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伊黒さんとは、初日の衝撃的な発言の後、これと言って何か問題があった訳では無いのだけど。……しかし、どう考えても深くその心を縛り付けて今も苛み続けている過去の事にどう触れて良いものか分からなくて。
腫れ物扱いと言う訳では無いのだけどそこに触れる事は難しく、あの言葉の真意を聞く事は出来ないままであった。
下手に触れれば大きくその傷口を抉ってしまいかねないものに軽々しく触れる事は出来ない。
伊黒さんが語りたいと思っているのならそれに耳を傾ければ良いのだけれど……。そうではないのなら、まだ伊黒さんの事をあまり知らない自分がおいそれと触れて良いものでは無いのだろう。
……今生では『幸せ』になる資格など自分には無いと断言してしまう程に己の心を苛むそれを癒す術が何処かにあるのなら良いのだけれど……。
だが、考えても中々良い考えは思い浮かばなかった。
伊黒さんが幸せを忌み嫌っている訳では無いのだろうとは分かる。
そうなる「資格」が無いと思っているだけで、幸せを感じたくないと頑なになっている訳では無く、そして幸せ自体を拒絶している訳でも無い。
甘露寺さんに対しての反応を見ていてもそう思う。
ただ、その心の中に在る「何か」がそれを感じる事を咎めているのだろう。
ある意味では、『錆兎さん』に心を雁字搦めに囚われていた冨岡さんの時と似ているのかもしれないけれど……。しかしそれ以上に難しい部分もあるのだろう。
過去を変える事は誰にも出来ず、そして鬼殺隊に身を置く者の殆どが辛く重い過去を抱えてはいるのだけれど。
中でも生い立ちなどの部分は非常にデリケートな部分である上に、どれ程不条理で不合理な考えだと自覚していたとしても文字通りに一生を付いて回る事になるものだ。
伊黒さんが生まれたのは明治も半ばを過ぎた時分であるにも関わらず、「生贄」となるべく育てられたと言うその過去は、その事情をほぼ知らない自分からしても壮絶だとしか言えないものなのだろう事は容易に想像が付く。
どの様に「生贄」として育てられてきたのか、そしてどうやってそれを逃れこうして鬼殺隊に入って柱となったのか……。何も分からないけれど。
しかし、どんな生まれだろうと、どんな風に育ったのだろうと、そして其処から逃れる為にどんな事をしたのだろうと。
「生きたい」と願ったのだろうに、こうしてその過去に囚われ続けているその心の苦しみを思うと、どうにも遣る瀬無い気持ちになるのだ。
……自分は、どうしようも無く無力であった。
自身の無力感に打ちのめされつつも、だからと言ってそれだけに思考を囚われ足を止める様な事は出来なくて。
ならばせめて自分に出来る事をと思い、伊黒さんとの手合わせに専念した。
それと同時に、伊黒さんの事をもっとよく見ようと決意する。何か少しでも力になれる事があるのなら、そうしたかった。
そして直ぐに気付いたのだが、伊黒さんはかなり食が細い。
全く食べない訳では無いのだけれど……何と言うのか「食事」という行為自体を何処か億劫に感じているかの様だった。
その前にお世話になっていた甘露寺さんがかなりの健啖家であった事もあってか、そのギャップに物凄く心配になってしまった程だった。
まあ、甘露寺さんと比較すれば大半の人の食は細いと言う評価になるのだが……それにしても本当に食べない。
鬼殺隊の人たちは、個人差はあるがよく食べる人が多い。まあ身体を作るのに食事は大切であるし、過酷な戦いを日々続けているのだからそれも当然とは言えるのだけれど……。
しのぶさんはそこまで食べる方では無いが、伊黒さんはそのしのぶさんよりも更に食べないのだ。ちょっと、何処かで倒れてしまいやしないかと心配になる程である。
今は柱としての激務もちょっとはマシになっているけれど、忙殺されていた頃からこんなにも食べていなかったのなら、もしや何処かで何度か倒れていたのではと思ってしまう。……まあ、その限界は本人が上手く見極めていたのかもしれないけれど。
そして食の細さ以外に気付いたのが、伊黒さんの少し不器用な優しさだ。
何と言うのか……物言いが迂遠でネチネチとしているのでちょっと戸惑うが、しかし伊黒さんはかなり此方の事を気遣ってくれている。
気を遣ったり心配のあまりに、ネチネチとした言い方になっているのかもしれない。
言葉が絶望的に足りないとすら言われる冨岡さんとはまた別だが、その言葉の真意を理解するのが少し難しい点は少し伊黒さんと冨岡さんとは似ているのかもしれない。
また、気付いた事とは少し違うかもしれないが。伊黒さんは何時も連れている白蛇の鏑丸の事をとても大切にしている様だ。
鏑丸はとても賢く、伊黒さんの言葉や意図を察する事に長けている様だ。
鏑丸はペットと言うよりは、伊黒さんの親友であるのだろう。
伊黒さんが鏑丸を大切にしているのと同じ位に、鏑丸も伊黒さんの事を大切に思っているのが、傍から見ているだけでも伝わって来る。
滞在中に伊黒さんの心を苦しめているものをどうにかする事は結局出来ず仕舞いであったが。手合わせも十分に行い、伊黒さんもそろそろ柱稽古の準備をしなくてはならないと言う事で、蛇屋敷を発つ事になった。
伊黒さんと共に、滞在中に仲良くなれた鏑丸が少し名残惜しそうに見送ってくれたのが少し嬉しい。
が、そのまま真っ直ぐに実弥さんの下へと向かうのではなくて、一旦柱の人たちの下を訊ねて回るのを中断し、先に所用を済ませる事にする。
伊黒さんの所に滞在して三日が経った頃、お館様から紗代の事についての情報の回答の手紙が来たのだ。
紗代は今でも存命で、悲鳴嶼さんたちを襲った悲劇の後はそこから少し離れた場所に在る孤児院の様な場所に引き取られ、今では商家の下働きとして生活しているそうだ。
少し遠方なので日帰りで訪ねるのは無理だろうが、丁度区切りも良いので折角だからと紗代の下を訪ねる事にする。
少し私用でそちらに向かうのが遅れるだろう事を実弥さんに連絡してから、お館様に教えて貰ったその場所へと向かうのであった。
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急に自身を訊ねて来た見知らぬ相手だと警戒されたものの、悲鳴嶼さんの名前を出すと紗代は心底驚いた顔をして、……そしてあの時の事を話してくれた。
紗代にとっては十年も前の、しかも四つの時に遭遇した思い出したくもない出来事であっただろうに……。
紗代の口から語られた紗代から見たあの日の出来事は、余りにも「間が悪い」としか言えない様な……悪意的なまでに偶然とタイミングの悪さが積み重なったが故の出来事であった。
子供たちの中で唯一生き残ったのが、まだたった四歳であった紗代であった事も本当に悪い方向に働いてしまったのだろう。
そもそも適切に物事を順序だって伝える事も覚束ない幼子であったのだから、紗代の意図が伝わっていなかったのも無理はないのだけれど……。
それにしたって、本当に神か何かの悪意を感じる程に、遣る瀬無さだけが降り積もる様な顛末であったのだ。
……決して傷付ける意図など無かったのに、それによって心に決定的な傷を負い今も苦しみ続けている悲鳴嶼さんも、そして己の言葉によって大好きだった悲鳴嶼さんを殺してしまったのだと十年もの間己を苛み続けていた紗代も。
誰一人として救われないし報われない話である。
そして、だからこそ。「真実」を確かめようと思って本当に良かったと心から想う。
悲鳴嶼さんが今も生きている事を知って涙を零す程に喜び、そして直接会ってあの時の事を謝りたいと紗代は言った。
……その願いを叶えてやりたいのはやまやまなのだが、しかし鬼舞辻無惨との決戦を控えた今、鬼殺隊の……それも柱に関しての情報は平素よりも厳重に取り扱われ、市井の人々が柱に会おうと思って会えるものでは無いし、そこは自分の一存で決められる事では無い。
それに……折角鬼とは無縁の生活が出来ている紗代に血腥い世界を垣間見せる事を悲鳴嶼さんは望まないだろう。……会うのだとしても、それは全てが終わった後。「鬼の居ない明日」を勝ち取った後の方が良いのかもしれない。
今は直接会わせる事は出来ない事を伝えて、その代わりに手紙を届ける事を約束した。
紗代から預かった手紙を確りと仕舞い、紗代と別れて今度は悲鳴嶼さんの所へと向おうとした、丁度その矢先。
今は柱稽古でそれぞれの柱たちの下を回っている筈の獪岳からの手紙を鎹鴉が運んで来た。
丁度、甘露寺さんの柱稽古を終えたばかりであるらしい獪岳は、「話がしたいから会いたい」と伝えて来た。
……話とは一体何なのだろう。柱稽古が始まる直前から何やら悩んでいるらしいとの事だったが、それに関してなのだろうか……と思いながらも。
その話の内容が何であれ、話がしたいと言うそれを拒否する理由など無く、当然それを了承する旨を直ぐに返信した。
そして、獪岳に言われた通りの場所に急ぐ。
獪岳と待ち合わせしたその場所で待っていたのは獪岳一人だけで、善逸などの姿は無かった。
……善逸には聞かせられない話なのだろうか?
そうだとしても、何故自分に? と、疑問には思いつつも、一体何があったのかと獪岳に訊ねる。
獪岳の表情が、何処か思い詰めている様な……或いは何かに怯えている様な、そんなものであったから、何事か深刻な物事が起きたのだろうとは思うのだけれど……。
そうやって訊ねられた獪岳は、言い辛そうに何度か喉元まで出かかったそれを呑み込み、言葉にしようとしてはそれを見失い。
幾度か逡巡した後に、ゆっくりと話し始める。
「鳴上は……岩柱様に会った事はあるのか?」
「悲鳴嶼さんの事か? なら、何度も会った事があるけれど。
悲鳴嶼さんに何か用があるのか?」
柱稽古を続けていけばその内に会えるが、緊急の用件があるのなら……と。そう言おうとしたその言葉を遮る様に、此方の言葉に明らかに余裕を喪った様に獪岳が更に訊ねて来る。
「悲鳴嶼さんは、俺の事を鳴上に何か尋ねて来た事はあるのか?」
そう言われて思い出すのは、少し不思議なタイミングで呼び出されたあの時の事だ。……とは言え、あの時の会話に何か獪岳が焦る様なものは無かったと思うのだけれど……。
「柱稽古が始まって少し経った時に、一度。
でも、変な事は何も言われていないと思うけど……。
『俺の目から見て、獪岳は認めるに値する人間か』と訊かれただけだったし」
今思えば、悲鳴嶼さんは獪岳の事を随分と意識していたのかもしれない。
まあ、そこに関しては悲鳴嶼さんにとっては獪岳の事は今までその名を耳にした事が無い隊士でありその為人などがよく分からなかったからなのだろうと思っていたのだけれど。
しかし、獪岳のこの反応を見るに、獪岳と悲鳴嶼さんとの間には何かがあったのだろう。……それも、ただならぬ「何か」が。
物凄く嫌な予感がして、紗代から預かった手紙の入った辺りを軽く押さえてしまう。
……悲鳴嶼さんの凄惨な過去の話の中で、寺が襲撃されたその時に生き残る事が出来たのは悲鳴嶼さんと紗代だけであるが。
しかし、もう一人生きている可能性がある者が居る。
それは、藤の香を消して鬼を寺に招き入れたとされる子供だ。
そんな最早悪意に満ちているかの様な「偶然」が、何の作為も無く起こり得るのかと本気で思ってしまう程に、もしそうであるのなら余りにも「出来過ぎている」と言いたくなる程の「偶然」だった。
「……鳴上。こんな事をお前に言うのは間違っているのかもしれねぇ。
だけど、……先生や善逸には言えない事なんだ。
……鳴上には、軽蔑されるかもしれない。
俺は、自分のやった事に向き合わなきゃなんねぇ。
……でも、恐いんだ。一人で向き合うのが……。
だから、聞いて欲しい」
震える声でそう前置きをした獪岳に頷くと、獪岳は死刑宣告を待つ囚人が告解しているかの様な表情で、自分の過去を語り始めた。
……半ば予想してしまっていた通り、獪岳はかつて悲鳴嶼さんと共に暮らしていた子供たちの内の一人で……、そして藤の香を消して鬼が寺を襲撃する最後の引鉄を引いた子供であった。
それは、動かし様の無い……もう何をしても変える事の出来ない「事実」だ。
しかし、悲鳴嶼さんから語られたそれと、獪岳が語ったそれはほぼ同じではあったが重ならない部分はあった。
……悲鳴嶼さんが鬼から聞いたと言う話では、自分が助かる為に獪岳が積極的に悲鳴嶼さんたちの命を鬼に売り渡したかの様に語っていたのだが。
結果としては同じであっても、寺にいた悲鳴嶼さんたちの命を交換条件として最初に持ち出したのは獪岳ではなくて鬼の方であった。
……その状況でそれに頷いたら何が起きるのかは獪岳だって分かっていただろう。
それでも、獪岳は死にたくなかった。……死にたくなかったのだ。
『生きてさえいれば』と言う……悲鳴嶼さんに出逢うまで独りで生きていくしか無かった獪岳を支えてきたその信念に逆らう事は出来なかった。
そして、獪岳の選択のその結果は惨憺たるものになった。
……恐らく、鬼はその夜よりもずっと前から悲鳴嶼さんたちを狙っていたのだろう。
そんな中、偶然その夜に寺の外に居たのが獪岳であったと言うだけで。……獪岳以外の子供が同じ状況に置かれる事だってあったのだろう。
それでも、その夜「選択」を突き付けられたのは獪岳だった。
そうなってしまったのも、子供の試し行動の様な……そんなささやかなものだけれどしかし「やってはいけない事」を明確に犯してしまった獪岳の自業自得ではあったのだろう。
……獪岳がやった事は、どんな事情があってもそう簡単に許していい事では無い。
選択の責任は、行動の責任は……本人が背負わなければならない事だからだ。
それでも、自分は獪岳を責める事は出来なかった。
「……前にも言ったけれど、俺は『生きたい』と願って足掻いた事自体を責めたり咎めたりはしない。軽蔑もしない。
……そもそもこの件に関して、俺が獪岳や悲鳴嶼さんにどうこう言える様な資格は無いし、こうして話を聞く事以外に出来る事は無い」
寺の金を盗んだ事だって……決して良い事では無いし咎められるべき事ではある。
それでも、子供なんてそんなものなのだ。
そうはしない子供もいるが、その行動に倫理観や道徳観が備わっていたり一貫性がある訳でも無い。
衝動的に行動してしまう事なんて、大人になったってあるのだ。況してや子供の行いなど、それ以上に衝動的で先見性が無い事は多い。
孤児として生きてきた獪岳にとっては、『愛情』と言うそれはどうしても実感する事が難しくて……だからこそ「試して」みたかったのだろう。
「試した」上で実感しないと、決して不遇だった訳では無いのだとしても、そこを本当の「居場所」だとは思えなかったのかもしれない。
今となっては「そうだったのかもしれない」と類推するしかない事なのだけれど……。
心を満たす為に必要な『愛情』やらそれを受け取る為の「居場所」やらは、受け取るのも感じるのも与えるのも……そのどれもがとても難しいものだ。
受け取り方も千差万別で、与え方も千差万別で……。
絶対の正解も無く、明確な形は無いが故に、一度疑ってしまえばキリが無い。
だからこそ、「試して」しまうのだ。
ちょっと我儘を言ってみたり、ささやかな問題行動を起こして反応を確かめてみたり。
獪岳がやったのは、要はそう言う事だったのだろう。
しかし、「試したかった」悲鳴嶼さんよりも先に子供たちに見付かってしまい、その結果一晩寺を追い出された事もまた当然の帰結ではある。
悪い事をしたら叱られるものなのだ。
そう、本来ならそれだけで終わっていた話なのだろう。
翌日悲鳴嶼さんが獪岳の不在に気付いて獪岳の姿を探して見付けたら、ささやかな「悪い」行いを叱ったりして終わっていた事だったのだろう。或いは、夜に獪岳の不在に気付いて探しに出ていたら、鬼には遭遇してしまった可能性はあるが悲鳴嶼さんは獪岳を守ろうと戦っていたのかもしれない。
無数の選択肢があって、沢山の可能性があって、多くの「もしも」があった。
でも、そうはならなかった。
ただただ、悪意に満ちていると言っても良い程に、運が無かった、タイミングが悪かった、全てが「最悪」へと噛み合ってしまった。
それで、全てが取り返しの付かない事になってしまったのだ。
その夜の獪岳は、何の力も無い……物語の主人公の様に窮地を華麗に打開出来る程に特別賢い訳でも無く、或いは特別運が良い訳では無く、或いは何か秘められた力に目覚めるなどと言ったご都合主義の何かが起こる訳でも無い。本当にただの子供だった。
菜々子より少し歳を重ねただけの、大人たちに庇護されるべき……そうしてやる事が当然である様な、そんな子供だった。
寺での生活が決して豊かではなかったのならその肉付きは決して良い訳では無かっただろうし、そもそも多少身体能力に恵まれている程度では鬼相手にどうする事も出来ない。
ただ殺されるか、或いは鬼の言う事に従う事しか出来なかった。
『生きたい』と願った子供のその想いを、否定したり糾弾するなんて、出来る者の方が少ない。
獪岳の選択の結果命を落とした子供たちや、悲鳴嶼さんと紗代くらいなものである。
もし獪岳の話を聞いて当事者でもないクセに一方的に詰る者が居るなら、その人は余りにも想像力が乏しいか、或いは余りにも恵まれ過ぎてそれ以外を考えた事が無い様な人なのだろう。少なくとも自分はそんな厚顔無恥な存在にはなれない。
獪岳は、己の選択とその結果を知られる事を恐れ、それによって様々なものを喪う事を恐れているけれど。
恐らくは、その過去を知ったとしても桑島さんや善逸が獪岳を見捨てる様な事は無いと思う。……少なくとも、少し話をして感じた桑島さんの人柄からはそうだろうと推測出来る。
善逸に関しては、その程度の事で見捨てるならそもそも黒死牟から決死の覚悟で獪岳を救い出そうなんてしなかっただろうし。
それでも、二人には打ち明ける事は出来ないと言う獪岳の気持ちも理解出来るので何も言えなかった。
……更に救いようのない話にはなるが、もしも獪岳が鬼の言う事に従わずに殺されたからと言ってそれで悲鳴嶼さんたちが助かっていたのかと言うと、鬼に目を付けられた時点で恐らくは無理だった可能性の方が高い。
柱の巡回などで偶然その鬼が発見されて事を起こす前に斬られる位しか、悲鳴嶼さんたちが助かる可能性は無かっただろう。
……そしてそんな奇跡の様な出来事が起こる可能性は余りにも低い。
悲鳴嶼さんや獪岳を襲ったそれは、鬼が存在する以上は起こってしまう歴史の中の何処かに無数に転がっている悲劇の一つでしかないと言えばそうなのかもしれないが。
しかし、それで割り切って良い事でも無いのだ。
鬼さえ居なければきっと何事も無く訪れていたのだろう「明日」が鬼の所為で永遠に訪れる事は無くなったが故に、余りにも多くの人の人生が捻じ曲がってしまったのだから。
そして、自分にとって悲鳴嶼さんの事も獪岳の事も、もう「他人事」では無い。
悲鳴嶼さんたちは純然たる鬼の被害者であるが、獪岳もまた鬼の被害者であるのだろう。
悲鳴嶼さんが自分から全てを奪った鬼に対して、きっと本来なら優しく穏やかなだけだった筈のその心に憎悪と怒りの炎を燃やし続けて鬼を根絶やしにしようとしているのと同じ様に。
獪岳の心にもまた、深い悔悟と罪悪感と自責の念と共に、鬼に対する憎しみや怒りがあるのだろう。
だからこそ、『生きたい』と何よりも望む獪岳が、鬼殺隊なんて極めて死亡率の高い組織に所属する事を選んだのだと思う。
鬼殺隊に所属する事に拘っていたのも、その気持ちがとても大きいからなのだろう。
今漸く、どうして黒死牟から助け出した後の獪岳が、除隊処分になる事に激しく抵抗していたのか理解出来た。
獪岳は、悲鳴嶼さんが子供たちを殺戮した罪に問われて投獄され処刑されかけていた事を知らなかった。
そもそも柱稽古の報せを受け取ってそこで漸く当代の岩柱の名を知った獪岳にとって、悲鳴嶼さんはあの日の自分の選択で殺してしまった人たちの内の一人であったのだ。
只管に罪悪感を感じる事はあっても、まさかある意味で鬼に殺されるよりも惨い目に遭っていただなんて、僅かに考える事すら無かっただろう。
……更に余りにも救いようが無い事に、悲鳴嶼さんがその様な目に遭う原因になった、翌朝に山中の寺に駆け付けてきた麓の町の人たちは、獪岳が呼んだのだ。
勿論、獪岳にはそんな意図は欠片も無く、間に合わないのは分かっていてもせめて助けを呼びたかった一心ではあったのだけれど。
獪岳がせめてもの償いとばかりに子供の足で必死に呼んだその「助け」が、よりにもよって悲鳴嶼さんをより深い絶望に突き落としただなんて。
余りにもタチの悪い冗談か何かの様に、何から何まで「間が悪い」話である。
鬼に襲われた後の悲鳴嶼さんがどうなったのかを獪岳に伝えると、獪岳はもう完全に血の気が引いたと言っても良い様な顔をした。
今にも死にそうな顔をして、過去の自分の選択の全てが尽く悲鳴嶼さんを苦しめ心を引き潰す結果になったと言う、残酷過ぎる事実に押し潰されそうになっていた。
実際、獪岳はそうとは語らなかったけれど。「家族」を知らなかった獪岳にとって寺の子供たちや悲鳴嶼さんは「家族」の様なもので、そして悲鳴嶼さんは「親」の様な存在だったのだろう。
だからこそ、悲鳴嶼さんからの『愛情』を求めたし、その『愛情』を確かめたかったのだ。……その全てが悲劇に結び付いてしまったのだけれど。
悲鳴嶼さんがそうである様に、紗代がそうであった様に。
獪岳もまた、その夜の惨劇に心を囚われ続けている。
善逸への様々な感情や、満たされる事の無い心の箱の穴や、生きる事に頑なにしがみつこうとしたその全てが、きっとその夜の惨劇に繋がっているのだろう。
自分を責め苛み続けていては、「幸せ」を感じる余裕など失われていくのも当然の話である。
罪悪感から目を反らす為に、更に手の施しようの無い程に堕ちていく事は無かっただけ、マシと言えるのかもしれない。
その点に関しては、獪岳の心はやはり弱過ぎる訳ではなかったのだろう。
余りにも強い罪悪感と後悔に苛まれている獪岳だが。
……それでも、悲鳴嶼さん以外にも紗代だけは生き残り今も元気にしている事を伝えると、ほんの僅かに救われた様な顔をする。
預かった紗代からの手紙が、益々重みを増した様にすら感じた。
過去を変える事は誰にも出来ない。
この世界は物語の中の世界じゃない。
タイムマシンなんて無いし、過去の自分の選択を変える方法も無い。
時を戻る事は出来ず、選択を無かった事にも出来ない。
それでも、「過去」は変えられなくても、「今から」を変える事は出来るのだし、それは生きている者だけの特権だ。
喪われたものを取り戻す事は叶わないのだとしても、これから新たに喪われる事を防ぐ事なら出来るかもしれない。
だからこそ。
「獪岳はどうしたいんだ?」
こうして己の過去を懺悔して、そうやって改めて己の罪に向き合うのだとして。
なら、その先をどうするのかと言う話になる。
鬼を狩り続ける事を以て贖罪とするのも、それはそれで一つの選択ではあるのだろうが。
しかしそれはそれで、鬼舞辻無惨との決戦を越えた先……『鬼の居ない明日』が訪れた時に、獪岳はどうしていくつもりなのかと言う話にもなる。
そしてどちらにせよ、柱稽古を続けるなら何れ悲鳴嶼さんと対面する事になるのだ。
獪岳はその言葉に暫し沈黙して。
そして、様々な感情に震える声で答えた。
「俺は。悲鳴嶼さん──先生に、謝りたい。
赦されねぇってのは分かってる、そんな虫のいい話は無い。
どうかしたら殺されるかもしれない。それ位の事を仕出かしたってのは分かってる。
この事が知れ渡ったら、俺の居場所は無くなるのかもしれない。
昨日まで笑いあってた奴等から軽蔑するような視線を向けられるのかもしれねぇ。
……正直、それは怖い。
でも、……このまま逃げ続けていたら、俺はもっと惨めになる。
喪いたくないと思ったものからすら逃げ出す羽目になる気がする」
今の獪岳にとって、喪いたくないもの。
それはきっと、桑島さんや善逸との繋がり……絆なのだろう。
やっとその心の中に受け入れる事が出来た大切なそれを思うからこそ、獪岳は必死に向き合おうとしていた。
そして、逡巡しながらも獪岳は言う。
「だけど、先生に会おうって、会わなきゃと思うのに、身体が震えて動けなくなるんだ。
赦されねぇのが分かってるから、恐いんだ。
……こんなの、鳴上に頼むべき事じゃねぇのは分かってるんだが」
チラリと此方を見た獪岳に、言ってくれと頷く。
今更そこで放り出す位なら、そもそも話を聞こうなんて思わなかっただろう。
余程の無茶苦茶な事を言い出したりしない限りは、それを叶えるつもりである。
「鳴上、……俺と一緒に、先生に会って欲しい」
そうハッキリと言葉にした獪岳のその目は、不安に揺れてはいたが、それでも真っ直ぐなものであった。
◆◆◆◆◆
【鳴上悠】
獪岳と悲鳴嶼さんの過去の経緯を知り、思わず頭を抱えた。
あまりにも「間が悪く」、そして鬼以外に決定的な「悪」は居ないのにどうする事も出来ない程の悲惨な結果に終わってしまった事であるが故に、遣る瀬無さだけが募る。
この世界に神様が居るなら悪質過ぎるのでは……と思う程に悪意的な偶然の重なりを感じている。
まあ、偶然と言うよりはある種必然的な選択の積み重ねではあるのだが……。
「そんなつもりでは無かった」行動や選択の結果が取り返しの付かない事になってしまって獪岳の過去を聞いて、足立さんや生田目さんの事がふと頭を過った。
【獪岳】
悲鳴嶼さんの事を知ってからずっと罪悪感と自責の念と、それ以上にその過去を知られたら何もかも失ってしまうのではないかという恐怖に苛まれていた。
向き合わないといけないのは分かっていたけれど、先延ばしにしてしまっていた模様。
【悲鳴嶼行冥】
悠が心から獪岳の事を信頼している事もあり、鬼殺隊隊士の「獪岳」が本当に自分を含めた子供たちを鬼に売ったあの獪岳なのだろうか……と疑問を抱いている。
【伊黒小芭内】
傷痕を見てもその過去を無理に暴こうとはしない事や、鏑丸の事を畜生としてではなく伊黒の友として尊重する態度を取り続ける事などに関して、悠自身への好感度は高い。
自分ではどうする事も出来ない時、どうすれば良いと思いますか?
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神様に祈る
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仲間に助けを求める
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諦める