NEW GAME! ~omnibus love stories~ 作:黒ゴマアザラシ
純視点
今日も、あんまり眠れなかったな。
旅館の食堂から出た僕は、朝ご飯を食べたあとなのに、僕は大きくあくびをしてしまう。
社員旅行に来て、2回目の朝になった。なんと僕たち男性社員は狭い部屋を三人で分け合った。だけど、必然的に相撲部屋のようにギチギチになり、とても熟睡できたものじゃなかった。
やっぱりこれって、葉月さんがわざと狭い部屋を取ったんじゃないのか?
一番熟睡できていたのは先輩なんだけど、あの人でなんであんな環境で寝られるんだ?
不満の籠もった疑問が膨らむけど、それを言い出したらいつもとほとんど変わらない理不尽だったりするので口にするのも億劫だ。
まぁ、いずれにしても、この北海道じゃ、昔のことが夢に出てきてしまいそうだから寝れないとは覚悟していたことだし、実際、浅い眠りに入れてもそれが夢に出てきたような錯覚に陥り結局眠れなかった。
「―――ん」
まぁいいや、まだ旅行の時間はある。疲れは温泉でもじっくり休まるはずだ。
さて、今日は何をしようか。昨日はずっと旅館で作曲をしてたのだけど、一日中ねばって全然筆が進まなかった。旅行前に花男さんも言ってたように、気分転換でもしようか。
「――くん」
といっても、街に観光なんてやることないしな。地元だし、スキーは・・・いっか。とても体を動かす気にはなれない。ていうか眠い。どうしよう。となるとますますやることがなくなってきたぞ・・・・・・。
「純君っ!」
「はっはいっ!?」
「っ!?」
突然、僕を呼ぶ大きな声が聞こえて心臓が爆発しそうなほど驚いてしまった僕は慌てて振り返ると、僕が振り返ったことに驚いている滝本さんがいた。
滝本さんはよっぽど驚いたようで、そのまま尻餅をついてしまい、廊下の上にへたり込んでしまう。
「あ・・・す、すみません。滝本さん、大丈夫ですか!?」
「うん・・・大丈夫」
すぐに滝本さんのもとに駆け寄って、手をさしのべて立ち上がらせる。
「あの、もしかしてずっと呼んでくれてました?」
「うん・・・」
「すみません、ボサッとしてて」
しまった。まさか寝ぼけたせいで滝本さんのことを無視してしまうなんて、僕はなんてことを・・・。
申し訳ない気持ちでいっぱいになる。下手すれば滝本さんに嫌われてしまうところだったのだから。
「昨日・・・あんまり眠れなかったの?」
「・・・はい、ちょっと寝心地が悪かったせいで」
「そっか・・・」
「?」
滝本さんはなにか考える素振りを見せるけど、すぐに何か閃いたような顔をした。でもまた彼女の顔色がわかった。今度は恥ずかしそうな顔をした。
「・・・ねぇ、純君」
ゆっくりと話始めた滝本さんの言葉を聞くことに徹していると、滝本さんはとんでもないことを言ってきた。
「私達の部屋に・・・来ない?」
●
なぜだ?
なぜこうなった?
僕は今、滝本さんが泊まっている部屋、つまり、女性達がついさっきまでここで眠っていた部屋にいる。そこは僕たち男性社員三人の部屋よりも一回り大きい。これなら、8人くらい入っても十分個人のスペースがあるくらいだ。
・・・葉月さん、なんでそこまで依怙贔屓するんだアンタは。さすがにこれは言い訳できないだろう。
だけど今の僕には、そんなことをいちいち気にしている余裕はない。だって僕が今いるのは女性がいた部屋。たとえそれが1日程度だったとしても、僕たちがいた部屋よりも違う空間にいるみたいに錯覚してしまう。
あと不思議と良い匂いがするし・・・・・・。
「その・・・楽にしていい、から」
「あ・・・はい」
滝本さんは僕を部屋に案内してからというもの、部屋の中を見渡して何かを探している様子だ。それから何かを見つけた彼女はそれらを手に取る。
「滝本さん・・・それは?」
ひふみが手にしていたのは綿棒の入ったプラスチックの袋だった。昨日、佐藤さんが同じモノを寝る前に使っていたのを思い出した。
この袋がゴム製のあれに見えなくもないのは気のせいだと信じたいんだけど・・・。
いや、端から見たらすごい状況だよなこれ。
恋人と、旅館の個室で二人っきり。これが社員旅行じゃなかったらどうなっていたのだろう。
自然と邪な考えが本能的に浮かんでしまうのを理性で押さえつけていると、滝本さんは何も言わずに座布団を敷いてそこにチョコンと正座をした。
それから――
「その・・・おいで?」
自分の膝を、ポンっと叩く。
「・・・滝本さん?」
いや・・・あの、滝本さんが何をしたいのかはもうここまで来れば大体わかる。
綿棒に正座――つまり、耳かきと膝枕。
でも・・・なんで?
「いいから・・・おいでっ」
顔を真っ赤にして、両手をもじもじさせながらも、改めて僕に言う。
どうやら滝本さんもこれをするのに相当勇気を振り絞ったようで恥ずかしそうに、というか半ば自棄になってるような気もするのだけど。
「え・・・えっと、失礼します」
僕は正座している滝本さんの隣まで来る。そして僕はなるべく、滝本さんに負担のかからないようにゆっくりと彼女の――浴衣だけの薄い布で隔たれただけのふとももに自分の頭を乗せた。
右耳の穴が滝本さんに見えるように顔を横にするけど、緊張しすぎて全然リラックスできない。
だって太ももだよ!?
浴衣の薄い布地の向こう側には滝本さんの太ももがそのままある。これを想像しただけで心臓が張り裂けてしまいそうだ。
「純君・・・その、肩の力、抜いて?」
あまりに緊張過ぎていたのを見かねたのか、滝本さんは僕の頭をソッと撫でてくれた。
「・・・いーこ、いーこ」
「・・・・・・」
この感覚は・・・。
不思議な感覚に陥るのを自覚する。この感覚は、マスターアップ直前に滝本さんと肩を寄せあった時と同じだ。心臓は聞こえてくるほど高鳴っているのに、なぜか心が落ち着く、安心する。
女性を目の前にしたときにアガってしまうときとは違う不思議な感覚。
「落ち着いた?」
「はい・・・なんとか」
なんか滝本さんの雰囲気がいつもと違う。あのちょっと儚げでたまに慌てたりするんじゃなくて、年上の・・・余裕のあるお姉さんみたいな。
「それじゃあ、耳・・・いくね?」
ひふみは綿棒を手に取ると、それで僕の耳の溝や入り口を優しい手つきで吹いていく。
耳の中をすぐに掃除すると思ったけど、まずは外側の方からやるのか。でも、僕の肌と綿がこすれあう音だけでも気持ちよくなってしまう。
想像以上に脱力してしまった僕は、ひふみが取る次の行動を予測することができなかった。
「――」
ふーっと僕の耳に甘い香りを帯びた吐息が僕の耳を通り抜けていく。
まるでそれは僕の全身を透き通っていくようで、僕は身震いせずにはいられず、情けない声をこぼしてしまう。
「っぁ・・・!」
「・・・純君、可愛い」
微笑むような声でささやく。やっぱりいつもの滝本さんじゃないという違和感を感じるけど僕にはそれすら考える余裕がない。
今ので、完全に彼女に身をゆだねてしまった。
だけどこれで終わりじゃない。まだその本番だって始まっていないのだから。
「その・・・危ないから、動かないでね?」
滝本さんの手に持たれている綿棒が、僕の耳の穴に入っていく。為す術ない僕はそれを受け入れるしかない。
「っ・・・」
耳の中は外側とは違って、肌が柔らかい。それに柔らかいけどほどよく固い綿棒が触れあって、行ったり来たりを繰り返している。
クリクリと、ソリソリと、コリコリと、場所によって変わる音や感触が僕の背筋を振るわせる。ゾワゾワさせる。
滝本さんの繊細な手の動きが耳の穴の皮膚の表面にこびりついた古い角質を剥がしていく。それがどれだけ心地良いか、言葉にすらできなかった。
やがて、永遠かと思われた時間も終わりを告げ、僕の耳から真っ白だったはず綿棒が茶色くなって出てきた。これで半分。そしてその前にまたアレが来た。
「――」
滝本さんの息が、また耳の中を透き通っていく。今度は耳の中には何も邪魔をするモノがないので奥へ奥へとその余韻が響き渡ってくる。
同時に、一昨日意識しすぎてしまっていた匂いが脳に染みこんでいく。
もはや声すら上げられない。それだけ骨抜きにされてしまっていた。これでようやく半分。意識を保てる自信がなかった。
―――
――
―
・・・・・・どれだけ時間が経っただろう。
僕は滝本さんの太ももの上で横になったまま動けない。
左耳も同じようにされた僕には、もう起き上がる気力さえも抜け落ちていた。ここまでされて意識が保っていただけまだ行幸なのかもしれない。
「・・・ねぇ、滝本さん?」
完全に彼女に身をゆだねていたけど、どうしても口に出さずにはいられなくて、僕はゆっくりと半開きになった口を動かす。
「なに?」
「どうして、ここまでしてくれんですか?」
いくら腑抜けになっても、骨抜きになっても、頼りがいなんてない、情けないところを見せてしまったのに、どうして僕を想ってくれるのか、聞きたくて仕方がなかった。
「私は、純君のことが好きだから」
滝本さんは僕を見下ろしながら、迷わずそう言ってくれた。こんなところ、意地も見栄も全部取っ払ってしまったのに、この人はそう言ってくれるんだ。
「・・・・・・だから私、純君がどんなことで悩んでるのか知りたい」
「え・・・っ?」
「だって純君は、私の悩み、聞いてくれたでしょ?」
「でも・・・」
僕はこの期に及んで隠そうとしてしまう。知られたくないから、今まで滝本さんがすてきだと言ってくれたモノが、全部偽物だなんて、そんなこと――
「私は、純君の隣でいたい。嬉しいことや楽しいことだけじゃない。辛いことや悲しいこと、分かち合っていたい。だって――」
――私は純君の彼女だから。
堪えてきたモノが、歯止めが気がづ溢れていく。こみ上げていく熱いナニカを留めることができなくなっていく。
そうか。僕の好きな人は、こんなにも僕のことを想ってくれていたのか。
視界がかすんで、ほほえみかけてくれる愛しい人の顔が見えなくなってしまうと、彼女はそれを優しくぬぐってくれた。
「だから聞かせて? 私、ちゃんと聞くから」
「・・・」
もう、何を取り繕ったって無駄だ。それに、僕はこの人ともっと一緒にいたい。だから話そう。それは、きっとこれから大切にしなければならないことだから。
「・・・・・・えっと、何から話せば良いんでしょうか」
ここまで引っ張っておいて、そんなところでつまずいてしまった。元々誰にも話すつもりもなかったことだから、一から記憶を掘り返さないといけない。でも、滝本さんの顔を見ていると次第に落ち着いてきて少しずつ話す言葉を思い出してきた。
「僕は子供の頃から、ピアノを習っていたんです」
かつての栄光を、もう忘れたいと思っていた過去を、僕は口にする。
「まだ小学生にもならないころからピアノを始めたんです。父のレッスンも厳しくてよく殴られました。でも、そのおかげなのか、僕は色んなコンクールで優勝できたんです」
言うなれば無双だ。
小学、中学、高校、同い年や一つ二つ年上のライバルなんて相手にするまでもなく、日本のコンクールを総ナメし尽くした。海外にも出たこともある。そこでも入賞したことだって。
「父はどれだけ結果を出しても、一度も僕を褒めてくれませんでした。でも、それは割とどうでもよかったんです」
「・・・なんで?」
「僕を認めてくれる人は、たくさんいました」
封印した記憶を、過去の栄光を思い返す。するとあの風景は目を閉じていても目に浮かぶ。
「コンクールで素晴らしい演奏をしたとき、優勝したときの観客の顔。あれを見る度、僕は自信を持てた。僕は、認められている。僕は生きていいって言ってもらえる気がして」
だから頑張れた。どんなに辛くても苦しくても、それが僕が生きていいと言う証明になるのであれば僕はやっていけると勝手にそう思ってしまった。けど――
「けど、違ったんです。僕は本当は嫌だったんです。ピアノだって本当は大嫌いだったんです」
ならば、僕がジストニアになったのは必然かもしれない。だって、僕が何よりも憎んでいたのはそれだったから。
「僕はピアノが嫌いだった。僕の生き方を、僕の尊厳なしに勝手に決める。そんなモノが憎くて仕方なかったんです」
これに気づいたのはいつだろう。多分、無意識には感じ取っていたことだけど、わかったときにはもう全部遅かったんだと思う。
「それでも、周りは期待していた。僕がそれを奏でることを。たとえそこに、僕の意思がなかったとしても。だから応えるしかなかった」
でもそんなハリボテはいつか壊れる。
嫌いなことを、憎むことを一生やり続けることなんて、それは好きなことを一生やり続けることと同じくらい難しいんだ。
「だから、18歳最後のコンクールの前日、突然僕はピアノが弾けなくなったんです。僕の指どころか、体全身まで動かなくなってしまったんです」
「それって、もしかして・・・」
・・・・・・ここまで話せば、彼女でも分かるだろう。
「僕が滝本さんに聞かせた曲、アレ全部僕が弾いた曲じゃないんです。確かに作ったのは僕だけど、それを奏でたのは僕じゃないんです」
これが僕が滝本さんにずっと隠していたことだ。
怖かったんだ。もしも、この人の期待まで裏切ってしまうことが。僕の曲を素敵だと言ってくれた人を、また僕のせいで裏切ってしまうんじゃないかって。
そして僕は続けた。
あのとき、僕がピアノが弾けなくなって、コンクールを棄権せざるを得なくなってしまったときのこと。そして、ジストニアと診断されてしまったこと。
当時の周囲の期待は、僕がかつて打ち立てた功績のせいで、とても収集がつくものではなかった。散々なことを言われた。
そして、父からも――
──お前はなぜ生きている。
──何も生み出せない人間に生きる価値など無い。
それは僕の心を踏みつぶすには十分すぎたこと。
そして、逃げるようにここを飛び出した僕は東京に出て専門学校に通ってここに就職した。
この会社に入ったのも、音楽の業界では名前が知れすぎていたから、どこも採用してもらえなかっただけ。
でも、僕には音楽しかなかった。例え、ピアノが弾けなくなっても。
だって、ピアノが弾けなくなった瞬間、僕には何も無くなってしまったから。
それが、僕の全部だと。
「・・・・・・」
「それ以来、ずっと聞こえるんです。父の声が」
「…っ」
そして、ようやく本題だ。
彼女が知りたいこと。僕が見せてしまったあの姿の話だ。
「その声が聞こえると、心が竦むんです」
「…そっか」
「その言葉の通りなんです。だって、ピアノを弾くこと以外で、僕が僕であれる理由が無かったから」
ピアノを弾けなくなって思い知ったのだ。
自分が空っぽであるということに。
だから、父の言葉を聞くとどんな時でも心が折れそうになる。聴覚がそれに支配されて、心と体が萎縮してしまうんだ。
滝本さんの目が、とても悲しそうな色になる。だから話したくなかった。
「あぁ、でも」
僕は続けた。
「一度だけ、一度だけはそうならなかったんです」
そう、一度だけその声を振り払えたことがある。
「それって?」
「ゲーム展の時です。あの時、滝本さんが泣いちゃった時も父の声が聞こえたんです」
でも僕は止まらなかった。いつものように萎縮して、否定することで精一杯ではなかった。だって、滝本さんが泣いていたから。
「っ……」
僕は裏切りたくなんて無かった。
滝本さんを。
本当は怖いはずなのに僕と話してくれた、逃げ出したいはずなのに勇気を出して会いに来てくれた、僕を頼ってくれたこの人を。
「滝本さんの勇気と優しさを、裏切りたくなかったから」
滝本さんは僕の長い話を、最後まで聞いてくれた。でも、どう言い繕うとも僕は彼女を騙してしまった。裏切りたくないと言って置きながら、状況をごまかしただけで結局、彼女を裏切ってしまっていた。
僕をこんなにも大切に思っている人を。
「ごめんなんさい。今まで騙すようなことをして」
すべてをさらけ出してしまった僕はもう何もごまかすことができない。ただ彼女の返事を待つ。怒るかもしれないし、失望させてしまうかもしれない、ひょっとしら泣いてしまうんじゃ――
――でも、僕を見下ろす滝本さんの手は僕の頬を優しく撫でた。
「話してくれて、ありがと」
予想外の滝本s何の返答に呆気に取られてしまう。なんで・・・僕はずっと騙すようなことをしていたのに、あのときの滝本さんの笑顔を裏切るようなことを、なのに、どうしてそんな優しそうな顔をしてくれんだ?
「・・・私ね、その、純君の演奏。今まで聞いたことないからわからないけど・・・でもねこれだけはわかるよ」
ひふみは言った。
「私は、純君の曲が大好きだから。それに、私は純君がピアノだけしか価値のない人だとは思ってないよ」
「・・・なんでですか?」
僕の声は、震えていた。もう過ぎたはずのものがまた溢れてしまいそうになっていたから。でも、彼女はやめてくれない。
「私にまたお話ししようって言ってくれたこと、一緒にドーナツを食べてくれたこと、コーヒーをこぼしてやけどしそうになったとき私を庇ってくれたこと、一緒に帰ろうって言ってくれたこと、私のこと嫌いにならないって言ってくれたこと、わたしのことを・・・好きって、言ってくれたこと」
・・・・・・あぁ、この人は一体――
「純君は私に素敵なことをたくさんしてくれたんだよ」
――どれだけ僕の心を締め付ければ気が済むのだろう。
そこからさらに時間が経った。僕はずっと泣いていた。滝本さんはずっと、僕のそばでいてくれた。
「・・・ねぇ、純君。私も純君に話したいことがあるだけどいい・・・かな?」
僕は無言で頷く。
「・・・えっとね、純君は、私が純君のプレーヤーを間違って持って帰っちゃったときのこと、覚えてる?」
忘れるわけがない。
今思えば、あれがあったからこうして滝本さんといれるのか。運命って何が起こるか分からないな。でも、それが今どうしたのだろうか?
「私、敦さんのデスクに置く前に自分のパソコンに純君の曲、勝手にダウンロードしちゃったんだ」
「えっとそれって?」
「ね・・・ネコババ、しちゃったの」
「もしかして、キャラリーダーのこと以外で悩んでたのって・・・」
「それ・・・なの」
それを聞いたとき、僕は思わず吹き出してしまった。さっきまで泣いていたのがウソみたいだ。
「ぇ・・・えぇ!?」
「そんなの、メッセでも相談してくれればよかったのに」
「も・・・もうっ! わ・・・私も、言うタイミングとか、き、嫌われちゃうかもって思ったんだよっ」
「す・・・すみません」
想像以上に怒ってしまった滝本さんを見て、すぐに謝るけど説得力の欠片もない。
でも彼女にお詫びできることなんて考えつかない。
「…反省、してる?」
「…はい」
「なら、お願いが…あるの」
願っても無い。ここまでしてくれたのに怒らせてしまったのだ。どんなことでもやってあげたい。
「その…名前、で、呼んで…ほしいの」
「へっ?」
滝本さんは頬を赤らめながら小さな声でつぶやくように言った。
「ほ……本当に、いいんですか?」
「ぅん……」
恥ずかしそうに俯いて、小さくうなずく滝本さん。
「ひ・・・ひふみ・・・?」
「うん、純君・・・」
その瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。全身の血流が激しくなった感覚に襲われる。顔から火が出そうだ。きっと今の僕の表情は真っ赤になっているに違いない。
「…もう一回」
「えっ、あの」
「だめ……かな?」
そんな聞き方、卑怯じゃないか。
「…ひふみ」
「…うん」
「ひふみ」
「うん」
「ひふみ」
「~~っ!」
名前を呼ぶ度に顔を赤くして照れるひふみ。
嬉しくなった僕は何度も彼女の名前を呼ぶ。
きっとこれからずっと、この名前を呼ぶのだろう。
この愛おしい人の名前を。
「あの今日の夜、二人で観光行きませんか?」
「ぇ?」
「だって、昨日は涼風さんとスキーしてたみたいだし、午前中はひふみとゆっくりしてたいっていうか」
「・・・うん」
ナチュラルにジゴロめいたことを言ってしまうけど、滝本さん――いや、ひふみはちょっと照れながら首を縦に振ってくれた。
「でもさすがにこの部屋にいるのはマズいと思うので」
「ぁ・・・確かに」
忘れてたけど、ここはあくまで女性社員達が取っていた場所。いくら彼女の了承があったとしてもそうそう長居して良い場所じゃない。二人でいるなら、ロビーとかもっとゆっくりできる場所があるはずだ。
僕は立ち上がって、ひふみに手を伸ばす。
「立てますか? 足痺れたりとかしてないですか?」
っていうかさっきからずっと膝枕されてるんだから、ひふみにも負担がかかってるんじゃないか?
僕はようやく動く気になったというか、いつもの調子に戻った気がする。とりあえず起きよう。
足とか痺れたりしてるかもしれない。そろそろどいたほうがいいかもしれないな。
身体を起こした僕はひふみの手を取る。ひふみは答えるように僕の手を握り返してくれる。
「大丈夫・・・正座は慣れ――きゃっ!?」
「――うわっ!?」
ひふみは立ち上がった途端、バランスを崩した。やっぱり足が痺れていたんだ。
そして、当然彼女の手を握っていた僕も、バランスを崩してしまう。
「痛てて・・・・・・」
派手に尻餅をついてしまった僕だったけど、目の前の光景にそれどころではなくなってしまった。
「・・・ぁ」
ひふみは、まるで僕を覆い被さるようにして怪我はないみたい。でもこの体勢は、ひふみが僕に寄り掛かっている形になっている。
そして、ひふみの顔が今日話してて一番近くなる。それは、キスができてしまいそうなほど。
僕はひふみの青色の瞳を見つめる。ひふみもジッと僕を見つめ返してくれた。
そうだよな。動こうにもひふみが足が痺れてちゃ動けないよな。なら――僕たちは目を閉じる。
「んっ・・・・・」
そのまま、僕達は深いキスをした。
絡み合う音が僕達の世界を支配していくなか、僕達は幸せに満ちていた。