NEW GAME! ~omnibus love stories~   作:黒ゴマアザラシ

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バレンタインデー狂想曲 後編

 ひふみ視点

 

 ……純君、喜んでくれるかな。

 

 午前の就業時眼が終わってすぐのこと。

 私は彼がいるであろうサウンドルームに足を進めていた。

 

 今日はバレンタインデー。

 

 男の人、それも大好きな人に渡すなんて初めてのことなのでドキドキする。

 だけど……渡したい気持ちの方が勝っていた。

 口下手な私にとって、こんな女の子らしいイベントを本当の意味で経験した機会なんて全くない。

 渡した人なんて家族や兄くらいしかいなかったし……。

 

 でも今は違う。

 

 彼への想いで胸がいっぱいだ。

 そしてその感情には嘘偽りはないと断言できる。

 そんな彼にチョコレートを渡したい。

 ただそれだけだった。

 

 「あ……」

 

 彼の部屋の前に着くと扉越しから微かに音楽が流れてくる。

 これは……ピアノの音。

 きっと彼はまた練習しているんだろう。

 そう思うだけで自然と笑みを浮かべてしまう。本当に真面目なんだから。

 

 音色が止んでからドアノブに手をかけ、ゆっくりと開ける。

 中に入ると案の定彼が椅子に座っていた。

 こちらに背を向けたまま動かないことから恐らく集中して弾いていたんだろうか。

 邪魔しないようにそっと近付いてみるけど反応なし。

 どうしようかと思ったその時。

 不意に彼が振り返った。

 

 「えっ」

 

 思わず声が出てしまった。

 だっていきなり振り向くとは思わなかったから。

 しかも私の顔を見て驚いた表情をしてたし。

 何か変なことあったかな?

 

 「ひふみ?」

 

 「うん、お疲れ様。その…これ」

 

 とりあえず持っていた紙袋を差し出す。

 すると今度は不思議そうな顔をしながら受け取った。

 

 「これって…もしかして」

 

 「う、うん…バレンタイン…チョコ」

 

 勇気を出して言ってみたんだけどやっぱり恥ずかしい……。

 今絶対顔赤いよね……。

 

 「ありがとう! すごく嬉しいよ!」

 

 満面の笑顔を見せてくれる彼。

 良かった、喜んでくれた。

 ほっとして少しだけ肩の力を抜きながら安堵のため息をつく。

 

 「……でも」

 

 でも、純君の眉間が少しだけ歪んだ。

 もしかして私、何か気に障るようなことをしてしまったんじゃ……。

 不安になって慌てて弁解しようとする。

 

 「あっあのね、純君甘いもの苦手だからビターチョコにしたんだよ。ほらコーヒーにも合うように苦めにしてるし。それに形もちょっと凝ってて―――」

 

 「違うんだ」

 

 「え?」

 

 私の言葉を遮るように発せられた言葉の意味がわからず首を傾げる。

 純君は不機嫌な顔というよりかは、不思議なモノを見つけたような怪訝な顔色だった。

 

 「その…ひふみのチョコがこれなら…あそこに置いてあるチョコは誰からなのかなって……」

 

 指さす方を見ると確かにラッピングされた箱があった。

 確認するまでも無い。

 中に入っているのはチョコレートだ。

 この時期にこんな綺麗な包装の贈り物など他に無い。

 そしてこれは私が用意したモノじゃ無い。

 

 ということはつまり―――

 

 「でも…せっかくあるんだし、一緒に食べましょうか」

 

 純君はのんきに笑って言った。

 

 「……」

 

 「ひふみ?」

 

 彼の笑顔とは裏腹に、私の心中は穏やかではなくなった。

 

 この箱を見て思い出したのは、かつて彼が食堂で演奏した後の会話。

 純君の事を話していた他の女の人達。

 

 彼女は純君を狙っている。

 

 そう確信した。

 

 胸の中にわき出てくるのは焦りよりも怒りに近い感情。

 私は無意識のうちにその箱の元に向かっていた。

 

 「あの……ひふみ?」

 

 戸惑う声も耳に入らず、私はそれを両手で掴む。

 彼女達は、かつて純君を傷つけた人達と同じだ。

 

 純君はずっとこの会社にいたのに、ピアノが弾けるようになった途端に寄ってきただけの人。

 今まで純君を無視してきたのに、急に掌を返したみたいにすり寄るなんて許せない。

 彼の優しさをいいことにつけ込んで、まるで自分が特別であるかのように振舞うなんて卑怯者以外の何物でもない。

 

 こんな人たち、みんな消えちゃえば良いのに。

 

 そんな考えが頭を埋め尽くしていく。……あれ? なんだろう、この感覚。

 こんな気持ちになったのは初めてかもしれない。

 自分でもよくわからない衝動的な行動。

 

 だけど一つ言えることは――

 

 

 

 

 ―――絶対に渡さない。

 

 

 

 

 

 「あの―――」

 

 「っ!」

 

 彼の言葉を遮るように、私はその箱をゴミ箱に投げ込んだ。

 勢いよく入ったせいか、バコンと鈍い音が部屋に響く。

 さきほどまで整った形をしていた箱が、ゴミ箱の中で歪にゆがんで、中から崩れた茶色い何かがこぼれ落ちている。

 目に映るそれを見下ろしていると、胸の内にある黒い塊が晴れていく気がする。

 

 ……でも、まだ安心するわけにはいかない。

 

 このチョコを用意した人はまだ純君を狙っているはずだ。

 いつちょっかいをかけてくるかわからない。

 

 それがどこの誰かもわからない。

 

 だけど、ネタは上がった。

 

 自分が人と関わるのが苦手で、人の顔色ばかりうかがっていた性格だからこの手合いの考えることや苦手なことは理解している。

 直接渡さず、姿を隠して渡してくるということは、それが逆に短所。

 そういう人間の考えることは私が一番理解している。

 かつての私がそうだったんだから。

 だったら、私がやるべきことはもっと単純だ。

 

 「あ……あの、ひふみ?」

 

 困惑気味の声が聞こえる。

 驚かせてしまったみたいだ。

 申し訳ないけど、今は我慢して欲しい。

 私達にとって、とても大切な事だから。

 

 「ねぇ、純君」

 

 私は振り返って純君を見る。

 

 自分が用意したチョコを手に取って。

 

 「チョコ…食堂で一緒に食べよっか」

 

 「え……いいですけど…どうして?」

 

 「行こっか」

 

 「あ、はい」

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 佐藤視点

 

 「佐藤君っ!」

 

 午前中の仕事を終えオフィスを後にしようとしていた俺は声をかけられた。

 声の主は言うまでも無い。

 柔らかて温もりのある声色。

 

 「ん? りん、どうした?」

 

 振り返れば、紅色の花が一輪咲いていた。

 その花はいつも通り可憐な笑顔を浮かべていた。

 

 だが彼女の頬はまるで林檎のように紅潮していた。目線もどこか泳いでいるように見える。

 

 「あ、あのね……今日はバレンタインデーでしょう?」

 

 「ああ、そうだな」

 

 「それで……その……えっと……」

 

 言葉は途切れ、代わりに彼女は手に持っていた小さな紙袋を差し出してきた。

 

 「これ、受け取って…」

 

 震える手で差し出されたそれは、まさしくバレンタインチョコだ。

 

 「おう、ありがとな」

 

 淡泊に答えてみせるけれど、内心はそうではない。好きな人からの贈り物に喜びがないはずが無い。

 それも、今まで受け取ってきた同じ会社の仲間としての義理チョコでは無い。

 

 これは間違いなく本命チョコだ。

 

 言っちゃあ何だが、愛しい恋人からの初めてのチョコレートだ。

 嬉しく無いわけが無い。

 俺だって男だ。嬉しいものはやっぱり嬉しいのだ。

 だけどいい年した大人の男が、バレンタインにチョコレートをもらったくらいではしゃいでいたら格好がつかないだろう。

 

 「おう、ありがとな」

 

 「うふふ、喜んでくれてよかった」

 

 平静を装っていたのだが、彼女からは冷たくあしらわれたようには思われなかったらしい。

 それこそよほど顔に出ていたのか、不思議と彼女の周りに花が現れているように見えた。

 

 「そんなに顔に出てたか?」

 

 「ううん、全然出て無かったわよ」

 

 「そっか……じゃあなんでそんな風に笑えるんだよ」

 

 「わかるもの」

 

 「……どうして?」

 

 「う~ん、内緒」

 

 悪戯っぽく笑う彼女。

 その仕草に思わずドキッとする。

 普段から可愛いとは思っていたが、今日の彼女は一段と可愛く見える。

 化粧を変えたとか、服が新調されたとかそういうことじゃない。

 きっとこれが恋する乙女という奴なんだろう。

 

 「それより、せっかくだから食堂に行かない? ちょうどお昼だし」

 

 「そうだな」

 

 断る理由なんてあるわけも無く、俺は二つ返事で了承する。

 そして二人連れ立って、食堂への道中を歩き出す。

 隣を歩くりんの歩幅に合わせて。

 

 「あぁそれとね。午後の会議なんだけど」

 

 「スケジュールに遅れはないよ。俺が休んでた間も、敦さんがまとめてくれたし」

 

 「そう、なら安心ね」

 

 お互いの仕事の話をすることにも慣れてきた。

 かつては同じ班に属して、彼女の指示に従っていただけだが、今では違う。

 こうして背景班やチーム全体のスケジュールを摺り合わせて、円滑に仕事を進めるためにこうして話し合うこともある。

 こうなる前の自分では考えられなかったことだ。

 今更ながら、この変化には感慨深いものがある。

 

 「あ…佐藤君」

 

 「なんだ?」

 

 「今度のお休みなんだけど、もし良かったら…その……デートしない?」

 

 「え?」

 

 唐突なお誘いだった。

 

 いや、確かに彼女とは付き合っているんだからデートくらいはしてもいいはずだ。

 でもまさか彼女が誘ってくるとは思わなかった。

 

 「ダメかな?」

 

 「いや……大丈夫だよ。いつにする?」

 

 「えっと……来週の水曜日はどうかしら?」

 

 「了解。空けとくよ」

 

 「ありがとう。楽しみにしてるね」

 

 りんは微笑む。

 その笑顔はまるで春先の陽光のように温かかった。

 思わずこっちまで口元が緩みそうになる。

 いかん、いかん。ここは職場なのだから気を引き締めないと。

 だがしかし、それでもつい頬が綻ぶ。

 

 「そうだ。車出すよ」

 

 「え? いいの?」

 

 「あぁ、もちろんさ」

 

 りんと出かけるのであれば、少し遠出しても問題ないだろう。

 最近はずっと社内業務ばかりだったから、たまには気分転換も必要だ。

 それにりんと二人で出かけられるのならば、どこへ行っても楽しいに違いない。

 

 「ふふっ、嬉しい!」

 

 「あ……」

 

 喜びの声と共に彼女の腕が俺の腕に当たる。柔らかな感触が伝わってくる。

 

 「ごめんなさい。私ったらつい……」

 

 「いいって、気にすんな」

 

 照れくさくて目を逸らす。

 りんの顔もさっきチョコレートを渡してきた時の比にならないくらい真っ赤に染まっている。

 きっと俺も同じだろう。お互いに恥ずかしくなって黙ってしまう。

 だけどそれが嫌だとは感じない。むしろ心地よくさえ思える。

 

 「ねぇ、佐藤君……」

 

 「どうした?」

 

 「大好き」

 

 不意打ちの言葉に心臓が跳ね上がる。

 彼女はこちらを見ていない。真っ直ぐ前を見て歩いているだけなのに、どうしてこんなにドキドキしてしまうのか。

 俺は自分の鼓動を落ち着かせるように深呼吸をしてみる。

 すると幾分か冷静さを取り戻せた気がした。

 

 「知ってるよ」

 

 「もう! そこは『俺の方が好きだ』くらい言って欲しいわ」

 

 「無理言うなよ」

 

 「じゃあ私が言います。私はあなたのことが好きで好きで仕方ありません」

 

 「……勘弁してくれよ」

 

 「うふふっ」

 

 彼女は楽しそうに笑う。

 まったく、本当に調子が狂う。だけど不思議と悪い気はしなかった。

 そしてそんな風にじゃれ合いながら歩いていれば、あっという間に食堂へと辿り着く。

 

 ちょうど昼休みもピークになってきたところで、かなり人が集まっていた。

 本来ならば席の取り合いでもかなり熾烈な争いになるはずなのだが、今日はというと……。

 

 「あ…」

 

 「あれは?」

 

 俺達は食堂に入ってすぐ、異様な光景を目の当たりにした。

 そこの中央にそれはいた。

 

 「はい、純君。あ~ん」

 

 「えっと……あの、滝本さん?」

 

 「食べて」

 

 「いやその…」

 

 「食べて」

 

 「あ、はい」

 

 行われていたのは、恋人達がやる定番の定番。つまりはあーんである。

 二人の目の前にあるテーブルには、おそらく滝本お手製のチョコレートケーキだった。

 

 恋人にバレンタインチョコを渡す。

 

 滝本も例外なくそれを実行していたわけだが……。

 それをこの会社の人間が一番集まるこの場所の、この時間帯にやるなんて。

 驚くべき事はそれを増田とあの滝本が行っていたのだ。

 そこそこ長い付き合いだからわかる。

 

 あの人見知りで、コミュ障で有名な滝本なら絶対にしない。

 

 普段の彼女ならば恥ずかしがってできないと言う姿が目に浮かぶのだが今回は違う。

 その上、滝本の雰囲気は恋人との甘い蜜月を楽しんでいるというよりももっと真剣な、まるで何かに対する宣戦布告のようにすら感じた。

 

 「ひふみちゃん…なんだか臨戦態勢って感じね」

 

 「誰にだよ」

 

 りんがボソッと言った言葉に突っ込みを入れる。

 だがまったく心辺りがないわけでもないのだ。

 

 年が明けてすぐのこと。

 増田がこの場所で社員一同にピアノのリサイタルを行っていた時のことだ。

 好評だったのに、滝本の一存で辞めることになったという。

 

 それも他の人に聞かせたくないという理由で。

 

 おそらくは増田を意識する女に対する示威行為の一種。あるいは牽制のようなもの。

 確かに効果的だろう。

 

 ここまで大っぴらに見せつければ、変な横恋慕や略奪なんて考えもなくなるはずだ。

 特に重要なのは増田を意識する女ではなくその他ギャラリー。

 周囲の人間がこの二人は付き合っているという共通認識を持たせる事で、誰も近寄らないようにする。

 それこそが目的だと思われる。

 

 「まぁ何にせよ、邪魔しちゃ悪そうだな」

 

 「そうね。私達も行きましょう」

 

 俺達は空いている席を探して歩き出す。

 幸いにもすぐに空席を見つけることができた。さすがは昼食時だ。混み合う時間帯は避けるべきだと思ったが、その心配はいらなかったらしい。

 

 「佐藤君、やっぱり今日はお昼少なめなのね」

 

 「?」

 

 隣に座ったりんが俺の手元を見ながら言ってくる。

 

 彼女の言葉通りだ。

 今日は弁当は作ってきてない。

 コンビニで手軽で少なめのモノを買っておいた。

 だがやっぱりというのはどういう意味なのだろうか?

 

 「まぁな」

 

 「ふふ……」

 

 何故か嬉しそうに微笑んでくる。

 さっきもチョコを受け取った時もそうだった。今日のりんはよく笑う。

 相も変わらず理由はわからんのだが……。

 その根拠の紐付けを行う暇もなく、りんは続けた。

 

 「…もしかして、私のチョコのためかなって」

 

 「っ……」

 

 図星だった。

 

 と言うよりか、虚を突かれたと言った方がいい。

 何せ彼女に直接口にされるまで意識していなかった。

 逆に言えば無意識に期待していた。俺のために用意してくれるだろう、と。

 だからこんなに上機嫌だったのか。

 

 「……まぁ、うん」

 

 俺は素直に認めた。

 りんは満足げに笑っている。

 

 「ありがとう。嬉しい」

 

 「どういたしまして」

 

 照れくさくて視線を外す。

 恋人同士になって間もないのもあるが、まだこうしてストレートに好意をぶつけられると慣れないものがある。

 特に胃が。

 この幸福にまだついていけていない。

 それでも、彼女が喜んでくれるならそれでいい。

 

 「せっかくだし、今食べてみてよ」

 

 「え?」

 

 俺の脇に置いてある紙袋に視線を向けながら言う。

 魅力的な提案ではあった。

 あまり甘い物は好まないが、食後のデザートとしてこれ以上の物はない。

 

 「ほら、早く」

 

 促されるまま、包装を解く。

 

 中には綺麗にラッピングされた箱が入っていた。

 蓋を開けると中から現れたのは、輝きを放つ宝石の数々の並んでいた。

 一つ一つが美麗さを醸し出す高級なチョコレート達。

 

 おそらく手作りでは無いのだろうが、市販品にしても値段が高いのは一目瞭然である。

 最近は特に忙しい彼女が、俺のために用意したもの。

 それだけでも十分価値のあるものだ。一つ摘まんで口に入れる。

 舌の上で溶ける感触。甘すぎず苦過ぎない絶妙なバランス。チョコ本来の味を引き立てるような工夫が施されているようであった。

 

 「おいしい?」

 

 「あぁ、うまいぞ」

 

 「良かったわ」

 

 満面の笑顔で返してくる。

 本当に幸せそうな表情で、見ているこっちまで幸せな気分になるくらいだ。……そんな彼女を眺めているだけで、自然と顔が緩む。きっと、これが愛おしさというものなのだろう。

 

 俺は、彼女を愛してる。

 改めて、強く実感した。

 

 

 「……ねぇ、佐藤君」

 

 不意に名前を呼ばれ、りんの方へ向き直す。彼女は、何かを落ち着かない様子でモジモジとしていた。

 

 「ん?どうかしたか」

 

 「あのね……そのね…」

 

 言いづらそうに口を濁す。

 だが何かを決心したようにこちらを見据えた。

 彼女の真意を測る前に、動きを見せる。

 俺の目の前に広げられているチョコレートの一つを摘まむ。そしてそれを俺に向けて差し出してきた。

 

 「えっと……その……はい」

 

 りんがしていること。

 

 それは今も尚、滝本が増田にしてやっているのと全く同じ行為。

 

 要するに『あーん』だ。

 それも、フォークやスプーンではなく指で直接。

 さすがにこれには面を食らった。

 まさか、りんがこんなことをしてくるとは思わなかったからだ。

 

 「えっと……」

 

 「……」

 

 戸惑う俺とは対照的に、りんは頬を赤らめながらもじっと見つめてきている。

 

 「だめ、かな……」

 

 潤んだ瞳で見上げてきた。

 その表情には、恥じらいの色が見え隠れしている。

 

 「い、いや……」

 

 駄目じゃない。

 

 驚きこそそれど、嫌ではない。むしろ嬉しい。

 しかし、ここで動揺しては情けない。

 男ならここは堂々と行くべきだ。

 そう思い、覚悟を決める。

 

 「じゃ、いただきます……」

 

 「うん……」

 

 りんは緊張気味に差し出した手を震わせていた。

 俺はその震えごと掴み取るようにして、りんの手から直接チョコを食べる。

 

 「……っ」

 

 「……」

 

 直に感じる指先の感触。体温が伝わる。

 心臓が高鳴っていく。

 少し力を入れるだけで折れてしまいそうなほど華奢な手だった。

 そんなことを考えているうちに、あっという間にチョコを食べ終えてしまう。

 りんも俺が食べたのを確認してから、ゆっくりと手を離していった。

 名残惜しかったが、いつまでもこのままでは居られない。

 

 「ごちそうさま」

 

 「どういたしまして」

 

 お互いに顔を逸らす。

 

 なんだこれ。なんでこうなった。

 今更ながら恥ずかしさが込み上げてくる。

 

 「ふぅ……」

 

 とりあえず、深呼吸をして気持ちを落ち着ける。

 そこでようやく冷静になれた。

 正直どうかしている。

 俺もりん今もすぐそこにいる滝本の空気にあてられているのかもしれない。

 ……だが決して悪い気はしなかった。

 むしろ、良い。

 願うならばずっとこうしていたいほどだ。

 

 「あ、そうだ。佐藤君、もう一つあるんだけど食べる?」

 

 「ん?」

 

 言われてみれば確かに、まだ一つ残っている。

 

 「いいのか?」

 

 「もちろんよ。はい、どうぞ」

 

 再び先程と同じように手で持って差し出してくる。

 

 「おう」

 

 今度は躊躇わずに口に運ぼうとしたときだった。

 

 「……」

 

 前のめりになっているりんの影に人影が見えた。

 それは安っぽいピンクの髪、それとアンマッチすぎるほどのガタイとピアスの持ち主がいた。

 目をキラキラとさせているヤツの名は……桜庭花男だった。

 

 「…あら、私にはお構いなく続けてちょうだい。え? なんで急に立ち上がるの佐藤君? それとその手に持ってるのはなに!? ねぇちょっと待って! それ直撃したら私普通に死んじゃうから!! お願いだから止めてぇえええ!!」

 

 その後、食堂にいた他の社員らに今までのやりとりを全て目撃された事実に耐えられず自室で悶絶していたのは、また別の話。

 

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

敦視点

 

 

 「……はぁ、どいつもコイツも色めき立ってやがって、羨ましいかぎりだな」

 

 俺は一人、ディスプレイのブルーライトのみが照らしている真っ暗なフロアの中でぼやくように呟いた。

 今日も今日とて仕事漬けである。

 

 「…まぁ、悪い事ばかりでもないか」

 

 と、デスクの下に忍ばせてある膨らんだ紙袋を撫でる。

 

 これは全てバレンタインチョコ。

 

 こういう時ばかりは、女所帯のこの会社で何でも屋冥利につきるものだ。

 体よく使われていると捻くれた考えも過ぎるが、もらって悪い気などしない。

 

 それに、昼間のこと。

 

 ディスプレイの隣に置いてある空の箱。

 涼風から渡されたそれは、昼休憩時に貰った葉巻を模したチョコレートが入っていた。

 なんか、変に気に入られちまったな。

 

 元はと言えば葉月の差し金で俺と引き合わせちまったわけだが、

 まさかあそこまで懐かれるとは思わなかった。

 慣れてないわけじゃないが、あれだけ真っ直ぐ好意をぶつけられると、こっちとしても反応に困ってし まう。

 素直に喜びを表に出せるような歳でもない。

 それ以前に涼風の真意が読めない。

 だから距離感がいまいち測れず、落ち着かないのだ。

 

 ……いや、落ち着かない理由はそれだけじゃない。

 

 背後からやってきた足音がそれを確信させた。

 

 「……あの」

 

 この独特のイントネーション。

 短いフレーズだけでもわかる。

 東京近辺に住んでいた人間の口からはまず出てこない関西弁なまりの声色。

 今日一日、ずっと鳴りをひそめていた彼女が現れた。

 

 「…よう」

 

 キーボードの上を走り続けていた手を止めて振り返ると飯島がいた。

 なんとなく、彼女が俺を訪ねてくる予感があった。

 状況はクリスマスの時と被るのもあるが、彼女が俺に声をかけるのは俺以外の人間がこの場にいない状況しかないからだ。

 彼女の人目を気にする性格を鑑みれば、わざわざ人前で話しかけるなんて真似はしないだろう。

 

 「……」

 

 「どうした?」

 

 俺の言葉を受けて彼女は黙ったままだ。

 少しうつむき加減のまま、何かを言いたげにしている。

 俺は催促せずにただ待つことにした。

 

 「その……これ」

 

 やがて、ゆっくりと顔を上げたかと思うと、俺に向かって小さな包みを差し出してきた。

 予想通りといえばそうなのだが、少し意外でもあった。

 

 「ああ、ありがとよ」

 

 俺は特に迷うことなくそれを受け取った。

 断る理由なんて無い。

 だが、彼女からバレンタインにチョコをもらうのは多少の後ろめたさが伴う。

 なにせ、昼間の涼風の時と同様、彼女との距離感が掴めないせいだ。

 特に最近のこと。

 

 寝ている俺の頭を撫でてきたことも、拍車をかけた。

 この歳になって、年下の…それも10は離れている相手にそんなことをされるというのは妙な気分だ。

 それに今日もこうしてバレンタインチョコを渡してきた。

 中身は…見たところシンプルな出来映えだが、おそらく手作りだろう。

 

 しかし、なぜ? どうして俺なんだ。

 

 いや、別に嫌というわけではない。

 ただ純粋に不思議に思うだけだ。

 どうして俺にと。

 飯島本人からしたら、俺なんて自分の父親と大差ない年齢の男。

 しかも、仕事では頼りがいがあるかもしれないがプライベートではそうでもない。

 それなのに、なんで俺みたいなおっさんに……。

 疑問は尽きない。

 

 とはいえ、今はとりあえず受け取った礼を言うべきだろう。

 ここで無言を貫く方がよっぽど失礼にあたる。

 

 「ありがとうな」

 

 「っ…いえ、それほどでも……」

 

 改めて感謝の意を伝えると、飯島は小さく体を震わせた後、顔を伏せてしまった。

 フロアを照らしているのはディスプレイの光だけというのもあって表情は見えないが、照れているのだろうか?

 

 「っ」

 

 と様子を伺っていると、彼女の震えがぴたっと止まった。まるで電池切れを起こしたロボットのように動かなくなった。

 視線の行方は俺に向かっていない。少しずれている。

 振り返ってデスクの方を見ると、昼間に涼風からもらったチョコレートの空き箱が置いてあった。

 

 「あの…それは……?」

 

 そこでようやく気づいたのか、飯島が声をかけてきた。

 

 相変わらず小さい声で聞き取りにくいが、なんとか聞き取れるくらいの声量だった。

 

 「ん?……あぁ、昼間に涼風から貰ったチョコだよ」

 

 俺は隠す必要も無いので正直に答えることにした。

 

 「……!」

 

 すると、飯島の肩がピクッと動いた。

 何に対しての反応なのか。

 俺にはわからない。

 

 「…そう、ですか」

 

 ややあって、彼女は短く呟いた。

 

 再び沈黙が訪れる。

 

 また何か言いたいことがあるんだろうが、それが上手く言葉に出来ないでいるようだ。

 

 さっきよりも重苦しい空気。

 俺は居心地の悪さを感じずにはいられなかった。

 

 「あの……じゃあ私はこれで」

 

 耐えかねて先に口を開いたのは飯島の方だった。

 

 「おう、お疲れ」

 

 「はい、失礼します」

 

 軽く頭を下げた後、飯島はそそくさとその場を後にした。

 足早に出ていくその後ろ姿を見送る。

 

 「……はぁ」

 

 その姿が見えなくなると同時にため息が出た。

 どうにも調子が狂う。

 

 俺自身、どういう対応をすればいいのかわからず、戸惑っていた。

 なんとも言えない気持ち悪さが胸の中に渦巻いている。

 このモヤモヤを払拭すべく、キーボードを叩いてみるものの、一向に集中できない。

 結局、作業が終わったのは日付が変わる直前のことだった。

 ……あぁそうだ。

 ブルーライトに焼かれた瞼を揉みながら、暗闇の中である考えが過ぎった。

 

 

 ホワイトデーのお返しはどうしようかと。

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