境を迎え、ここ最近神経が張り詰めていたようだからこれがいいリフレッシュになってくれたらと思う。

 

 

 

──────────

────────────────────

 

 

 

「……アンタ、歌えるのか?」

 

「少しぐらいなら」

 

曲名を見て珍しく目を丸くしたナリタブライアンをよそに、俺は勢いよく空気をとりこみ────

 

「くまの子みていたかくれんぼ────」

 

 

 

──────────

────────────────────

 

 

 

辺りは暗く、街灯の弱々しい光のみが道標となっている。

 

整備を行うとのことで今日はトレーニング場が使えない。しかし体を動かしてから眠るのがすっかり習慣づいていたので軽くランニングでもしようかと思い俺は外に出ていた。

 

「────────」

 

息を吸い込む。夜の冷気が肺に突き刺さる感覚。そして俺は一歩踏み出し─────

 

──い……

 

───────────────。

 

──おい……

 

───────────────。

 

「おい!」

 

「────ナリタブライアン?なんだ?こんな時間に」

 

「……なんだはこっちの台詞だ。アンタ、一体何をしていた?()()()()()()()()

 

「なにっ、て……そう言うお前こそどうして、朝、から……ぇ……?」

 

「ただの自主トレだ。それよりも───待て、何処へ行く」

 

「もう朝なんだから……準備……しないと……」

 

「───────────」

 

夜が明けていた。

 

夜が明けていた。

 

『────、────』

 

ジクジクと痺れを起こす足でなんとか歩き出す。絶句するナリタブライアンを後にして歩き出す。

 

未だ昇らない太陽を、遠い空をただ呆然と、見上げた。

 

 

 

──────────

────────────────────

 

 

 

「さあ、始めようかトレーナー君。実験開始といこう」

 

「ああ。よろしく頼む」

 

「…………」

 

今回はナリタブライアン以外にも模擬レースに参加してくれるメンバーがいる。

 

彼女はアグネスタキオン。あのレースで一緒に走ったウマ娘だ。彼女のトレーナーは渋い顔をしていたが、アグネスタキオンがゴネたことにより何とか了承してもらえた。

 

体を調べさせる代わりにレースに付き合う、という条件の下共に走ることとなり、正直に言うと自分は高揚していた。

 

久々に一対一以外の勝負ができる。普段の相手がナリタブライアンしかいないことに不満を感じるわけではないが、やはり嬉しいものは嬉しい。

 

そしてスタートラインに立ち、一気に降ろし────

 

────────────────。

 

 

「おい何してる!終わりだ!止まれ────クッ、コイツ、なんて力だ……!」

 

「──────ぁ、あ?」

 

 

ナリタブライアンの腕に引き止められ、■は前に進めなくなっていた。何故。これでは走れないじゃないか。

 

 

「もう終わったんだ!いい加減止まれ!」

 

『────、────』

 

 

終わった?何が。()はまだ、何もできて(満足して)いない。なんで止めるんだよ。邪魔だ──────

 

 

「…………っ、あ」

 

 

何を考えていた?俺は今、コイツに何をしようとした?

 

「…………ナリタ、ブライアン」

 

「ッ、やっと止まりやがったな。いいか、よく聞け。レースは終わった。とっくに一周走り終わったんだ。それをアンタは────なんだ、その顔は……」

 

「いや……悪い。迷惑かけたなって、思って」

 

どうも「俺」はコイツが大事なようだ。どこかに落ちかけた意識は、なんとかコイツの声で揺り起こされた。理由は分からないがナリタブライアンの声がどこか懐かしく感じて、一瞬湧いたドス黒い感情もその声を聞いていれば直ぐに無くなる。それがどうも不思議で、気づけば表情が柔らかくなっていた。

 

少し離れた場所ではアグネスタキオンと彼女のトレーナーが怪訝そうにこちらを見つめている。

 

話を聞くとどうやら俺は二人と走り終わった後も勢いを緩めずにもう一周目を始めていた──それどころか三周目にすら突入しかけていた──らしく、どんなに声をかけても止まらなかっただとか。というわけだからナリタブライアンは危険を承知で俺を無理矢理ホールドして押さえつけてくれていた。

 

初めて「嫌だな」と思った。俺も走る喜びを味わっていたかったのに。

 

ぶっ続けで長距離並の長さを走ったことで体はいつも以上に重体だった。足だけに限らず様々な箇所に筋断裂の症状が見られ、体の内側からは張り裂けるような痛みが常に押し寄せてきた。折れた骨が皮膚を突き破っていなかったことが唯一の幸いだ。

 

それでも表面上は問題無く動けている俺を見てアグネスタキオンはますます興味津々としていたが、彼女のトレーナーは俺と関わることを禁止してしまった。妥当な判断と言える。

 

アグネスタキオンはゴネていたが「それ以上ワガママ言うようだったらお弁当は作らない」と言われアッサリと諦めた。そんなに彼女の弁当は美味しいのだろうか?

 

何はともあれ、結局共に走ってくれるのはナリタブライアン一人だけとなった。

 

 

 

──────────

────────────────────

 

 

 

「………………」

 

目覚まし時計よりも早く、(まぶた)を開く。

 

朝目が覚めてから、自分のことを思い出す為の時間が増えている。

 

俺はナリタブライアンのトレーナーだ。

 

俺は中央に勤務している。

 

たったそれだけのことですら紙に書いて部屋に貼り付けでもしなければ思い出せなくなっている。今は部屋中が貼り紙だらけだ。

 

「走りたい」から「走らなきゃいけない」もしくは「走るのが当然」と考えるようになっている。俺はウマ娘ではないのに。

 

走れば走る程、「俺」は薄れていく。最近になって気づいたことだ。それでも走れるならどうでもいいかと思っている自分がいる。

 

それに、俺が消えたところで気に病む人は少ないだろう。両親には悪いが……俺の生き甲斐は走る事だけなんだ。生まれてきてからずっと、俺は飢え続けていた。

 

子供の頃はどうだったか。子供らしく親に向かって駄々を捏ねたりすることもあっただろうか。思い出せない。自分のことだというのに……違う。自分のことだけがどうしても思い出せない。

 

父と母の顔は思い出せるが、それが誰の親なのか分からなくなる。バカげている。両親なのだから俺の親に違いないのに、その息子が誰なのか分からない。矛盾している。

 

俺は人間だ。

 

それを確かめてからようやく立ち上がった。

 

 

 

──────────

────────────────────

 

 

 

俺は廊下を歩いていた。理由なんてどうせ大したものじゃない。とにかく■は歩いていた。

 

現在、時刻は昼間。それだけ分かっていれば十分だろう。

 

俺は何をしようとしていたのだったか。考えながら歩いている。

 

「───────ご、ふ」

 

咄嗟に口元を押さえる。

 

「………………あ」

 

赤い。混じりっけなしの綺麗な赤色だ。

 

思わずその場に跪いていた。痛みは感じない。何故?

 

「わわ……!どうしたの!?右手がまっかっかだよー!?」

 

「………………きみ゛、は……?」

 

顔を上げると、桜色の髪をしたウマ娘が心配そうに■を見ていた。

 

 

 

──────────

────────────────────

 

 

 

彼女はハルウララ。学園内ではそれなりに有名なウマ娘だ。メイクデビュー前は出走するレース全てにおいてしんがりだったらしいが、トレーナーがついてからは少しづつ成績を伸ばし始めている。そのひたむきな姿に惹かれるファンは多い。

 

彼女とは真反対の意味で有名な俺を知らない筈もないだろうに、わざわざ保健室まで連れていこうとしてくれた。

 

放っておけば治るので”丁重にお断り”させてもらったが、その後物陰で休んでいる間も彼女は一緒にいてくれた。

 

その際に色々と話して分かったことだが、彼女は近々慣れない芝を、それも長距離のレースを走ることになるらしい。ダートの、短距離走者(スプリンター)の筈の選手が。

 

何故かは分からない。それを聞いて、(ワタシ)は休んではいられなくなってしまった。

 

「ホントに大丈夫……?苦しかったら休んでね……?」

 

「ああ……大丈夫だ。何も心配いらない」

 

(オレ)とハルウララは学園内の芝コースにやってきていた。本来、担当ウマ娘でもない子にそこまで肩入れする理由は無い。だが、何故か私はこの子の力になりたいと、この子と走りたいと猛烈に感じていた。

 

驚くことに彼女のトレーナーは俺とのレースを許可してくれた。正直受けてもらえるとは思っていなかったから、頼んだこちらが面食らった。

 

分かってる。一緒に走ったくらいで何か劇的に変わるわけでもない。しかし、だとしても、自分にできる最大限で彼女のいい経験になれるようにやりぬこうと思う。

 

ナリタブライアンを誘えなかったことが心残りだがアイツは今生徒会関係で忙しい。仕方のないことだ。

 

 

「位置について────」

 

『──────ぁあ……あぁ、』

 

 

自分の声が遠くに聞こえる。

 

麻痺しかかった神経に、深い衝撃が重なる。

 

降ろしただけで()()()

 

今になって始まったことでもないだろう。

 

向こうは慣れない芝を走ると言った。

 

ならばそれに応えないわけにはいかない。

 

ハルウララ。彼女の魂に敬意を表して。

 

此度宿るは、遠い日の「英雄」たち。

 

その全てを捧げて貴方(キミ)を超える。

 

■は、いつものように最高のスタートを切った。

 

 

 

──────────

────────────────────

 

 

 

ハルウララに限った話じゃない。

 

俺は何者にもなれなかった。トレーナーとして目覚ましい成績を残した訳でもない。三冠ウマ娘の称号を獲ったのはあくまでナリタブライアン自身の力だ。いくらトレーニングを重ねようと彼らが俺の体を使えばそれもすぐに無駄になる。

 

それでも、このレースで、命をかけて走り抜くことで、残せるものがあると信じたい。

 

……今更何を考えているんだろうな。俺は走る事ができればそれでよかっただけなのに。

 

なんだかこの一,二年ですっかり老けこんでしまったような気がする。

 

俺は狂っているのかもしれない。

 

理由は分からないが、最近学園のウマ娘たちが「我が子」あるいは「後輩」あるいは「兄弟」あるいは「両親」あるいは…………のように思えてきて、無性に力になりたいと感じていた。どこかおかしいのではないか。今更だ。

 

意識が離れかけている。

 

ダメだ。ここで俺が消えたら、何も教えられなくなってしまう。

 

耐えろ。耐え────────

 

 

 

──────────

────────────────────

 

 

 

極限を以て彼女を圧倒し尽くした。一切の手加減も込めず、徹底的に走り通した。

 

その後は芝用の脚の抜き方を教えたり、上手い「ひらめき」ができるようにトレーナー側と話し合ったりなどをして時間を過ごした。

 

その間も意識はしっかり繋がっていたから、俺も大分降ろすことに慣れてきたんじゃないかと少しだけ自惚れていた。実際痛いとも感じなかった。

 

彼女たちと離れた後はいつも通りやることを済ませ、いつも通り寮に戻った。

 

シャワーを浴びようと思い服を脱ぐと、

 

「──────────」

 

足がとんでもない色に変色していた。

 

俺の見立ては間違っていた。

 

慣れたんじゃない。壊れても気づかなくなっているだけだったんだ。

 

本来ならここまで酷使された足は使い物にすらならない。それこそ意地や気合いでどうこうできる問題でもない。通常なら歩けなくなる程の重傷を走る度に負い続けているのだから。

 

骨折などという生優しいものではない。俺の足は、文字通り死んでいた。

 

それでも痛みは無く。恐怖も無かった。

 

 

 

 

 

──────────

────────────────────

 

 

 

 

 

この学園の理事長を務める身として、ウマ娘のみならずトレーナー一人一人にもなるべく目を向けてきたつもりだ。

 

勿論、彼──ナリタブライアンのトレーナーの身に起きている異常もある程度は承知している。

 

……だが、私がいくら禁止したところで彼は止まらないだろう。────それこそ、命が尽きるまでは。

 

私にはもはやどうすることもできない。彼は、この学園に捕らえておく他ない。

 

…………私は、無力だな。

 

 

 

 

 

────────────────────

 

 

 

 

 

「おい」

 

「……ああ」

 

いつもと同じように絆創膏を貼り付ける。その間も奴はどこか遠くに目を向けている。

 

ここのところコイツの反応は鈍っている。それどころか意識が覚束なくなっていることすらある。

 

「……トレーナー」

 

「…………ん?」

 

声をかけても上の空。それでも私と走ろうとし、私の渇きを満たそうとする。事実、コイツはトレーナーとしては初めの頃より成長している。

 

「あまり……無理をするな」

 

どの口が言う。コイツの体調も顧みず無理矢理にでも走らせようとしていたのは私だろうが。

 

違う。

 

私、私は、

 

私はただもう一度、アンタ(兄ちゃん)と、姉貴(ねえちゃん)と、一緒に走りたかっただけなんだ。

 

 

 

 

 

────────────────────

 

 

 

 

 

■は走り続けた。走っている間意識が落ちることもしばしばあった。身体中がくたばりかけていた。

 

それでもやめようとは思えなかった。

 

俺は中身の無い生き物だ。

 

ただ走る為に産まれ、走る為に死ぬ。

 

そんな人間が、どうして生きたいなんて思えるだろうか。

 

トゥインクルシリーズは終わった。少し急に思うが、季節はちゃんと進んでいた。何もおかしい話ではない。筈だ。

 

ナリタブライアンとの関係がここで終わるわけでもない。分かっているが、もう限界だ。

 

「ナリタブライアン、今、模擬レースはできるか」

 

「……どうした、いきなり」

 

とある昼下がり、俺は自分を保つことをやめた。

 

もうじき、俺は消えてなくなる。

 

度重なる”使用”の果てに俺の自我は限界を迎えていた。普段の生活ですら意識が途切れ途切れになっていることもある。

 

その前に、完全に忘れてしまう前に、最後に、もう一度だけ、

 

「待て。今は昼間だぞ?他の奴らも多い」

 

「頼む。どうしても今じゃなきゃいけないんだ。俺が強制させたことにすればいい。だから、頼む。俺と走ってくれ」

 

「…………分かった」

 

現在はナリタブライアンのトレーニングを見ている最中だった。が、俺はもう、限界だった。

 

 

 

──────────

────────────────────

 

 

 

並んでスタートラインに立つ。

 

これが最後になる。走り切るまで俺をちゃんと覚えていられるだろうか。

 

 

「───────は」

 

 

降ろす。記憶が、何もかもが消える。嫌だ。まだ、俺は、戦っていない。

 

そして、踏み出し──────

 

 

 

 

 

──────────

────────────────────

 

 

 

 

 

三年間もの間、私は一度もアンタを越えられなかった。いつもアンタの影がチラついていた。

 

────速い。

 

初めて走ったあの時と同じだ。縮まらない差。遠い背中。

 

アンタがトレーナーになり、私は成長した。幾多の強敵と戦った。それでもアンタには届かなかった。

 

そして、今も私は影に囚われている。

 

────兄貴。

 

アンタは私のトレーナーで、兄貴だった。

 

もし私が勝てたなら、その時は、あの頃のように、あの頃の関係に戻れるだろうか。

 

────違う。

 

追いつきたい背中がある。勝ちたい相手がいる。なら、ここで止まるわけにはいかない。

 

────この感覚だ。

 

これを求めていた。渇きが一気に満たされていく、この衝動を。

 

勝ちたい。そうだ。私は、この走者を捩じ伏せたい。

 

だから私は、この景色を越えて、私は、アンタの影を打ち砕く────!

 

 

 

 

 

────────────────────

 

 

 

 

 

記憶と思いに塗り潰されていく。音すら立てずに「俺」が死んでいく。

 

目の前の景色が遠のいていく。あと暫くも経たずに俺は俺を失う。

 

嫌だ。

 

走りたいと願っているのは、お前らだけじゃない。

 

幼かったあの日、走りたいと思ったのは、その姿に焦がれたのは、囁かれたからでも力を使えるからでもない。

 

俺は、俺が、走りたいと望んだからだ。たとえウマ娘に敵わなくても、ただの人間に過ぎなくても、俺は、走りたいと願っていた。それは声が聞こえるからじゃない。俺だけの意思だ。

 

しかし……今更何が残っている?

 

俺にはもう何も残ってない。ただ彼らを降ろす為だけに造られた肉の器。そんな自分に一体何を望める?

 

「─────────!」

 

遠くからナリタブライアンが唸りを上げて■を猛追する。アイツの声が聞こえる。

 

ああ……なんだかとても懐かしい。

 

遠い日の記憶が蘇る。今度は誰の記憶だ?

 

幼いウマ娘の姿。ソイツは泣き虫で、”ねえちゃん”のことが大好きで、走る事が大好きで、

 

『また一緒に遊ぼうね!兄ちゃん!』

 

──────ハッ。

 

なんだ。

 

俺にも、残ってるものはあったんだな。

 

 

 

────────────────────

 

 

 

「─────────オ、」

 

確かにあんたらがいなければ俺は走ることができなかったんだろう。こうして勝負の舞台に立つことすらできなかったんだろう。

 

だから売り渡すのか?

 

俺の、走者としての誇りを明け渡してもいいと、本気で思っているのか?

 

違う。

 

たとえ身体が朽ちていこうが、心が侵されようが、この魂だけは譲らない。

 

だから、

 

キセキは飽きた。

 

退いてろ。ここは俺の戦場だ…………!

 

 

「オ、オぉおオオォオ────」

 

 

がむしゃらに腕を振り、息を吐き出す。

 

今此処に立っているのは、かつての名馬でも、夢敗れた者たちの遺志でもない。

 

俺という、ただ一人の挑戦者だ。

 

そうだ。俺はコイツの兄ちゃんだったんだな。

 

思い出せるのはそれだけしかない。

 

だがそれだけで十分だ。

 

腕から、足から、何かが抜けていく。どこまでも軽く、俺は走っている。

 

大地を踏み締める。腕を振る。息を吸う。

 

妄執(いつわり)伝説(かりもの)の殻を破り、俺は今、一人の走り手としてここに生を受けた。これが俺の、俺だけの、

 

 

「ウォオオオオオォオオオォ────!!」

 

 

距離にして残り約10m。叫ぶ。歓喜のままに、本能の荒ぶるままに五体全てを振るって、今、この瞬間だけに全神経を注ぎ込む。

 

ゴールまであと僅か。

 

最後まで、俺は俺のあるがまま────

 

────────────────────

 

「あ─────ぁ─────」

 

全細胞から力が失せていく。

 

役目を終えた足が魂を無くして、勢いを殺しながら前のめりに上体が倒れそうになる。

 

自分でも不思議に思うが、彼女たちを憎いとはどうしても思えなかった。

 

彼女たちの遺志や未練には散々苦しめられてきた。満足に日常生活を送ることすら叶わなかった。元々彼女たちのおかげでウマ娘と闘えたが、彼女たちがいなければ俺は人間としてもっと自由に走れていた筈だ。

 

それでも、たとえ彼女たちの傀儡に過ぎなくてもそれでも、自分の在り方を貫き通して初めて思った。

 

ああ、いい人生だった、と。

 

早すぎるかもしれない。だが、これで満足だ。

 

────────────────────

 

「──────ぁ?」

 

勢いを失い倒れかけた俺を支えたのはナリタブライアンだった。何となく分かる。このレースの結果は、

 

「俺の、負けか」

 

「ああ。私の勝ちだ」

 

僅差だったがこちらの負けだ。だが楽しかった。悔いは無い。

 

「お前……だったんだな。()()()()()

 

「……やっと気づいたか」

 

かなり遅れてしまったが、やっと思い出せた。あの時のウマ娘はナリタブライアンだった。

 

支えられながら歩こうとする────が、俺の足はもう使えなくなっていた。ピクリとも動かない。恐らく完全に死んだのだろう。

 

「声」は聞こえない。俺の体が蘇ることも二度と無いだろう。

 

「歩けないのか?」

 

「悪い……無理だ。これからもずっとこのままだと思う」

 

「そうか」

 

コイツからすればあまりにも唐突なことだというのに、飲み込みが早すぎてこちらの方が不安になる。

 

「ごめんな。今まで、付き合わせて」

 

「……アンタ、まさかこれで辞めるわけじゃないだろうな」

 

「……多分俺は二度と走れないぞ。それでもいいのか」

 

「何を言っている?アンタは私のトレーナーだ。最後まで付き合ってもらうぞ…………兄貴」

 

なんとか働いている程度の聴覚が捉えたのは俺を兄貴と呼ぶナリタブライアンの声。

 

それがどうにも、懐かしく思えて。

 

何はともあれこれが俺ことただの走者(ランナー)、人生最後の全力疾走だった。

 

 

*1
専属のトレーナーがついていないウマ娘の指導を行う者























ダートで走らせられなかったこととマヤノトップガンを出せなかったことが心残りですがひとまずこれで終わりです。

彼が最後に会得したのはアプリで言うところの固有スキルで、

残り10m地点になると視野を広げ持久力を回復させるという鋼の意思より弱い限りなく弱い間違いなくウマ娘にとっては習得する価値もないゴミスキルです。ウマ娘にとっては。

あとこれ以上記憶を失うことはありませんが無くしたものが蘇ることはありません。

一応このあとの話として、

最後のレース後に完全に足が壊れたトレーナーを負い目と今まで抱えてきた諸々の感情から引き取る?ナリタブライアンだが当の彼は心身ともに摩耗しきっており今までの無茶の代償で寿命が削れまくっていたこともあってか早々に亡くなってしまう。

葬儀の後泣くわけでもなく説明のし難い表情を浮かべ「……アンタはまたそうやって、私を置いていくんだな」と呟くナリタブライアン

ていうところまで見えたけど個人的に死ネタはそこまで得意ではないし元々ここまでナリタブライアンの話にするつもりはなかったので正直迷ってます(あとあまりにも救いがなくねってなったので)

後日談(彼が死ぬ話)

  • いる(怨恨のマエストロ)
  • いらない(鋼の意思)
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