ウマと歩威(ぽい)する三年間
『兄ちゃん……兄ちゃん……!』
ああ、またあの夢だ。
『起きてよぉ……兄ちゃん……!』
あまりにも強く、深く、熱く焼き付いた
『ブライ……アン』
やめろ。言うな。それだけは、私は──!
『ごめん……な』
「────ッ!ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
飛び起きる。……また、あの夢を見た。
同室は起きていない。部屋を満たす闇から察するに、まだ夜中なのだろう。
「…………」
今の時間なら寮長も寝ている。少し、夜風に当たるか。
「……はぁ」
今日は月が色濃く見える。周りには星が散りばめられていた。
私には兄貴がいた。誰よりも強く、誰よりも脆かった、目指すべき頂点に座する″人間″。
人間。間違いなくそうだった。あの、あまねくを凌駕する脚を除けば。
あの輝きに魅せられてからは走る度に奴の幻影が前を行っていた。私に追い抜かせまいと、差を広げ続ける。
私は今も渇いている。二度と競い合えない残影に、心を焦がされながら。
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奴との出会いは幼少期まで
私と姉は、強かった。
姉の背中を追う毎日は満たされていた。この焼き爛れるような渇きも無かった。
しかし幸福な日常はいつまでもは続かなかった。姉……姉貴は、不慮の事故によって長期間入院することになってしまった。
当初はそれでも大丈夫だと思おうとしていた。私に追いつけない有象無象をブッちぎることに快感を感じないわけでもなかった……なかったか?まあいい。
私は孤独になった。強すぎた故に。
『なあなあ、君、なんて名前なんだ?』
『……ナリタブライアン』
クラブをあちこち行き来する内に、私は諦めていた。もう『わたし』に勝てる者はいないと。そんな中出会ったのが、奴だった。
都合がよかった。奴は年上ということで面倒見も良く、わたしが懐くのも早かった。
もちろん異性であることと人間であることからある程度の線引きはあったが、わたしにとってそれらは何ら問題にならなかった。それほどまでに傾倒していた。
『よ、ブライアン!どうしたよ、そんな辛気くさい顔して』
『……兄ちゃん』
近所だったことから交流の機会も多く。姉貴が入院している間は頻繁に奴の家を訪れていた。
クラブの連中から妬まれる──というより恐れられると言った方が正しいか──ことの多かったわたしは相談相手に奴を選んだ。事実として、ある程度救われていた。
『そっかぁ……クラブの連中、相手にならないか。でも、お前は何も間違ったことはしてないよ。そのままでいいんだ』
『……うん。……兄ちゃんは、将来何になるの?』
『ん?……まあ、将来的には俺もターフに立ちたいし、トレーナーになるかもな』
『なんでターフに?』
『そう難しい話じゃない。俺もウマ娘と走ってみたいんだ』
そう語る奴の目は、今までになくギラついていて。わたしは、
『じゃあ、今度走ってみる?』
今でも想起しては苦しむ程の、過ちを犯した。
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『兄ちゃんは、わたしが勝っても嫌わないでね?』
『はは、俺が
『じゃあさ、わたしが勝ったら一つお願いしていい?』
『……あんまり無茶なことはできないぞ。何のお願いだ?』
『わたしが勝ったら、わたしが中央に入れるくらい強くなったら、わたしのトレーナーになってくれる?』
『ふふ……あっはっはっは!』
『……なんで笑うの』
『はっはっは……いや、悪い悪い。嬉しくてな。それと、別に俺はお前が勝たなくてもその願いはきいてやるつもりだぞ』
『ホント!?じゃあ、わたしのトレーナーになってくれるの!?』
『ああ。約束だ。じゃ、やるか』
『兄ちゃんはお願いしないの?』
『もう叶ってるからな』
『?……じゃ、位置について』
『よーい、ドン!』
──速かった。姉貴どころか、
勝つイメージすら湧かなかった。当時のわたしが妙齢だったことを差し引いても力の差がありすぎた。その瞬間、わたしの目標が奴に追いつくことになったのも、或いは当然のことだ。
『すごい……!』
沸き立った。生まれて初めてこの
『兄ちゃん──!?』
奴は倒れた。成熟したウマ娘並みの速度で走っていたことから顔面には痛々しい無数の擦り傷が発生しており、鼻と口からは血液が絶えず流れ溢れ続けている。
『兄ちゃん……兄ちゃん……!』
それからのことは今も夢に見る。激痛が走っているであろうにも関わらず楽しそうに笑い、なおかつわたしを案じるような表情を見せる。
『ブライ……アン』
脚が疼く。誰も寄せつけない圧倒的なまでの速度。奴を超えたいと、この脚は昂り続ける。
『ごめん……な』
「ぉぃ……」
そして奴は、わたしの前から消えた。入院中は面会謝絶で顔を突き合わせることもできず、それ以降対話もなく。
「おい……」
退院したかと思えば奴は遠くの地へと引っ越していった。ちょうど姉貴が再び走れるようになってからのことだった。
痛痒なまでの渇望。何故アンタは
奴が憎い。一方的に勝っておきながら、私に熱を与えておきながら、勝手気ままに去りやがって。
……約束、したのに。
「おい!」
「……っ、なんだ。エアグルーヴ」
「手が止まっているぞ。体調でも悪いのか?」
意識が現実に引き戻される。生徒会室のソファーに座り、私は作業に追われていた。
「大体、何故生徒にこんな雑務をやらせる……。こういうのは教員の役目だろう」
「そう言うな。会長の負担を少しでも減らしたいのはお前も同じだろう?」
「私は強者と戦いたい……それだけだ」
満たされない。
この学園には強者がいる。それでも、私の渇きは癒やされない。奴の走りに追いつける者など、居やしないのではないか。そんな疑念が私を絞め殺す。
私はまだデビューしていない。が、本格化が来るのはそう遠くない未来のことだと、頭のどこかで理解していた。
…………。
────────────────────
この世に生まれ落ちたその瞬間から、俺は飢えていた。
『走れ、走れ』
『声』が聞こえるようになったのは物心がつく前から。赤ん坊の頃から昼夜問わず囁き続けるそれに俺は困惑した。
だがそんな戸惑いは何の問題にはならなかった。その代わり、俺の中では一つの欲望が膨れ上がっていた。
──走りたい。とびきり強く、とびきり速い、そんなウマ娘と。
断っておくが俺は男だ。親族にウマ娘がいたわけでもない。選手としてトゥインクル・シリーズを駆け抜けることは不可能だった。
『走れ、走れ』
それでも声は囁き続ける。走れ、ウマ娘と走れと。
声に急かされるあまり俺は二つミスをした。
一つは、俺の体は想像以上に脆かったこと。只人でありながらウマ娘と走るには相応の代償を払う必要があった。
そしてもう一つ。俺と走ってくれたウマ娘は、まだ幼かった。幼少期から才気に溢れていたものの成長しきるのを待った方がより楽しめた筈だ。
そう、俺はウマ娘と走ったことがある。走る直前のやりとりは覚えているものの駆け出してからの記憶が無い。気づけば病院のベッドに横たわっていた。
両親にいくら釈明しても『もう走らないで』の一言で片付けられる。運の悪いことに俺は愛されていた。
もちろん、育ててくれたことには感謝しているし恩も返したいと思う。しかし『走りたい』という感情はそのどれもより大きく、絶対的なものだった。
当初の俺は律儀にもその言葉を守った。引っ越しをした地でウマ娘を見つけても闘争本能は荒ぶれど走ろうとはしなかった。
だが、声は絶えず聞こえ続ける。
気が触れそうだった。望むことは一つ。走りたい。しかし両親に心配させるのは憚られる。
俺は狂っているのだろうか。この声は、俺の生み出した幻影なのだろうか。知ったところで意味など無いが。
やがて……いや、予定通り俺はトレーナーを、それも中央のトレーナーを目指すようになった。狭き門だったが学生時代の全てを勉学に捧げたことでなんとか合格。
とまあ、ここまで長々と吐き連ねてきたが俺は俺であること以外の説明はいらない。
ただの酔狂なイカレ野郎。それだけだ。
社会人になるということ。自分のことは自分でケリをつけるということ。
だからもう、我慢しない。
「ここが中央か……」
桜が散りゆく中、俺は校門前で立ち尽くしていた。
今日から俺はトレーナーだ。プロとして、担当するウマ娘は頂点の位まで成長させることを誓おう。俺の望みもそれに連なる形で叶う筈だ。
顔に刻まれた傷痕が疼く。ともかくまずは校舎の全容を把握して──
「──兄貴?」
懐かしさを感じる呼称だ。俺を兄貴──兄ちゃんと呼ぶウマ娘はただ一人、
「……ブライアン?」
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「何故私の前から消えた」
校舎の隅で俺は詰問を受けていた。
所謂壁ドン。もっとも、ブライアンと俺の背丈的に見上げられるような状況になっているのだが。
両親に連れられて──と答えるのは簡単だ。しかしそれはどうもみっともない。
世間体や建前を気にする性分ではないが、仮にもコイツの兄貴分をやっていたんだ。少しくらい格好つけても罰は当たらないだろう。
「悪かったな」
「謝罪はいい。答えろ」
なんて答えるべきか。数瞬頭を悩ませるが、意外にも言葉は簡単に飛び出した。
「……俺は知りたかった。お前以外の強いウマ娘を見たかった」
嘘は言っていない。ブライアンの才はこの上なく優れたものだったが、コイツ並みとはいかなくとも高みを目指せるウマ娘と出会いたかった。両親に心労をかけさせた結果引っ越しという結末になったが、それは間違いない。
「改めてだが、悪かったな。またお前を一人にさせて」
世の中、理不尽なことは山ほどある。それを苦しくても飲み込んでいくからこそ、人は大人になれる。
とは言えど、トラウマ必至の重傷を見せてしまったことと謝辞の一言もなしに去ってしまったことは申し訳ないなと思う。
「……アンタは、トレーナーになったのか」
「ああ。今日からな」
胸元に光るトレーナーバッジ。勉強はかなり難儀したが努力の甲斐はあった。
「私との契りを覚えているか」
「いいのか?俺はまだ新人だぞ」
「多少の枷くらい私が蹴り破ってやる。嫌とは言わせないぞ」
随分と強引なことだが、コイツを放ってしまった罰としては十分すぎる報いだろう。約束もしたし、ある程度のわがままくらいならきいてやるつもりだ。
こうして、第一の課題だった担当ウマ娘問題は片付けられた。
『走れ、走れ』
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「それじゃ、
「待て。アンタまた転ぶつもりか?」
「そうならないように一応鍛えてはきたが……五分五分ってところだな」
「……三年だ。三年待て。最高の私と走るまで、あと三年鍛えろ」
……三年か。長い。しかし転倒のリスクも含めれば妥当とも言える。加えて最高潮まで能力が高まったブライアンと競えるなら声も俺も本望だろう。
「じゃあまずは、今のお前の実力を見せてみろ」
「ああ」
短く返答し、ブライアンは駆け出していった。
「……ほう」
メイクデビュー前でこれか。流石ブライアン。よく練り上げられている。
思わず本能が猛る。完全に熟したコイツと戦える日のことを思うと興奮で脚と傷痕が疼いていた。
「まずは、目標設定からか」
そんな呟きが、風に溶ける。
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奴は変わっていた。私の兄貴だった頃と比べ言葉は少なく、語調も平坦だった。……それでも、時折私をギラついた目で見る癖だけは昔のままだったが。
「フッ……!フッ……!」
「……」
「あ、あれ、ブライアンさんとそのトレーナーさん?なんで二人で筋トレしてるんだろう……」
「理由は分かんないけど、私あの人たちが一緒にトレーニングしてるのよく見るよ」
周囲からの視線が鬱陶しい。兄貴が鍛えていたとて何もおかしいことではないだろうに。
「はあっ、はあっ……。……あー、俺もう無理だ」
「……やっぱりアンタは、人間なんだな」
負荷が限界を超えたのか床に倒れ込む兄貴。ウマ娘と人間の身体能力差はそのままだ。なのに何故あそこまで速く走れるのか疑問は尽きないが、そんなことを突き詰めるのは
理由はどうでもいい。私は、この男に勝つ。この男は無事に走りきる。今はそれだけに専念する。
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「ブライアン」
「……姉貴か」
屋上で惰眠を貪っていると姉貴が来た。またエアグルーヴから生徒会の仕事をしろとでも私に言い含めるように頼まれたのだろうか。
「どうしたんだブライアン。最近様子が変だぞ?それと、トレーナーがついたと聞いたが──」
「……兄貴がいた」
「……!それは、お前が言っていた″兄ちゃん″か!?」
「……ああ」
様子が変……か。確かに私は奴と再会してからどこか状態がおかしい。
「ということは……彼がお前のトレーナーになったということか」
「まあ、そんなところだ」
「そのトレーナー君とは上手くやれているか?ああ、野菜は摂っているだろうな?それと──」
……こうなると姉貴は面倒になる。おふくろから世話を焼くよう言われてるのか知らんが、所謂『姉貴モード』になると質問の山だ。
「……話を戻せ。何故ここに来た」
「……まあいい。お前が無事にやれているか、気になっただけのことだ」
今はまだ姉貴に言われているだけだが、この変調した様子を続けていると他の奴らに踏み込まれることもあるかもしれない。
……私は兄貴と再会しただけでここまで動揺しているのか。昔の顔なじみで目指すべき存在がトレーナーになっただけだというのに。
……私は、狂わされたのだろうか。
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昼休み。トレーナー室で仕事をしていると、ノックの音が響いた。
「どうぞ」
「失礼する」
「お前は……ビワハヤヒデ?」
ブライアンの姉であり、学園内でもかなりの強者であるビワハヤヒデ。何故ここに?
「ずっと言えなかったからここで伝えさせてもらうよ。まずは、ありがとう。妹が世話になった」
「ご丁寧にどうも」
近所だったがコイツとの付き合いは片手で数える程しかない。というのも、俺がブライアンと関わるようになったのはコイツが入院してからだったからだ。
「よかったら聞かせてもらえないか。君とブライアンがどんな関係だったか」
「?構わないが……」
特に脚色するわけでもなく単純にブライアンとの思い出話を語る。ブライアンと走って転び病院に搬送されたことは伏せて。
「そうか……いや、よかったよ。ありがとう。気難しい所がある妹だが……どうか、これからもよくしてやってほしい」
「ああ。トレーナーとしてベストを尽くす」
軽く握手をして彼女は去っていった。
……ビワハヤヒデとも走ってみたいな。この学園に来てから傷痕が疼いて仕方ない。
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「おいブライアン」
「なんだ」
「そろそろ門限だぞ」
「ああ」
最近……というか再会してからブライアンが変だ。ことあるごとに俺の後ろについてくる。
普段学園では一匹狼な所があると聞いたが、これはまるで──
「送っていけ」
「?……分かった」
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メイクデビューはサクッと終わり、朝日杯フューチュリティステークスに出走。初のGⅠでありながらブライアンはブッちぎって勝った。
「よくやったな」
「私の目標はアンタだ。これは前座にすぎない」
仮にもGⅠを勝ったというのに喜びは希薄。目標が俺か。……一回しか走ったことがないが、アレは俺のというより……もっと別の何かなような気がする。
傷痕が疼く。もっとだ。ブライアンにはもっと速く強くなってもらう。
俺の体も鍛えなければ。もうあの頃のように途中で台無しになるようなことはあってはならない。
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「やり直せ。体勢がなっていない」
「ふー、ふー……」
学園内のジム施設はウマ娘用に負荷が大きなものになっている。200kgのバーベルなど俺のような凡人には到底上げられない。
ということでトレーナー室で体幹トレーニングに励んでいたが、ブライアンから修正を食らう。
「スクワットは体を前に出すな」
「分かっ、てるっ、つもりだっ」
言うは易く行うは難し。普段ブライアンに指示をしている分ある程度のアドバンテージはあるが、実際に行うとなるとキツいものがあった。
この学園に来る前も一応鍛えてはきたが勉強に時間を割いていたため満足な量をこなしていたとは到底言えない。
「はぁ……はぁ……キッツいな……」
「私と走るんだろう?この程度で音を上げていたら話にならないぞ」
「ああ、分かってる……!」
最近は食生活にも気を配っている。全てはこの飢えを満たすために。
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ただ愚直に鍛え続ける日々。その過程で三冠の称号も獲得した。
「……アンタまだ働いているのか?昨日から寝ていないと聞いたぞ」
「単純にやることが多くってな。お前は三冠獲ったし余計に。……よし、今日の仕事終わり」
示し合わせたわけではないが、私が帰寮する時は決まって兄貴が連れ立つ。一度そうしてからは日課と化していた。
「じゃ、帰るか……ん?どうした」
「動くな」
「なんだ急に」
私が手を添えたのは、恐らくあの頃にできた傷痕。顔半分を覆うその残痕に触れた。
「……痛いか?」
「くすぐったい」
……コイツと走るその日まで、私は倒れるわけにはいかない。そのためにも、コイツを過労に追い込むのは断固として阻止する。
「どうした、急にこんなことして。気になったのか?」
「……ただの気まぐれだ。それより早く休め」
「(……お前が動くなと言ったんだろ)」
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「その程度で足りるのか?私の野菜をやろう。アンタはもっと食え」
「適量ってものがあるんだよ。それと、野菜はちゃんと食べろ」
「チッ」
いつの間にか昼飯は兄貴と摂るようになっていた。野菜を食えとうるさいが、コイツといると傷痕の所為か絡んでくる奴らは少なくなる。そういう意味でも都合がよかった。
「今日は弁当なんだな」
「アマさんから貰ったやつだ」
「ああ、ヒシアマゾンか」
一瞬兄貴の目がギラつく。コイツのそんな目は今日に至るまで山ほど見てきた。おおよそ、アマさんとも走りたいとでも考えているのだろう。だが──
「兄貴」
「なんだ」
「忘れるな。アンタと走るのは私だ」
「……忘れるかよ」
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「……朝か」
目覚まし時計が鳴るより早く起き上がる。少し外を走って行くか。
兄貴がトレーナーになってから、あの日の夢は見なくなった。連日うなされることにはうんざりしていたためちょうどいい。
「はっ、はっ……」
白んだ空の下、走る。外気温の冷たさが火照る体に程よく染みついていく。
私のトゥインクル・シリーズはシニア級に突入した。年度代表ウマ娘に挙げられ、強豪たちと競い合う道を兄貴は選んだ。
……デビュー前と比べ、私の渇きは満たされつつある。
私が相対してきたウマ娘たちは私が思っている以上の輝きを放っていた。孤独だったあの頃とは違い、私を本気で超えようと闘志を燃やす奴らがいた。
故に、私が求めるのは姉貴との真剣勝負、他の名だたるウマ娘との闘争。そして最終目標は兄貴を超えること。
「……はぁっ──!」
速度を上げる。兄貴の幻影は、相変わらず前を行っていた。
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二度目の夏合宿。これでブライアンは更なるレベルアップを遂げるだろう。
……もう少し。あともう少しで、俺の本懐は叶う。
「今からトレーニングを始める気か」
「しょうがないだろ。昼間はお前の面倒見ないといけないんだから」
日はとっくに沈んでいる。他ウマ娘が夕食を摂る時間帯に、俺は砂浜に立っていた。そして何故かそんな俺をブライアンは引き止めている。
「ハァ……無茶はするなよ」
「分かってる」
それからは、ブライアンに見守られる中夕闇の砂浜を走った。俺は先に飯食ってこいと言ったがブライアンは頑として動かなかった。
────────────────────
「……」
大歓声がレース場を包む。私のトゥインクル・シリーズ最後の戦い、有馬記念。
今、この場にいるウマ娘は皆今日に至るまで数々の研鑽を重ねてきた強敵。そんな奴らをブッちぎる快感は至極のものだった。
姉貴は良いトレーナーと出会った。怪我の影はいつの間にか消えてなくなり、私は姉貴と正式に勝負できた。
後は、兄貴。アンタだけだ。だがまずは──ウイニングライブだな。
────────────────────
傷痕が疼く。傷痕が疼く。傷痕が疼く。
もういいだろ。これ以上我慢できない。
闘争心は最高潮に高まり、脚は動き出すのを今か今かと待ち望んでいる。
『走れ、走れ』
『声』は俺を急き立てる。際限なく沸き立つ闘志に、傷痕は過去最悪なまでに疼いていた。
「おい、ブライアン」
「なんだ」
「レース場、行くぞ」
「……!……今日か?」
「ああ。今すぐやろう。──っと、悪い、今走れるか?」
「……問題ない。ベストコンディションだ」
全細胞が喜びに打ち震えていた。
とある昼下がり、俺は
今日まで長かった。本当に長かった。
俺の生まれた意味。
「君、悪いがスタートの合図を出してもらえないか?」
「はい?大丈夫ですけど……ブライアンさんと誰が走るんですか?」
「俺だ」
「ああ、トレーナーさんが……って、ええっ!?」
たまたま近くにいた生徒に合図を取らせる。なにやら驚いているようだがそんなことは気にもならなかった。
「兄貴」
「なんだ?」
「
「善処する。……じゃ、合図を頼む」
「そ、それじゃ、位置について──」
『走れ、走れ』
世界を感じ取る。出走準備を整えた体に記憶が宿り、俺はどこまでも希釈されていく。
「『──────』」
──降ろす。
────────────────────
「(やはり……か)」
前を行く奴の姿。やはり、私が見てきたどんなウマ娘よりも速い。
状況を把握する。現在三バ身差。ここから奴は更に速度を上げるだろう。
今日まで極限まで鍛え上げてきた。数多の強者と戦った。
──しかし尚、最後の最後で満たされない渇望。
勝ちたい。この走者に勝ちたい。ただそれだけを望んでいた。だが──
──ああ、兄貴。やっぱりアンタは、速いな。
──だが、
──それでも、
「──それでも……!」
────────────────────
「ゲホッ、ゲホッ、は──ア──」
全身が分からない。自分が生きているのか死んでいるのかさえ分からない。
ただ一つ確かなことは、走るという行為の愉悦。
駆ける。降ろす。大地を蹴る。降ろす。
茹だるような脳みそを稼働し状況を確認する。ブライアンは今、どこに──
「がああああぁぁぁあっっ!!!」
「キヒ──ッ」
来る。
──ああ、楽しい。楽しいな、ブライアン。
体中が燃えるように熱い。
一手、一歩ずつ思考を回す。できる限りの最善を突き詰める。
全てを絞り出せ。これまでの旅路は、この一瞬のためにある。
人間はウマ娘に敵わない。どう足掻こうと、その最高速には追いつけない。
だったら、
その理を、食いちぎる。
「ごふっ、げ、あ──」
赤い何かを吐き散らしながら第四コーナーを回る。もうすぐラストスパート。この夢のような時間を飾る集大成。
元来、人もウマ娘も最初から最後まで最高速度は出し続けられない。それは降ろした
だからここまで脚を温存してきた。最終直線。ここからが本当の勝負!
「────!!」
もう、耳が聞こえない。それでも痛みと飢えが満たされる感覚、そしてブライアンの声を感じ取る。
もっとだ。もっと前へ。加速し──
「──ぁえ?」
ブツンと、シャットダウンするような音が脳内に響く。
刹那、色を無くし遅くなった世界の中で、俺は力を無くして前のめりに倒れそうになる。
──ああ、これは、ダメだな。
燃えたぎる中でどこか冷静だった思考が諦めを告げる。
もう俺に力は残ってない。このまま伏して、走者としての生命を絶たれるのみ。
何か、何か残留しているものはないか。
『また一緒に遊ぼうね!兄ちゃん!』
約束を思い出す。力は戻ってこない。
「グッ、ア──!」
吠える。力は戻ってこない。
「まだだ……!」
降ろそうと試みる。力は戻ってこない。
「────」
詰みであると脳内回路は判断する。もうこれ以上の一歩は踏み出せない。
─────────────終わりか?
───────ああ。終わりだ。
────そうか。
──なら、
その理を、食いちぎる。
「────ッ!!!」
瞬間、世界が弾けた。
全てのクオリアが脳髄に叩き込まれる。アイツの声、芝の感触、風を切る感覚、何もかもが新鮮さを残したまま蘇る。
大地を──蹴る。至極単純な、走るための行為。
そして──世界をぶち破る。
彼女たちが限界なら、今度は俺が。
「行くぞッ……!」
奥底から一気に爆ぜる。倒れかけた心に火が灯る。
刮目しろ。これが、俺の走りだ!
「はああぁあぁぁあああぁっっ!!」
「だぁぁぁあああぁぁああっっ!!」
全てがここにある。これが、走るということ。
ゴールはもう目の前。最強と最強の衝突、その結果が明らかになる。
……この瞬間が、永遠に続けばいいと思った。だが、望んでも手に入らないくらいが俺にふさわしいのかもしれない。
残り、ゼロメートル。
────────────────────
「ハーッ、ハーッ、ハーッ……」
……勝った。あの影を、超えた。
「……ナイスファイト、ブライアン」
「……っ!?」
それは、あの頃のような屈託のない笑みで──
────────────────────
最初で最後の、最高のレース。それは俺の敗北という形で終わった。
『声』は聞こえなくなった。全力を出した結末がこの負けということで満足してくれたのだろう。
あの後、レースを終えた俺の体は何かのサービスかと思うくらいに急速に治っていった。そしてそれ以降、その治癒能力が発現することはなかった。
それにしても──ああ──楽しかった。
後始末は面倒なことになった。しかし──ああ。たった一度きりの闘争。それだけで、なんかもう笑えるくらい楽しかった。
とまあ、ここまで長々と吐き連ねてきたが、これが俺ことただのヒト息子、人生最高の全力疾走だった。
「おい兄貴、入るぞ」
「おう」
あの人知を超えた力はもう出せない。俺は完全に人へと戻った。それでも、もう満足だ。
「…………」
「…………」
いつも通りの時間。仕事をする俺と、トレーナー室のソファで寛いでいるブライアン。しかし──
「ん?どうしたブライアン」
「……もう」
胸ぐらを掴まれる。そして……額を合わせられる。
「……もう、どこにも行くなよ」
「……ああ。行かねぇよ」
もう走れない。だとしても、俺はコイツの兄貴だ。
────────────────────
x年後
────────────────────
「よし、と」
今日は休日。ビワハヤヒデ級までとはいかなくとも、それなりに美味いカレーができた。
「そろそろ飯にするぞ」
「ああ」
あれからなんやかんやあり、俺とブライアンは同棲するようになった。その方がお互いに都合がよかったからだ。
ブライアンに恋人でもできればこの関係は解消するつもりだが、今のところそんな予兆は無い。
「あー悪い。先食っててくれ」
「どこに行く」
「夕飯前にひとっ走りしようと思ってな」
「私も行こう」
「じゃ、行くか。ブライアン」
俺とブライアンは駆け出した。いつかの夕焼けの下で。