◆◆◆◆◆
宇髄さんと共に二週間近くを過ごした。
他の柱の人たちの所で過ごした倍近くの時間を過ごす事になったのだが、最後の目的地である煉獄家の屋敷にはまだ柱稽古中の隊士が居るので少し足止めを食らった感じである。
まあそう急ぎではないのだから構わないのだが。
炭治郎たちは無事に最後の試練である冨岡さんの特訓に合格したらしく。今は柱同士の柱稽古を見学したり、時に手合わせをして貰ったりしつつ、自主的な鍛錬を続けている様だ。
実弥さんから期限を定められていた玄弥はと言うと、ギリギリの所ではあったが何とか期間内に柱稽古を完全に突破してやったと、文面からも玄弥の喜びの感情が伝わってくる手紙が届いた。
柱稽古も開始から一月以上が経った事もあって、ほぼ最速で全ての柱稽古を突破していった炭治郎たち程ではなくても、それでも柱たちの当初の期待を遥かに上回る勢いで柱稽古を突破して悲鳴嶼さんの柱稽古まで辿り着いた隊士は結構居るらしい。
まあ、そこを乗り越えるのが本当に難しいのだが……。
なお、今一番隊士達が多く留まっているのは実弥さんの所であるのだそうだ。合格のハードルが相当高い事がその原因になっているのだとか。
そんなこんなで時間が過ぎて、煉獄さんが柱稽古を付けていた隊士たちが全員何とか次に進めたそうなので、随分と長くお世話になってしまった宇髄さんたちに別れを告げて煉獄さんの所へと向かう事になったのだった。
柱の屋敷はどれも立派なものだけど、代々炎の呼吸を受け継ぎ炎柱も務めてきたのだと言う煉獄家のそれはまた一段と立派なものであった。
そう言えば、奥さんと産まれてくる筈だった子供を一度に喪って茫然自失の状態だった縁壱さんが出逢ったのも煉獄さんの御先祖様だったのだとお館様も言っていたし。
煉獄家は所謂『名家』と言うやつなのだろう。
少なくともその時代の頃からずっと鬼殺を続けているのは尋常な事ではない。
鬼を相手にする事の難しさを考えると、断絶する事無く鬼殺の一族としてやってきたのは凄まじいとしか言い様の無いものだ。
そう言った『歴史』を感じつつも門扉を叩くと、煉獄さんと煉獄さんそっくりの顔立ちだがより柔和な表情を浮かべた千寿郎くんの二人が快く出迎えてくれた。
千寿郎くんに出逢ったのは丁度無限列車の任務の後位の時期だったので、こうして顔を合わせるのは随分と久し振りの事だ。
炭治郎は以前煉獄家に訪問した時の縁で千寿郎くんと文通を始めたらしくマメに手紙のやり取りをしている様で、その為折に触れては炭治郎から千寿郎くんの近況を教えて貰う事はあったので、自分としてはそこまで久しい感じでは無いのだけど。
「お久し振りです、鳴上さん」
深々と頭を下げた千寿郎くんに、此方こそと頭を下げる。
柱稽古の隊士たちが滞在していた時には、隠の人たちと一緒に千寿郎くんが大人数相手の家事を切り盛りしていたらしく、柱稽古が始まって少し経った頃から随分と長い間大忙しだったそうだ。
やっとゆっくり出来る所にお邪魔してしまってちょっと申し訳ない気持ちもあるのだけれど、千寿郎くん自身は何だか嬉しそうだった。
煉獄家は煉獄さんと千寿郎くんと、そして二人の父親である槇寿郎さんの三人暮らしで。任務で各地を飛び回る煉獄さんは家に居ない時間も多く、その時には千寿郎くんは槇寿郎さんと二人きりであり。無限列車の任務の少し後の頃から改善されてきたとは言え、槇寿郎さんは長らく塞ぎ込んだり自暴自棄になったかのように気力を喪って酒浸りになったりと、……まあこう言ってしまうのは何なのだが「良い父親」では無かった事もあって。
千寿郎くんとしては誰かが居る賑やかな状態の方が好きであるらしいのだ。
だから柱稽古の間も、大変ではあったけれど楽しかったらしい。
手合わせの合間の休憩時間には、煉獄さんと千寿郎くんはかつて甘露寺さんが煉獄さんの継子として煉獄家で修行していた時の話などもしてくれた。
甘露寺さん程ではなくても煉獄さんもよく食べる方だし、甘露寺さんが継子だった時は炊いても炊いてもお米が直ぐに無くなってしまう程に物凄い量を作っていたのだそうだ。
何となくその光景の想像は付くのだが、何とも凄まじい。
まあ、甘露寺さんはとても美味しそうにご飯を食べてくれるので、大変ではあっても千寿郎くんたちはとても作り甲斐があったそうなのだが。
そして話を聞いた所によると。
煉獄さんの継子として柱にまでなったのは甘露寺さんだけであるが、継子自体は甘露寺さん以外にも何人も居たらしい。
現在在籍している柱の中では、煉獄さんは積極的に継子をとったり指導したりする事にかなり意欲的な方であるのだし、使う呼吸が炎の呼吸ではない炭治郎たちも継子として鍛えようと誘っていた事もある様に、使う呼吸が異なっていても気にせず指導出来る実力も有る。……しかし、その日々の鍛錬はとても厳しく。
柱稽古で課していた訓練よりも更に厳しいものになる事もあってか、まあ……皆その辛さに耐えかねて逃げ出してしまったのだそうだ。
その厳しさは、鬼殺の剣士として可能な限りの実力と生存能力を引き上げる為のものではあるのだけれど、ついていけない者も多いのは確かなのだろう。
結局、最後まで投げ出さずに継子を務める事が出来たのは甘露寺さんだけなのだそうだ。
まあ……その鍛錬に付いて行けるかどうかにも、ある種の才能と言うのか資質は必要になってしまうのだろう。
鬼への憎しみは皆とても強くてもかと言って厳しく辛い修行に耐え切れるのかどうかはまた別の話になってしまう、と言う事か。
とは言え、今回の柱稽古で宇髄さんや煉獄さんの所で離脱する者は居なかったし、人によって掛かる時間は異なるとは言え全員が無一郎の所に辿り着いているし、半数以上は伊黒さんの試練以降に辿り着いている。……まあ、実弥さんの所で叩きのめされている者が圧倒的多数らしいが……。
最近の隊士の質が悪いとボヤいていたらしい宇髄さんたちもこれには満足している様だ。
物凄く順調に試練を突破していった炭治郎たちに限らず、村田さんや文通などで交流がある隊士の人たちも本当に頑張って柱稽古に励んでいるそうで。
今は悲鳴嶼さんの所で滝行に励んだり岩を押したりしているらしい。
怨敵である鬼舞辻無惨との決戦も近いと言う事も有って、皆並々ならぬ気迫であるのだとか。まあ、それでもキツイものはキツイ事には変わらないので、ヒィヒィと喘ぎながら必死に食らい付いている……との事であるそうだ。
柱稽古の期間中も、村田さんたちは時々ではあるが手紙で近況を教えてくれる。
その内容の殆どが、「柱稽古キツイ」と言うものだが……。
まあとにかく、鬼殺隊の者たちが皆一丸となって決戦に備えている事は確かなのだろう。
煉獄家での時間は、手合わせこそ激しくても中々和気藹々とした時間であった。
煉獄さんや千寿郎くんと過ごす時間が大半だが、槇寿郎さんも時折だがポツポツと話し掛けてくれたりと。良い時間を過ごす事が出来た。
隊士たちの面倒を見る事からは解放された宇髄さんなども顔を出して共に手合わせをしたりと、有意義な時間を過ごす事が出来ていた。
そして、そんなある日。ふとした拍子に、千寿郎くんが何かの修繕作業をしている事に気が付いた。
何だろう……手記の様なものだろうか。
尋ねてみると、それは二十一代目の煉獄家の当主が遺した書物であるらしい。
丁度、縁壱さんが生きていた頃の時代の人物であるのだとか。
「父はよくこの手記を読んでいました。
……そして、ある頃からかすっかり意欲を喪い、自暴自棄になり……」
その結果槇寿郎さんは酒浸りになってしまったのだと、そう千寿郎くんは言う。
物心付いて少ししてからそんな風になってしまったのだとか。
それでも、意欲を喪ってからも暫くの間は槇寿郎さんは炎柱を務めていたそうなのだが……。次第に任務自体にも意欲を喪って酒気が抜けきらないままに任務に向かったりする事が常態化してしまい、……終には柱を辞めた。
千寿郎くんがまだ本当に幼かった頃は、後進を育てる情熱に溢れ、煉獄さんや千寿郎くんにも熱心に稽古を付けてくれていたそうなのだが……。しかしある頃からそれすらもすっかり放棄してしまい、煉獄さんは家に残された指南書を頼りに鍛錬して最終選別に向かったのだとか。それから煉獄さんが炎柱になっても、槇寿郎さんは煉獄さんを認める様な態度を見せる事は無かったそうだ。
情熱があった槇寿郎さんがまるで糸が切れた凧の様な有様になってしまったのは、恐らくは若くして病に倒れ帰らぬ人となった母……瑠火さんの事が何か影響しているのだろうと、千寿郎くんはそう言っていた。
槇寿郎さんは大層な愛妻家であったらしく、だからこそその喪失に耐えられなかったのかもしれない。
そしてそれに追い打ちをかけるかの様に、過去の当主の手記に書かれていた何かが槇寿郎さんを打ちのめし絶望させのかもしれない、と。そう千寿郎くんは呟いていた。
「……何時からか、父は一言目には『無駄だ』とか『無意味』だとかと言う様になり……、そして『才能』がと言う様になりました。
……それでも、剣士になれば父に認めて貰えるのかもしれないと、淡く期待して鍛錬を続けていたのですが……。それでも私の日輪刀は色が変わる事はありませんでした。私には、兄の様な才能は無かった」
剣士になる為に……正確にはすっかり変わってしまった槇寿郎さんに認めて貰う為に、鍛錬を続けていたのに。それでも、現実は残酷で。
望んだからと言って才能があるかどうかはまた別の話になってしまう。
……同じく呼吸の才が無かった玄弥は、それでもと鬼殺隊で剣士となる事を選んだが。しかし。
「私は、剣士になる事は諦めました。
それ以外の方法で、人の役に立てる事をしよう、と」
代々鬼殺の剣士として生きて来た煉獄家の者として、その選択は決して軽いものでは無い。才能が無いからと言って諦めきれるものでも無かっただろう。
それでも、千寿郎くんはそれを選んだ。
「……俺が何かを言う様な事では無いと思いますが。
どんな選択でも、考え抜いて決めた事ならば……そしてその選択の責任を背負う事が出来るのなら。それは決して間違ってなんかいないと。そう俺は思います」
玄弥の様に諦めない事も、そして千寿郎くんの様に別の道を探す事も。
どちらも決して間違ってはいない。
道は一つではないのだし、生き方もまた其々だ。
そして、そうして探した剣士以外の道の中の一つとして、手記の修繕を請け負ったらしい。
本来なら、ヒノカミ神楽の謎の解明と煉獄さんからの言伝を伝えに来た炭治郎に見せる筈だったものなのだが……。
しかし、自棄になっていた槇寿郎さんが書物を破いてしまっていたらしく、そこに書かれていたものを読む事は出来なくなっていたのだそうだ。
……恐らくは、縁壱さんの事に関する何かが書かれていたのだろうけれども。
縁壱さんの事に関してはもう大分判明しているし、ヒノカミ神楽の事も炭治郎自身がそれを夢で探し当てたし、鬼舞辻無惨の事もかなり判明している。
とは言えそれを知っていても、千寿郎くんは書物の修繕を完遂させたいらしい。
「修繕したこれから何か新たに分かる事は無いのかもしれませんが。
しかし、これは代々大切に伝えられてきたものですし、何より知りたいんです、私自身が」
一体何が父を絶望させ自棄にさせてしまったのかと。
そう呟いて、千寿郎くんは「そして」と続けた。
「……炭治郎さんと鳴上さんには、本当に感謝しているんです。
炭治郎さんが兄の言葉を伝えにやって来てくれてから、父は変わりました。
それに、鳴上さんが兄の命を救ってくれたから、きっとまだ色々と取り返しが付くんだと思うんです」
『日の呼吸』に異常な執着を見せそれ以外を全て「無駄」と切って捨てていた槇寿郎さんは、煉獄家に訪ねて来た炭治郎のその耳飾りを見て激しく食って掛かったそうなのだが。しかし、その時の炭治郎は猗窩座と煉獄さんとの戦いで何も出来なかった無力感に打ちのめされている真っ最中で。だからそれに激しく反論して、殴り合いになった果てに槇寿郎さんを頭突きで沈めてしまったらしい。
ただ、その後で煉獄さんが本来なら落命していた筈の重傷を負っていた事を知ったからなのか、或いは最強だと思っていた『日の呼吸』の使い手でもどうにも出来なかったのだと知ったからなのか、他にも何か色々とあったのかは分からないが。
それから少しして槇寿郎さんは日中の酒を断って、少しずつではあるが鍛錬を再開したらしい。
柱稽古の間も、大人数の隊士を相手にしていた時には煉獄さんの事を手伝っていたのだとか。
そして、千寿郎くんと煉獄さんはそれを「良い変化」だと、そう感じているのだそうだ。
「私も兄も……心の何処かでは父はもう変わらないのだろうと、そう思っていたのかもしれません。
実際、かつての情熱に溢れていたのだと言う頃の父にはもう戻れないのでしょう。
それでも、どんな状態からでも『変わる』事は出来るのだと。そう思う事が出来るのは、とても嬉しい事ですね」
そう言って、千寿郎くんは柔らかく微笑むのであった。
◆◆◆◆◆
夏の夜は蒸し暑い。
ヒートアイランド現象だ地球温暖化だのと色々と叫ばれている平成の時代に比べれば涼しいのかもしれないが、それでも湿度が高く暑い事には変わりが無い。
ちょっと寝苦しくて、少し夜風にでもあたって涼もうかと縁側に出ると。
槇寿郎さんが夜空を見上げながら月見酒をしていた。
酒は止めたのでは無かったのだろうか? とちょっと訝しく見ていると。
槇寿郎さんは少しバツが悪い苦笑いをして、「癖でな」と零す。
まあ、昼日中から飲むのを止めたのなら、自分がとやかく言う事では無いのだが。
少し離れた所に座り夜風に涼んでいると、「君は」とまるで独り言の様にそう槇寿郎さんは静かに零した。
「君は……鬼の存在しない夜は本当に訪れると思うか?」
その言葉に、思わず槇寿郎さんをまじまじと見てしまう。
「訪れさせてみせます。
その為に、俺たちは戦っていますから」
「……そうか。眩しいな、君たちは」
此方の返した言葉に、槇寿郎さんは僅かな自嘲の混ざった言葉を返す。
何処か疲れている様に見えるその表情に、何も言えなかった。
情熱を喪い、何かから逃げる様に酒に溺れて。そして無気力になってしまった事もあった槇寿郎さんだが。しかし本来は煉獄さんが心から尊敬し目標にしていた程に情熱に溢れた人だったのだ。
ただ……代々鬼殺の家系である煉獄家のその直系をして生まれた槇寿郎さんにとって、「鬼」とは物心付いた時点で存在するのが「当たり前」であったのも同然であり、鬼に直接身近な誰かを奪われたりした訳では無くても、当たり前の様に鬼殺の道を選んで戦ってきたのだろう。
それは、義憤からなのか、或いはただ単に「ずっとそうだったから」なのかは分からないけれど。父が祖父が先祖がそうであった様に、槇寿郎さんは鬼殺の道を選んだ。
鬼殺の道は、確実に鬼に襲われていたのだろう「誰か」を救う為の戦いである。
だが、その成果は直接目に見えるとは限らない。
凄惨な現場を何度も目撃する事になるし、「間に合わなかった」経験を何度でもする事になる。被害者から詰られる事だってあるだろう。
終わりの見えない鬼との戦いの日々は、心を疲弊させていく一方である。
強い感情の支えが、或いは何かの寄る辺が無ければ長く鬼殺を続ける事は難しい。
心に焔を燃やし続ける事は、決して簡単な事では無い。
そして、生まれた時からずっとそこにあった「当たり前」が何時か終わる時が来る事を実感する事は難しい。
終わりの見えない戦いに、凄惨な命懸けの戦いに、鬼によって齎された様々な災禍を目の当たりにし続けて、削られていった心は何かの拍子に折れてしまってもおかしくはないのかもしれない。
鬼とは無関係の所で……いやだからこそ自分の手が何をする事も出来ない所で、最愛の妻を喪った事がその「切っ掛け」になってしまう事だってあったのかもしれないし。
或いは、ご先祖さまの目で見た時の縁壱さんの尋常ならざる強さの記述を前にして、無力感に打ちのめされてしまったのかもしれない。
常軌を逸したと言ってしまっても言い過ぎではないかもしれない程に強過ぎた縁壱さんですら、鬼舞辻無惨を殺し切る事は出来なかった。……まあそれは鬼舞辻無惨の驚異的なまでの生への執着によるものであり、単純な戦闘の勝ち負けという意味では縁壱さんは確実に勝っているのだが。
……縁壱さん程の強さを持たない者がどうやって鬼舞辻無惨を倒せるのかと、そう意欲を失ってしまってもおかしくはないのだろう。
その原因が何であれ、槇寿郎さんは心折れて蹲る様に逃げてしまった。
そして、逃げるだけではなく周りの努力も否定してしまった。
まあ……『才能』に拘ったり剣術の修行を無駄だと言い出したのは、煉獄さんたちに自らを命の危機に晒し続ける事になる鬼殺の道を歩んで欲しくはないと言う気持ちの表れだったのかもしれないけれど。
それにしたって、もっと他に何か言い方や態度があっただろう。
千寿郎くんに至っては物心付いて程なくしてから槇寿郎さんがそんな調子だったのだ、それで真意を察しろと言うのは無理だし、ただただ父親に否定されている気にしかならなかっただろう。
しかし、『眩しい』と。そう表した様に。
心折れてその情熱を喪っても、その心の何処かには埋火の様な残滓が微かに灯り続けていたのだろう。
……どんな時だって「変わる」事は出来るが、しかし何もかもに取り返しが付く訳では無い。蹲り続けていた時間は決して戻っては来ないし、そうやって逃げていた時間の中で槇寿郎さんは決して少なくはないものを喪ったのだろう。
ただそれでも、僅かに残っていたそれを今度こそ喪わない様に出来るのなら。
きっと、喪ったそれを後悔するよりももっと良い結果になるのだろうとは思うのだ。
そんな此方の思いとはまた別に、槇寿郎さんは深い溜め息を吐く。
「……君は、杏寿郎の命を救ってくれた。
君が居なければ、私はもう取り返しの付かない後悔に苛まれるだけだっただろう。
杏寿郎とマトモに言葉を交わす事すら出来ないまま……。
君があの時その場に居てくれた事は紛れも無い幸運であった。
杏寿郎にとっても、千寿郎にとっても、私にとっても。
その様な形で杏寿郎を喪っては、あの世の瑠火に一生赦されなかっただろうな……」
……槇寿郎さんは、心が折れ鬱屈とした時間の中で己が放棄してしまった事やその結果を思ってその表情を曇らせる。
失意に沈んでいた時の槇寿郎さんは、決して良い父親ではなかったのだろう。そもそも「親」としての責任すらも放り出している。
煉獄さんはまだ幼さが残る年頃だっただろうに、更に幼い千寿郎くんを支えて、二人で頑張っていたのだろう。ある意味、千寿郎くんにとって煉獄さんは単なる兄と言うよりは父親代わりの側面もあるのかもしれない。
正直、そこに関しては結構取り返しが付かないと言うか……自棄になっている時間が長過ぎたのだと思う。
まあ、心折れて蹲って酒に逃げる日々でも問題なく生きていけるのなら、立ち上がるよりもそのままで居た方が楽だから……そうやってそのままどうしようもなくなってしまう事もあるのだろう。
蹲る時間が長ければ長い程、逃げれば逃げる程、立ち上がり向き合う事は難しくなる。
今まで逃げてきた分全てに向き合わなくてはならなくなるからだ。
……だからこそ、ズルズルと蹲り続ける内に立ち向かう力は喪われていく。
本当に向き合うべきものから逃げてしまっていたそれは、何処か叔父さんの姿を思い浮かべてしまう。
……尤も、叔父さんは酒ではなく仕事に逃げていたのだし、ちゃんと向き合ってやれず菜々子に甘えてはいても、決して蔑ろにはしていなかったのだが。
「……槇寿郎さんは、俺の大切な人に少しだけ似ています。
その人……叔父さんは、大切な人を自分の手の届かない所で喪ってしまった事を切っ掛けに、遺された『家族』と向き合う事から逃げてしまう様になっていました。
……叔父さんには、大切な娘が遺されていたのに。
大切で愛しくて守りたくて、だけどちゃんと向き合った結果また喪う事を恐れて……。
それでも、決定的に破綻するよりも前に叔父さんは『家族』に向き合う事を選ぶ事が出来た」
『家族』と向き合えなくなってしまった……喪失の痛みに臆病になり逃げてしまっていた叔父さんではあったけれど。
でも、決定的に誤る前に向き合える様になった。
その切っ掛けの一つとして、自分の存在はあったのではないかと思う。
……十二月のあの日、一度菜々子の心臓が止まってしまったあの時。
確実に一度死んでしまった……守る事が出来なかった菜々子が、それでもまたもう一度生きようとしてくれたそれには。
自分が選択を間違えずに済んだと言う事もあるのかもしれないし、或いは最後まで菜々子の傍に寄り添い続けてくれたクマの存在があるのかもしれないけれど、やはり一番は。
菜々子には叔父さんが……『家族』が居る事が分かっていたから。だから、あの深い混迷の霧に覆われてしまった中でも、帰って来る事が出来たのではないかと思う。
逃げてしまう楽さを知ってしまえば、向き合う事を選ぶのは難しい。それでも、何時までも逃げ続ける事は出来ない。
向き合えていなくてもそれを大切に思う気持ちが確かにあるのならば、逃げ続けた先にあるのは後悔だけだ。
取り返しのつかない後悔に苛まれる前に、そこから歩き出せる事が出来たのは間違いなく良い事であるのだろう。
不甲斐なさに打ちのめされていても、槇寿郎さんはそこから変わる事が出来た。決して強くはなくても、それでもどうしようも無く弱い訳では無い。
「君は……。君には鬼殺の道を選ぶ様な動機は無いのだと、そう聞いた事がある。
なら、君が戦う理由は一体何だ?
君は……かつての始まりの呼吸の剣士にすら匹敵する程の強さがあるのだろう。
だが、その強さは戦う理由では無いのだろう?
君の中の一体何が、君に戦いを選ばせているんだ?」
憎悪でも憤怒でも無く、では何故と。そう槇寿郎さんは問い掛けて来る。
……もう既に何度も交わした事のある問答だ。
ただ、どうして槇寿郎さんがそんな事を訊ねて来たのかは分からない。
「俺が戦う理由は……炭治郎の力になりたかったからです。
大事な妹を助ける為に、苦難にその身を晒してでも先を見通す事すら出来ない状況の中でも必死にもがく様に戦い続けていた炭治郎の力になりたかった。
……何か他に目的や寄る辺があれば、また違う道を選んでいたのかもしれませんが。
炭治郎と出逢ったその時の俺には、何も無かった。ある意味では、空っぽだったんです。
そして、俺は何も分からないまま……一人の鬼を倒しました。
かつて人であった時にどんな人であったのかも知らない、その名前も知らない、鬼としての名前すら知らない。……何も知らないまま、襲われている人を助ける為に倒しました……殺しました。
あの鬼は、消える間際に酷く悔いる様な……そんな顔をしていました。
それを後悔している訳では無いんです。あの時にはそれ以外に方法は無かった。
でも……」
あの名も知らぬ鬼をどうにか助けてやる事は、何度あの時をやり直したとしても出来なかっただろう。そもそも人を十では足りない数を少なくとも喰い殺しているあの鬼が、人の世に戻る術など恐らくは無かっただろうと思う。
人の心はそう強い訳ではない。例え人に戻れたとしても、生きる為には必要であったとは言え同じ人を襲い食っていた事実を受け止めてそれに折り合いを付ける事は極めて難しい。本来の人格が善良なものであったのなら尚更に。
鬼にされ人としての心や理性を消された後の罪を背負う必要はあるのかどうかは分からないけれど……「納得」出来るかどうかはまた別で。
そして、残酷な話になってしまうのかも知れなくても。自分が手を伸ばせる範囲はそう広くは無い。何もかもを抱える事は出来ないのだし、優先順位を付けた際にあの鬼はきっと零れ落ちてしまう側の存在にしかならなかっただろう。
……禰豆子ちゃんの力になりたいのは、禰豆子ちゃんが炭治郎の大切な『家族』だからと言うものもあるけれどそれと同じ位に、禰豆子ちゃんは本当に誰も襲ってなどいないし強烈な鬼の獣性をその本来の人格を歪められて尚も強靭な理性で御しているからだ。だからこそ守りたいし、その驚異的なまでの理性の努力がどうにか報われて欲しいと思うのだ。
……でも、残念ながらこの世の多くの鬼はそうでは無い。そうはなれなかった者の方が多い。……それは、望まずして鬼にされてしまった人たちの咎では無いと思うけれど。
そして、だからこそ。
「それは憎悪では無いし、憤怒と言う感情とも遠いのでしょうけれど。
俺は……誰かにとっての大切な存在だった筈の人たちを、人として殺した上で本来なら負う必要など無かった咎を背負わせる事を平然と行う鬼舞辻無惨のその行いを、決して認められなかった。
そして、その悲劇と憎悪の連鎖を止める為の助けに少しでもなれるのなら……俺は戦えると、そう思ったんです」
そして一度それを選んだからこそ。
最後まで、選択の責任を果たさなければならない。
ただそれだけなのだ。
まあそうやって戦う事を選んだ先で、力になりたいと思う相手はどんどんと増えていったのだけれど。
「そうか……。
君は……いや、君だけでなく今も戦い続ける誰もが、強いな。少なくとも、私よりは。
私は、戦う理由と言うものが一度分からなくなってしまった。
始まりの呼吸である日の呼吸の使い手……始まりの剣士のその御業に我々では決して届かないのなら。その始まりの剣士ですら滅ぼす事の叶わなかった無惨に勝つ方法など果たしてあるのかと。そう思ってしまった。そうなると、終わりの無い戦いを続ける意味が分からなくなってしまった。
確かに、鬼を殺せばそれだけ将来的に多くの人を救った事になるのだろう。だが、原因を断てない以上は……と」
何時か鬼舞辻無惨を倒す可能性に繋がるのだと、そう心から思えるのならば迷わなくても良かったのかもしれないが。
しかし、鬼舞辻無惨は余りにも強大で、そして『呼吸』の祖である縁壱さんは余りにも強かった。
だからこそ、未来の可能性を信じられなくなってしまったのかもしれない。
それでも、鬼への消えぬ憎悪があるなら……それが良い事なのかは別として、しのぶさんの様に鬼殺に身も心も捧げられたのかもしれないけれど。
恐らくは幸運な事に、そこまでの感情面での動機は槇寿郎さんには無かったのだろう。
だからこそ。
「柱として鬼殺の任務を続ける内に様々なものを見た。
ある意味では、鬼よりも恐ろしい事をする者も居た。
鬼に与し力なき者を貪る事を選んだ者すら。
その者たちは鬼に関わらなければそうはならなかったのだろうか、或いは誰もがそんな風になる可能性を秘めているのか。
色々と迷い考える事が増えてきた中で、かつての始まりの剣士と無惨との戦いの顛末を知り無力に打ち拉がれていた時に、畳み掛ける様に妻が病死した。
柱として多くの鬼を斬り人々を救っても、私は妻を救う事すら出来なかった……。
そこからは、もう立ち上がる気力を喪ってしまったのだろう……。気付けば、随分と長い時間を無為に過ごしてしまった。
杏寿郎にも千寿郎にも……悪い事をしてしまった。
こんな不甲斐ない父には勿体無い程の、よく出来た息子たちだ。
妻の……瑠火の血が濃かったのかもしれないな」
自嘲する様に目を伏せながらそう言った。
……幸い、自分はその様に悍ましい『人の業』とでも呼ぶべき光景には出会した事は無い。
それを成し得るだけの「理性」を保った鬼は極めて稀な存在であり、故にその様な事例は決して多くは無いと言う事もあるだろうけれど。恐らくはお館様などが気を使って
ただ……鬼が如何に人にとっては脅威であるのかを考えると、そう言った事は起こり得るのだろうとは容易に想像がつく。
一概に人が被害者であるとは断じ切れない様な、人の弱さと悪性を感じざるを得ない様な……そんな何かは、長い歴史の影の中で幾度となく起きていたのだろうとは思う。
そしてそれを見続ける内に、情熱で鬼殺を続けていた槇寿郎さんのその心の焔に翳りが生じてしまったのかもしれない。
そこに複合的な事情が重なって折れてしまった事自体を責めたいとは思わないが……。
「君は、鬼殺隊の者たちに……炭治郎くんたちだけでなく今の柱の者たちにも随分と心を砕いているのだと杏寿郎から聞いた事がある。
……私はかつて、良かれと思ってした事で、酷く傷付いていた子供の心を決定的に壊してしまった事があった」
槇寿郎さんが炎柱として討伐したその鬼は、とある島に住むとある一族を利用して長くその島に君臨していたらしい。
赤子の血肉を大層好んだその鬼は、自分が襲って食い殺した旅人や客船などの金品をその一族に全て寄越す代わりに、その一族に生まれて来た赤子を生贄として差し出させていたそうだ。
我が子たちの犠牲と引き換えに栄華を極めたその一族は……槇寿郎さんが任務でその島に訪れた時にはもう手の施しようの無い程に畜生の様な有様の人間性にまで堕ち切ってしまっていたと言う。
ただ……何の偶然の悪戯なのか。
槇寿郎さんが任務で赴いたそのタイミングで、生贄としての運命から逃げ出そうとしていた子供が居た。
鬼に襲われ食い殺されかけたその子供を槇寿郎さんは迷う事無く助けて……。そして、生贄が逃げ出した事への報復なのか或いは鬼殺の剣士が島を訪れた事を察知した鬼による「後始末」なのかは分からないが、ほぼ全てが鏖殺されたその一族の生き残りに、槇寿郎さんは「良かれ」と思ってその生贄の子供を引き合わせた。
その時点では、槇寿郎さんは生贄の事など知らなかったし、その一族が一体何をしていたのかなど知らなかった。
槇寿郎さんにとっては、島に巣食っていた鬼を討っただけで。惨劇を生き延びる事が出来た「家族」を引き合わせてやりたかったと言う思いだったのだ。……だが、それは……。
たった一人生き延びていたのだと言うその「一族」の者が、生贄の子供に発したそれは……余りにも救いようの無い言葉であった。
そして、外野からすれば戯言と切って捨てる事が出来る様なものであっても、それを言い放たれた生贄の子供にとってそれはまさに人生を縛り続ける事になる鎖そのものの様なもので。
だからこそ、その子供は……。
「……その生贄だった子供とは、蛇柱の伊黒さんの事ですか?」
半ばと言うよりもほぼ確実と言っても良い程の確信を持って、槇寿郎さんに訊ねると。槇寿郎さんは静かに肯定した。
……そんな一幕があって少ししてから、縁壱さんの事を知って自信を喪失し、更には最愛の妻を喪って……槇寿郎さんは折れてしまったのだ。
……「良かれ」と思った事がその実全く真逆の結果に結び付く事はそう珍しい事では無い。特に、大して事情を知らぬ時に「常識」で判断するとそうなりやすい。
しかし、複雑怪奇に絡まりあった事情の全てを即座に見通す事など簡単に出来る事では無くて。だからこそ、人は容易に「間違って」しまう。
……儘ならないものだ。
「私は……君の様にはなれなかった。
君の様に、命だけでなくその心も救う様な事は……私には。
情けないばかりだな」
色々な事に疲れてしまった……だけれどもそんな自分にちゃんと向き合おうとしている、そんな大人の顔をして。槇寿郎さんは溜め息の様に呟いた。
蹲ってしまったその時間に関して、大して関わりの無い自分には何か擁護する事は出来ないけれど。でも。
「……しかし、伊黒さんの命を救ったのは、間違いなく槇寿郎さんです。
槇寿郎さんがその日その場に居合わせなければ、伊黒さんは既にこの世には居ない。それだけは何があっても変わらない。
槇寿郎さんは、伊黒さんだけでなく、きっと大勢の命を救っていた筈です。それは、誰にも出来る様な事では無いし、槇寿郎さんが救った命は俺には救う事は出来なかった命です。
伊黒さんもきっと、槇寿郎さんに感謝していると思います」
槇寿郎さんが気を利かせようとした結果、消えない傷をその心に負う事になったのだとしても。
「生きたい」と抗う為に逃げる事を選んだ伊黒さんは、その命を救ってくれた槇寿郎さんを恨んだりなどしないだろう。寧ろ強く恩義を感じている方だと思う。
最後には心折れてその刀を振るえなくなったのだとしても、それでも槇寿郎さんが戦い続けた日々に必ず意味はあった。大勢の人が救われていた。それは途方も無い価値のある事だ。
情けない部分は確かにあっただろうが、それだけではない。
「……そうか」
手の中の杯に映った月を視線を落とすかの様に、そっと目を伏せてそう呟いた槇寿郎さんのその表情は。
何処か救われた様な印象を受けるものであった。
◆◆◆◆◆
【鳴上悠】
奥さんを喪ってから色々な事から逃げてしまっていた槇寿郎さんを見て、ほんの少しだけ叔父さん(堂島さん)に似ているなと思っている。
【煉獄杏寿郎】
酒浸りだった父がちょっと更生し始めたのを嬉しく思っている。
【煉獄千寿郎】
大切な兄上の命を救ってくれた時点で悠への好感度は既に高い。
【煉獄槇寿郎】
情熱はあっても「執念」は無かった為、折れる時はポッキリ折れてしまった。
色々な事から逃げて向き合う事を止めてしまっていたが、まだやり直せる機会を得て少しずつ変わろうとしている。
無為に過ごしてきた事で喪ったものは決して少なくは無いが、それでも。
伊黒さんの過去に何があったのかを正確に知っている人。
伊黒さんの事情をその時は詳しくは知らなかったとはいえ、その心に不可逆の傷を負わせた従姉妹との対面をさせてしまった事を今でも後悔している。
炎柱の書を通して縁壱を知ってしまった事で『才能』にかなりコンプレックスを感じてしまっているが、悠に対しては『才能』云々とはまた別次元の話だと思っているのであまりコンプレックスは感じていない。