ウマが憑依(ぴょい)する三秒前   作:散髪どっこいしょ野郎

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こいつらうまぴょいしたんだ!

『カレンのカワイさは、みんなを幸せにするね』

 

昔兄さんが言ってくれた言葉を、今でも覚えている。だからあの人だってきっとそうだと思っていた。

 

実際みんなカレンのことをカワイイと言ってくれた。おべっかや上辺だけの褒め言葉ではなく、心から私にカワイイを感じて幸せになってくれた。

 

……お兄ちゃんを除いて。

 

『……カレンの夢は、いつか必ず叶うよ』

 

切なげに呟くように私を応援したあの人の顔がいつまでも記憶の端から離れない。

 

何度も頑張って、何度も研究して、何度も──頑張ってきたのに、あの人だけは私に何も感じてくれなかった。

 

多分あの頃からお兄ちゃんは『声』に苦しんでいた。私に何も打ち明けないで。何も求めないで。……そうやって自分のことを隠し続けたまま、いつの間にか消えてしまった。

 

お兄ちゃんにとって私は特別でも何でもなかった。優しくて、私を理解しようとしてくれて、私の夢を笑わないでいてくれて、一番近くにいて、一度も振り向いてくれなくて、いつもどこか辛そうで────大嫌いだったお兄ちゃん。

 

あの人がトレーナーになってからも頑張った。レースも、それ以外も、必死にやり通したのに。

 

ダメだった。全部。

 

まだ一度も追いつけていない。色々と教えてもらうようになって私も確実に強くなっている筈なのに、未だに影すら踏めていない。

 

今に至るまで舐め回すような視線はある程度経験してきた。そんな人たちもカレンのカワイさで一人残らず屈服させてきた。でも、あの人はカレンに見向きもしてくれなかった。

 

あの人は私のやることに口出しはしない。でもそれは信頼されてるんじゃなくて、単純に興味が無いだけ。お兄ちゃんにとって、私は走る相手以外の何者でもない。

 

一番近い人に、一番見て欲しい人に、私は見放されている。

 

 

 

 

 

────────────────────

 

 

 

 

 

ベッドが赤く染まっている。

 

眠りながら吐血したのかもしれない。鉄臭い味が口腔内に充満している。また面倒が増えた。

 

適当に思考を投げ捨てシャワーを浴びる。シーツの処理などは後の自分に任せればいい。

 

昔から眠っている間は声が聞こえなかった。だから休日はもっぱら睡眠時間に当てていたが、大人しく眠りにつけた事は数える程しかない。というより覚えていない。加えて俺の睡眠時間は平均的なそれと比べ大きく下回っていた。

 

胃袋を空にしたまま寮を出る。基本的に俺は朝食をとらない。一日一食か、多くても二食が限度だ。

 

食事の時間が苦手だった。機械的に目の前の”モノ”を噛み砕いて嚥下する作業。味もせず、香りもしない。酷くつまらない単純作業。俺にとって食事というものはそれ以外の何ものでもなかった。

 

一つだけこの体で安心したことは、子供が作れなくてよかったという点だ。こんな人とも言えない生き物の子供など、考える気にもなれない。

 

生まれてこの方性的興奮を覚えたことは無い。そんなことだから当然性機能など育つ筈もなく、そういった行為はおろか生殖本能が表面化したことすら無かった。

 

黙々と己の役目を果たし、走る為に生命を注ぎ込む。

 

それが、俺という人でなしの現在だった。

 

 

────────────────────

 

 

トレーナーとしての生活に特筆すべき点はない。適当(いい加減)適当な(ちょうどよい)成果さえ出していれば誰に咎められることもない。

 

「カレン」

 

「……うん」

 

特製のウィッグと体格を隠す為に誂えた巨大(オーバーシルエット)な衣服、それと擬似尻尾を身に纏いターフの上に立つ。

 

いつも通り、許容量を超えた更に先まで降ろし──

 

「────?」

 

草原の中にいた。

 

「……カレン?」

 

周囲には誰もいない。夢でしか見られなかった景色が辺り一面に広がっている。思わず身構えるがいつもの黒い少女が現れる気配も無い。

 

とりあえず出口を探して歩き出そうとすると、

 

「────あ?」

 

破裂音がした。

 

右腕を見る。

 

「────」

 

言葉を失うとはこのことを言うのだろう。思考も完全に停止している。

 

右腕、正しくは右腕の表皮が()()()()()

 

続いてもう一度破裂音。

 

左足の筋肉が内側から膨張を始め皮膚を突き破っている。連鎖するように右足もまた破れる。

 

「─────────────あ」

 

これは夢ではない。その事実を、俺はこれから身をもって知るだろう。

 

「■■■■■■■■■■────!!!!!」

 

悲鳴とも形容し難い「声」が、誰もいない空を埋める。胸が膨らむ。足が、腕が、指が、爪が、首が、弾ける蠢く開いて変わる。

 

彼らが中にいる。彼らが中にいる。彼らが中に。彼らが。彼らで、彼らだった。

 

肉が降る。俺でした。

 

「カレン」

 

「……ん、どうしたのお兄ちゃ──え──?」

 

戻ってきた。俺はここにいる。カレンもそうだ。よかった。忘れてなんていない。

 

「カレン────そうだ。カレン。ああ、」

 

『走れ走れ走れ走れ走れ走れ──』

 

黙っていろ今はそれどころじゃないカレンをまだ覚えているんだ俺はうるさいなああでも────まだ走ってなかったな。

 

「お兄ちゃん……?どうしたの……?」

 

つい至近距離まで歩み寄ってしまったがそういえばまだスタート前だった。既に準備は完了している。

 

「──────なんでもない。戦ろう」

 

 

 

 

 

────────────────────

 

 

 

 

 

また勝てなかった。あの人は私をぐんぐん突き放して、それでも加速し続けて先へいってしまった。

 

そんなことより、

 

走り終わった後、あの人は自分の体を見つめていた。

 

そんなことよりも、

 

『──────なんでもない。戦ろう』

 

息を呑んだ。そう言ったお兄ちゃんの表情が、切なげで──とても温かかったから。あの時のお兄ちゃんがそのまま目の前にいると錯覚したぐらいに。

 

「今日もありがとうな、カレン」

 

走り終わった後、私が息を切らしているとタオルを片手にあの人がやってきた。私の気も知らないで。

 

「カレン、どうした」

 

そんな声色で私を呼ばないでほしい。あなたは結局自分一人で全部抱え込んでいなくなってしまったくせに。

 

「………………」

 

言わないと。いつも通りの”カワイイ”私で、大丈夫ってカワイく言わないと。そうじゃなきゃ私はカワイイカレンチャンじゃない。

 

「カレン」

 

「──────あ、」

 

あの人を無視して私は逃げ出した。

 

涙は流れなかった。

 

 

 

 

 

────────────────────

 

 

 

 

 

いつもと比べ明らかに様子がおかしかった。トレーナーとして何か行動を起こした方がいいのだろうが、カレン相手となるとそれもはばかられる。

 

カレンは俺に何も打ち明けない。それ自体は別に構わないが、正直何を考えているのかよく分からない。普段は俺を”お兄ちゃん”と呼んでいるが、一向に信頼を得られた気がしない。

 

何をするにも基本的にアイツが一人で決め、そして一人でやってのける。俺がトレーナーである必要も、”お兄ちゃん”である必要も感じられない。

 

カレンは昔のことを覚えているのだろうか。俺は一応思い出せるだろうが目覚めればそれも消えてしまう。

 

そもそも何故俺を選んだのか。俺はアイツに何も応えてやれない。

 

確かに昔はお兄ちゃんだったのかもしれないが、今は──いや、そもそも俺は『声』に導かれてカレンに近づいただけだった。

 

俺は、初めから『奴ら』の傀儡に過ぎなかった。

 

 

────────────────────

 

 

軽く跳んで体を慣らす。

 

時刻は深夜。人通りは少なく、河川敷や公園もガラリと開けて夜間特有の開放感に包まれている。

 

することは決まっている。ただ走る。それだけだ。

 

陽が出ている間、カレンが起きている間はカレン以外の誰とも走れない。しかし今の俺はできるだけ長く走っていなければ気が済まなくなっている。

 

もう走ることでしか生きていけない。一度止まってしまえば『奴ら』が追ってくる。とにかく体を動かさなければまた気が狂ってしまう。『彼ら』を降ろすことは不可能だがなにもしないよりはマシだ。

 

「────」

 

先の見えない暗闇に向かって駆け出した。

 

 

─────────────────────

 

 

そんなことを続けていれば僅かばかりの睡眠時間すらも取れなくなる。眠らない日も増えた。それでも体調を崩して倒れるようなことは決して無く、『()()()()()()』走っては与えられた役目を果たす日々。

 

夢を見ることを恐れていた。

 

アイツが俺にとってどんな存在だったか、丹精込めて思い知らされては懇切丁寧に潰される。

 

夢を見ることなんて俺には許されなかった。

 

カレンが羨ましかった。真っ直ぐに夢を掲げ、それに向かって突き進むその姿が眩しくて、俺には到底目指せないものだったから、

 

妬ましかった。そしてそれ以上に、綺麗だと思った。だから俺の我儘で振り回したくはなかったのだが、

 

「……お兄ちゃん」

 

とうとう気取られてしまった。

 

日がすっかり落ちきった公園には、俺とカレン以外誰もいない。街灯のLED光の下ではお互いの表情がよく確認できる。

 

誤魔化そうと試みてはいたが日に日に深くなる目の隈などは隠しきれなかったようだ。他の人やウマ娘に悟られることは無かったのだが……何故かコイツだけが気づいていた。

 

「…………」

 

珍しく神妙な面持ちのカレンを前に息を整える。ひとまずそれだけに集中して思考を塗りつぶす。

 

「……ね、帰ろ?お兄ちゃん。……お願いだから」

 

コイツは何を言っているんだろう。帰る場所なんて俺には無いのに。

 

夏夜(かや)特有のジメリとした熱気が肌に張り付いて不快だった。

 

 

────────────────────

 

 

「……やっぱりカレンじゃ嫌?」

 

並んで学園に戻っているとそんなことを聞かれた。そんなことはないと首を振ってはみたがどうも納得のいかない様子でこちらに視線を向けてくる。

 

「ねえお兄ちゃん。カレンは、お兄ちゃんから見てもカワイイ?」

 

下手に取り繕ったところで見破られるのは分かりきっている。俺は”カワイイ”が分からない。

 

「そう、なんだ」

 

よく分からないと答えたところカレンは顔を逸らしてしまった。結局学園に辿り着く時までその表情は影になって分からなかった。

 

 

────────────────────

 

 

見慣れた景色。いつもの草原。相変わらず黒い少女は瞳孔の無い顔で俺を見る。

 

「…………」

 

『────』

 

逃げて追いかけられての繰り返し。そろそろ飽きが回ってきた。

 

『あのね、私の夢は────』

 

懐かしい。確かにそんな会話をした。理解はできなかったがいい夢だとは思っていた。カワイイかと執拗に聞かれるようになったのはあの頃から……もっと前からだったか?

 

『奴ら』に襲われながらも思い出の温もりに浸かっていられるこの時間が、俺は少し好きになっているのかもしれない。このまま永遠に目覚めず安らかな過去(ゆめ)と共にどこまでも希釈されてしまえばと、つい考えてしまう。

 

「────ふっ、」

 

久方ぶりに笑った気がする。自分があまりにも滑稽に思えてこぼれた失笑。こんなものが笑いのタネになるとは、俺は随分とつまらない人生を送ってきたんだな。

 

また忘れてしまった。

 

「ぁあ……」

 

なんだか無性にアイツの声が聞きたくなった。

 

 

 

 

 

────────────────────

 

 

 

 

 

私は今、緊張している。レース前だってここまでにはならなかった。

 

お兄ちゃんは私と”お話”がしたいと言い出した。思い出話に花を咲かせるような、そんな頓痴気な目的ではない筈。それにあの人は私のことを覚えていなかった。

 

模擬レースを中断してまで誘ってきたのだからきっと重要なことなのだろう。

 

「なあカレン。俺は──どんな奴だった?」

 

朱い陽が差し込む黄昏時のトレーナー室で、あの頃から変わらない──光を失った眼で、お兄ちゃんはそんなことを言い出した。

 

私は生まれて初めて憐憫というものを抱いた。

 

 

─────────────────────

 

 

初めは軽い”思い出話”から始めた。それから私の夢──宇宙一”カワイイ”私についても。

 

お兄ちゃんは笑っていた。ゲラゲラ、ゲラゲラと。

 

お兄ちゃんは私とのことを思い出しては忘れているらしい。

 

お兄ちゃんはいつまで経っても私の前からいなくなった理由を話そうとしなかった。しびれを切らして問い詰めると、歪に頬を引き攣らせながら語り出した。

 

お兄ちゃんは私と一緒にいた間もそれ以外の時間も延々と『声』に苛まれていた。日増しにそれが激化していく中とうとう耐えきれなくなってしまい、その結果『誰か』に引き取られる形で私の前から離れた……らしい。

 

お兄ちゃんは喉を絞るように笑っていた。

 

お兄ちゃんは一度死のうとしたことがあったらしい。

 

 

 

 

 

────────────────────

 

 

 

 

 

体に記憶が残っている。これだけは何があっても忘れられないだろう。

 

養成学校に通いながら遺された誰かの遺産をやりくりしながら日々を送っていた時のこと。俺は自殺を試みた。

 

大した準備は行わなかった。一束の麻縄のみ持参し、見知らぬ山奥へ繰り出した。

 

躊躇いは無かった。その辺の木に縄を括り付け、首を通し、思い切り身を投げ出した。

 

死ねなかった。

 

一分経っても、十分経っても、どれだけ待っても俺は生きていた。脳漿が沸騰する感覚だけが焼き付けられて。

 

最終的に限界が来たのは木の方だった。枝はポッキリと曲がり、俺は地面に叩きつけられた。やや細めだったのが幸いした。

 

即死できる程の深手を負えたのならまた違ったのだろうが、それからどれだけ手を替え品を替え再挑戦してみても刻みつけられた死の記憶に邪魔をされ最後まで遂行することは能わなかった。

 

だが、レースは違う。

 

力を降ろせば降ろす程体は傷つき、その痕を増やしていく。治ってしまうことに変わりはないが走り続けていれば、或いは逝ける日が来るのかもしれない。

 

俺はレースとウマ娘を、そして『彼ら』を侮辱している。自ら進んで自ずから破滅に踏み出すなど。

 

それでも楽しかった。

 

楽しかった。走っているあの時間が、生まれて初めて楽しいと思えていたんだ。

 

臓腑を灼かれながら大地を踏み抜く感覚が、視界を赤く染めながら五体に受ける煽風が、楽しいと、心から至福に感じて。

 

それなのに、怖くなった。

 

失うことを恐れている。あの人のように、カレンのことを忘れてしまうと思うと頭がおかしくなりそうだ。

 

いっそ記憶など完全に無くしてしまえばよかったのかもしれない。走る為の道具として自我すらも奪われてしまえば、ある意味幸せだったのかもしれない。

 

それでも俺にはカレンがいる。俺をお兄ちゃんと呼んでいた少女。

 

それともコイツがいなければ、俺は今頃自由になれていたのだろうか。

 

待て、そもそもの話、

 

────俺はカレンに必要とされているのか?

 

走るのが怖いと思ってしまった。

 

彼女を失えば、俺には何も残らない。己の存在以外、何も。

 

だとしてもだ。

 

俺がいなくてもカレンチャンはカレンチャンだ。トレーナーとして見てきたからハッキリ分かった。仮に俺以外の誰かが担当トレーナーになったところで支障は無い。それが現実だ。

 

そう考えればいくらか気が楽になった。ああなんだ。こんなに簡単な話だったのか。

 

だったら全て忘れてしまおう。そうやってただ走っていれば、俺はいつか死ねる(幸せになれる)筈だから。

 

 

 

 

 

───────────────────

 

 

 

 

 

お兄ちゃんは”お話”をした日から吹っ切れたように走り続けていた。私もとうとうなりふり構わなくなって必死にあの人を止めた。その度にあの人は困ったような笑みを浮かべて、……浮かべて、私を優しく振り払った。

 

それがどうしてもイヤだったから──結局一緒に走る他なかった。

 

(カレン)じゃ”理由”になれない?

 

あの人のことが大嫌い(好き)だった。

 

どんなに頑張っても振り向いてくれなくて、それなのに誰よりも近くにいて。

 

私じゃあの人の苦しみを分かってあげられない。同じ立場でもないのに勝手に理解したつもりになって同じ痛みを知ったような振る舞いだけはしたくない。

 

だからあの人に「見て」欲しかった。私にカワイイって感じて、満たされて欲しかった。そしてそれ以上に、心の底から笑って欲しかった。

 

 

 

 

 

────────────────────

 

 

 

 

 

何度も走ってはカレンを忘れていった。

 

いずれ名前すら分からなくなってしまうだろう。しかし幸いなことに彼女は俺の担当ウマ娘だ。支障をきたすことは無い。筈なのだが。

 

「…………お願い。行かないで」

 

『走れ走れ走れ走れ走れ走れ──』

 

カレンチャン()トレーニングが終わった後、一人で走りに行こうとすると腕を引かれた。

 

「─────はは、」

 

『走れ走れ走れ走れ走れ走れ──』

 

どうしてそんなことを言うんだ。それじゃあまるで、俺が誰かに必要とされているみたいじゃないか。

 

「はは、はははは────あ」

 

『走れ走れ走れ走れ走れ走れ──』

 

辺りに誰もいなくてよかった。こんな状況を見られたらどんな噂が立つことか。空は真っ黒だ。カレンも疲れているだろうに。

 

「あ────あああぁあぁああ……っ!」

 

『走れ走れ走れ走れ走れ走れ──』

 

掴まれた片腕にカレンの体温を感じる。こちらが求めてもいないのに手を掴む。知ろうとする。俺だって俺のことを理解できないのに。

 

どうしてコイツは俺を一人にしてくれないのだろう。

 

なんで誰も俺を(ゆる)してくれないんだ。

 

「……私は、あなたがいるからカレンでいられるの。あなたがいないと、イヤなの。だから────」

 

なんだ。そうだったのか。俺もお前も、お互いがんじがらめだったんだな。なんだか酷く疲れた。もう終わらせてくれ。疲れたんだ。

 

 

────────────────────

 

 

「カレン。今、模擬レースはできるか」

 

「────ぇ、でも、今は」

 

「頼む」

 

「────────ッ、うん」

 

我慢の限界が低くなりつつある。

 

今はウィッグやら何やらを持ち合わせていない。それもそのはず、今現在、俺はトレーナーとしてカレンを見ていた。

 

時刻は昼過ぎ、トレーニング場には他ウマ娘の姿も多い。

 

変装道具を取りに行く時間すらもどかしく、俺の体は今にも走らんと力を滾らせていた。それと俺は、一度自由に走ってみたかった。誰でもない、ただの人間として。それが叶うことは永遠に無いが。

 

 

────────────────────

 

 

「……」

 

「……」

 

お互い無言のままスタートラインに並び立つ。寧ろその方がありがたい。

 

「ぁ」

 

か細い喘ぎが風に溶ける。またあの景色を見た。(はや)すぎる彼らにただの人間はついていけない。だから喰わなければならない。だから内側から食い破られた。

 

合図を待つ。

 

合図を待つ。

 

合図を──鳴った。

 

一歩前に進む。骨が割れる音がした。

 

 

────────────────────

 

 

「ヒ────ヒッ、シ────」

 

風きり音にも似た呼吸。いくら吸い込もうとしても肺が一向に満たされない。穴でも空いているかのようだ。

 

降ろす。

 

白光を見た。およそ縋るには頼りない、道標にすらならない小さな明かり。俺の世界(しかい)に混ざる。

 

収縮した筋肉は強靭なバネとなり俺を前へ前へと押し進める。役目を終えて瓦解し、また造り変えられる。

 

千切れんばかりに振られた腕は内側が既に崩壊していた。しかし最重要機能は下半身。適当に動かせるならそれだけでいい。

 

コーナーを回っている。

 

降ろす。

 

「がア…………ッ!?」

 

脳味噌に太陽が照りつける。ように感じる。

 

もっと。もっと速く。そして、最速へ。

 

足取りは不気味な程に美しく、ふくよかな芝に携えられた曲線(コーナー)(あで)やかとも思える程になぞり抜く。

 

内臓は曲がる速度に耐えきれず。だらしなく捻じ曲がる。自分の体の中身がズレる感覚。

 

「あ、お、お、オ?ゴ────」

 

ふと後ろが気になった。俺が今戦っている相手。様子見はキチンとしなければ。

 

─────────────────────────────────────────────────────────────────────カレン。

 

やっと思い出した。これからもっと忘れるだろう。あとどれくらい残っているのかも分からないのに。

 

降ろす。

 

最終直線に入る。

 

世界を置きざりにして加速する。目の前がブラックアウトする。意識が夢と現の間を彷徨う。

 

カレン──────。

 

俺がいなくても、アイツは夢を叶えるだろう。

俺がいなくなっても、アイツは大丈夫だろう。

 

だが、

 

アイツは俺をトレーナーに選んだ。必要だと言った。そしてお兄ちゃんだと言った。

 

忘れてしまえば楽になる。死んだあの人と同じように────でも、カレンはここにいる。生きている。そして俺を忘れなかった。

 

でも、

 

だから、

 

────この繋がりを失いたくない。

 

は、あ────ごふ」

 

蒼天を染める真っ赤な霧。俺の中から絶え間なく吹き出し続ける。行き場に困って視界からも流れ落ちる。

 

皮肉な話だ。迷いが足を鈍らせ、俺から杖を奪っていった。

 

「あ、ヅぇ」

 

芝が舞う。俺の体に纏わりつきながら。

 

何かの芝居じみた大仰な動きで俺はターフに転がった。

 

吹き上がった液体が顔面に落ちる。仰向けに倒れてしまったらしい。

 

「────」

 

これで終われたらと思った。そんな期待を裏切るように意識は鋭く保たれている。地面に打たれ窪んだ鼻は既に修復を始めている。

 

「お兄ちゃん!」

 

遠くから駆け寄ってくるウマ娘。知っている。その名前も、走り方も全て。

 

「お兄ちゃん……ああ、ダメ、お兄ちゃん……!」

 

上体を抱き上げられる──が、怪我人にそれはいけないと判断したのか体勢を直ぐに変えられそうになる。

 

「────私がすぐになんとかするから、だから」

 

「……大丈夫だ」

 

今にもどこかに行ってしまいそうだったので無事を伝える為に引き止めた。カレンは驚いたように動きを止める。

 

泣いていた。珍しい。それどころか初めて見たかもしれない。

 

周囲の喧騒は何も聞こえない。聞くつもりなど毛頭ない。

 

正直に言えば止まりたくなかった。これからも思う存分走っていたかった。身体が砕け散ろうと構わなかった。仮にこれが負けになったからといって大人しく従ってやる義務は無い。

 

しかし最悪なことに俺はコイツに救われてしまったようだ。

 

あの日語れなかった夢も、掴めなかった理想も、忘れてしまった自分自身も。

 

手を伸ばそうが届かない。歩みを進めれば遠のいていく。

 

声は停滞を許さない。終わることなく俺を駆り立てる。

 

それでもお前が俺を縛ると言うのなら。

 

『走れ走れ走れ走れ────』

 

「お、お兄ちゃ────」

 

「カレン」

 

もう離しはしない。俺に残っていたのは走る事だけだった。お前はそれを奪ったんだ。

 

逃がさないようしっかり捕まえ、真正面から視線をかち合わせる。血を流す両目を見開き、涙を浮かべるカレンを容赦なく射抜く。

 

コイツは俺にただ一つ許された生き甲斐(死に場所)を奪った。消えてしまった誰かと同じように、コイツは俺の楔になってしまった。カレンは、俺にとって死ねない理由になった。

 

昂り続ける肉体を、燻り続ける渇望を癒す術はない。だから俺はお前を離さない。

 

「カレン」

 

「………………うん」

 

踏み込んだのはお互い様だ。

 

──もう何があっても逃がさない。

 

























この後エピローグとして後日談(彼が死ねない話)を投稿しようかと思ったのですが1000文字いかないくらい短かったので三女神分からせルートよろしく活動報告に投稿させていただきました。よかったらどうぞ。









どっちが幸せ?

  • やりたいことやって逝ったナリブラルート
  • 理解者いるけど死ねないカレンチャンルート
  • 生まれるべきではなかった
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