◆◆◆◆◆
冨岡さんが何やら色々なものを抱えているのであろう事は確かなのだろうが、それが一体何なのかが分からず。
それ故にかなりの手詰まり感に行き当たってしまっていた。
炭治郎と二人して蝶屋敷の自室で作戦会議をしているが未だ名案は浮かばない。
「冨岡さんには、炭治郎の他に兄弟弟子は居ないのか?
居るなら、鱗滝さん以外にもその人に話を聞いてみれば、冨岡さんについて何か分かるかもしれないけれど……」
何せ、炭治郎と冨岡さんが鱗滝さんの下で修行していた時期はかなり離れているので、その間に他に弟子の一人や二人居てもおかしくは無いとは思うのだが……。
しかし、その言葉に炭治郎は少し暗い顔をした。
何か、触れるべきでは無い事に触れてしまったのだろうか……。
無遠慮な言葉を謝ろうとすると、炭治郎は静かに首を横に振る。
そして……。
「……鱗滝さんの下で学んだ子供たちの中で、生きて最終選別を越える事が出来たのは、俺と義勇さんだけなんです、恐らくは……」
その炭治郎の言葉に、どう返せば良いのか言葉が思い浮かばず。
微かに呻く様な息が零れてしまった。
……育手の下で修行を積んだ者たちに最後に待ち受ける壁が、最終選別だ。
実際に鬼殺隊の隊士として戦う様になれば、それ以上に過酷な戦いの日々になるとは言え。鬼と初めて直接的に対峙する事になるその場を、生きて乗り越えられる者はとても少ない。
育手の下で呼吸を学び剣術を磨いても、それでも鬼と対峙すれば命の保証は無い。
人を殆ど襲っていない、鬼殺隊の基準としては理性にも乏しい「雑魚」の鬼であったとしても。それ程までに、人と鬼の力の差は歴然としているものだ。
そして、七日に渡って行われる最終選別は一度の実施で五人も生き残れば「とても多い」とすら言われてしまう程に過酷だ。
単純に鬼を狩る力が問われるだけではなく、飲み水やら食料の調達或いは安全な寝床の確保などが必要になり、安全地帯など存在しないが故に七日間気を張り詰めて過ごさなければならないそれは、総合的に「生き残る力」が必要になる。
まあ、最終選別は「生き残る事」が重要なのであって、「鬼を殺す事」は最優先事項では無いので、逃げ回っていても生き延びさえすれば合格にはなるのだが……。
正直な所、最終選別のやり方や、その後の新人隊員の任務などに関して、もうちょっと良いやり方はあるのではないだろうか……と思わずにはいられない。
命を投げ捨てる様な事を前提とした様なそれは、自分としてはやはり感情面で納得し切れない部分はとても多かった。
とは言え、関係者では無いのにそれをいきなり「間違っている」だなんて頭ごなしに決めつける事は出来無いし、いきなり変えると言う事も難しいものではあるのだろう。
そもそも、上弦の鬼たち諸共に鬼舞辻無惨を討ち滅ぼす事さえ出来れば、そんな最終選別を行う必要も無いのだ。
本気でどうにかしたいなら、少しでも早く鬼舞辻無惨を討つ事を目指すべきなのだろう。
まあ、そんな最終選別に関する個人的な所感はともかく。
炭治郎の兄姉弟子に当たる人たちの殆どが最終選別を越える事が出来なかった、と言うそれには、正直な所かなり驚いた。
炭治郎の話を聞く限りでは、鱗滝さんは相当厳しく炭治郎に修行を積ませている。
平均的に一年程度で最終選別に向かう所を、炭治郎は鱗滝さんから最終選別に向かう許可が下りるまでに二年程掛かっている程だ。
まあ……弟子の多くが生きて帰ってくる事が叶わなかったのだから、その修行の内容がどんどん厳しくなっていった可能性はあるとは思うが……。
それにしたって、別に炭治郎よりも前に修行していた兄姉弟子たちへの修行が甘かったと言う訳でもあるまい。少なくとも炭治郎の話を聞いて想像出来る鱗滝さんの性格はそうでは無いだろう。
優しいからこそ、物凄く厳しく修行させるタイプだ。多分。
勿論、最終選別の内容が内容だけに、単純な実力だけでは乗り越えきれない事だってあるだろうけれども……。
それにしても、冨岡さん以外の弟子が全員死んでしまう様な事なんて、早々に起こり得るのだろうか?
何と無く納得がいかず、考え込んでいると。
言おうか言うまいかを少し迷う様な顔をしていた炭治郎が、意を決した様に顔を上げる。
「あの、実は……」と。そんな言葉の後に続けられた、鱗滝門下の子供たちの尽くが最終選別で生きて帰る事の出来なかった理由に、思わず瞠目してしまった。
……本当に、運が悪いと言うべきか、或いは神の悪意を疑う様な出来事だ。
本来弱い鬼しか存在しない筈のそこに、多くの子供たちを喰って力を付け、異形の力までもを手にした鬼が潜んでいただなんて……。
せめて、その鬼を目撃した誰かが生きてそれを証言出来たり、或いはもっと鬼たちの監視を徹底していれば防げた事ではあるのだろうけれど……。
それも、今となってはどうする事も出来ない「たられば」の話にしかならない。
強いて言えば、藤の花の牢獄の中で何年も生き延びる鬼が出て来る可能性を想定しきれていなかった鬼殺隊側の落ち度と言えるのだろうけれど……。
過去をやり直す事は出来ない以上、犠牲になってしまった数多くの子供たちを救う術は無い。
せめて、末の弟弟子である炭治郎がその鬼の頸を落とした事で、少しでも無念が晴れた事を願う事しか出来ない。
「……よりにもよって、お守り代わりのお面が、か……」
思わず、深い深い溜息が零れ落ちてしまう。
何と言うのか、余りにも救われない話だ。
弟子たちの無事を願ってそれを贈った鱗滝さんも、そしてそんな鱗滝さんの下へ生きて帰りたかっただろう子供たちも。
どうかしたら、鱗滝さんの弟子たちを喰い殺す事に執念を燃やしていた異形の鬼ですら。
もう少し何かの歯車が掛け違っていれば……そこまで悲劇が連鎖し続ける事も無かっただろうに。
余りの遣る瀬無さに、ただただ溜息しか零れない。
しかしふと、疑問を懐く。
鱗滝さんの弟子たちが最終選別には適さない程の強さの鬼に執拗に狙われていたのだとすれば、どうして冨岡さんは生きて帰ってくる事が出来たのだろうか……?
その異形の鬼に遭遇する前に、鬼が目印としていた鱗滝さんお手製の厄除の面が何らかの要因で破損するなりして、鬼が冨岡さんを鱗滝さんの弟子だと認識せず襲わなかった可能性はあるが……。
果たしてそう言う問題だったのだろうか、と少し疑問を感じてしまう。
「……冨岡さんの最終選別で、何かがあったのかもしれないな……」
それが「何」かは分からないけれども。
最終選別での出来事に、冨岡さんがああも頑なに後ろ向きで自信の無い考えになってしまった理由があるのだとすれば……。
それを知るには、やはりその育手である鱗滝さんや、或いは最終選別を執り行っているお館様に訊ねるべきなのだろう。
それか、他に何か話を知っていそうな人は……。
何せ、鬼殺隊はただでさえ構成員の新陳代謝が容赦ない組織で、そんな中で六・七年以上は少なくとも昔の事であるなら、それは相当昔だと言っても良い話で。
当時から鬼殺隊に在籍していたとしても、今もその当時の事を……それも自分には直接的には関係無い最終選別の事をハッキリと覚えている人など、果たして存在するのかと言う話にもなる。
八十稲羽の事件を追っていた時だって、春先に起きた出来事を半年程度経ってから調べ直すのは本当に大変だったのだ。
人の記憶はかなり曖昧で、当事者になるなどして余程鮮烈に刻まれたものでもなくては時が経つに連れて曖昧になっていくものであるし、外部からの情報によって簡単に記憶は歪んでしまう。
それこそ、冨岡さんと一緒に最終選別を生き残った者……所謂「同期」とかでもないと、中々何があったのかを覚えている事は難しいかもしれない。
……しかし、冨岡さんの「同期」が今も鬼殺隊に居るのかと言うと……。
「誰か、昔の事を知っていそうな人が居れば良いんだけど……」
暫く頭を悩ませて、そしてふと、机の上の文箱が意識の端に引っ掛かる。
手紙……。そうだ、もしかしたら……。
「村田さんなら、何か知っているかも……」
確か村田さんはかなり昔から鬼殺隊に在籍していた筈だ。
しかも、朴訥とした優しい人柄から隊士同士の交流関係も良好で、冨岡さんが入隊した時期とどの程度被っているのかは分からないが当時の事も何か知っているかもしれない。
まあ、物は試しだ。空振りに終わる可能性もあるが、訊ねなければ何かが分かる可能性は皆無である。
早速、村田さんに水柱の冨岡さんについて何か知っている事はないか……特に冨岡さんが入隊したその前後の事……最終選別の辺りで何か無かったかと訊ねてみる。
そして、知り得た事は冨岡さんが己の心を追い詰めようとする原因を解決する為にのみ使用し、それ以外には決して悪用せずまた他言無用にする事も忘れずに明記して。その手紙を鎹鴉に託した。
村田さんも柱稽古に参加する為の準備でお忙しいかもしれないが……。誠実な人柄であるし、知らないなら知らない場合でも早めに連絡してくれるだろう。
村田さん以外に交流のある隊士の人たちの中に、村田さん程長く鬼殺隊を務め続けている人はいない為、出来そうな事はこれ位だけれど。
……冨岡さんの過去に一体何があったのかは分からない。
その全てを暴かねばならない訳では無いし、当然そんな事はしてはいけない。他人の過去に土足で踏み入る事は、どんな大義名分があったとしてもやはり憚るべき事で。仕方無しにそうするのならば、どれ程慎重に慎重を重ねても足りない程である。
……だけれども。
「自分は水柱ではない」などと、何年も水柱として戦い続けて尚も、そんな己を欠片も認める事が出来ない程に、その心に深い傷が刻まれてしまったのなら……。そしてそれを抱え込んでいる内に、自分ではどうする事も出来ない程にその傷が膿み爛れてしまったのであれば。
それが荒治療にも等しいものであるのだとしても、やはりその過去を知りその上で向き合うなり何かしなければならないのだろう。
心の傷は誰の目にも見えない。時に、自分自身にすら。
そして、苦しくてどうしようもない程に追い詰められてしまった人が、何時も声を上げて助けを求める事が出来る訳では無い。
自罰的になって、どうにもならない理不尽に自分を責めて、絶望と後悔の海の中に静かに溺れていってしまう。
冨岡さんは、別に自分たちに助けを求めた訳では無い。
その心の苦しみをどうにかしたいと言ったとして、意味が分からないとでも思われるか、或いは鬱陶しく感じるだろう。
余りにも苦しみが長く続くと、人はそれに麻痺してしまう。
それが
身体の痛みも、心の痛みも、同じだ。
何をしても変わらないのなら、痛みを感じる事自体難しくなってしまう。
でも、辛さが無くなった訳では無い、本当に痛みが無くなった訳では無い、苦しみが消え去った訳では無い。
単純に、分からなくなるだけなのだ。
そしてそれは、ある時ふとした拍子に限界を迎える。
まるで、一本の麦藁が駱駝の背を押し潰してしまうかの様に。
……壊れてしまった心を治す事は、何よりも難しいのに。
そうなる前に、どうにか出来るならやはりどうにかしなくてはならないだろう。
他人が本当の意味で『心』を変える事は出来ない。
何時だってその『心』を変えられるのは、本人の意志であり選択だ。
でも、変わる切っ掛け自体は、外の世界にしか存在しない。
そして、少しでも良い方向に変わる為の手伝いは……変わっていくそれを見守ろうとする事位は、自分たちにだって出来るのだ。
余程の倒錯的な趣味の持ち主でもない限り、好んで苦しみ続けたいと思う人は居ない。
良くも悪くも、苦しみを厭いそれから可能な限り逃げたいと思ってしまうのが人の常だ。
鬼殺隊に属している人たちは皆、自分以外の誰かの為に自分自身の身を削る事を厭わない様な強い人たちばかりだけど。
それだって、別に死にたいから……苦しみたいから鬼と戦っている訳では無いのだ。
寧ろ、「守りたい」やら「仇を討ちたい」やら「鬼を許せない」などの気持ちがその原動力である。
結果として、『死』すらも厭わぬその姿勢は……人と言う生き物の在り方の常としては『異常』ではあるのだろうけれど。
本来なら普通に生きて普通に幸せを感じたりしながら死んでいくだけであった筈の人生を壊されてしまったが故に、「そうならざるを得なくなった」人たちである。
決して、死や苦しみが『喜び』になってしまった訳では無い。
そしてそれは、冨岡さんだってそうだろうと……自分は思う。
自分を認められない事は苦しい、自分を責め続ける事は心を削り続ける程に辛い。
それは、知っている……その辛さは分かっている。
なら……。
「炭治郎、冨岡さんが少しでも前を向ける様に……頑張ろうな」
そう決意も新たに言葉にすると。
炭治郎は、凛とした声で「はい!!」と応えるのであった。
◆◆◆◆◆
翌朝、村田さんからの返事が届いた。そして、炭治郎の下へは鱗滝さんからの返事も。
それらの手紙によって、最終選別の際に冨岡さんの身に何が起きたのかを知る事になって。
炭治郎と共に、決意も新たに再び水屋敷へと向かった。
今日も事前に訪問の旨は伝えているのだが、やはりと言うか反応は無くて。
それでも、屋敷には居ると炭治郎が言うので昨日と同様にお邪魔させてもらう。
当然不法侵入だが、もう構わない事にした。
本気で怒られたら、その時に謝れば良い。
……鍵はかけていないその門扉は、冨岡さんなりの気持ちだと思いたい。
「何故また来た。
柱稽古の準備もせず。
鳴上も、他の者との手合わせを優先しろ」
昨日とは違って、広い庭に設けられた鍛錬場に居た冨岡さんは、此方を振り返る事すらせずにそう言い切った。
だが、それで頷く様な者はこの場には居ない。
「いいえ。俺にとってはこうする方が大切ですから。
何度追い払われようが、俺は冨岡さんと話をする事を諦めません」
「お前と話す様な事は無い」
にべも無くそう言い切って、此方を完全に無視するかの様に鍛錬を続けようとするが。
しかし。
「義勇さん。
……それは、義勇さんが
「……そうだ。俺は柱じゃない。
ここに来るのは時間の無駄だ」
そう言って、淡々と素振りを開始してしまう。
その動きは、何千何万何億と繰り返し続けた先にあるかの様な、寸分の狂いも無く正確無比な、何処までも「無駄」を削り切ったかの様なものであった。
そこに辿り着くまでにどれ程の研鑽を絶え間なく続けてきたのだろうかと思ってしまう。
間違いなく、冨岡さんは「剣術」を極めんとする者だ。
手合わせの際も、その強さを遺憾無く感じる事が出来た程だ。
……それでも尚、その心は霧の向こうに閉ざされ続けている。
出口の見えない中で、己を罰するかの様に苦しみ続けている。
今の言葉だって、恐らく意図した所を正確に言うのであれば。
『柱に相応しくない自分なんかに拘って、お前たちの大事な時間を費やしてはいけない』などといった所か。
本当に、絶望的に言葉が足りない。
これでは、中々他の人たちと上手く交流出来ないのも無理はなかった。
だが、当然そんな事を何時までも続けていて良い訳は無い。
今の様にその自尊心を無理矢理殺し続けても、ハッキリと言ってそれを喜ぶ人など一人もいないしそれで助かる人も居ない。寧ろ軋轢を生む切っ掛けにすらなるだろう。
今の冨岡さんのそれは物凄く悪意ある解釈で言うのならば、ある種のただの自己満足と自己陶酔にも等しい程度にまで、その自罰的感情は行き過ぎてしまっている。
……これをそのままにしていても良いとは思わない。少なくとも、自分と炭治郎と……そして冨岡さんをずっと気に掛け続けていた鱗滝さんと村田さんは。
だから。
「……冨岡さんが自分を水柱だと認める事が出来ないのには。
最終選別の事が……錆兎さんの事が、何か関係しているのですか?」
『錆兎』、と。
その名を口にした瞬間に。
冨岡さんの感情に乏しい顔から、全ての感情が抜け落ちた。
「……何故、その名を……」
「……過去を不躾に暴く様な悪趣味な真似をしてしまって本当に心苦しくはあるのですが……。
村田さんと、そして炭治郎が鱗滝さんから聞きました。
冨岡さんと……そして錆兎さんが受けた最終選別で何が起きたのか、を」
「すみません義勇さん。
でも俺たち、義勇さんが苦しい思いをしているのをどうにかしたくて……」
そんな此方の言葉など何も聞こえていないかの様に、冨岡さんはただ呆然とした表情で此方を見ていた。
いや、もしかしたらその目が見ているのは、遠い何時かの藤の牢獄の中かもしれないが……。
最終選別で冨岡さんに何が起きたのかは、二人の協力によって概要だけなら把握出来た。
……冨岡さんが最終選別を受けたその回で、鱗滝さんが送り出した弟子は冨岡さんだけでは無かった。
錆兎と言う名の、冨岡さんと歳が同じ頃合の少年も共にその最終選別を受けた。
……錆兎さんと冨岡さんは、兄弟弟子であると同時に『親友』であった。
そして、その最終選別で、錆兎さんだけが生きて帰る事が叶わなかった。
鱗滝さんの下へ帰ってきたのは、冨岡さんだけであった。
そして、此処からは村田さんから聞いた話になるが。……同じ最終選別の場に居た村田さんは、錆兎さんに危ない所を救われた。錆兎さんはとても強くて……その回の山に放たれていた鬼を殆ど一人で討って、そして数多くの最終選別を受けた子供たちを助けて回った。
冨岡さんは、最終選別が始まって程なくして鬼に襲われた際に重傷を負ってしまい、錆兎さんはその時近くにいた村田さんたちに冨岡さんを託して、鬼を狩る為に冨岡さんと別れたのだそうだ。
……そして、最終選別が終わったその場に、錆兎さんの姿は無かった。
錆兎さんは自分以外の全員を助けたが……自分は生きて帰る事は出来なかった。
炭治郎が言うに、錆兎さんは鱗滝さんの弟子を執拗に狙う鬼に殺されてしまったのだと言う。とても強かったが、刀が持たず折れてしまい……そこを頭を潰されて殺されたのだ、と。
……もし、ほんの少しだけでも何かがかけ違っていれば。
山中の鬼を狩れるだけ狩って消耗してしまった後でその鬼に遭遇したのでなければ。……或いはその場に誰か他にも居合わせていたのであれば。何かは、変わったのかもしれなくても。
それでも、「そうはならなかった」。残酷だがそれが全てだ。
錆兎さんは死に、そして錆兎さんに助けられたものたちだけが皆生き延びた事だけが事実だ。
……そして、そうまでして錆兎さんが守った子供たちの中で、今も鬼殺隊に身を置き続ける事が出来ているのは、冨岡さんと村田さんだけだった。……どうしようもなく、遣る瀬無い話である。
……そして、錆兎さんが命を落とした事は様々なものに影響を与えた。
中でも、最もその事実に打ちのめされたのは冨岡さんだった。
冨岡さんからすれば、鬼に襲われて錆兎さんに助けられて……そして気付いたら最終選別も何もかもが終わっていたのだ。
錆兎さんの『死』が、何の心の準備も出来ないまま残酷に突き付けられた。
錆兎さんが何処でどんな風に死んだのかすらも分からないままに、錆兎さんを永遠に失った事だけを知らされて。
冨岡さんは、本当に死んでしまうのではないかと周りの誰もが心配してしまう程に悲しみに沈んでしまったらしい。
最終選別の間、錆兎さんから託された冨岡さんを傍でずっと見てきた村田さんは、その時の冨岡さんの様子を今でも忘れられないそうだ。……村田さん自身も、命の恩人がその様な形で最期を迎えてしまった事が心の傷の一つになっている様だった。
そして、その最終選別を終えてから、冨岡さんは変わってしまった。
それより前は、笑ったり悲しんだりと感情を表すことは普通に出来ていたのに。余りに深い哀しみと絶望がその全てを押し潰してしまったかの様に表情が変わらなくなり。そして、自分を罰するかの様な勢いでただ只管に鬼を狩り鍛錬を積み続けた。
自分を追い込み続けるその姿を見て、村田さんや鱗滝さんが胸を痛めていても、誰にもそれを止める事は出来ないまま。
そうして、冨岡さんは水柱にまで上り詰めたのだ。
「冨岡さん、どうか話して下さい……言葉にして下さい。
冨岡さんは何を思っているんですか?
どうしてそう思うんですか?
……そして、冨岡さんはどうしたいんですか?
今は言葉に出来ないのなら、何時までも待ちます。
上手く言葉に出来なくても、俺たちはそれにちゃんと耳を傾けます。
言葉にしなければ、分からない。
このままじゃ、ずっと冨岡さんが苦しいままです。
だから、どうか……」
作り話の中の超能力者の様に、人の心の声を直接聞くような事は自分には出来ない。
感情すら嗅ぎ取る炭治郎だって、心の奥底に沈んだものを探り当てる事が出来る訳では無い。
言葉にしなければ、行動にしなければ、それを伝える事は出来ないし他の者が他者の心に触れる事は出来ない。
だが、誰もが思う様に自分の心の声に耳を傾け、そしてそれを言葉にして表現出来る訳では無い。特に、冨岡さんは随分と口下手だから、尚の事それは不得手であるのかもしれない。
しかし、それでもやはり「伝えよう」としなければ何も始められないのだ。
どうせ伝わらないと諦めてしまうのは簡単だけれども、それが苦しいのなら……やはり諦めてはならないのだ。
そして、自分も炭治郎も、どんな言葉であっても、どんな心の叫びであっても、それを受け止めるし、その言葉の奥にある「真実」を見付け出してみせる。
だから、と。そう言葉にすると。
硬直した様に何処かを見ていた冨岡さんの視線が、漸く此方に焦点を結ぶ。
そして、長い長い沈黙の後に。何処までも深い溜息を零す。
「……俺は、錆兎に助けられただけで、最終選別を突破出来ていない。
ただ生き延びただけで鬼を一体も狩れていないのに、それを通ったとは言えない。
俺は、水柱になっていい人間ではない。……柱たちと肩を並べる様な事など、あってはならない。
俺は……本来なら鬼殺隊に居る事すら出来ない。
……錆兎なら、俺とは違って水柱を立派に務める事が出来ただろう。
鳴上……お前が快く力を貸せる様な、そんな柱だった筈だ。
俺は錆兎とは違う。
もう俺に構うな。時間の無駄だ」
そう言って冨岡さんは、その凪いだ湖面の様な瞳の奥に、どうしようも無い程の深い哀しみを微かに揺らす。
……冨岡さんは、最終選別で錆兎さんを喪ってから、ずっと錆兎さんを見ていたのだろう。
いや、正確には。
『錆兎だったらこうしていた、こう出来ていた』と言う自分の想像の……ある意味では極端に美化されたり誇張されたその幻影を、只管に追い続けていたのだろう。
『錆兎だったなら』と想い、そしてそれが成せない自分を責め、そんなにも素晴らしい錆兎さんが命を落としたのに自分がおめおめと生き延びている事を責め、絶対にその幻影の『錆兎』に追い付けないと理解していてもならばせめて『錆兎』なら出来ていた筈の事を僅かにでも果たさねばならないと己の心を追い詰めて。
……冨岡さんは、自分で作り上げた心の牢獄の中に自分を閉じ込め、そして自分自身が看守となり己を罰し続けていた。
……それは、余りにも不毛で、余りにも哀しい心の在り方だ。
悲鳴の上げ方すら忘れてしまったのではないかと思う程に、悲惨としか言い様がない。
そんな冨岡さんの言葉に当然黙っている事が出来ない者が居た。炭治郎だ。
冨岡さんの余りにも深い哀しみを感じ取った炭治郎は、我が事の様にその胸を痛め、僅かにその目に涙を浮かべている。
そして、自分の中から今この瞬間に冨岡さんに伝えるべき言葉を探す様に少し押し黙ってから。
「でも、俺を……俺と禰豆子を助けてくれたのは義勇さんです。
あの雪の日、俺たちを信じてくれたのも、鱗滝さんを紹介してくれたのも、そして俺たちの為にその命まで懸けてくれてたのも。
全部、義勇さんです……!」
「錆兎でも同じ事を──」
「いいえ!」
自分の事を頑なに認めようとはしない冨岡さんのその言葉を遮る様に、炭治郎は力強く否定する。
「義勇さんです、義勇さんだけだったんです。
確かに、可能性なら他にも沢山あったのかもしれない。
でも、あの日の俺たちが出会ったのは、他でもない、今目の前に居る義勇さんで。
そして俺たちを助けてくれたのも、義勇さんです。
……錆兎は、本当に凄い人で、俺に稽古を付けてくれた、助けてくれた。
……最終選別で、俺は自分の身を守る事に精一杯で、錆兎の様に他の人たちを助ける事なんて出来なかった……」
鱗滝さんと村田さんの手紙で錆兎さんの事を知らされた時、炭治郎はとても驚いた様な顔をしていた。
何故ならば、炭治郎は会った事があったのだ、他でも無い錆兎さんに。
もう既にこの世の存在では無い筈の彼らに、炭治郎は鱗滝さんの下での修行の最中に出会い助けられて……そして最終選別に向かう事が出来た。
炭治郎が出会ったのだと言うその錆兎さんが一体何なのかは分からない。
幽霊とでも言うべきものなのか、或いは鱗滝さんを悲しませてしまう事が強く心残りであったが故にある種その最後の未練がそこに焼き付いた感じの存在なのか。
何にせよ、炭治郎は錆兎さんの事を知っていた。
その強さもその最期も、それを知った上で。だからこそ、その思いを言葉にする。
「でも、じゃあ。それが出来なきゃダメなんですか?
そうじゃない、そうじゃない筈です。
だって、俺は錆兎じゃない。
そして、義勇さんも錆兎じゃない。
俺も義勇さんも、錆兎じゃない、錆兎にはなれない。
誰も、自分以外の誰かになる事は出来ないんです。
そして、錆兎も。俺になる事は出来ないし、義勇さんになる事も出来ない。
義勇さんが出来た事を、錆兎が全部出来ていたとは限らない。
そして、錆兎が水柱になっていたのだとしても、あの日の俺たちを助けてくれたのかは分からない。
俺たちが生きているのは、
だから……」
人は、どうしようも無い苦しみや哀しみ……理不尽の様なそれらに出会った時に、『もしも』を考えてしまう。
無数に選択肢があり、その一つ一つの先が異なる未来であるのなら、「あの時ああしていれば」だとか「もしもこうなら」と考えてしまうのは、仕方の無い事だ。
それに、それ自体は悪い事では無い。
想像すると言うそれは、大切な事だ。
……それでも人は、己が生きる今この瞬間以外の何処にも行く事は出来ない。
どんなに夢想しても、その「もしも」に焦がれても。それが現実になる事は無い。異なる可能性の先にあるものを本当の意味で知る事は、万象を平らかに見通す神でもない限りは誰にも出来ない。
炭治郎の、精一杯の言葉に冨岡さんの視線が揺れ動く。
それでも冨岡さんの心は、あと一歩の所で動かない。
「……俺は、ここに居てもいい人間じゃない」
自分は生きていて良い人間では無いのだ、と。
そう頑なに冨岡さんは言う。いや、もう何年も己を閉じ込めていた牢獄を、自分で抜け出す事が出来なくなっていたのか。
何であれ、冨岡さんはどうしても自分を認められないのだろう。
自分の命よりも大切な、何よりも生きていて欲しかった大切な人を、余りにも辛い形で喪ってしまったその喪失から、今も尚抜け出す事が出来ず。そして余りにも生々しいそれは、色褪せる事無くその心を苛んでいるから。
そのどうしようもなく後ろ向きなその心に、思わず目を伏せて、そして小さく溜息を吐く。
「『自分が代わりに死ねば良かった』、と。
冨岡さんはそう言いたいのですか?」
その目を逸らす事は許さないとばかりに、冨岡さんを真っ直ぐに見据えながら。
その心にあるその想いを、明確な言葉にして引き摺り出した。
◆◆◆◆◆
【鳴上悠】
幽霊を見た事は無いが、居るかもしれないとは思っている。
霊感の有る無しで言えば、ある。が、現時点でこの世界の死者と何の縁も無いのでやはり見たり感じたりする事は出来ない。
死者の方は悠の事を物凄く認識出来る。
【竈門炭治郎】
義勇さんの事を心から案じているしその力になりたい。
割と死者と交信している事が多い。原作でそこに詳しく触れた事は無いものの、実はかなりの霊感があるのかもしれない。
作中最強の鬼への才能といい、ちょっと特殊な才能が多いのか。
【冨岡義勇】
どうして二人が錆兎の事を知っているのかと大混乱。
悠と炭治郎によって、その心の扉が爆破解体されかける程の衝撃を受けている。
【村田さん】
今でも生きて鬼殺隊に残っている唯一の義勇さんの「同期」。
錆兎に救われた上に負傷した義勇さんの面倒を見ていた事もあって、その縁は結構強め。
相手はどんどん強くなって「柱」にまで上り詰めていったが、実は義勇さんの事をかなり気に掛け続けていた。
村田さんにとっても、錆兎やあの最終選別の出来事は鮮烈に印象に残っている。
悠とはそこそこの頻度で文通している為、炭治郎たち以外の隊士中ではとても仲が良い。
悠からの頼みも、義勇の過去を暴いてしまう事には少しだけ気掛かりではあったものの、義勇が今も苦しみ続けている事を知って少しでもその傷が癒える切っ掛けになればと思って、悠を信じて託す事になった。
【鱗滝左近次】
子供たちに見守られている事は知らないし分からない。悲しい。
義勇さんの過去を炭治郎に伝えるかどうかは真剣に迷ったが、自分の言葉でも晴らしきれない義勇さんの心の霧を晴らすきっかけになればと、義勇さん以来初めて生きて帰ってきた炭治郎の可能性を信じる。
ちなみに、悠の事は炭治郎が手紙で近況報告と共に物凄く話してくれるので、伊之助や善逸などの事と同様に知っている。
弟子である炭治郎にとても良くしてくれているので、悠への好感度はかなり高め。
【錆兎】
他の子供たちと共に狭霧山に居る。
義勇さんの事は心配しているが、しかし義勇さんに霊界通信能力が無いからなのか、一度も夢枕ですら会えていない模様。
まあ大体の人が死の淵を覗いた時に辛うじて死者と交信する事がある程度なので、割と普通に死者を見たり交信出来る炭治郎に霊感が有り過ぎるだけなのかもしれない……。