隆一は、はっと目が覚めると、突如虚無感に襲われた。どうやらさっき見ていた夢が原因らしい、久しぶりに夢を見た気がする。夢の詳細は起きた今、上手く思い出せないが、夢の中では隆一とキュウは本州から離れた小島で俗世から離れ平穏に暮らしていたようだった。
夢を見ているときに感じていた胸に溢れんばかりの幸福な気持ちは、目が覚めて現実に連れ戻されると、一気にひっくり返った。
夢の続きを見たいがために、また目を閉じた。だが、目が完全に覚めたようで、いくら待ってても眠りに落ちる事はなかった。隆一は、融通が効かない己の脳に心の中で嘆息を吐き、仕方なく体を起こした。
ぐるりと辺りを見回ると、いつの間にか、隆一はキュウが封印されていた洞窟にいたようだった。相変わらず湿気はなく、苔すら生えず、岩のみで構成された場所である。
一瞬、隆一は、なぜ自分がこの場所に……? と疑問に思ったが、直ぐに思い出した。
慌てて頭を動かしキュウを探す。いた。彼女は隆一の隣でスヤスヤと表現できるほど可愛いらしく寝息を吐き寝ていた。幻術も解けて、彼女の耳はピクピクと動き、9本ある尻尾の1つは自分の抱き枕に成っていた。
隆一は、安心の息を吐いた。が、束の間、彼女が上半身裸なのに気づき、反射で立ち上がった。
瞬間。隆一の視界は、突然シャットアウトして目の前が暗闇に襲われ、平衡感覚が狂い、体は岩肌の地面へと叩きつけられる。
ゴンと鈍い音が洞窟内に響いた。地面と体が衝突した痛みが体にはしり、隆一はなぜ、と疑問で頭を埋め尽くしていた。
「んあぁ……なんだ? 今の音は?」
音の響きでキュウは、目が覚めて、寝ぼけた声でそんな事を言った。キュウは、大きくあくびをしながら目を擦り、周囲に見渡し、音の原因を探す。
「いぃっっつーーーそれ、俺だ」
キュウは、体を地面に臥したまま、苦しげに答える隆一を見た。
未だ視界が戻らない目の奥はチカチカし、激痛に加え体は痺れ、外気温によるものではなく、内から冷え始め、冷や汗が湧き出した。更に酸素が足りないのか息は荒くなり、喉は猛烈に渇き、倦怠感も纏わり付く、その為、隆一の体は重く、起きる力を出せずに居た。
「え? どいうことだ?」
傍目から見れば、単に寝ているにしか見えないため、キュウは聞いてきたので、隆一は、少し原因について考えて答えた。
「たぶん、血の出しすぎが原因だ。さっき急に立ち上がったからそれで、貧血が起こり、実際今、俺は目の前が見えなくなっている」
「あ、なんだと!?」
出来るだけ冷静に努めてそう言った隆一に、キュウの眠気は急激に覚め、慌てて側に駆け込んだ。
隆一に見えないが、足音とキュウの手が自分の体に触れる感触を感じ、彼女を安心させる言葉を口に出す。
「大丈夫だ。少しこのまま休んでいれば、じきに治る。あと、悪いけどリュックサックに水があったよね、持ってきてくれないか」
「分かったっ!」
キュウは小走りで、隆一のリュックサックから水筒を取り出した。スモーキーブルーで容量は500mL、素材は保温性に優れたステンレス製なため、中の冷水は未だ冷たく、氷も溶けていない。飲む口を開け、水筒を隆一の手に持たせ、彼が飲みやすい様に口まで持っていった。それから、彼を不安な表情で見続けた。
キュウから貰った水筒の水を隆一はゴクゴクと、喉を鳴らし勢いよく飲んでいく。砂漠地帯では、遭難者は一杯の水の為なら、人を殺すことすら厭わないと仄聞するが、今なら彼らの心理がよく分かる。これは、悪魔的だ。ヤバ過ぎる。冷水は、隆一の乾いた喉を洗い、清涼感が体の心髄まで届き、胃に入っていく。水筒の半分を腹に収めた所で、隆一はようやく、飲むのをやめて、水筒の蓋を締めた。
しばらくして、隆一の視界は徐々に戻っていった。
隆一は、起き上がった。ゆっくりと、血が脳に行く時間を余裕を持たせて。まだ体の所々は痺れてるが、問題はない。左手を握っては開きを繰り返し、感覚を確かめる。
次は、右手を動かそうとした。しかし、既に失った事を思い出すと、今度はあるはずのない右手が急に痛み始めた。これが幻肢痛と言うのだろう。
痛みが次第にに酷くなって行って、やがて万力で緩慢に押し潰されるような感覚になる。さっきまでの貧血の症状と合わさり、隆一は自分が地獄に居るかの様な気分を味わった。
今にも、地面を転げ回り、頭を地面に幾度も叩きつけて、叫びたい気持ちを歯を噛んでぐっと我慢する。これ以上キュウに迷惑をかけては行けない……幸い、この痛みは急激に一気に痛みが来るものではなく、鈍痛と形容出来る痛みが延々と来るもののようだ。我慢でなくはない……はずだ。なぜなら、人間というものはどんな事にも馴れる存在である。確か、ドストエフスキーの名言が元だっけ。
「ありがとう。もう大丈夫だ」
貧血から視界が戻った目は、今度は激痛で薄く涙でかすみ、隆一は明確には見えないが、キュウの方向に向いて言った。果たして、自分は上手く平気そうに言えただろうか、痛みのせいで余裕がない隆一には分からなかった。
キュウは、そう言った隆一を心配そうな表情から真剣な表情に一変させた。数秒と隆一を見たあと、長いまつ毛を伏せて目を地面にやり、考える素振りを見せて、また隆一の目を見て言った。
「……うむ。分かった」
「うん。あ、そうだ。俺が意識を失ってる間、なにがあった?」
「それはーーー」
キュウは、自分がどうやってあの危機的状況を切り抜けたのか、そして、能登兄妹を始末出来なかった事に付いて話した。
「なるほどーーーさて、これからどうしようかな……」
隆一は、またゆっくりとふらつきながらも立ち上がった。リュックサックがある所まで行き、何とかリュックサックを開けて、中身を出して確認した。
煉瓦の様な1週間は使える5万mAhのパワーバンク、パスポート、小腹が空いた時の為のビスケット、通帳、財布、隆一とキュウの2、3日分の着替え……などなど。
キュウの着替え……、隆一は、痛みですべてが吹っ飛び、気にする余裕はなかったが、キュウが未だ上半身裸なのを重い頭で思い出す。
「あ、キュウ、リュックサックに君の着替えがあるから」
隆一は、キュウの着替えを取り出し、地面に捨てられた血の染みを含んだキュウのシャツを見つけて、言う。
「……うむ」
思い詰めて沈んだ顔で受け取るキュウに、隆一は気がつく余裕はなく、痛みは常時、体の全神経を逆撫でて、脳では到底処理できない大量の痛みの情報を届けた。隆一は、吐血に似た吐息を吐き出した。
はたして、外の状況はどうなっているのだろうか……あの退魔師と名乗っていた兄妹は、自らは退魔師協会に所属していると言っていた。ならば、彼らは既に上に報告しているに違いない……そして何人もの、何十人、いや、何百人? ものの人が隆一とキュウの事を探し回ってるはずだ……最悪の状況の情景だけが、脳裏を過ぎていく。
隆一はスマホで時間を確認して、洞窟の外に目をやれば、太陽は東からのぼり、夜闇を段々と塗り替えていき、暗い明かりが差し込み始めていた。小鳥たちの囀りも合わさりもうすぐ朝が来る事を知らせる。
危機的状況であろう今は、人払いの術が掛けられているここに長く潜伏、だが食料が心もとなくビスケットのみ、ならば一刻も早く別の町……日本脱出も視野に入れるべき選択肢の一つで、ここから離れるべきなのだが、残念ながらつい先程から空は明るく成っている。
こういうのはやはり暗闇に紛れ込んで、逃げたほうが成功率があるのだろう、また現在の隆一の身体状況を考えると、夜に行動した方が得策であろうか……痛みで思考を邪魔され、確実に頭は鈍くなって回らない。
だから、隆一はキュウに選択肢を任せる事にした。彼女の選択なら、隆一はどんな選択でも受け入れる事が出来る。
「なあ、今すぐここから離れるべきか、それとも少しの間ここに隠れるのと、どっちが良いと思う?」
言葉のはしばしを切り、苦しそうに聞いてくる隆一に、キュウは腕を組んで黙考する。
「……少しの間ここに隠れた方がよいな」
本音で言えば、もし食料が足りていれば、ここに隠れ続けるべきだが、それがないのだがら、相手の捜査の展開が本格的に展開されていない可能性がある。まだ数時間しか経っていない、今動くべきである。
しかし、キュウはそれを口にするのをはばかられた。
原因は当然隆一であった。改めて隆一を見る。額から脂汗を出し見るからに具合が悪そうな様態は、軽く指で一突きでも倒れそうである。なぜ、彼は黙って教えてくれないのか……、明らかに大丈夫じゃなさそうなのに、嘘をつき、やせ我慢をしている様子は、キュウにたまらない寂寥感を持たせた。
具合が悪い原因が怪我でもあれば、妖力が尽きる事を覚悟に、回復術を施したが、どうやら、心理的要因のようだ。キュウに出来ることは、彼の側に居る事しかできない。無力感がキュウに奥歯を噛み締めさせた。
「そうか、分かった」
隆一は、腰を下ろして岩の壁に背を預ける。続いて眉をひそめて苦しそうに、左手で右手の無い関節を力いっぱい握り込むさま、いたたまれない。キュウは、考えるより先に隆一に抱きついた。
「なぜ、何も言わないのだっ! そんなに妾は頼りないのか……っ!」
キュウは、隆一が自ら言ってくれるまで、耐えようと思っていたが、それは想像より何倍も難しようで、ついに口に出した。
「なにが……ごめん。心配させたくなかったんだ」
キュウの言葉に、隆一はびっくりしたが、それが自分の具合についてだとすぐに気づく。
「だとしてもっ! だとしてもだっ!」
「本当に……ごめん」
隆一は、キュウに抱きつかれたまま謝った。
その後。隆一は慣れない左手でスマホをタップして幻肢痛を入力して調べた。出てきた情報を読み進んで行くと、この幻肢痛というのは、数秒、数分、ないし数時間などと特定の短い時間だけ痛みが生じ、常時痛みがあるのはまれだそうだ。常時ではないと言う事に隆一は、安心した。
また、キュウを離そうとすると不機嫌になるため、隆一はされるがままになり、やがて、幻肢痛の痛みが完全にひいた日が暮れるまで、抱きつかれる。
「キュウ、もう大丈夫だから、痛くなくなったよ」
「本当か?」
「ああ」
目をうるうるとさせるキュウを、隆一は安心させた。その側には、昼食替わりに食べたビスケットの袋は、地面に捨てられている。当然足りないため、たまに腹の虫が鳴る。
外では、茜色の夕日が沈みかけている。
逃げるのは今日の夜か、明日の夜かで最後まで決めきれずにいたが、隆一は昔2日何も食べていなかった事が原因で、腹に穴が出来ていると錯覚させられ、腕は痺れ、まともに歩くことすら出来なかった事を思い出す。
「夜が深くなったら、ここを出よう」
キュウは、少し考えて「うん」と頷いた。
それから、更に数時間後。夜の帳が下り、月の主戦場に戻ったので、キュウと隆一は気を引き締めて、緊張しながらも山を下った。
評価と感想があれば、励みになります!