──ナイスネイチャとキスをした。
ベッドの上で枕に突っ伏し、トウカイテイオーはその事実に深く熱く息を吐いた。
秋の始めの冷たい空気が、火照った足の裏を冷やして心地よい。電気を消した部屋の中に、窓の外からカーテン越しに街灯の明かりが差し込んでいる。
しとしとと降る、雨の音。うつ伏せになったテイオーの腰ほどの位置の隣に、ウマ娘一人分の体重。シングルサイズのベッドがきしみ、テイオーの体はほんの少しだけそちら側に傾いている。横腹に感じる高い体温。尻尾がふわりと背中に乗せられ、心臓がどきりと跳ねる。
「雨、止まないね」
ナイスネイチャが座ったまま、誰に聞かせるでもなくぽつりとつぶやいた。
それに、何と返したものだろうか。あー、とかうん、とか。そんな唸りのようなものしか出てこない。
彼女が何を考えているのかが全くわからず、それ以上に自分自身が何を考えているのかもわからなかった。
どうしてこうなっちゃったんだろう。きっかけは、恐るべきことに自分だった。ネイチャをこの部屋に招き入れたのも、自分だ。その理由を作ったのも、比重で言えばやっぱり自分。
つまりは、一連の流れはすべてトウカイテイオー自身がプロデュースした事になる。そんなばかな。
というか、なんでナイスネイチャはこの流れに乗ってきたのか。いつでも降りられただろうに。
唯一の救いは、この行動がお互い同意の上での物だった事だろうか。
酸素不足で頭がくらくらしていた。我ながらとんでもなかった。今夜、誰もが羨む天下のトウカイテイオーは、ルームメイトが留守なのを良いことに、同性の友人を真夜中のお部屋に連れ込んで、お互いの欲望のままにちゅっちゅしていたのだ。それもさっきまで。
(……ちゅっちゅって何さ)
鈍い頭は本当に下らない事ばかり考えてしまう。
それでもトウカイテイオーは考えることを止めなかった。なぜならば、どうして自分がナイスネイチャにキスをしたのか、その理由が今になってもわからなかったからである。
【ネイテイ短編】レイニーデイ・イン・ザ・ルーム
その日は朝から台風の予報で、テイオーは普段よりかなり早めの時間に栗東寮を出た。どうせ屋外の施設は使えないし、屋内は予約でいっぱいになってしまうだろうから、それならば雨風が本格的になる前に登校してしまおうと考えたのだ。
ところが思ったよりも早く天候は悪化し、校門が開いてほどなく、何処からか吹き飛ばされてきた大きなトタン板が、電線を巻き込みつつ体育館の窓ガラスを粉砕してしまった。
当然体育館は使用禁止。電線が切れたので電源が必要なトレーニング機器も動かず、復旧と生徒たちの安全のため、本日休校の連絡がスマホに届く。
照明も落ち、窓の外はとんでもない暴風雨。とても寮に帰れるような天気ではないし、そもそもさっきの今である。何が飛んでくるかもわからない。
教室は解放してくれるというので、そこで外が落ち着くまで時間を潰そうと向かった先、トウカイテイオーはナイスネイチャと出会ったのであった。
「あれ、おはようテイオー。テイオーも来てたんだ」
「おはよー! ネイチャ。ねえねえ見た? 体育館凄いことになってたよねー」
「ああ、あれ凄かったね。どーんっ! って音がめっちゃ響いてて。ネイチャさんちょっと怖かったかも」
雨の音に満たされた教室での、二人きりの他愛のないお喋り。人気のない校舎での非日常の共有は、二人の間になんとも言えない楽しげな連帯感を生む。
水筒の暖かいお茶を分け合い、湿り気のある空気のにおいを吸い込む。薄暗い部屋はほんの少し肌寒くて、思わず指先をこする。
窓からのぼんやりとした光源に浮かぶシルエット。時にスマホをいじったり、天気予報を調べたり、ネイチャお気に入りの猫動画を肩を寄せ合い一緒に見る。
ふと横を見ると、間近に彼女の横顔があった。薄暗い教室で、一緒に見ていた手元からの明かりに照らされて、うっすらと輝いていた。瞳に反射した光は、銀の粒子を吹きつけた水盆のように、控えめに瞬いていた。
そうして、そうして。気が付いたらトウカイテイオーは、ナイスネイチャにキスをしていたのだった。理由なんてわからなかった。いつのまにかだ。電光石火の早業か、それとも意識のスキをつくような、達人のなせる技なのか。
ともかく、自分から仕掛けた事だけは覚えていた。彼女の灰色の瞳が驚愕に大きく見開かれるのを、文字通り目の前で見た。
ネイチャはそのまま少しだけ瞳と尾を揺らすと、何故だか、振り払う事もなくそっと瞼を閉じた。
ずいぶんと長い間、口をくっ付けていたように思う。どちらも身じろぎすらしなかった。テイオーは目を閉じることもせず、ぼんやりとネイチャの顔を見ていた。ぼやける視界。雨の音が耳に染み入る。お互いに息すらも止めていたんじゃないだろうか。
初めての唇の感触は、別に漫画で読むような、素晴らしいものだったりはしなかった。唇なんて自分にもついている。上下の唇をすり合わせれば、お手軽に再現できるだろう。
ネイチャの肌からは、肌みたいなにおいがした。これも当たり前だった。
永遠に思えるほどの時間が過ぎ、いい加減息も苦しくなってきた頃、二人の唇はようやく離れた。
教室内に、ぴち、と湿ったものが離れるような、決して大きくはない音が響いた。
「……来る前にはちみー飲んだ?」
「……リップ」
「……。そっか」
それきり会話はなかった。
ほどなく台風はその目に到達し、雨と風が和らいだ。
トウカイテイオーは逃げるように教室を出て、寮の自室のベッドへと飛び込んだ。
普段ならばすぐに話しかけてくるであろうルームメイトのマヤノトップガンは、父親に会いに行くから外泊許可を取ったと昨日の晩に言っていた。
もしも今ここに居たなら、勘の良い彼女の事だ。具体的な事はまあ別としても、何かあった事をたちどころに察知してしまうだろう。ただ、それを抜きにしても、今日はこの静けさがありがたかった。
うつ伏せにシーツへ顔を埋めながら、驚くほどに心は落ち着いている、気がする。レース中、ゾーンに入った時のような集中力。部屋の天井から自分を見下ろして、感覚が透き通り、頭上から舞い落ちるほこり一つ一つの動きさえ、手に取るようにわかるような錯覚。
どれほどそうしていただろうか。具体的な思考は像を結ばず、そっと唇に指を這わす。指の感触。廊下を行き交う寮生たちの声が扉越しに薄く聞こえてくる。
ぼうっと唇の弾力を確かめながら、トウカイテイオーはいつの間にか眠りに落ちていた。
「…………ん……」
目が覚めるともう外は暗くなっていた。うつ伏せだったせいか首が少し痛いし、髪をほどかなかったせいで肩もこっている。前髪にはよくわからないクセがついており、おまけに妙な時間に寝たせいか寝汗が気持ち悪い。
時計を確認すると中々に良いお時間だった。寮の大浴場を使うなら、そろそろ出なくてはならない。
何せ栗東寮にはあのテイエムオペラオーがいるのだ。彼女は独自のこだわりをもって毎日、浴槽に大量の薔薇の花びらを浮かべて楽しんでいるのだが、他の寮生に迷惑を掛けないよう、大浴場の終了間際にやってくる。
当然皆はその事を知っているので、少しだけ早めに入浴を終える。あくまで共用の施設ではあるので別に一緒に入っても問題は無いし、彼女も気のいいウマ娘。嫌がったりはしないだろうが、なんとなく癒しのひと時を邪魔するのも忍びない。
軽く首をほぐしつつ、ぐちゃぐちゃした頭をそのままに着替えをまとめて部屋を出た。廊下で何人かのウマ娘たちとすれ違う。談話室からはテレビを見ながら談笑する声。通りすがりにちらりと横目で見るが、特徴的な赤茶のツインテールの姿は無い。
その事にほんの少しだけ安堵しつつ、小走りで脱衣所の暖簾をくぐった。
そして銭湯に似た作りの通路を進み、角を曲がった先、ぽつんと一人佇む、灰色の瞳とばっちり目があった。
「あっ」
不意打ち。なんてやつだ。なんとも見事な伏兵だった。きっと、お互いに。
思わず視線を下げると、彼女の柔らかそうな、形のいいバストが優しげな緑色のブラジャーに支えられていた。それが何だというのだ。だが今この瞬間だけは、なんだか本当に見てはいけないもののような気がして、視線を上に戻した。当然目が合う。ここは地獄か。
「ねぐせ……」
ナイスネイチャが口を開く。はっとなって前髪を押さえた。なんだか少し、責められているような気分になったのだ。
お前、あんなことをしておいて、よくもまあスヤスヤと眠っていられるものだな、と。もちろんただの想像だったが、なにせ巨大な負い目がある。居心地の悪さを感じつつ視線をさ迷わせていると、ふとある事に気がついた。
「……もしかしてネイチャも寝てたの?」
いつものツインテールが妙な形にねじれていた。下は制服のスカートで、なんだか大きなシワがある。おまけに頬の片方がほんのり赤くなっていた。うつ伏せて寝ていたに違いない。
「あ、あはは……うん。アタシもちょっと寝ちゃってました……はい」
「そ、そうなんだ。……ボクと同じだね」
「そっか、そっか。テイオーも寝てたんだ」
「うん……」
「ねぐせだもんね」
「ネイチャもね」
「いやあ、お恥ずかしい」
「あはは……」
「はは……」
会話が途切れてしまった。沈黙が場を支配し、気まずいようなそうでもないような、中途半端な硬さの空気が脱衣所に満ちた。
「あの……テイオー……あんまり見られてると、その、ちょっと、脱ぎづらいかなーって……」
「うわっ、ごめんっ!」
慌てて目の前の脱衣カゴに取り付く。熱くなった顔を冷ますように息を吐き、テイオーはおずおずと服を脱ぎ始めた。ぱさりぱさり、自分の衣擦れの音を聞かれる事が、なんだか恥ずかしく思えてくる。
すぐ隣でスカートのジッパーを下ろす音がした。隣に居るので必然、音の流れは双方向。ネイチャが服を脱ぐ音を聞いてしまった。それを意識した瞬間、猛烈に恥ずかしくなってくる。けれどもここまで来たとなるともはや後戻りはできない。浴室の扉が開き、タオルを持った後ろ姿が湯気の向こうに消えてゆく。意を決して下着を外し、その背中を追いかけた。
「……静かだね」
「……うん。静かなお風呂もいいね。ボク、この時間に来るの初めてかも」
「確かに。アタシもこの時間に来るの初めてだから、新鮮。たまに来てみよっかな……」
「あー、あー。ネイチャ、すっごい声響くよ」
「あー。……ホントだ」
ボディソープでぴかぴかに磨き上げた体を肩まで湯船に浸すと、ざばりと溢れる音がした。じわじわと全身から染み込んでくる心地よさ。体を洗う内に、お湯の温かさはある程度心も体も解きほぐしてくれたようで、テイオーとネイチャは並び合って座っていた。
ふんわりと投げ出された四肢がお湯にたゆたい、未だ緊張はあるものの、ぎこちない空気はある程度緩和されている。普段通りとまでは行かないがそれでも会話ができるようになっていた。
「ねえ」「あのさ」
被った。
「あ、お先にどうぞ……」
「あ、えっと、うん。ネイチャから言ってよ」
「あ、うん……」
ネイチャは浴槽の縁に敷いたタオルに頭を預け、枕にするようにして天井を見上げていた。暖色の明かりに照らされて、額から輝くしずくが流れ落ちる。
「その……ですね、アタシたち、朝さ……その……ス……しちゃった、じゃないですか。その……なんでかなって……」
やはり来た。このまま今朝の出来事もお湯に溶けてしまえばよかったのに。テイオーはほんの少しだけそう思ってしまった自分を、頭の中でくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放り込んだ。
下まぶたに知らず力が入る。結局のところ逃れることなんて出来ないのだ。テイオーはネイチャと同じように浴槽の縁を枕にしながら、彼女を見た。ここに来てからもずっと考えていた。体を洗っている時も、髪を洗っている時も、尻尾の手入れをして、ネイチャとぎこちなく話題のトリートメントについて話をしていた時も、今こうして湯船に浸かり、隣り合って座っている時も。
だって、きっとネイチャだってファーストキスだったのだ。それを、奪った。そして、その理由を未だ出せずにいる。
「その……」
「うん」
「あ、あの……」
「うん……」
湯気の向こうからネイチャがじっと、テイオーを見ている。
不安げに揺れて、こちらの答えを待ってくれている。
そして、時間が経つほどに自身の行いが重く心にのしかかってくる。
答えは出ない。いくら考えてもあの時の自分が何を思っていたのかがわからない。そもそも理由なんてないのだろうか? それはない。わからないが、断言できる。物の弾みだった? 本質はそれに近いのかもしれない。でも違う、ような、気がする。何か大事な真ん中が抜けている気がした。
あの時、二人きりの教室。仲のいいともだち。薄暗くて、灰色の瞳が銀に照らされていた。風が強くて、危険なこともあって、でも安らかで、そして窓の外には……
「あ……雨が」
「雨……?」
「雨が、降ってた、から……」
なんだそれは。涙がこみ上げてきた。お風呂場で、素っ裸で、ホントのホントはもう逃げてしまいたくて、全てをさらけ出していて、もう何もないのに、こんな言葉しか出すことができない。
意味不明な事を言いつつ、急に泣き始めた自分を見て、ネイチャが慌ててこちらに駆け寄ってきた。酷いことをしたのに、慰めてくれようとしている。ごめんね、なんて謝っている。謝らなきゃいけないのはこちらの方なのに。浴室にすすり泣きが反響し、もし誰か他のウマ娘が聞いていればきっと七不思議の仲間入りだ。
ネイチャに背中をさすられながら、しゃくりあげる。俯いた視線の先で、ネイチャのむき出しの胸が、泣いている自分をなで擦るたびに、ふるふると形を変えている。
頭の中はぐちゃぐちゃでも、その柔らかそうな感触だとか、先端の色の部分だけははっきりと自覚できて、そんな事を考えている自分にさらに自己嫌悪が加速した。
「テイオー、泣かないで、大丈夫だから……ごめん、テイオー……」
「ち、ちがっ……っ……ごめん……ネイ、チャ……ボク、わから、なく……って……ごめん……」
それからしばらく、テイオーが落ち着くまで、ネイチャはテイオーの背中をさすり続けた。
なんだか堂に入った慰めっぷりだなと思っていたら、彼女は実家がスナックで、時たまこんな風に泣いている大人を見てきたと教えてくれた。
お風呂から上がって服を着ると、ネイチャはテイオーを鏡台の前に座らせ、その長い髪を漉き始めた。優しく頭を滑る指先に、また泣きそうになってしまう。軽く鼻をすする音は、ネイチャがスイッチを入れてくれたドライヤーの音と彼女の指先に混じって、あたりに散らばっていった。
「ねえ、テイオー」
鏡に映るネイチャは、Tシャツに短パンというラフな格好をしている。
顔を見るのがなんだか憚られて、目を伏せた。
「……なに」
「その、さっきのさ……」
「……」
「さっきさ、話し始めが被ったじゃん」
「……」
「あの……何だったのかなって……」
つま先を見ながら考える。確かに、テイオーはネイチャに聞きたいことがあった。もちろん一番は謝ろうと思っていたのだが、それももう瓦解した。今はこうして気を使ってくれているが、ここを出れば気まずい空気のまま別れ、次第に話さなくなり、きっと自分は友達を一人失うのだろう。
ならば、最後に聞いてみるのもいいかと思った。心に引っかかっていた事を。今朝、教室でキスをされた時、どうしてネイチャは。
「なんで……目をつぶったの?」
「へっ?」
「その……朝、ボクが……キス……した時。なんで目をつぶったのかなって……ボク、自分でもワケわかんなくって、でも、蹴っ飛ばされても、しょうがないって思ったのに……その……」
言葉が止まる。ネイチャは少し、考え込んでいるようだった。ドライヤーが切られる。
「その……」
「うん」
「えっと……ね……」
「うん……」
「わ……わかんない……」
言葉が耳を飛び越え、頭上を通り過ぎていった。
「え……?」
「その……ええと、雨が、降ってたから……とか……?」
「……あの、ネイチャ」
「ああいや! 違うから! バカにしてるとか、蒸し返してるとかそういうんじゃなくって! その、ほんとに! ええっと……」
ばたばたと手を振る気配に振り返ると、ネイチャは首まで真っ赤になっていた。尻尾はせわしなく振られ、耳も落ち着かない。困ったように下げられた眉の下で、迷いに濡れる瞳がくるくると回っている。
「アタシにもよくわかんなくって……それで、その……なんか、テイオーの目を見てたら、その……アタシも、目をつぶっちゃったって言うか……」
「ええー……?」
「ああっ、なにその反応! テイオーだって分かんないのは同じじゃん!」
「それはまあ、そうなんだけどさ……」
「なんかグルグルなってたら、テイオー行っちゃうし! 帰ってモヤモヤしてたら、そのまま寝ちゃってるし、それで! それで……」
不意にボリュームダウンする声。俯いたネイチャからは表情が伺えない。ひとしきりもじもじした後、ナイスネイチャは顔を上げ、未だ赤みの残る頬でテイオーを見た。
「あ、あのさ、テイオー……」
灰色の瞳が揺れる。
「今日の夜中、さ。……また雨が降るんだって。今朝、教室で天気予報見たときに、ニュースに出てた……んですケド……」
確かめてみる? その一言で、今夜の予定が決まった。
ネイチャがスマホを取り出し、ルームメイトに泊まりを伝えている。お互い一言も喋らないまま、ぎこちない動きで寮の廊下を並んで歩く。
扉の前につくと、周囲に誰も居ないのを確認してからさっと部屋に入った。
とりあえず自販機で買ったにんじんジュースだとか、備蓄のお菓子を用意したりしてみるが、お互い緊張しており食指も伸びない。
予報の時間が近づくにつれ口数も少なく、時刻はそろそろ日付が変わろうという頃。窓枠に静かに雨粒が伝っていた。
「……テイオー、電気消していい……?」
「……うん」
ありがたい申し出に明かりを落とす。お互いに茹で蛸のような顔色をしている。もし電気をつけたまま近づいたなら、恥ずかしさと興奮のあまり気絶するかもしれない。
ばくんばくんと心臓がうるさい。耳や尻尾はむずむずして、手が細かく震えている。落ち着くために吐いたため息さえも震えている。
ベッドの上で静かに膝を付き合わせて座った。そっと膝立ちになり、ネイチャの肩に手をかける。彼女はびくりと一つ大きく震えて、ぎゅっと胸の前で手を握る。
柔らかなベッドに膝がめり込み、体勢が悪い。背中も反り腰になって少し辛い。だが、視線は目の前の少女から離せない。期待と不安に潤む大きな灰色の瞳が、光を受けて白い月のように輝いている。
キスをする。今から、トウカイテイオーは、ナイスネイチャとキスをする。
キスの理由を見つける。そういう名目で。自分の意志で、お互いの意志でキスをするのだ。
「てい、おー……」
呼吸が浅い。二人の影がゆっくりと近づく。短すぎる距離が、一つに重なった。
「……んっ……」
ぺったりと、触れ合っているだけのキス。
くらくらと快感を伴うめまいに脳が揺れる。まるで背骨から後頭部にかけて、優しく宙に放り投げられたような不思議な浮遊感に見舞われる。
唇の感触は朝に感じた時と変わらなかった。伝わってくるものはあくまでも体の一部に触れた感覚であり、新鮮さだとか物珍しさは一つも無いのに、それとは全く別の部分で衝撃が走り抜けている。ふにふに。ぶにぶに。感触が唇から唇に伝う。鼻息が相手の顔に掛かるのがなんだか恥ずかしくて、ものすごくゆっくり息を抜く。
おずおずと、ネイチャが背中に手を回してくる。今度はこちらの肩がびくりと跳ね、そのまま静かに、抱きしめ合う。そして、もつれるようにゆっくりとベッドに倒れ込んだ。
触れあっていた唇が音もなく離れ、二人は涙のにじむ瞳を見つめ合ったまま余韻に浸る。
「……なんか、テイオーのにおいがした」
「そっ、そういう感想やめてよ!」
ネイチャが少しだけ荒い息を整え、とろけた瞳で話しかける。
「ほら、朝は、リップしてたじゃん……」
「う、うん……」
「こっちの方が、好きかも……」
「……ぅぁ……」
もう顔も見られない。
ずばっと音を立てながらうつぶせに寝転がった。くすくすと笑う声。
心臓は未だ早鐘。ただ、緊張のピークを飛び越えたためか、テンションの波はそのままに徐々に落ち着いてきていた。ほっと弛緩した空気に、窓の外から入ってきた低い温度が忍び寄る。しばしの沈黙。ただ、窓の外を眺めるだけの時間が過ぎて行く。
背中のシャツがはだけ、ちょっとだけ肌寒さを感じるそこに、体を起こしたネイチャの尻尾がふわりと乗せられて心臓が跳ねた。
望む答えはあっただろうか。街灯は青く輝く。外界から切り離された部屋は静かな雨音に満たされて、二人の周囲が水底に沈んでゆく。
「……雨、止まないね」
ナイスネイチャが座ったまま、誰に聞かせるでもなくぽつりとつぶやいた。
顔は見えなかったが、なんとなく微笑んでいるように思えた。
返事を何と返したものだろうか。あー、とかうん、とか。そんな唸りのようなものしか出てこない。
けれども、心は大いなる充足感に包まれていた。
彼女が何を考えているのかが全くわからず、それ以上に自分自身が何を考えているのかもわからなかった。
ぐるぐると考えてみる。真面目に、真剣に答えを返したいと思った。けれども心地よかった感覚はすうっと冷えて、なんだか思考がくだらない方へ向かおうとする。
なんでだろう。本当はわかってるのかも。だってキスだよ。キスだもん。マヤノがいなくてよかった。どうしよう。普通じゃないかも。なんでネイチャは。ちゅっちゅ。いやなにそれ。どうしよう。ボクは。もしかしたら。ネイチャは……。
「テイオー」
はっと我に帰る。いつの間にか、同じようにうつ伏せになったネイチャがこちらを覗き込んでいた。
「難しい顔してるよ」
優しい眼差しだった。その瞳に見つめられて、雑念がほどけてゆく。
何もかも、わからないままだ。それでもただ一つ確かだった事。それは「トウカイテイオーはナイスネイチャとキスをすると幸せな気持ちになる」という事だった。
ならば、それを真っすぐに伝えればいい。物事はシンプルで、きっとこれが正解に一番近いのだ。
そうして。もしも本当に許されるのならば。ネイチャも、同じ気持ちだったらいいのにな。そんな風に思う。その瞬間、何かが見えた気がした。
「ねえ、ネイチャ」
「……なに?」
「……目、閉じないで。ボクのこと、見てて欲しいな……」
頬に手をやり、唇を寄せ、繋がる。そっと背中に手を回し、体も密着させる。お互いの胸が押し付けられ、形を変えている。
幸せな時間。間違いなく、この瞬間トウカイテイオーという少女は世界で一番幸せな少女に違いないのだ。
たっぷりと時間をかけてお互いの体温を伝えあい、息を吐く。ネイチャはずっとテイオーを見ていた。テイオーは唇を離すと、彼女のその瞳を真っ直ぐに見据えて言った。
「手を、つないでも、いいですか」
まさかの敬語である。でもしょうがない。もう首まで真っ赤になっている自覚がある。
そろりそろり、お互いの手を胸の前で、指を絡めて握りあった。あごを引いてこつんとおでこを触れさせる。心臓が高鳴り、なんだか顔を見られない。口を開くと声が震えた。
「ネイチャ」
「何……?」
「……明後日もさ、雨なんだって」
「うん。……いいよ、テイオー」
「……でもね」
「……?」
勝負所だぞ、トウカイテイオー。
「明日は……いや、明日っていうか今日なんだけどね……朝からさ、晴れの予報なんだよね。……よかったらさ、ネイチャ。その……一緒にさ、出かけない? あの……雨の日に部屋にいるならさ……晴れの日は、一緒に外に出ようよ」
ボク、ネイチャともっと仲良くなりたいんだ。正真正銘の想いを乗せる。
窓から光が差し込み、ネイチャの灰色の瞳に掛かるのが見える。
ほんの少し開いた瞳が、キラキラと灰銀に輝く瞳が、しょうがないなあ、じゃあ付き合ってあげますか。なんて言いたそうな優しい笑顔に変わる。
その顔がなんだか嬉しくて、その距離感がこそばゆくて。めまいのするような幸せな気分になって、テイオーも笑った。笑顔の彼女に見とれていた。
繋がれた手が暖かい。さあ、起きたら何をしようかな。明日の予定に想いを馳せながら、二人の夜は更けて行く。目覚める頃には、きっと澄み渡る秋空が広がっているだろう。
終わりです。秋の夜長の妄想。ネイチャとテイオーがキスする話。