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『走れ、走れ』
朝目が覚めて真っ先に届く声はいつもこれだ。
何事も『慣れ』ということか、今ではさらりと聞き流せるぐらいには余裕ができていた。
この幻聴は物心がつく前から聞こえている。
しかしいざ走ってみても声は訴えをやめようとしない。だというのにいつ如何なる時も淡々と走る事を命じていて。
声がウマ娘との競争を望んでいることはトレーナーになってから知った。そう、俺はトレーナーだ。
何故なろうとしたのかは上手く説明ができない。ただ声に導かれるがままになった、としか言いようがない。
そして今。俺はどうしようもなく戦いたがっている。
とはいえ一人の男と走ってくれるような酔狂なウマ娘はいないのが事実。
さて、どうしたものか。
思案しながら廊下を歩いていると、二人のウマ娘がトレーニング場へ向かっている姿が確認できた。
一人は学園の生徒会長であるシンボリルドルフ。もう一人は──問題児として有名なアグネスタキオン。
俺は
コースは芝2000m。どうやら彼女たちはここでレースをするらしい。
「────、──?」
「──、────」
二人が何かを話している。どうでもいい。
そんなことより、そんなことよりも──なんだこの感覚は。
走りたい。とにかく彼女たちと走りたいという欲望がとめどなく溢れ出てくる。
「俺も、走らせてくれないか」
一言で言えば狂っていた。その目も、体も。
スタートから圧倒的な瞬発力を見せ、私と会長に影を踏ませることすらなく逃げ切ってみせたのだから。これを狂気と言わずして何と言うのか。
そして何より重要視されるのは彼がウマ娘でないという点だ。こんな貴重な被験体、逃してなるものか。
「君、私のモルモットになってみないかい?」
「は、はは、は」
息が持たない。限界以上の出力を放つ足はグラつき、脳の奥でスパークするような感覚が呼吸を害する。
それでも前へ。
追走する二人を置き去りに、さらに前へ行く。
足は折れ、筋肉は潰れ、内臓は悲鳴を上げる──
──ああ、レースとはここまで心地のいいモノだったのか。
「げ、ほっ、がふ……っ」
吐血。ミルキングアクションすらままならず、ゴール後の夕焼けの中へ倒れ込む。
足音がすぐ近くまで迫る。さて、俺は何を言われるのだろうか。
「君、私のモルモットになってみないかい?」
ありがたいことにシンボリルドルフは今回の件を黙認してくれた。あの場に観客がいなかったことも大きな要因となっている。
トントン拍子で契約は進み、俺はアグネスタキオンのトレーナー兼モルモットになった。
話を聞くと彼女は退学寸前だったようで、あの場に俺が居合わせなかったら学生をやめるつもりだったらしい。
なんにせよこれは絶好の機会。彼女は実験動物を、俺は競走相手を手に入れた。
「と、いうわけで次はこれだ。腕の震え、肌の発光……気になったことは直ぐに報告してくれたまえ」
「……また薬か」
アグネスタキオンから薬を盛られるようになって早数日。
研究室でミーティングを行いながら彼女の実験に付き合っていると、それは突然現れた。
「やあやあカフェじゃないか。どうしたんだい、そんな怯えたような顔して」
彼女は確か……マンハッタンカフェだったか。一体どうしたのだろう。酷く狼狽しているようだが。
「タキオン、さん。その人は……」
「ン?ああ、彼は私のモル……トレーナー君さ」
あまりにも動揺しているので心配になり、思わず向かおうとすると──
『チ カ ヨ ル ナ』
確かにその声を聞いた。それと同時に後方へ吹き飛ばされ、したたかに後頭部を打ちつけた俺はあっさりと意識を失った。
あの後意識を取り戻した頃にはマンハッタンカフェも落ち着いてきたようで、多少怯えられながらも会話ぐらいならできるようになった。
彼女曰く、数え切れない程無数のウマ娘と見たことも無い動物がドロドロに溶け合って俺の体全体にまとわりついているらしい。
まったく想像がつかないが彼女には悪いことをしてしまった。
いやはや、実に興味深い。
彼の細胞から器官に至るまで、一般的な成人男性のそれと何ら変わりはなかった。
でありながらあそこまで爆発的な速度を出せるとは……彼の足はどのように進化しているのだろうか。
彼曰く、レース時になると体に何かを”降ろして”いるとのこと。
降霊術──実に非科学的な要素だがそれを前提に捉えてみれば納得がいく。
彼は走る度に重傷を負い、走る度に治っている。
とにかく実験だ。モルモットなのだからコンセンサスを得る必要もない。
プランAとプランBの進行も上々。いずれどちらかを選ぶことになるだろうが──
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
体中に激痛が走る。それはいい。
足が折れている。それはいい。
最重要項目は走りきれるかどうか、それだけだ。
「つ、ぅっ…………」
まただ。また、体が持たなくなっている。
「限界かい?」
「……みたいだな」
体の至る箇所が激しく痛む。呼吸すら不確かで、思わず跪いてしまう程だ。
ウマ娘並みの速度で走る男がいる、という噂は既に学園中に広まっている。ソイツはアグネスタキオンの担当という
それ故か、奇異の目で見られることはあれど映像が拡散されるようなことはなかった。今回ばかりは彼女の特異性に感謝しなければ。
しかし問題なのは完走ができないという点だ。
シンボリルドルフ、アグネスタキオンとの一戦以降、俺は最後まで走りきれなくなっている。
「ふぅン。となると君の体を何らかの手段で補強する必要もあり、か。やはり薬か……?」
ぶつぶつと呟くアグネスタキオンを横目に空を仰いだ。季節は春を迎えている。
彼女は生活能力が低い。
「モグモグ……あ、次はミートボール」
「……」
食事ですらこちらが促さないと摂ろうとしない。いや、厳密に言えば摂ろうとはしているのだがあまりにもお粗末なもので、基本サプリかミキサー飯で済まそうとしている。
見かねて弁当を作ったらお気に召したのか、以降彼女の昼食は俺が担当するようになった。
問題はそれだけに留まらない。部屋の掃除も整頓も、俺が面倒を見ないと覚束ないことだらけだ。
それもまあ『慣れ』てきた。薬の副作用にも、砕けていく両足にも。
カフェの『お友だち』といい、彼の降霊術といい……実に面白い。だからまあ、つまり。このプランなら私でなくとも問題なく遂行されるだろう。
「アレはどういうことだ」
「そのままの意味だが?」
皐月賞を一着に終えたアグネスタキオンの発表は、トゥインクルシリーズ界隈に激震を走らせるものだった。
無期限の活動休止。それが何を目指すものなのか惰弱な俺には計りかねる。
「活動休止って──契約を打ち切るってことか」
「おいおい、話は正確に聞いてくれ。私は『レースの活動を休止する』と言っただけだろう。君が望むなら併走にだって付き合うし、投薬実験も重ねていくとも」
要するに実験用のモルモットは手中に収めておきたいが、それはそれとしてトゥインクルシリーズには出走しない、ということか。
随分と手前勝手な話だ──が、彼女のそんなところは嫌いじゃなかった。
「ならお前は何をしたいんだ」
「いい質問だ。私が目指す果ては私でなくとも踏破される──つまりプランB、私はカフェのアドバイザーになるのさ」
話した内容の半分は本当だが、半分は嘘だ。
彼の見せる狂気的な速度。アレを安定させることができたなら、私のプランをも超えた成果が見込めるだろう。
その為にも実験だ。時間は有限、躊躇っている暇などない。
「スゥゥゥゥゥゥ……」
ゆっくりと息を吸い込み、ゆっくりと吐く。
何度目かも分からない模擬レース。今日こそは最後まで走りきれるだろうか。いや、走りきってみせる。
「準備はいいかい、トレーナー君」
「ああ」
そして、降ろす。
「────────」
内側から迸るナニカ。充填されていくような感覚が肢体に絡みつき、闘志を燻らせる。
「──行くぞ」
それはアグネスタキオンに言ったのか、自分自身に言い聞かせているのか、分からないまま開始の合図は鳴った。
「はあ、はあ、はあ……!」
今ならいける。そんな気がする。
もっとだ。
もっと速く、もっと先へ────!
「ゲホ、ォ」
久方ぶりに血反吐を吐いた。知ったことか。
最後まで走り通せるのなら、最後までこの身が保つのなら、
「……っガ、ハァ、ハァ、ハァッ……!」
光が見える。目指すはゴール、のさらに先。
こき、呼吸が、持た、な。
「づ、ぇ」
それはもうみっともなく、転んだ。
間に挟まれた右腕は折れ曲がりマトモに動こうとすらしない。
「オイオイオイオイ!大丈夫かトレーナー君!」
「……」
彼女にしては珍しい顔をしていると思った。今更心配されるようなことは無いと思っていたから。
「平気だ」
「平気って……その腕は……」
「『大丈夫』」
折れ曲がった右腕は急速に音を立てて治っていく。この治癒能力は便利だな、とどこか他人事のように感じた。
「痛みは?痛みは無いのか」
「耐えればいい話だ」
今更何を言っているのか。俺が走る度に重傷を負っていることなど百も承知だろうに。
「………………君は、やはり狂っているよ」
いいぞ。実にいい。
今回こそ失敗に終わったがこのまま行けば彼の足は安定したパフォーマンスを発揮できるだろう。
プランB、カフェの方も問題なく進んでいる。
ああ、思わず笑ってしまいそうな程に何もかも順調だ。
ただ一つ問題があるとするなら……私の体が彼のペースについて行けるか、だろうか。
『走れ、走──』
「…………」
声が聞こえる。どこか不明瞭に、しかしハッキリとその声は聞こえてくる。
声が気になるようになったのはウマ娘と接触してから、つまりトレーナーになってからだ。それまでは朝々暮々繰り返される囁きも意識から外せていた。
少し鬱陶しい……というわけではないが湧き上がる闘争心を抑えつけるのにやや苦労する。
こんな感覚は生まれて初めてだ。
『走れ、走──』
「…………」
朝、目が覚めて第一にするのが洗顔だ。冷たい水が揺れる意識を覚醒させてくれる。
朝食は基本アグネスタキオンの弁当を作りながら軽く済ませる。元々そこまで食うわけでもないから昼までは余裕で保つ。
『走れ、走──』
「…………」
活動を休止しているとはいえ仕事はある。走らない担当を持っている以上俺は一時的に他チームのサブトレーナーにならざるをえなかった。
昼は雑務に追われ、夜はアグネスタキオンと走る、そんな生活を送っていた。
「──ゼェ、は、は──っ」
両足は既に
それでも走って、前に走っている。
また、光が見えた。誘蛾灯のように儚げで微かな光が。
そして、そして────
「ぐ、はぁ、はぁ、ゲホッ……」
「……成功だ」
とうとう、俺は完走したのだった。
実験は成功した。彼は最後まで倒れずに、見事走りきってみせた。
成功した。した筈が、なんだこの違和感は。
ウン、確かに結果は実った。だが、だが……
だがねぇ……彼の走りには徹底的に何かが欠けている。その正体は分からないが、とにかく何かが欠落しているのだ。
実験はこれからも重ねていく……つもりだが。
……?
『走れ、────』
思い過ごしではなく、確実に声は不明瞭になっている。それと同時に意識の混濁と記憶の欠如も発生。
こんなことは今まで一度たりとも無かった。恐らくトリガーとなったのは二度目の完走。
走りきれば走りきる程この症状は悪化していくのだろうか。今のところ仮定でしかないが少し困ったことになった。
とはいえ走るのをやめる気は無い。あの快感を知ってしまったからにはもう戻れそうになかった。
このことは既に伝えてある。それを踏まえた上で彼女がどのような決断を下すのか分からないが、俺はもう止められそうにない。
あのレースから、彼は堰を切ったように走り続けていた。
記憶の損失と意識障害。本来であれば今すぐ止めさせるべきなのだろう、が、私が何を言っても彼は聞きそうにない。
────彼の瞳は、依然変わらず狂っていた。
違和感の正体も掴めないままだ。実験に於いて停滞させられることはそこそこストレスになる。
彼は速い。私でさえ彼には一度も敵わなかった。ああそれと、彼に関して興味深いことが一つあった。
彼の速度は私の速度に比例して速くなる。つまり私が速くなる程彼の速度は上がる、ということだ。
彼の存在は圧倒的イレギュラーだ。これらのデータをカフェのアドバイスに繋げることもできない。
ああまったく、彼は一体なんなんだ。
「タキオンさんのトレーナーさん」
「ん?キミは……」
仕事もそこそこに迎えた昼休憩。食堂に向かおうとするとマンハッタンカフェに声をかけられた。
「少し、話せますか」
「……溶け込んでる?」
「はい。断定はできませんが……」
マンハッタンカフェの話によると、いつも俺に纏わり付いていた何かが俺の体に溶け込んでるとのこと。
これも走破した影響だろうか。分からないこと尽くしだが走るのをやめる気は無い。わざわざ伝えてくれたのはありがたいが、俺の
「そうか。わざわざありがとうな」
「……いえ」
それ以外にも彼女の実験に付き合ってくれていることや世話を焼いてくれていることなど、マンハッタンカフェにはいくら感謝しても足りない。
相変わらず怯えられながらもあの時のように吹き飛ばされることもなく、会話は無事終わった。
シニア期に入ってからもやることは変わらない。彼女の実験に付き合い、走る日々。
体が馴染んできたのか、ここ最近は血を吐いていない。ただその代わりということか意識が朧気になることが増えた。
俺に関しての記憶も八割方消えている。自分がどんな人生を送ってきたか今となっては答えられそうにない。申し訳程度の対抗策として貼り紙に自分のことを書いてみたが、それもじきに無意味となるだろう。
それでも走ることをやめられなかった。
あんなにも心地よく愉しいことがどうしてやめられるだろう。あんなにも満たされた時間を送っておきながらどうして止められるだろう。
走るのはウマ娘だけの専売特許じゃない。お前らだけにこんな気持ちのいいことをさせられるか。
『────、────』
声はもうなんと言っているかも分からない程にボヤケている。しかし俺には分かる。その言葉の意味は。
走れ。
ただそれだけだ。
朝。目が覚めて真っ先に顔を洗う。朝食はアグネスタキオンの弁当を作りながら適当に済ませ、寮を出る。
飽きる程繰り返されてきた日常。不思議なことに、いくら記憶が無くなってもこのルーティーンだけは形を保ったままだった。
「おはようモルモット君。早速だがこの薬を──」
いつもと同じだ。怪しい薬を飲み、彼女の実験を手伝う日常。俺はどうも”それ”に安心感を覚えているようだった。
そう、か。そうか。分かった。分かってきたぞ。
彼の証言を元に組み立てた仮説によると、彼が宿しているのは言わば、過ぎ去った伝説。いつまでも全盛を保ったまま停滞し続けている。つまり、成長が無いのだ。
違和感の正体はそれだ。
「……………………違う」
違う?何がだ?彼……成長……ああもう煩わしい。
いずれにせよ誤っていた。
誤っていたんだ。私は。
私が目指す果てはウマ娘の可能性であり、彼の力はあくまでデータの一つに過ぎなかった。
本当に?
ああ、本当に彼はなんなんだ。こうまで猥雑に頭を搔き回されるモルモットがいるだろうか。
…………彼の走りでも、私のプランは遂行される筈だった。ところがどうだ。実際には定義も何もかも曖昧になり、…………あぁ…………考えるのも面倒だ。
暫く彼のことは考えないようにしよう。私はそう決定づけた。いささか
「あああああああああぁぁぁああああああああああああああああああああああッ!!」
宝塚記念。一着をとったカフェの横で、私は絶叫していた。
何故だ?どこから間違えた?私、私は……
私でなくともいけなかったのか?カフェだけが到達してはいけなかったのか?
────くそ、くそくそくそ……!!
何故、何故足りない!満ちろ!これでよかったのだと満たされろ!
────あ、あぁ……
私は……
「入るぞ」
彼女が籠もりっきりの研究室。二回ノックをしてから、とりあえず入ることにした。
「これはひどいな」
彼女の荒れ具合は酷いものだった。目は落ち窪み、髪の毛はボサボサになるまで放置されていた。恐らく風呂にも入っていないのだろう。
「……何の用だ」
「俺はお前のトレーナーだ」
自分自身に言い聞かせるように言った。今の今まで忘れかけていたことだ。
「お前はこれからどうする気だ」
「どうするも何もないさ。プランAに切り替えていくとも」
「……そのプランAってのは何なんだ」
「私の足は速さと同時に脆さも兼ね備えていてね。だから今まではプランB、他者に私の夢を委ねていたのさ」
初耳だった。突っ込む暇すら与えずに彼女は綴る。
「プランAは私の足の補強をしながら果てを目指す方針だった。まあ、皐月賞でその道は途絶えた筈だったのだがね」
「……つまり、活動を再開するということか」
「正解だ」
「羨ましいな」
「は?」
腹の底から出た本音がそれだった。彼女には実力を発揮できるステージがあって、ライバルもいる。ふとそんな環境への憧れが口を衝いた。
「羨ましい、だと?」
彼女の言葉尻が荒く尖っていく。思わず目を剥いた。これまで彼女のそんな様子は見たことが無かった。
「私が羨ましいだと……?言うに事欠いてそれか!?ふざけるな!」
俺は怒鳴られていた。まあ確かに今のは失言だった。若干申し訳なく思うが、それよりも驚いたことが一つ。
「何故だ……何故君だけが走っていられる!そんなに傷ついておきながら、何故!!」
彼女は俺に、妬いていたのか。
「ハァ……本当、本当に。君といると神経が乱される。それで?君は何のためにここに来た?」
「お前、また走るんだろ」
「当たり前だ」
「じゃあその手伝い」
「……今更、来たって」
その言葉は矛盾している。確かにブランクはあるだろう。だからといってアグネスタキオンが──彼女の言葉を借りて言うところの──プランAを諦めるとは思えなかったからだ。彼女自身もそれは理解していることだろう。
「今まで何度も俺と走ってきただろう。なら今からでも遅くはない」
「……………………。あーーーー!!もう、分かった。分かったよ。ここまで来たんだ。最後まで付き合ってもらうよモルモット君……!」
かくして、俺たちのトゥインクル・シリーズは再始動を遂げた。
彼の体は傷だらけだった。連日に渡るトレーニングの中で、その容態は悪化の一途を辿っている。
理解できなかった。何故そこまで追い詰められながらも走るのをやめないのか。答えは至ってシンプル。彼は走る事をこの上なく好んでいるからだ。
全身の筋断裂と骨折。加え内臓の損傷。通常であれば病院に叩き込まれるのが当たり前。そんな当たり前を、彼は甘受している。
狂っている。だが、私が魅せられたのはその狂気によるものだ。
彼は強い。己自身を悉く捨てた走りは、目映い程に光っている。物理的に光っている場合も多いが。我ながらつまらないジョークだ。
私は彼に妬いていたらしい。再び走るようになって気がついたことだ。どうでもいいか。
併走相手は私にとっての最強。ふぅン。相手にとって不足はないじゃないか。
そして私は再び勝負の場に立ったのだった。
迎えた有馬記念。私は負けた。だが答えは得た。
まあつまるところ、私はどうしようもなくただの『ウマ娘』だったということらしい。
「俺はもう長くない」
「……はぁ?」
なんとなく分かっていた。失われるのは記憶だけではないと。これまで無茶をし続けてきた代償はいつか払うことになると。
トゥインクル・シリーズは希望的に終わった。だから今、なるだけ平穏な時期に伝えることにした。
「待ちたまえよ。それじゃあ私の世話は誰がするんだい」
「知らん。上手く周りを頼れ」
不思議だった。彼女に振り回されてきたこの三年間。俺は何の憂いも憤りも感じなかった。それどころか彼女に感謝すらしていた。
……そうか。そうだったのか。
一人のウマ娘として、俺は彼女を好ましく思っていたのか。
……ああ。満足だ。
「────、────?」
彼女の声がどこか遠くに聞こえる。今だけ、そうだ今だけでいい。少し眠ろう。ここ最近は忙しかった。そう、少し、ほんの少しだけ……
安らかな寝息を立て始めた彼を眺めながら、私は思考の海に流れていた。
これもあくまで仮説に過ぎないが、彼の力の根源は我々ウマ娘と近い所にあるのではないか。
ああ……そうか。そこに妬いていたのか。私は。
疑問はもう一つ。
何故だろうか。誤算に気づいた後も、私は彼の手助けをしようと考えていた。
彼は脆く、走る度に重傷を負い、トゥインクル・シリーズ序盤は満足に走ることすら叶わなかった。そんな彼に抱いた感情。これは……
そうか。私は彼に少なからずシンパシーを感じていたのか。
「トレーナー君」
私は君が嫌いらしい。狂気的でありながら私の地雷を散々踏みつけてくれた君が、本当に嫌いだった。
そして私はどうも君のことが好きらしい。おっと、勘違いしないでおくれよ恋愛的な意味ではない。
彼は眠っている。穏やかな顔つきで。
……私も眠ろうか。