◆◆◆◆◆
悲鳴嶼さんと話をしたがっている者を連れて訪問する旨を予め手紙で伝え、獪岳と共に岩屋敷がある山奥へと向かう。
比較的短期間の内に岩屋敷に何度も訪れている事もあって、鎹鴉たちの道案内は流石に今回は不要であった。……まあ、それでも鎹鴉たちがちょっと心配そうに遠目から付いて来ているのだけれども。
横を歩く獪岳の足取りは重い。その表情は、緊張と不安と拭いきれない恐怖からあまり良い顔色とは言えないものである。
……今から話し合う相手とその内容を考えればそれも致し方無い事ではあるけれど。
それでも、決して足を止める事も無く、そして逃げ出す事も無く。獪岳は悲鳴嶼さんに会う為に……己の過去に正しく向き合う為に、前に進んでいる。
正直な所、獪岳の事に関して悲鳴嶼さんがどう反応するのかは想像するのも難しい。
悲鳴嶼さんは間違いなくとても優しい人ではあるけれど……しかしだからと言って獪岳の行いを赦せるのかと言うとそれは違うだろう。
その過去に直接は関係の無い、この件に関しては完全に外野の立場であるからこそ、その出来事を「ただ間が悪かっただけ」なのだと言うしかない事なのだとは感じても。しかし当事者たちにとってはそんな言葉で割り切れるものでは無いだろう。
余りにも多くのものを一度に喪い、その心に癒えぬ傷を負って今も苦しんでいる悲鳴嶼さんも。
そして、最後の引鉄を引いてしまったのと同時に、鬼の被害者でもある獪岳も。
だからこそ、二人の話し合いの結末がどうなるのかは自分には分からない。
最悪の結果になりそうになったら流石に止めに入るが……、しかしそれ以外に関しては二人が決めなくてはならない事ではあるだろう。
「そんなつもりでは無かった」のだとしても、選択や行動の責任は負わねばならない。
その時の獪岳が罪を問う事の出来ない様な年齢の子供であったのだとしても、それが取り返しの付かない結果に結び付いてしまった事自体は誰にも取り消せないのだ。……それは獪岳自身が誰よりも分かっている事なのだろうけれど。
己の「罪」に向き合う事はとても難しい。苦しいし、終わりが見えない。
悔いても悔いても、その過去を無かった事には出来ず。贖う事ですら本当に可能なのかも分からない。
特に、結果的に人の命を奪ってしまったのなら、その命の重さも背負う事になる。……直接的に子供たちの命を奪ったのは鬼ではあるが、その「言い訳」を獪岳は自分自身に赦さないだろう。
この世に人の罪を正しく裁く事の出来る無謬の『神様』など存在しない。その罪科に正しい罰を定める事など、当事者である無しに拘わらず、きっとこの世に生きる誰にも出来ない事なのだと思う。
それでも、人の世で起きた罪は人の世の理と法に従って裁かねばならない。だからこそ、とても難しい話だった。
加害者と断じてしまうには、その時の獪岳が置かれた状況は余りにも酷なもので。そして、ただの子供でしか無かった者が圧倒的な暴威を前にして「生きたい」と願ったそれを、誰が「間違い」であるなどと糾弾出来るのだろう。
……それでも、悲鳴嶼さんが受けた心の傷と絶望もまた、「仕方が無かった」と割り切れと迫れるものでも無い。
どんな事情があったとしても、獪岳の選択と行動が悲鳴嶼さんから文字通り全てを奪った事も、覆しようの無い事実であるのだから。
自分にとって、悲鳴嶼さんも獪岳も、どちらも大切な相手だ。
幸せになって欲しいし、その心に抱えたどうにもならない苦しみが少しでも和らぐのなら、自分に出来る範囲で何だってしてやりたい。
この話し合いの結末がどうなるのかは分からないが、せめて何か良い方向に変わる事が出来れば……と願うしかない。
……このまま何も無かったかの様に現状を維持する方法だってあっただろうけれど、それでも己の過去から逃げずに向き合う事を決めた獪岳の勇気が、今度こそ正しく報われて欲しいと思う。
だからこそ、自分は決して感情的にならずに二人を見極めようと心に決めていた。
山中を歩く事暫し、漸く岩屋敷に到着する。
猫たちが出迎えてくれるのと同時に、此方の到着に気付いた悲鳴嶼さんが玄関にやって来る気配も感じた。
獪岳もそれを感じ取ったのか、怯えた様に肩を震わせてその目をギュッと瞑る。
上弦の鬼と対峙する時のそれとはまた別の恐怖に、その心は震えている様であった。
そんな獪岳をほんの少しだけ勇気付ける様に、その背中に軽く触れる。
「大丈夫だ、自分は絶対に獪岳の傍に居る」と、そんな想いを込めたそれを感じ取ってくれたのか。獪岳の震えは少し収まった。
「私と話をしたい者が居ると言う事だが……」
予め送った手紙には詳しくは書いていなかったからなのか。
「何かあったのか」と、恐らくはそう続けようとしたのだろうけれど。
しかし、玄関先にやって来た悲鳴嶼さんは、その言葉の先を続ける事は無く。
その代わりに、その横に居た獪岳を見詰めているかの様にそこに意識を向けていた。
ゴクリと、横に立つ獪岳が緊張から唾を飲み込んだ気配を感じる。
そして、様々な感情に震える声で。
「……お久し振りです、先生」
そう、挨拶をする。
そこにある感情は、恐怖や後悔や自責の念だけではなくて。
悲鳴嶼さんが確かに生きていた事を実感したが故の、隠し切れない喜びや安堵にも似た感情も滲んでいた。
とは言え、何せ悲鳴嶼さんが知っている獪岳は十年前のまだ十にも満たない幼い子供で。名乗りもしていない現時点で目の前に居るその者が獪岳であると気付ける可能性はあまり高くは無いと思っていたのだけれど。
「お前は……まさか……獪岳、なのか……?」
どんな感情を表していいのか分からないとでも言いたげに、感情自体が何処かで迷子になってしまったかの様な声音で、悲鳴嶼さんは尋ねる。
その言葉に、獪岳の視線が揺れた。
僅かな逡巡はあったが、軽く目を瞑った獪岳は、「はい」と小さく頷きながら返事をする。
僅かに震える様なその吐息には、まさに万感の思いが込められていた。
自分だと気付いて貰えた事への喜び、だからこそより深く強く己の心を苛む悲鳴嶼さんへの罪悪感と後ろめたさ……。そんな感情によって複雑に心を揺らしている獪岳は、悲鳴嶼さんからの罵声や断罪を待つかの様に身構えても居た。
しかし、悲鳴嶼さんは怒りや憎しみなどの感情よりも、「戸惑い」の感情の方がより強い様で。二人して玄関先で無言で立ち尽くす状態になっていた。
衝撃が強過ぎて、思わず途方に暮れてしまっているのだろう。
「えっと、先にお伝えしていなかった事は謝ります。
ただ、どうしても悲鳴嶼さんには獪岳の話を聞いてやって欲しくて……。
そして、悲鳴嶼さん宛てに手紙も預かっています。
その事に関してもお話したいので、屋敷に上がらせて頂いても大丈夫でしょうか?」
このままでは日が暮れるまで二人して玄関先で固まってしまいかねない気配を感じて、差し出がましくもそう声を掛ける。
その言葉で漸く意識が現実に戻って来たのか、或いは此方の存在を思い出したのか、悲鳴嶼さんはギクシャクとした動きで「ああ……そう、だな……」と頷く。
そして、無言で「付いて来い」とばかりに踵を返して歩き出した。
その背中の後を追う事に、獪岳は何処か躊躇っている様であったが。
「大丈夫だ」と、囁きながらその背に再び軽く触れると。羽根で押した程度のその力に押し出されたかの様に、少しよろける様にして一歩踏み出してそのままその後を追う。
廊下を歩いている間、酷く重たい沈黙がその場を支配していた。
ただならぬ気配を察知した猫たちが遠目から此方を窺っている様子が見えた程だ。
そして、屋敷の一室に通されて。屋敷の世話をしている隠の人たちが気を利かせてお茶とささやかなお茶請けを用意してくれて。悲鳴嶼さんはそのお茶を僅かに飲む。
それによって思考が少しは落ち着いたのか、一つ大きな溜息を吐いて。そして、固い声音で尋ねた。
「それで……今更お前と私で一体何を話す事がある?」
それは、拒絶の意を多分に含んだ言葉と声音であった。
酷く冷たく聞こえるその声に、獪岳はその身を震わせたが。しかし、膝上で固くその手を握り込んで、逃げ出したいと言う感情を押さえ込んで、そして躊躇いながらも悲鳴嶼さんへと真っ直ぐに視線を向ける。
「……俺が先生に……皆にしてしまった事は、絶対に赦されないとは分かっています。
何年何十年経とうと、例えこの世の鬼全てを滅ぼしたとしても、俺がやった事が『無かった事』になる日は絶対に訪れない。
だから、赦されたいから此処に来た訳じゃない。
ただ、もう……『逃げたくない』から。だから、向き合う為に、此処に来ました」
「それで、私がお前の話を聞かねばならない理由が何処にある?
十年前、自分が何をしたのか本当に分かっているのか?
お前は、自分の命惜しさに自分以外の多くの命を捧げた。
それ以上の何がある」
怒気すら滲ませながら動かしようの無い「事実」を言葉にされて、獪岳は微かに呻く。悲鳴嶼さんの言葉には、かなり強い拒絶の感情が含まれていた。
今もそこに囚われ続けているとは言え、それでも悲鳴嶼さんにとって「あの日」の事はもう「終わってしまった事」なのだ。……「終わってしまった事」だからこそ、もうどうする事も出来ない苦しみに心を苛まれ続けている訳なのだが。
今も生々しく痛むその傷口を態々抉られて喜ぶ者など居ないし、それを歓迎する者も居ない。
況してや、悲鳴嶼さんから見れば獪岳は純然たる加害者……それも「家族」同然であった者達を平然と鬼に売り飛ばした畜生同然の行いを犯した者だ。
それで話を聞けと言う方が無理である。叩き出されていないだけ温情とすら言えるのかもしれない。
……だけれど、恐らくはきっと。この件に関しては悲鳴嶼さんは獪岳の口から直接「あの日」の話を聞くべきである。
そうする方が、少しでも良い方向に変わっていける可能性があると思いたいだけなのかもしれないが。
どちらにせよ今のままでは何も変えられないし、ずっと苦しいままだ。
これ以上悪くなる事は無いのだとしても、裏を返せばこれ以上良くなる事も無い。死ぬまで、ずっとこの苦しみを抱え続ける事になる。
本当は誰よりも優しくて穏やかで繊細なその心を、永遠に苦しめる事になる。
……自分は、それを「嫌だ」と思った。
それは、とても我儘で独善的で身勝手な押し付けなのだろうけれど。
それでも、もうここまで関わってしまった、知ってしまったのだ。
当事者では無いのだとしても、目を反らして知らなかったフリは出来ない。
「悲鳴嶼さん、お願いです。どうか獪岳の話を聞いてやって下さい。
俺の頼みを聞く義理は無いのは分かっていますが……どうか、お願いします」
誠心誠意頭を下げて、それを願う。
すると、悲鳴嶼さんは暫しの沈黙の後に、今までのものよりも更に深く大きな溜息を一つ吐いて。
「……君がそこまで言うのならば、仕方が無い」
と、そう何処か観念した様に、悲鳴嶼さんは獪岳の方へと真っ直ぐに意識を向けるのであった。
◆◆◆◆◆
己の前に座った青年が深く頭を下げた気配に、思わず言葉を喪ってしまった。
彼の横に座る獪岳が驚いた様に息を呑んだ気配も伝わって来る。
己の眼は光を映さないが……いやだからこそ、それ以外の感覚で世界の輪郭を感じているからこそ。
彼……悠が、何処までも誠実に……そして獪岳だけでなく私の事も心から想って己の頭を下げている事が、その僅かな息遣いや些細な声音の変化で分かってしまう。
だからこそ、「何故」と。そう思うのだ。
悠にとって獪岳は仲間であるのだろう。だからこそ、悠が獪岳を慮るのは分かる。
だが、獪岳の話を聞いて貰おうとする言葉の中に、どうして私に対しての深い優しさを感じるのか。……全く訳が分からない。
……獪岳がどの様な行いをしたのかを身を以て知っている私としては信じ難い事ではあるが、悠が心から獪岳の事を信頼し思い遣っている事は、前回悠を呼んで獪岳の事について探りを入れた際にその言葉以上に伝わっていた。
しのぶなどは悠が余りに底無しのお人好しである為に、悪い人に騙されやしないかと心配しているが。しかし、悠は間違いなくお人好しではあっても、誰彼構わずに信頼する訳では無い。
寧ろ、「信頼する事」は悠にとっては普通よりも重い意味を持ってすらいる。
「良くないもの」や「悪意」を見極める目は確かであるだろう。……まあ、騙そうとする相手が皆悪意に満ちている訳では無いので、絶対に騙されない訳では無いだろうが。
だからこそ、悠がそこまで信頼を寄せる獪岳とは、果たして自分の知るあの『獪岳』と同じ人間なのだろうかと思っていた。獪岳と言う名は珍しいが、偶然同じ名であっただけの可能性もあったのだろうと、そう考えた事もあった。
鬼に子供たちの命を売り渡してまで生き延びようとしたあの獪岳が果たして鬼殺隊になど入る可能性があるのかを考えたら、寧ろそちらの可能性の方が高かった。
……上弦の肆を討伐した隊士たちの名前の中に、もう二度と聞く事は無いだろうと思っていたその名を聞いた時。冗談では無く時が凍り付いたかの様にすら感じた。
まさかあの獪岳なのかと、岩柱の権限でその経歴を調べてみても、育手の下で修行を始めるまでの過去の一切が不明であった。
孤児であったとされているが……。
獪岳の過去の行いを考えると、最悪の場合今度は鬼に対して鬼殺隊の者たちの命を売りかねない。
鬼舞辻無惨との決戦が控えている今、それが鬼殺隊にとって致命的な結果になる可能性だってある。
故にこそ、鬼殺隊の隊士であり上弦の肆を他の隊士たちと協力して討ち取ったこの獪岳が、かつてあの寺で共に過ごしていたあの獪岳なのかどうなのか確かめなくてはならないと思い、同じ時期に里に滞在していた悠に尋ねてみたのだ。
そして、益々分からなくなった。
しかし悠と共に件の『獪岳』が言葉を発した瞬間。
その無意識の息遣いの間に、微かな声の震えに、「先生」と呼んだ時の声に、強烈な既視感を覚えて。
意識がまるで、時を大きく遡り「あの日」よりも前に戻った様にすら感じてしまった。
十の年月を重ね、その背も体付きも声の高さも……幼い子供であった頃の名残はもう何処にも無くなってはいたけれど。
それでも、目の前に居るのはあの獪岳であるのだと確信した。
そして……。
まるで悔悟の念に苛まれ、何処か怯えてもいる声音であったが。獪岳のその声には、抑え切れない安堵や微かな喜びの様な感情も感じる。
だからこそ、どう反応して良いのかが分からなくなった。
十年前の「あの日」から、私にとって獪岳は生き残る為にそれ以外の者全ての命を捧げた、子供の邪悪なまでの残酷さと身勝手さの象徴の様な存在であった。
……『死にたくない』と想い、命長らえる為に何とかしようと足掻いた事自体は決して責め切れるものでは無い事は理屈の上では分かっている。だが、感情はそう割り切れるものでは無い。
ただの幼子が鬼に対峙したのなら、生き残る事など先ず不可能で、何かもっと餌を与えねばならなかったのだろう。窮地に陥って咄嗟に選んだ事であり、その結果を深くは考えていなかった可能性だってあるのだろう。子供は後先考えないその場凌ぎの行動をよく取るものだ。
だが、窮地に追い込まれ自ら選んだものがそれであると言うのならば、それがその者の本性なのだ。
それは大人でも子供でも変わりはない。
だからこそ、獪岳は信用するにも値しない人物だと言わざるを得ないし、同時にその言葉を何処まで信用出来るのかも甚だ疑問である。
……故に、悠が心から『獪岳』を信頼しているのには本当に驚いたのだが。
十年前の「あの日」から心の中に刻み込まれた、残酷と身勝手さの象徴の様な獪岳と。悠から聞いた『獪岳』の姿や、そしてこうして十年の時を経て再会した獪岳の態度がどうにもズレていて。
確認する様に尋ねた私の言葉に小さく頷いて返した獪岳のその気配には、十年前の幼子であったその時の……慎ましくも温かな日々を過ごしていたその時のそれの名残が僅かに残されていた。
お互いに言葉も無く戸惑いと共に立ち尽くしてしまっていると、それを見かねたのか悠に促され。
戸惑いはまだ消えてはいなかったが、二人を屋敷に通した。
背後で、躊躇う様に立ち竦んでいた獪岳のその背を、悠が優しく勇気付ける様にそっと押した気配がした。
部屋に通して腰を落ち着けた事で、戸惑い混乱していた思考も多少は整理されて。だからこそ、獪岳が何故ここにやって来たのかと言う事がより思考を支配する。
獪岳が話すとしても、それはやはり「あの日」の事だろう。
だが、今更それを話したところで一体何になると言うのか。
獪岳の視点からどんな事情を聞かされようとも、獪岳の行いは変わらずその結果も変わらない。
喪われた命が戻る事は無く、守ろうとした者にすら怯えられ拒絶された事も、無実を誰にも信じて貰えず投獄され処刑されかかった事も、何一つとして覆る事も無かった事にもならない。
全ては、とうの昔に終わってしまった事なのだ。
それを今更蒸し返して一体何になると言うのか。
不愉快な言い訳など、聞いていて気分が悪くなるだけで。
だからこそ、獪岳の話など聞く気は無いのだと、そう言葉と態度で示したその時。
何故か、悠が頭を下げたのだ。
悠にとって本来この件は関わりの無い話であり、多少は事情を知ってはいてもそれだけで。
そう長い付き合いでは無くても、直接言葉を交わし、悠が周囲にどう接するのかを注意深く観察していれば、悠は決して他人の事情に無遠慮に踏み込んだりはしない人間だと分かる。
したり顔で押し付けてくる事はなく、他人の感情や事情などにかなり気を配って行動する者だろう。
善良ではあっても、愚かな弱者ではなく。一方的な「正しさ」で相手を殴ろうとはしない。そんな、正しく「善き人」である。
だからこそ、全く以て悠の意図を理解出来ない。
……だが、悠にとってはそうやって頭を下げる価値が獪岳にはあるのだろう。
だからこそ、悠のその想いに免じて、この場は獪岳の言葉に耳を傾ける事に決めた。
話を聞こうという態度を取った私に対して、獪岳は膝上の手を更に強く握り込む。そして、心を落ち着けようとしてか何度か浅く深く息を繰り返して。
真っ直ぐに私へと視線を向けて、重い口を開いた。
「……先生、俺はあの日──」
そうして語られた獪岳にとっての出来事は、その顛末を身を以てよく知る私にとっても、知らなかった事ばかりであった。
……そもそもの事の発端となった「盗み」を何故獪岳が犯したのかは、今となってはもう詳しくは本人にも分からない事の様だった。そして、そこに関して「何故」と問い詰めたとしても、もう意味は無い事だ。
何にせよ、獪岳は言い付けを破って夜に寺の外に出ていたのでは無く、夜に寺を追い出されていた事は確かであった。
……獪岳を咎めて反省させる為に夜に外に追い出した子供たちの行動も、思慮深いとは言えないがその意図は理解出来る。
鬼の伝承が強く残る地域であったとは言え、子供たちは本気で「鬼」の存在を信じている訳では無かったのだろう。
精々、言うことを聞かない子供たちを脅す為の作り話だとしか思われていなかったのかもしれない。
世の人々の大半は、「鬼」の存在など知る事も関わる事も無くその一生を終える。
鬼による被害は常に何処かしらで発生していても、世に溢れる人々の数で考えると一握にも満たぬ程度の人だけが「鬼」の存在に関わる事になる。そして、「鬼」に出会して無事に生き延びる事が出来る者はそう多くはない。だからこそ、本当に細々とした伝承が残っているだけでも珍しい事で、その伝承があってすらその実在を信じる者など鬼殺隊関係者以外ではほぼ皆無と言って良い。
だからこそ、子供たちもそれが取り返しの付かない事になる切っ掛けになるとは露とも思わずに、獪岳を鬼が闊歩する夜の闇の中へと追い立てた。
……せめて獪岳をそうやって外に出した事を私に伝えていれば、「何か」はもっと変わっていたのかも知れないけれども。
子供たちがそれを私に伝えなかったのは、獪岳が「悪い事」を犯したとは言え、それを子供たちだけで追い立てて夜の中に放り出した事への後ろめたさだったのか。或いはもう夜も遅くなっていた為に私に気を使ったのか……。もうその理由は今となっては分からないけれど、何であれ私が獪岳がその場に居ない事に気付けなかったのは確かだ。
そして、夜の闇の中で鬼と遭遇した獪岳であったが、鬼が私たちに嘲る様に言い放ってきたその経緯とは少し違っていた。
鬼に襲われ、寺で焚いている藤の香を消せと脅迫されたのだ。
獪岳は、決して自分から私や子供たちの命を売り渡した訳ではなかった。……無論、そこで鬼の言う事に従えばどうなるのかなど、想像力に乏しくても「悪い事」になるのは察する事は出来るだろうけれど。
しかし、生きるか死ぬかの状況に置かれた時に、それで僅かにでも生き延びられるかもしれないのなら……と。それを選んでしまった事を浅慮と謗る事は難しい。
大人でも、同じ状況に置かれて同じ様な選択をする者は少なくは無い。況してや子供の身の上であるならば……。
鬼殺隊に所属してから、鬼と言う存在の卑劣さ悪辣さを嫌と言う程に知ったし、窮地に陥り命の危機に晒された人の弱さや愚かさと言うものもよく知る事になった。
鬼に脅されて嫌々その手先になる者も居れば、鬼に積極的に手を貸す者だって居る。命の危機に瀕して自分の身近な者を見捨てる者も居るし、我が子を鬼の餌のように放り投げて逃げ出そうとした親だって居た。
死を前にした人々の足掻きは、時にどうしようも無く醜く、手の施しようも無い程に愚かな事すらある。
それを考えると、獪岳のその行いは決して並外れて邪悪なものでは無かったのだろう。
そもそも「悪意」すら獪岳には無かった。
獪岳はただただ死にたくなかっただけだった。そう、本当にただそれだけだったのだ。
……その選択の結果がどうなったのかを身を以て知っているからこそ、獪岳のその選択を赦す事は出来ないが。
しかし、「ならお前があの時に死ねば良かった」等と糾弾する事も、私には出来なかった。
怒りはある、あの日から絶えずこの胸を焦がす憎しみもある。
……ただそれは、獪岳に対してと言うよりも、やはり「鬼」と言う存在そのものに対してのものだ。
あの日の獪岳は、無力な幼子で。その選択は「正しくはなかった」のだとしてもその瞬間の獪岳にとってそれ以外には選びようの無いものでもあった。……そんな子供に対して憎悪を滾らせる程に、壊れている訳では無い。
結局の所、全ては「鬼」の存在が諸悪の根源であるのだ。
鬼さえ居なければ、もっと別の未来があった筈だ。
鬼さえ居なければあの子たちが命を落とす事も無く、そして獪岳が多くの命を犠牲にする選択をする事も無く。
寺の外に出されていた獪岳を探して、そしてどうして「悪い事」をしたのかを尋ねて、その上で叱るなりして分かり合える様な。……そんな「明日」が来ていた筈だったのだ。
一つ一つの選択や行動は本当に些細なもので、そして決定的な選択ですら当人にとってはそれ以外には選びようの無いもので。
ならば、もうそれを咎める事自体に意味は無いのだろう。
鬼を殺せば良い。一体でも多く、この世から全ての鬼を滅ぼせば良い。……そして、それはもう実現不可能では無い所まで辿り着けた。
全ての根源たる鬼舞辻無惨さえ滅ぼせば、この長い悲劇と苦しみの連鎖は絶たれる筈なのだから。
……そして、獪岳自身はそれを語った訳では無いが。
子供たちの命を犠牲にしてまで生き延びた獪岳が、鬼の脅威を身を以て知っていても尚鬼殺隊に入る事を選んだのは。
決して酔狂などでは無く、獪岳自身にも決して消す事の出来ない鬼に対する強い感情があるからなのだろう。
それが鬼への憎悪や怒りによるものなのか、或いは鬼によってあの夜奪われた命に対する贖罪の念であるのかは分からないが。
獪岳が鬼を滅する為の刃となる事を選んだ事だけは確かであり、鬼殺隊の柱としてはそれが最も重要な事であった。
そして、鬼に屈して多くの命を奪う選択をした獪岳ではあるが。……鬼殺隊となるべく修行で扱かれたからなのか、或いは悠などとの出会いがあったからなのか。少なくとも私が懸念していた様な内面の問題は改善されたのだろう。
ならば、それで十分だった。
……もう、獪岳とはかつての様な関係性に戻る事は出来ない。
そうなるには、お互いに傷付き過ぎたし、余りにも多くのものを喪った。
あの、温かく穏やかな日々にはもう二度と戻れないのだ。
ただ……。もう二度と「明日」が訪れる事は無いのだとしても。「あの日」からこの胸の奥を苛み続けていた苦しみが、少しばかり和らいだ様な気がする。……なら、それで良いのだろう。
「……獪岳。私は、お前のした事を赦す事は無い。
だが、それを咎める事もしない。ただ……。
お前があの日の行いを悔やんでいるのならば、一体でも多くの鬼を狩れ。鬼舞辻無惨を討つ為の刃の一つになれ。
私から言える事は、それだけだ」
赦さない、と。そう告げた時に、獪岳がその身をギュッと縮こまらせたのを感じた。
その言葉を当然だと受け止めつつも、心の苦しみは消える訳でないからだ。それでも、獪岳は毅然と私の言葉の続きも受け止めた。
赦しはしない、それでももうそれを憎む事も恨む事もしない。
その想いを受け取った獪岳は、僅かな沈黙の後に「はい、先生」と厳かに頷いた。
そして、獪岳の話に一区切りが着いた事を見計らって、獪岳と私とのやり取りを静かに聞いていた悠が「悲鳴嶼さん」と声を掛けてくる。
「悲鳴嶼さん宛に預かっている手紙があるんです」
そう言えばそんな事を言っていたなと思い出し、悠が差し出してきたその手紙を受け取る。
とは言え、目は見えない私には、一体それが誰からのものでどんな内容が書かれているのかは分からないのだが。
後で隠の者に読み上げて貰う事にしようと、その手紙を懐に仕舞おうとすると。
悠は待ったを掛ける様にそれを止めた。
「あの、出来るならこの場で読んで頂きたいんです」
何故? と思わず首を傾げる。
急を要する手紙であるなら悠なら鎹鴉に託して送っていただろうから、この手紙はそんな急ぎの内容では無いと思うのだが。
それに、目が見えない以上は読みあげて貰えない事には私には分からないのだ。
「俺が読み上げても良いですけど……。
でも多分、俺よりも獪岳が読み上げた方が良いと思います。
これは悲鳴嶼さん宛の手紙ではあるけど、獪岳にも知って欲しい事だから」
一体どんな内容だと言うのか。
内容が非常に気にはなるが、悠はそれに関しては手紙を読んでくれとしか言わないので、私はその手紙を獪岳に渡す。
すると、獪岳がその手紙を見て息を飲んだ。
自分が読んで良いのかと逡巡している気配がする獪岳に、悠は「読んで」と頷いている様だった。
それに背を押されたのか意を決した様に、獪岳は居住まいを正してその手紙を読み上げ始める。
「先生へ──」
そんな言葉で始まったその手紙は。
思いもよらなかった者からの、十年前に別れたっきりその消息すら知らなかった……知ろうとはしてこなかった紗代からの手紙であった。
そして、そこに書かれていたものは。
十年前のあの紗代の言葉の……今も片時も忘れる事の出来ず私の心を苛むあの言葉の、その本当の意味であった。
紗代の言った「あの人」は、私の事ではなかった。
紗代にとっては、見知らぬ恐ろしい人であった「鬼」だったのだ。
……ああ、よく考えれば。紗代は「あの人」だなんて呼び方を一度も私にした事は無かった。何時だって、幼い声で「せんせい」と呼んでいたのだ。
しかし、あの時の私は、紗代は恐怖で混乱していた上に、鬼を殴り潰し続けていた私の事を『化け物』だと恐怖したからなのだと思っていたが。だが、そうでは無かったのだ。
しかし、ただでさえ言葉がまだ覚束無い程に幼かった紗代にとっては、恐怖もあって上手くそれを言葉に出来なくて……。更には陽光の中で燃え尽きた鬼の存在を示すものは何も残っていなくて……。
あの場に居た誰も、その言葉の本当の意味を理解してやれなかったのだ。
……そして紗代は、己の言葉が私の命を奪ったのだと、十年もの間己を責めていた。……あの日の言葉を謝りたいと、ずっと悔やんでいた。
紗代は、私が処刑を免れた事を知らなかった。
だからこそ、私が今も生きている事を知って、堪らなく嬉しかったのだと言う。
何時か、必ずまた逢いたい。会って直接その言葉を伝えたいのだ、と。そう紗代は手紙を締め括っていた。
「……どうして、これを……」
今まで自分を苦しめていたものが一気に突き崩された衝撃に、思わず呆然とした声で悠に尋ねた。
……紗代の下を訪れ、私の生存を知らせ、そして紗代から十年前の記憶を引き出して手紙に認めさせたのは、疑う余地すらなく悠だろう。
しかも、その手紙が紗代本人からのものである事を示すかの様に、悠が知る由も無いかつての思い出の事にも触れられている。
だからこそ、「何故」と言う疑問ばかりが浮かぶ。
悠がこんな事をする理由が皆目見当もつかなかった。
「……俺の我儘で余計なお節介はあるんですけど。
以前悲鳴嶼さんから過去のお話を聞いた時に、どうしても、『真実』を確かめたくなったんです」
「『真実』……?」
「悲鳴嶼さんが話してくれたそれは『事実』ではあっても、『真実』だったのかどうかは分からないな……と思ったので。
どうして紗代がそんな事を言ったか、どうして子供たちがそうしたのか……。
死んでしまった人に話を聞く事は出来なくても、まだ生きているかもしれない紗代からなら何か話を聞けるかもしれないと思って。
それで、お館様に頼んで紗代さんの行方を調べて貰ったんです」
もし、そこにあった『真実』が、私が感じていたものと違ったものであったのなら。……そして、それが私にとって何か救いになるかもしれないものだったなら。私にはそれを知る権利があるのだ、と。そう悠は当たり前の様に言う。
「『真実』が何時も良いものであるとは限らないし、それを知る事が幸せとは限りませんが……。それでも、確かめようとしない事には、『真実』を知る事は出来ませんから。
……もし、もっと残酷な事が『真実』だったなら、悲鳴嶼さんには黙っているつもりでした。
でも、俺は……信じてみたかったんです」
「何を信じたかったのだ?」
「悲鳴嶼さんの大切な『家族』の事を。
悲鳴嶼さんが子供たちを大切に想っていた様に、子供たちも悲鳴嶼さんの事を大切に想っていたのではないか、と」
信じて良かった、と。そう微笑んだ悠に、何と言って良いのか分からなかった。
……悠はそれを当たり前の様に言うが、『真実』を確かめる為に態々本来自分に関係ない相手を探し出そうとする事は尋常な事ではないし、しかもその動機が私の為だという事もただ事では無い。
更には、その『真実』とやらを確かめようとした根拠が、会った事も無い相手を信じたかったからだと言うのだ。
……悠にとって「信じる」と言うそれが、口先だけの軽いものでは無い事はよく分かる。
悠にとっては、「信じる事」も「信じられる事」も、どちらも特別で重い意味を持っている。
だからこそ、異様なのだと心から感じた。
しのぶは悠の事を「度を超えたお人好し」だと言っていたが、果たしてそれだけに留まっているのだろうか……。
間違い無く善良であり誠実な人間ではあるが、「大切」だと判断した相手に対しては過剰な程に献身的になる。
……人は本来自分の事だけで手一杯だ。
余裕があるのならば他者に手を差し伸べる事は出来るが、それも決して無限では無い。心の余裕だって、常にある訳では無い。
しかし悠は……自分以外の誰かに尽くす事を一切躊躇しない。
それだけその心に余裕があると言う事なのかもしれないが、果たしてそうなのだろうか?
悠は、確実に鬼殺隊に良い変化を齎している。
鬼舞辻無惨や上弦の鬼たちに対抗する為の手段を齎したと言うだけに留まらず、蝶屋敷にまで辿り着けた者たちの命を確実に救う事で鬼殺隊全体の生存率を引き上げ、上弦の鬼たちとの戦いで勝利を収め続ける事で全体の士気を高めている。
そしてそれ以上に、心に傷を抱えた者たちばかりの鬼殺隊ではどうしても手が回らない事も多いその心の問題にも向き合って、多くの隊士たちの心を救っている。
身近な所で言うのなら、玄弥は確実に悠に出会った事でその心に穏やかさが戻ったし、しのぶは上弦の弐との戦いの後で何処か吹っ切れた様になっていて……かつてカナエを喪った時にしのぶが殺してしまった「胡蝶しのぶ」の一面が顔を出す様になっている。
柱稽古に参加を表明した冨岡の事も、恐らくは悠たちが何かをしたのだろう。
時透の事も、その記憶を戻す手伝いをしていた様だ。
私が知らない所でも、きっともっと多くの者たちの心を救っている。
……そう、余りにも悠の存在は大き過ぎるし、そしてそれは悠の尋常では無い献身に支えられている。
鬼舞辻無惨との決戦が迫っている事を抜きにしても、悠は鬼殺隊にとってなくてはならぬ存在になっている。
隊士たちの間では悠の事を『神様』などと呼び、中には本気で崇めるかの様な扱いをしている者も居る程だ。
だが悠一人の背に絶え間無く様々なものが載せられていく現状は異常であるし、悠自身がそれを躊躇わずに背負ってしまう事も異様だ。
その「無理」が何時何処で破綻してもおかしくは無いのでは、と。そう思わずにはいられない。
しかし。
そんな私の懸念を他所に、安堵した様に微笑んでいる悠の気配は余りにも「普通」であった。
◆◆◆◆◆
【鳴上悠】
獪岳と悲鳴嶼さんの心が少しでも救われた様なので本当に良かった……と安堵している。
場合によっては「信じている」相手の為に追い求めていた『真実』すら闇に葬り去ってしまう可能性が存在する程、悠にとって「信じる事」は物凄く重い感情である。
【獪岳】
悲鳴嶼さんとの話し合いで、自分の過去に一定の折り合いを付ける事は出来た。
完全に自分を赦せる日が来るのかは分からないが、しかし自ら「幸せ」を手放す様な真似をする事はもう無い。
全てが終わったら、かつての古寺を訪れて、あの日死んでしまった子供たちに手を合わせるのかもしれない。
【悲鳴嶼行冥】
元々根が優しくて善良である為、獪岳の事も本気で憎んでいた訳では無かった。(トラウマにはなってるけど)
紗代からの手紙と、獪岳との話し合いによって大分心が救われた。
少しだけ、夢見などが良くなるかもしれない。
これには悲鳴嶼さんを見守っている子供たちもニッコリ。
全てが終わったら、紗代に会いに行こうと決める。
悠の事がとても心配になってきた。『化け物』呼ばわりは当然ダメだが、『神様』扱いも間違い無く不味いと思っている。
≪今回のコミュの変化≫
【法王(悲鳴嶼行冥)】:8/10→MAX!
自分の事を何の見返りも求めずに助けようとしてくれる人が居ます。どうしてだと思いますか?
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その人が『神様』だから
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その人が優しいから
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その人にとって自分が大事な人だから
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その人は『神様』に遣わされた人だから
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後から騙そうとしているから