「命短し恋せよ乙女、なんてガラじゃないと思うんだけどなぁ」
白く清潔な空間でナイスネイチャは独りごちた。
小さく開いた窓と揺れるカーテン。お金の掛けられた個室。真新しい蛍光灯からは、降り注ぐ光すらも白く見える。
手元には自らの名前が刻まれた赤い表紙の日記帳。目の前には規則的なリズムを刻む点滴の雫がひとつ。
簡素な椅子に背を預けながら管の行き先を辿れば、一人の成人男性が心地よさそうに眠っていた。
「さっさと起きてさ、アタシにネイチャさんの事を教えてくれませんかね」
頬を触ってみる。うりうり。少し痩せただろうか。いや、昨日も来たのだし、そう思えるのは自分が気弱になっているからだろう。
そのまま手を下に動かせば、ぺたぺたとした感触に混じってざらざらとした無精髭。なんとなく伸ばしている様は想像できないし、きっと目覚めれば綺麗に剃り落としてしまうのだろう。そんな風に思えた。
「アタシさ、多分絶対にアンタの事好きだったと思うんだよねー」
日記帳の表紙を撫でて感触を確かめる。学園入学時につけ始めた日記である。泣いたり、笑ったり、お出かけしたりと中々に波乱万丈な青春の思い出たち。順々に読み進めたその最後のページには、デートの約束を取り付けた少女の喜びと緊張が綴られていた。
「声も何も知らないのにね」
親指を動かし、彼の唇を撫でる。少しカサついた感触が伝わってくる。きっと日記を書いた自分が見たら、一度卒倒して夢の中でもう一度卒倒するくらいの事をしているのだろうが、今この瞬間がどこか浮世離れしているように感じてしまって、まるで犬猫を撫でつけるように無感情にその指を踊らせる。
「キスしたら、起きたりしませんかね」
無作為に放たれた言葉は、放った本人にすら聞かれることなく、病室に差し込む光に解けて消えてゆく。
そっと身を近づければ、自分によって遮られた光が彼の顔に影を落とすのが見えた。
このまぶたの下にはどんな色の瞳が眠っているのだろう。そんな事を考えながら、胸に耳を当て、心臓の音を聞く。
ごうごうという呼吸音に混じって血液の巡る音。体温を感じながら、自分のおでこに貼られたガーゼのパッチをなぞった。
──記憶喪失。
ほんのちょっぴりの擦り傷にため息を吐く。
なんてこと無い、明日にでも消えていそうなその傷こそが、ナイスネイチャからトレセン学園で送った三年間の記憶全てを奪い去った原因であり、目の前で眠りこける人物……彼女の全てを支えきった専属トレーナーが意識不明となった事故の残り香なのだった。
【ネイトレ短編】日々大切に
それはもう、ド派手な事故だったらしい。
車は爆発しながら宙をぐるりと一回転。巨大な炎が標識を輝かせ、道路はでっかく陥没して破裂した水道管からは輝く虹。
たなびく煙に巻かれた鳥たちがぐるぐると旋回し、すわ襲撃かと勘違いしたアル・カポネみたいな男たちがパンツ一丁にグラサンとハットで踊り出す。
ヘリが飛び、猫も飛び、何故か孔雀がとてとて歩き、それを見てびっくりしたご近所のヨシエおばあちゃんの喉に詰まったおモチも飛び出して、何が命の恩人なのかしら、引き取り手の無い感謝の気持ちがあっちへ行ったりこっちへ来たり。
騒動に惹かれてやってきた野次ウマ達のスマートフォンの先端がぴかぴか光り、ギターのネックに火炎放射器。軽業師がよくしなる棒の先に取り付いてリズムを刻み、超改造された殺人トレーラーとモヒカンが乗り回すバイクがエキゾーストを世紀末。そう、想像するにここは世紀末です。
そんな混沌に巻き込まれた不運なウマ娘、ナイスネイチャはと言えば、形の良いお尻を丸出しにして、往年のカンフー映画よろしく八百屋さんの果物台のど真ん中に上下逆さで突き刺さっていた所を救急隊に発掘された。
あの日の自分がスパッツを履いていたことを褒めてあげたいと切に思う。
そして、そうして。朦朧とする意識の中、柑橘の果汁を滴らせながら明滅する視界の端に辛うじて捉えたものこそが、どこかから飛んできたおモチを踏んづけてすっ転んだ間抜けな男性の姿。つまりは彼女のトレーナーである。
物的被害は甚大、けれど人的被害は怪我人が二人というなんとも言えない大事故で、その具合もぱっと見ればなんてことない、両者ともにおでこを少し擦りむいただけというお粗末なもの。関係各位から不幸中の幸いだと安堵のため息が漏れるも、よくよく見れば少し様子がおかしい。
「あっ、これ記憶喪失だ。マヤわかっちゃった」
グレープフルーツの香りと共にすぽんと頭の中から抜け落ちた三年間。お見舞いに駆けつけた栗毛のウマ娘による一言により、病室の様子はこれまた大騒ぎとなってしまったのである。
MRIだMRAだ急げ脳波測定だとナイスネイチャが忙しく検査室を駆けずり回っていた頃、トレーナー側にも問題が発覚。
この男、目覚めない。ほんのちょっぴりの擦り傷以外は丸っきり健康体であり、何なら実に幸せそうな顔をしてよだれまで垂らしている始末だと言うのに目覚めない。検査にも何も引っかからず、問題が無さすぎて何だか腹が立ってくる程なのだが、一応は意識不明の重体人である。
尽くす手は尽くし、準備すべきは準備して、ナイスネイチャは記憶が戻るまで、トレーナーは目が覚めるまで様子を見るしかないと判断が下されてから実に一週間。事態は進展を見せず、こうしてネイチャは毎日放課後に彼の病室に通ってはとりとめもない時間を過ごしている。
「トレーニングメニュー、すっごい細かく組まれててびっくりしましたよ。結構マメな方だったり? アタシも気付いたらめっちゃ体仕上がっててさー、何となく動かし方は体に染み付いてるみたいだったからよかったんだけどね」
声を掛けながら軽く腕まくりをしてみせる。記憶の中にあるものとはまるで違う体つきにお風呂場で仰天したのは記憶に新しい。体に刻み込まれた努力の轍が否応なしに自分の失われたものを自覚させる。
「ビデオとかも見たよ。重賞とか、走っててさ……アタシみたいなのがびゅーんって。ビデオの中のアタシ、アタシじゃないみたいだった。キラキラしてるっていうのかな」
探そうと思えば自分の痕跡はそこかしこに置いてあったし、探そうとしなくてもきちんと纏めて整理されていた。何より、たったの三年間なのだ。長く大切な三年間ではあるが、中学生に逆行したネイチャの人生からしてみたって覚えている事の方が多い。
「トレーナーノートも読んだ。切っ掛けになるかもって理事長さんが特別に許可をくれたんだよね。アンタなら許してくれるって言ってた。なんていうか、恥ずかしくなるレベルでアタシの事ばっかり書いてあったんだけど。何で夜中に尻尾のお手入れしてる事知られてんの? アタシの事好きなの? いやまって今のナシ。恥っず」
揺れる尻尾が床を叩く音がやけに大きく響いた。
ナイスネイチャは椅子に座ったままの体を前に倒し、ベッドの空いた部分に顔を押し付けた。カバーを外した耳が、温かな布団の膨らみに触れて軽い音を立てる。何ともなしに息を潜める。そうして声が途切れれば、途端に寂しさがこみ上げてくる。
周囲の人は皆ネイチャに良くしてくれた。行きつけだったという商店街の人々は干渉しすぎず、けれども放っておかずに親しみを込めて沢山の世話を焼いてくれた。
おふくろも店を臨時休業して駆けつけてくれたし、小生意気だった小さな弟は、姉が自分の事を忘れていないかどうか不安で泣いていた。忘れていないと伝えれば、しばらくひっついて離れなかった。
学園でよくつるんでいたという友人たちも、教師たちも、心配こそすれいつも通りであろう距離感で接してくれていた。
自分たちが積み上げた確かなものを感じる一週間。ありがたい。本当にいい人たちに囲まれていると思う。けれどもやはり、心細いのだ。どうしようもなく寄る辺なく、寒さで凍えてしまいそうになる。
「……やっぱりキスしたら起きないかな」
目の焦点を定めないまま、力を抜いてぼんやりゆっくりと息を吸い込む。頬に押しつぶされたツインテールがこそばゆい。消毒されたシーツの香りしか感じないが、途端に落ち着いて、眠りに落ちる寸前のようにゆるりと耳が弛緩してゆく。
見ず知らずの他人のはずなのに、意識不明の重症人の側なのに。ここに来ればナイスネイチャは陽だまりにちょんと置かれた子猫のような気持ちになって力が抜けてしまう。
それはきっと、自分の日記を読んだからではない。
大切に仕舞われた、手編みのマフラーを見つけたからでもない。
明らかに自分では買わなさそうな、可愛らしい洋服を見つけたからでもない。
二人で撮った写真を見つけたからでもない。
立派なトロフィーに隠されるようにして、日に焼けてしまわないよう、ひっそりと飾られた折り紙のトロフィーを見たからでもないのだろう。
「普通はさ、こういう時トレーナーは元気でさ」
ネイチャは大丈夫だよ。
ルームメイトだと名乗った、瞳に大きな星空を湛えたウマ娘の言葉を思い出す。
「アタシの事いっぱい心配してくれてさ、思い出の場所とか連れて行ってくれてさ」
記憶を失くしちゃっても、心はちゃんと覚えているんだよ。だってネイチャは、トレーナーの事をずっと探してるもん。
「好きなもの嫌いなものも知られちゃっててさ、それにドキドキしてみたりなんかしてさ」
だから、今は寂しくっても大丈夫だよ。ちゃんと笑える日が来るから。だから泣かないで、ね。ネイチャ。
「……記憶が戻るのを怖がったりしてさ。そういう展開じゃん?」
灰銀の瞳が潤む。魂が叫んでいた。一緒に作り上げた絆が、行き場のない声が、形にしたくとも、その形の分からないもどかしさが心臓を叩いている。
この一週間はいつだって寂しかったのだ。あるはずのものが無い喪失感。失ったものが何なのかすら分からない不安感。知識では知っていても実感がない。感情が覚えていても実態がない。
その喪失感を埋めたくて、もっともっと欲しくて。そっと布団をめくり、靴と靴下を脱いでベッドによじ登った。点滴の管を引っ掛けないよう注意を払いながら、すっぽりと横に収まる。
じわじわと体が温まってゆく。呼吸をする。寒さから開放される。もう一つ深く。ゆるく握った掌が形を変える。きっと自分は恋している。記憶をなくす前も、無くした後も関係なく。この暖かさに恋をしていた。
足を絡め、腕を伸ばして体を預ける。腰も、胸も、体の中身全てを押し付けるようにして抱きしめる。思考が熱に解けてゆく。緊張だとか、興奮だとかでは無い。深い安らぎと安堵。記憶は無くとも体が覚えている。そのまま、柔らかい浮遊感に身を任せて落ちて行く寸前。
ナイスネイチャは自分の唇を指でなぞった後、目の前で眠る彼に優しく覆い被さり、ゆっくりと滑らせた。ちくりと硬い痛みが伝う。
「……ばか」
精一杯の悪態。これくらいは許してほしい。瞼を閉じれば直に穏やかな寝息が二つ、白い部屋に降り積もり始める。
そして。薄明かりの中で金色に輝く星の夢を見た気がする。
夢の中の自分は、まばゆいそれに憧れて走る。掌を目の前にやり、柔らかくも焼き尽くされそうな輝きから体を庇う。けれども視線は離さない。
どうしてもそれに追いつきたくて、追い越したくて走る。そうやって走るうち、自分を呼ぶ声が有ることに気が付く。
温かい声に手を引かれて登ってゆく。きっと今なら何でもできる。目覚めたならば、きっと挨拶を交わせる筈だ。お互いを必要としているのなら。
だってナイスネイチャが大丈夫なら、きっとトレーナーも大丈夫。きっと、そういうふうにできている。
温かい掌が肩を揺する。それは夢か現実か。どちらでもいい。記憶の有無だって関係ない。
良い夢も、悪い夢も平等にすぐ覚めるものだから。ならば目覚めた時にする事は、決めてある。
「……おはよう」
ゆっくりと息を抜くと、ナイスネイチャは緩く閉じた瞼をそっと開けた。
そういう展開、多分全部実現した上で記憶が戻ってネイチャはうにゃる