「しがみついた手がとうとう離れちまったか……」
セ・パ両リーグAクラスチームの日本シリーズ出場をかけた試合の熱気が金風となって渦巻くさなか、都内某所の球団事務所を後にした俺は、深いため息とともにうなだれた。戦力外通告を受けたのである。
広角に打ち分けるバットコントロール、スムーズな走塁、軽快な守備が評価されて高卒ながらドラフトで指名され、プロの世界に足を踏み入れたものの、プロの球になかなか対応できず、期待されたほどの率は残せなかった。それでも足と守備は首脳陣のお眼鏡にかなうものがあったのか、守備固めや代走として重宝される時期もあったが、毎年入ってくる大型新人や二軍での下積みの末に才能を開花させた後輩に一軍の座を奪われ、近年は二軍暮らしが長くなった。
泣きっ面に蜂で、ある二軍での試合でボテボテのゴロを内野安打にすべく全力疾走で一塁を駆け抜けた際に足を捻挫してしまった。ケガそのものは大事でなかったものの、ただでさえ残留できるか否かの瀬戸際の選手が戦線から離脱したことが最後のひと押しになり、とうとうお払い箱となったのである。
野球選手のセカンドキャリアは厳しい。監督・コーチとして球界に残れるのは実績を残したほんの一握りの選手だけであり、球団職員として採用されても終身雇用とはいかず、いずれは一般社会に出ざるを得ないのが実情だ。よくあるケースだと志半ばで引退した選手が現役時代に蓄えた年俸を元手に飲食店を開業するパターンだが、業界知識に乏しいまま激戦区で開業してしまったために、一年ともたず閉店に追い込まれる場合も珍しくはない。
それを愚かな行為だと一笑に付すことはできない。プロに来る選手などいうのはたいてい、小さいころから野球に心血を注いできたエリートばかりで、プロに入るまでは、あるいはプロに入ってしばらくは周りから自分の力を認められた連中なのだ。"野球でプロにまで行けたのだから、他の分野でもそこそこやれるだろう"。そう自負するヤツが出てきたとしても不思議ではない。そして、野球以外の知識に乏しい彼らがどんぶり勘定で他分野に討ち入りし、またたく間に散っていくのもまた無理からぬ顛末だった。俺はたまたま親しくしていた球団職員からその手の話をよく聞かされていたから無謀な挑戦をしようと思わないだけで、セカンドキャリアの構築に四苦八苦するのは間違いない。だから彼らを笑えないのだ。
先輩から耳にタコができるほど貯金はしておけよと口を酸っぱくして言われていたからある程度の蓄えはあるつもりだが、俺自身の年俸は2,000万円を超えたシーズンが何度かあるだけだ。その年俸も、トレーニング機材や道具代、パーソナルトレーナーへの報酬、実家への仕送り、周りとの付き合い、そして税金などもろもろの必要経費により目減りし、世間が思っているほどの額は残っていない。
俺は高卒入団だったから大卒や社会人野球出身者と違って学歴も勤め人の経験もないのだ。学も知恵もコネもない、ないないづくしのアラサー男。それが、野球を取り上げられた今の俺の姿だった。
野球に見切りをつけなければならない。あらためてその事実が、内角高めの速球のように俺の心を深くえぐった。俺もプロの世界での成功を夢見て、朝な夕なに汗と知恵をしぼってきた人間である。その努力が泡と消え、築き上げてきたものがすべて瓦解する喪失感は耐えがたかった。
今日だけ……せめて今日だけはすべてを忘れたかった。鉛を飲み下したような重苦しい気持ちを抱えたまま、力の入らない手足で飲み屋街に向かった。飲んだ。潰れた。口にした酒の種類は覚えていない。とにかく強い酒を浴びてなにもかも忘れたかった。そして酒精の底に意識が呑み込まれた。
◇
まどろんでいた意識が光に呼応してゆっくりと覚醒する。体を起こした俺は軽い頭痛に襲われた。ずいぶんと痛飲してしまったらしい。どれだけの時間が経ったのだろう。状況を把握するためにあたりを見回すと、膝を組んで文庫本に目を落としているスーツ姿の壮年男性が目に入った。どうやら向こうもこちらの視線に気がついたようだ。
「気が付かれたのですね。おはようございます。お加減はいかがでしょうか」
重厚ながらも落ち着きのある声で、こちらの安否を気遣う言葉を投げかけてきた。
「あ、はい。おかげさまで。ちょっとまだ頭がガンガンしますが、身体の痛む箇所はないみたいです」
「それはよかった。お水を用意しましたからよろしければ一息つけてください」
まだ混乱気味の頭を落ち着かせるべく、勧められるままにグラスに注がれた水を飲む。適度に冷えた水の喉をつたう感触が、底に引っ込んでいた思考を現実に引き戻した。俺の顔が色を取り戻したのを察して、目の前の人物が言葉を続ける。
「驚きましたよ。こんな夜更けに路地裏で人が倒れていたのですから。見たところ頭を打ってはいないようでしたし、脈も呼吸もしっかりしていましたから命に別条はないだろうと思ったのですが、秋の寒空の下に放置するのも忍びなく、私の店まであなたをお運びした次第です」
どうやら気を失っている間にずいぶんとご面倒をかけてしまったらしい。普段あまり酒なんて口にしないのに気絶するまで飲んでしまうとは。解雇された事実が相当堪えたようだ。
「そうだったんですか……。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。すぐにお暇させていただきます」
「慌てなくても結構ですよ。もう午前様ですし、終電も過ぎてしまいました。お体になにかあるとも限りませんし、始発までここでごゆっくりしていかれては? それに、私も眠れなくて退屈していたところでしてな。できれば話相手になってくださるとありがたいのですが」
正直なところ、初対面の歳の離れた男性とのおしゃべりなぞ御免被りたい。なにを話したらいいのかわからない。適当にタクシーでも拾って帰りたかった。だが介抱してもらった手前、無下にするのもはばかられた。
「わかりました。一宿一飯の恩義ってことで、僕なんかでよろしければ」
そう言って頭を下げると、目の前の人物は気を良くしたのか相好を崩した。あらためて身なりを観察してみると、紳士風の出で立ちをしている。額を出しオールバック気味に後ろに流した髪型が様になっているし、素人目にみても仕立ての良い高級スーツを身にまとっている。しかもスリーピースだ。いまどき球団重役ですらお目にかかれない。靴もおそらくよく手入れのされた本革だろう。頭のてっぺんから足の爪先まで上流階級のような格好をしていて、お堅い仕事についている様子を窺わせた。ただひとつ、顔の病的なまでの生白さが異様で、この世のものとは思えない雰囲気を醸し出しているのが気になった。
「ところで、そろそろ路地裏で倒れていた理由をうかがってもよろしいですかな? あなたを発見したとき、酔いつぶれているのはわかりましたが、うなされるように"畜生……畜生……"と嗚咽をこぼしてらっしゃいましたから、なにか尋常ならざることがあったのではないかと思ったのですが」
「え、泣いていたんですか僕? それは……ずいぶんとみっともないところをお見せしました。仕事をクビになってしまって、ヤケ酒をあおっていたんです」
人に説明するとしょうもない理由だ。恥ずかしくなってきた。
「解雇ですか。普通は一方的に雇用関係を解消することはできないはずですから、会社と交渉の余地はあるかもしれませんよ?」
「いえ、そういうサラリーマン的なものじゃなくて、僕、プロ野球選手だったんです。ですから、クビというのはいわゆる戦力外通告ってやつです。僕はもう球団から戦力としてみなされなくなったんですよ……」
こうして冷静に事情を話すと、あらためて悔しさと情けなさがにじみ出てきた。
「そうでしたか、私も昔は友人の影響でプロ野球を追っていた時期があります。毎年選手が入れ代わり立ち代わり、やはりとても競争の激しい世界なのですね」
「そうですね。ただ、戦力外になったのは僕の力が及ばなかったということでしかありませんから、球団の判断については悔しいけど納得はしているんです。でも、今まで野球漬けの生活をしていましたから、いきなりあしたから野球とは関係ない生活を送れと言われても、なにをしたらいいのかわからないんです」
「トライアウトを受けたりはしないのですか? 合格する人はわずかだとは聞いていますが」
12球団合同トライアウト。戦力外通告を受けた選手が現役続行に一縷の望みを託し、他球団に"俺はまだやれる"とアピールする実戦形式のテストの場だが……
「最近のトライアウトは形骸化しつつあるんです。戦力外通告を受けた時点で他球団からまだ戦力になるとみなされた選手には水面下で交渉が来たりしますし、そういう有望な選手ははじめからトライアウトには出てこないんです」
「そんな内情があったのですか。存じませんでした」
「おおっぴらに公開されている事情ではありませんからコアなファン以外は知らなくて当然だと思います。それに、おっしゃるとおり、トライアウトで合格する選手はとても少ないんです。毎年せいぜい2、3人かな。だいたい5、60人が参加するなかでこれです。ある意味ドラフトよりも厳しい。
若い選手だと独立リーグや社会人野球にスカウトされる人もいますけど、それでもプロの世界から遠ざかることには変わりありません。だからトライアウトは、戦力外を受けた選手の引退式みたいな側面もあるんです。仮によその球団に拾ってもらっても、数年もすればまた戦力外になるパターンがほとんどですし、だったらもうすっぱり諦めて、早めに一般社会に進む準備をしたほうがいいのかなって」
「ふーむ、こればかりは他人がどうこう言える問題ではありませんな。後悔しない選択ができるよう祈るばかりです。今は傷心のようですし、心の整理がつくまでしばらくごゆっくりされてはいかがですか?」
「ええ、そうしようと思います。またへべれけになったら恥ずかしいですし……。ところで、あなたはいったいなんのお仕事を? 今後の参考のために教えていただけませんか?」
今後の参考に、なんてのは嘘だ。これ以上自分のことに言及されるのがいたたまれなくなっただけだ。
「私はここで宝石店を営んでおります。もともとは大学で鉱物を研究していたのですが、ミネラルショー、つまり、鉱物や宝石の即売会に何度も足を運ぶうちに自分でも商ってみたくなりまして。いわゆる趣味が高じて、というやつですな」
「宝石屋さんですか。どうりでカッチリした格好をしていると思いました」
「ははは、これは雰囲気作りのために着ているようなものです。お客様のほとんどはカジュアルな服装でご来店なさいますよ」
「へぇ、それは意外ですね。なんか宝石って格式張ってるような印象がありましたから。結婚指輪を買いに行くところってイメージのせいかもしれません」
「たしかに、世の中の大多数の人にとっては宝石店と関わる機会はそう多くはありません。ですが、中にはジュエリーに目がない方ですとか、宝石収集を趣味にしているとかで足繁く通うお客様もいらっしゃるのです」
「すごいですね。なんだか想像がつきません」
「物事の楽しみ方はいろいろあるということです。野球でもさまざまな記録をつけるのが趣味だったり、選手のカードを集めたりしている方がいらっしゃるでしょう? それと似たようなものではないでしょうか」
「なるほど、そう言われてみるとたしかに。でもやっぱり宝石を趣味にしている人はすごいですよ。宝石って、お高いんでしょう?」
「ものによりけりですね。たしかに数百万数千万、あるいはそれ以上の価格がつくものも存在します。一方で、ジュエリーに加工される前の研磨された石、いわゆるルースについては数千円も出せば買えてしまうものも少なくありません。宝石の品質は鉱物の種類や希少性、サイズ、産地、輝き方や色の濃淡などさまざまな要素で決まりますから、一概に高いものばかりではないのですよ。文字通り、玉石混交というわけですな」
からからと朗笑する店主の様子から、自分の趣味を話したくてたまらないのだなという印象を受けた。このままこの人にしゃべらせておけばいい感じに始発までの時間を潰せるだろうと判断し、いかにも興味がわいたふうを装って話を続けた。
「僕に似合いそうな宝石ってありますかね」
「ふーむ、そうですなぁ……もしよろしければ参考までにお名前を頂戴してもよろしいですかな?」
「名前ですか? 貝木……貝木焔と申します」
「"かいき"さんとおっしゃるのですか。漢字はどうお書きに?」
俺は持っていた手帳に自分の名前の漢字を書いて見せた。
「ほう……ほう、ほう、ほう……素晴らしいお名前をしていらっしゃる!」
俺の名前をみた店主はどういうわけか、えびす顔になって口角を広げた。お世辞ではなく心からそう思っているらしい。思いがけない反応だ。
「自分の名前をそんなに褒められたのははじめてですね。どちらかというと、ちょっと格好つけてるというか、中二病くさい感じがして若干恥ずかしいんですが。祖母は"怪気炎をあげるのよ!"なんて笑ってましたけどね」
「恥ずかしいだなんてとんでもない。とても良いお名前をお持ちですよ。宝石屋からみればこの上ないほどに。そんなあなたにぴったりの宝石があります。持って参りますので少々お待ちください」
そう言って店主が別室に姿を消したあと、俺は少し後悔しはじめた。単に話の種として宝石の話題を振っただけなのに、あれよあれよという間に現物を見せられる流れになってしまった。まさか売り込みするために俺を助けたわけではないだろうが、正直言って宝石に興味はない。ファッションにすら無頓着なのだ。もし営業をかけられたら断って、タクシーを拾ってでも帰ろう。そう思案していると店主が戻ってきた。アンティーク調のきらびやかな装飾の施された箱を手にしている。席に戻って箱を置き、俺に向き合うとふたたび口を開きはじめた。
「あなたにお見せしたいのはこの宝石箱に収められています。あらかじめ申し上げておきますが、営業をかけるつもりはございません。これはなんというか……、そう、マニアが自分のコレクションを人に見せびらかしたくなる悪癖です。自分で眺めて悦に入っていると、だんだん人様にも知ってもらいたくなるのですよ。もし売り込みをかけられたらどうしようなどと思わせてしまっていたら申し訳ありません」
どうやらこちらの気持ちは見透かされていたらしい。バツが悪そうに苦笑しながら頭をかいているところを見るに、本当にコレクションを自慢したいだけのようだ。ひとまず席を立つ事態にならなくてよかった。
「いえ、お気になさらず。僕もプロ野球っていう興行の世界で生きてきた人間ですから、お客さんに見てもらいたいって気持ちはなんとなく理解できますし」
「そうおっしゃっていただけると助かります。それでは御開帳です」
「…………うわぁ……!」
箱の中には色とりどりの宝石が収められていた。ベースカラーは黒、白、青とさまざまだが、どの石もシャボン玉を光に透かしたような色をたたえている。近づいたり別角度からのぞいてみると光の加減が変わるのか、発色が変幻自在に変化する。俺は宝石についてはまるきり素人だがそれにしたって不思議だ。幻想的な輝きに思わず息を呑む。
「すごい……ですね……。めちゃくちゃ綺麗だ。なんかこう……虹を溶かし込んだような……」
「良い表現をなさいますね。それらの石は地色こそそれぞれ違いますが、どれも同じくオパールと呼ばれる宝石です。とりわけ、虹色の光を放つものは『プレシャス・オパール』といって、とても貴重なものなんですよ。プレシャス・オパール特有の煌めきは"遊色"と呼ばれています」
「なるほど……うん……これは本当に……なんと表現したらいいのかわかりません。貴重なものだっていうのもうなずけます。でもどうしてこれを僕に?」
「あなたのお名前にぴったりだったからですよ。あなたは宮沢賢治をご存知ですか?」
「宮沢賢治っていうと、銀河鉄道の夜とか注文の多い料理店を書いた、あの宮沢賢治ですか?」
子どものころ国語の教科書で読んだ覚えがある。だけどどうしてここで宮沢賢治が?
「そう、その宮沢賢治です。賢治は一般的には詩人・童話作家として認知されていますが、優れた農学者・鉱物学者でもあったのです。石マニアだった賢治の作品には鉱物の名前がよく出てきます。オパールも例外ではありません。『貝の火』という作品です」
「貝の火……」
「そう、あなたのお名前そのものです。あなたのお名前を聞いた瞬間、これはオパールを紹介せねばと使命感がわきましたよ」
「使命感てそんな大げさな……。でも、こんなに綺麗なものがあるなら人に見せたくなる気持ちもわかります」
再びオパールの数々に視線を向けると、ひときわ光彩を放つ一石に目が釘付けになった。
火という単語を聞いたからだろうか、神社の鳥居のような鮮やかな朱色を地色に、夕日を封じ込めたような、炎がそのまま固着したかのような鮮麗な色合いに目が離せなくなった。
もっと近くでみてみたい。輝きに魅入られるように顔を近づけると、遊色の揺らめきが強さを増し、そして…………俺は意識を吸い込まれた────
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「……故国で政変が起こったんです。私は小さかったからあまりよく覚えていませんが、一家はハルビンから釜山を経て日本に亡命を。旭川の学校に通うことになりました。当時はまだ外国人、それも白人が珍しかったものだから、いじめにあうこともありました。幸いにも私は体格と運動神経に恵まれて、少年野球チームでエースになれたから、次第に周囲も認めてくれたんです。野球が私と日本人を結んでくれた。私も野球に熱中した。旧制中学時代の甲子園を経て、そのまま当時できたばかりのプロ野球へ。このまま野球人として殉じるんだと信じて疑いませんでした。でも時代が悪かった。戦争です。
故国と日本とで大規模な軍事衝突が起きたんです。両国の関係は急激に冷え込みました。球界はプロ野球存続のために軍に協力する姿勢をとりました。野球用語を日本式にしたりね。その一環で私の名前も日本名に改名させられました。生まれてからずっと親しんできた名前を。
茶番だと思うでしょう? 私もそう思います。でもそれだけ球界の理事たちは必死だったんでしょうね。野球が戦争の役に立たないとみなされれば即座に解散されかねなかったのでしょうから。
私は日本国籍を取得していたけれど、敵国出身者という理由で軍部からスパイでないかと目をつけられました。小さいころに亡命して以来ずっと日本人として過ごして、浪曲を歌い、納豆を食べ、遠征先の旅館で将棋だってするのにね……。
チームメイトとご飯を食べに行ったある日、事件が起こりました。お店の主人が妙にこちらをじろじろ見てくるから変だなと思いながら食べていたら、ドタドタした靴音が聞こえてくるんです。"ここにスパイがいるとの通報があった! われわれが署まで連行する、来い!" 特高でした。私の風貌をみてスパイだと思った店主が特高に密告したみたいなんです。箸でうどんすすってるの見てたはずなのにね。チームメイトは私を弁護してくれましたが特高は聞く耳持たずで。そのまま連れられて尋問を受けました。高圧的な態度と侮蔑のこもった言葉とともに。さいわい身元ははっきりしていましたから暴力は平手打ち程度ですみました。ですが、自分がどれだけ日本人として振る舞おうとも、一般の人から外見だけで敵国人にみなされてしまうのには臍を噛むことはなはだしかった。この一件があってからおちおち出歩くこともできなくなりましたね。
『ガイジン』として目をつけられていたけれど、一方で国籍上は日本人でもあったから、徴兵には応じなくてはなりませんでした。必死に戦いました。生き延びて、野球がしたくて。それだけなのに、相手の兵士はこちらに銃を向ける……。
奪われたのは時間だけではありません。中国に出征していた折、所属していた連隊で宣伝のために手榴弾投げ大会が催されました。私は野球の投手をしていたということでたびたび駆り出されたんです。なにせ、普通の兵士が3、40メートルくらいしか投げられないところを、私は倍以上の飛距離を出せましたから。格好の宣伝材料だったんでしょうね。野球のボールよりも重い鉄の塊を何度も何度も投げさせられました。そして肩を壊しました。投手の生命線である肩を……。
手加減をする選択肢はありませんでした。私はこんな見た目だったから、隊内でも白眼視する人は少なくなかったんです。上官の中にも。だから私は演じなければならなかった。日本人以上に日本人であると。軍隊特有の事情もあります。徴兵されて所属の隊に入営すると新兵教育が行われます。軍隊では階級と年次がすべてです。娑婆っ気の抜けない新兵にこの摂理をどう染み込ませるか。個性を殺させるんです。入営前の活動実績や出自は考慮されません。シゴキ、罵倒、体罰。ありとあらゆる方法で人格を剥ぎ取る。そして新たに兵士としての個を構築させるんです。アマチュア時代に野手だった選手を投手として改造するかのように。
私は野球で上下関係の強固な世界にいましたから、軍隊に順応するのも早かった。上官からやれ、と命令されれば即座に身体が反応するようになっていました。肩を壊すような命令であっても。そう、私は立派な兵士になっていたんです。野球に殉じると息巻いていた、この私が!
なんとか生きて終戦を迎えて、進駐軍の通訳の仕事をしていると、偶然にも戦前にお世話になった監督さんと再開したんです。また野球をやらないか、選手が足りなくて困ってるんだと誘ってくれました。当時としては高給な進駐軍の仕事を手放すのは惜しかったけれど、監督さんに恩を返せるならと意気に感じて、プロ野球の世界に戻ったんです。もう選手としての全盛期は過ぎていましたし、肩も痛めていましたが、軍隊生活で身体は鍛えられていましたから、ある程度はやれるんじゃないかと思って。
ところが投球練習をはじめたら愕然としました。フォームがバラバラになっていたんです。それも、微調整が必要程度のものではなく、以前とはまるで別の生き物になってしまったかのように違和感が大きかった。軍隊生活で身に着けた筋肉のせいで身体のバランスが崩れたんだろうと監督さんはおっしゃっていました。やはり違うんですね。野球をするための筋肉と、人を殺すための筋肉は……。
必死でフォームを立て直して、なんとかシーズン中に間に合わせました。大観衆の視線を浴びながらまたマウンドに立てた瞬間は感無量でした。ボールが捕手のミットに収まる音が、相手のバットの空を切る音が、お客さんからの歓声が、審判のストライクコールが、ギラつく陽射しさえ、福音に感じられました。もはや往年の速球は投げられなくて、コントロールと変化球でどうにかかわすピッチングしかできなくなっていたし、復帰してからの実働年数は長くはなかったけれど、この短い期間が間違いなく人生の絶頂期でした。誰にも文句を言われず野球ができて、自由に町の通りを闊歩できたんですから……」
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気がつくと俺の目からは涙がこぼれていた。とめどなく。驚いた店主が幾ばくか逡巡し、言葉を選ぶように、やおら声をかけてきた。
「いかがなさいました? どこかお体の具合でも……?」
俺はハンカチで涙をぬぐい、答えようとしたが、胸がつかえて考えがまとまらない。少し息を整えて、絞り出すように訥々と、嗚咽混じりの鼻声で言葉を紡ぐ。
「いえ、その……信じられないと思いますが、その赤いオパールから声が聴こえたんです……。心の中に直接」
「オパールの声……ですか? このファイアオパールから?」
「はい。声の主は、戦前から戦後直後の外国人選手みたいで、見た目による偏見で白い目でみられたり、戦争のせいで野球ができない時期があったりで、ずいぶん苦労したみたいです。でも、戦後自由に野球ができる嬉しさとか、野球に出会えて救われた気持ちとかもあって、うまくいえませんが、生の感情に直接触れたような感じです。そのエネルギーがあまりにも大きくて、心を揺さぶられて、気がつくと涙が……」
「そうでしたか……。絶句という言葉があるように、人間は強い感情に襲われるとかえって言葉が出なくなるものです。言葉で受け止めきれない感情の奔流が涙となって表れたのでしょう」
「信じてくださるんですか? こんな突拍子もない話なのに?」
「はい。たしかに宝石は純然たる化学元素の結晶であり、宝石自身が直接我々の言語でメッセージを伝えてくれるわけではありません。ですが、地球内部の高温高圧環境下で気の遠くなるほどの時間をかけて育まれた結晶の輝きに、古来から人々は魅せられてきたのです。その煌めきに意味を、物語を見出し、多数の逸話や伝説が残っています。宝石が直接語らずとも、宝石を通して物語をみる人間の感受性を考えると、あなたのおっしゃる話も得心のいくものだと思います」
「そう言っていただけるとありがたいです。本当に、自分でも信じられませんから……」
気持ちを落ち着けるために水の入ったグラスに手を伸ばして気づいた。いつの間にか夜が明けつつあるらしい。時計を確認すると始発の時間が近い。あまり長居するのも申し訳ないから、店主にお世話になったお礼を伝えて辞去することにした。
「重ね重ねになりますが、本当にありがとうございました。あなたに助けていただけなかったら、いまごろどうなっていたかわかりません。
「いえいえ、お気になさらないでください。ほとんど気まぐれですし、私も貴重なお話を聞かせていただきましたから。宝石に魅せられた者のひとりとして、宝石の煌めきの美しさに触れていただけたのであれば、これにまさる喜びはありません」
「わかりました。なにもお返しできないのは心苦しいですが、あなたがそうおっしゃるなら。……僕、やっぱりトライアウトを受けてみようと思います」
「おや、心変わりですか?」
「ええ。……オパールの声の主は、野球ができることに心から幸せを感じていました。あんなに苦難を重ねていたのに……。あの人に比べると、僕はちょっと諦めが良すぎるなと。クビにはなってしまいましたけど、僕にはまだ十分動く手も足も身体のキレもある。たとえ諦めるにしても、最後まであがこうって思ったんです」
「そうでしたか。オパールの石言葉には忍耐、希望、幸運などがあります。オパールに勇気づけられたあなたの挑戦が実を結ぶよう祈っておりますよ」
「ありがとうございます。またどこかでお会いできる機会があれば、そのときは吉報をお伝えできればと思います」
そう言いながら一礼して、俺はその宝石店を離れた。十数歩歩いて、後ろ髪を引かれる思いがして振り返ってみると、宝石店のあった建物はもぬけの殻になっていた。テナント募集中のくたびれた広告が入口に貼られている。これはいったいどういうことだろう。あの店での出来事は、秋の夜長が見せた幻だったのだろうか?
それでもいい。たしかなことはひとつ残った。俺の心に灯った虹色の炎は間違いなく本物だ。がらんどうになった空き店舗にもう一度頭を下げたあと、炎の生み出すエネルギーに突き動かされるように、俺は払暁の澄明な空の下を駆け出した。