その日、マリアはロンドン市内のとある貧民街に来ていた。そこに建てられた診療所で週に二度行われる女王陛下肝入りの社会福祉政策である無償医療福祉を行っていた。
「次の患者さんどうぞ」
街に建てられた診療所の中、マリアは次の患者の視察を行う。宮廷医務局の副局長を務める彼女はその第一人者として当番の日にこうして一日で多くの患者を見てきた。
極東で漢方薬や薬学、解剖学の扱いを学んだ彼女は今までのガレノスの治療法は間違っていると公言し、世の中の医者をブチ切れさせていた。しかし彼女はこう宣言していた。
『動物を解剖しただけの人間の医学を信じるのか?馬鹿馬鹿しい……』
と言ってしまい、火に油を注いでいた。しかし、彼女の医学における知識は実に豊富であ。り血液循環説を信じ、実際に人の解剖を行っての手術も行ったと言われている。そのおかげか彼女の手に掛かれば必ず病気が治る『神の産んだ医者』と庶民から呼ばれ、その名声は田舎町からアルビオン全体に広まっていた。
そして、その名声を聞きつけた王室は周囲の反対を押し切って彼女に治療を頼み込み、その当時病に伏していた当代女王陛下を。今までどんな医者もお手上げだった病をたった三週間で治した話は有名だった。
「先生、次の患者さんですが……」
看護師がやや言いにくそうにしただけでマリアは察するとマスクを顔に付けながら答える。
「梅毒患者ね。準備するから入れて頂戴」
「分かりました」
そう言い、マリアは次の患者を診察室に入れるとそこに一人の男がやって来た。それを見て、ややマリアは内心溜め息を吐く。
「(ったく、梅毒患者が多いんだから……!!)」
内心ゲンナリしながらマリアは患者のボツボツしたイチモツを診て軽くため息をつく。
「大丈夫。これは淋病だから健康に過ごせば治るわ」
「えぇっ!?梅毒じゃねえの?!薬寄越せよ!!」
「淋病だから要らないわ。はい次の患者」
そう言うと、その淋病患者は薬がもらえない事にキレたのか分からないが殴りかかろうとしてきた。
「この野郎…っ!!」
しかし、その瞬間。男の腕を誰かが掴んだ。
「患者様。ここは病院ですので、お静かに願います」
そう言った瞬間、男の腕を掴んだ体格の言い青年は患者をそのままベットに叩き付け、イチモツを閉まった上裸の男はそのままトボトボと帰って行った。その青年を見ながらマリアは言う。
「悪いわね、クラウス」
すると、クラウスと言われた青年はマリアを見みて頭を垂れながら答える。
「いえ、主人様の命令に従うのが。私ですので」
クラウス・ハーベー。それが彼の名前である。マリアの護衛を務める若い見た目の青年であった。彼は今白い服を着てこう言う診察に文句のある患者を取り押さえる役目や、マリアの助手を勤めていた。普段滅多に帰らないマリアの家の執事も担当していた。
「ここで主人呼びは止めなさい」
「はっ、申し訳ありません」
そう言うと、クラウスはマリアの手伝いの為に漢方薬の処方を行っていた。
彼女がたった三週間で女王陛下を治した話は一瞬でヨーロッパ全体広がり、それまで千年以上続いて来たガレノスの医療は間違っていたのだと次第に誰もが思うようになり。多くの医者が彼女の元に馳せ参じ、弟子入りを申し出てきた。それがおよそ十五年前のことだった。
弟子入りを求める医者の多くをまとめる為に。女王陛下を救った見返りに彼女は多くの褒賞を受け取っていた。爵位を貰い、家や医療を広める為の施設まで与えられていた。そしてそこで、女王陛下とマリアは世界一の医療大国を目指してアルビオン全体で様々な改革を行なった。そのうちの一つが市民の健康意識を上げる為の無償健康福祉であった。ただでさえ多くの富裕層から治療のための予約があるにも関わらず、彼女はこうして市内に建てられた診療所で多くの患者の診察を行なっていた。
「マリア様、そろそろお時間です」
「ええ、分かったわ。次の予定は?」
「次はオイニットー伯爵様の診察。そしてベルリンよりお越しになられましたノイリッツ侯爵様の手術であります」
「あぁ、もう忙しいなあっ!!」
予定を聞き、マリアは頭を掻きながら叫ぶ。しかし、クラウスは呆れたようにマリアに言う。
「ご自分がされた事でしょうに……」
そう言い、着替え終えたクラウスとマリアは車に乗り込む。車内には簡単な治療台と薬の材料を入れた棚や調合台まで入れた特別製だ。これも女王陛下から受け取った物の一つであった。
マリアに弟子入りした医者は、彼女の開いた学校により『ヒポクラテスの誓い』の基、誰であろうと治療を行い。その薬や治療法は全て免許制などにし、医療制度を確立させていた。そして今は名実共に医療大国としての名を馳せつつあった。
「クラウス、到着したら教えて」
「畏まりました」
既に多くの弟子が彼女の教えを学び、巣立ち。各地でその医療を広めていた。それは共和国も然りであった。
少しした頃、ロンドン市街のとある邸宅にマリアを乗せた車は到着する。
「到着しました。マリア様」
「…ん、分かった」
車を降り、マリアはその豪邸の中を歩いていく。その後ろで必要な資材を抱えたクラウスが両手に大きな鞄を持って付いて来ていた。
マリアの活躍もあり、現在アルビオンでは女性の社会進出が進んでいた。そのお陰で今では様々なところで工場服を着た女性も見かけていた。
屋敷に入り、マリアはその中の一室。この家の家主にしてオイニットー伯爵家の当主と面会した。
「ご機嫌よう、オイニットー伯爵」
「ああ、名医マリア。良くぞお越しくださった」
ベットに横たわり、顔を此方に向けるオイニットー伯爵。その目はやや緑色に光ろうとしていた。ケイバーライト障害だ。
現在我が国が覇権国家として名を馳せる裏で抱える闇。いまだに明確な治療法が無い難病である。
「目の様子は如何ですか?」
「あぁ…前と変わらんよ。少々見えずらいままだ」
伯爵はそう答えると、マリアは触診を行い。最後に目に光を当てて確認する。
「……分かりました。薬を処方するのでちゃんと服用して下さいね」
「分かった……」
そう答えると、伯爵はマリアに縋るように聞く。
「名医マリア。私の目は治るのでしょうか?」
その問いに、マリアは少し間を置いて答える。
「……いずれは治りましょう。それまでの辛抱です」
「宜しく頼みます。私に色を、孫の目をしかと見届けることのできる目を。お与え下さい」
その願いに、マリアは真顔のまま家を去って行った。
「……ご主人様」
「……なに?」
帰り道、クラウスの問いにマリアは答える。
「ケイバーライト障害の治療法は如何でしょうか?」
「そうね……ある程度方針は固まったわ」
「っ!?では……!!」
途端、顔が明るくなるクラウスにマリアは厳しい現実を突きつける。
「でも今行うわけにはいかない」
「……何故です?」
クラウスの問いにマリアは答える。
「この治療法は今までよりも何倍もの負荷が患者にかかる。特にオイニットー伯爵などのご高齢ではあまりにも体力が保たない」
「……」
それはつまり、オイニットー伯爵はこのまま一生ケイバーライト障害で苦しむことを暗示していた。話を聞きクラウスは一瞬ハンドルを握る力が強くなってしまう。
そんな中、マリアは真剣な顔で空を見上げながら口を開く。
「それに、この手術はいまだ誰も試したことがない上に、若くて体力のある子でしか出来ない。死ぬかもしれない手術に名乗り出てくる患者なんて居ないわ」
「……」
クラウスは少し悲しげな表情を浮かべると、横でマリアは励ますように言う。
「大丈夫よ。近いうちに新たな治療法は確立できるわ。ただ…今は対処療法しか出来ないわね……」
「そうですか……」
クラウスはそう言い。マリアと共に次の仕事場に向かって行った。
「ーーそれで?何か御用で?」
わざわざ大陸から治療のために来た貴族の数時間に渡る手術が終わり、帰宅しようとした所でマリアはとある人物から連絡を受けた。相手は……アンジェだ。
『至急、聞きたい事があるの。こっちに来れる?』
「ええ、分かったわ。すぐに行く」
マリアは血で汚れた服を片付け、そのまま出て行く。
「家の事は任せたわよ」
「はい、行ってらっしゃいませ」
玄関前でクラウスにそう言うとマリアは今度は自家用車で出て行く。その様子を見届けながら、クラウスは再び屋敷に戻って行った。
「お呼びでしょうか?アンジェ様」
クイーンズ・メイフェア校に戻って来たマリアは学校の駐車場で待っていたアンジェを中に入れた。ちゃんと周りに監視の目がないかを確認して……。
「マリア、至急聞きたいことが」
「……何でしょう?」
今は共和国のスパイとしてアンジェ話す。これもある種での忠誠に近いのだろうと感じながらマリアはアンジェの問いを聞く。
「ケイバーライト障害を治す薬はある?」
「…なるほど、そう来ましたか……」
よりにもよって一番厄介なネタを抱えたな。
そう感じつつ、マリアは事の次第を聞いた
その男の名はエリック。共和国への亡命を希望するケイバーライトの研究者であり、今はこのクイーンズ・メイフェア校に匿われていると言う。しかし彼は妹の亡命も望み、その妹エイミーはケイバーライト障害者だったのだと言う。
「なるほど、事情は理解しました」
話を聞き、マリアは内心とんでもない問題を抱えたなと思いながらも、アンジェの優しさが滲み出る場面だと感じつつ答えた。
「現状、ケイバーライト障害に対する治療薬はありません……」
「……」
現実を聞き、アンジェは沈黙する。今あるのはあくまでも障害の進行を止める薬しかなく、治すまでには至らなかった。ただ、
「私から言えるのはそこまでです。私も研究中ではありますが……」
申し訳なさそうに言うとアンジェは納得した様子でそのまま無言で車を降りて行った。
「んで、結果は?」
ドロシーが聞くと、アンジェは首横に振った。
「参ったなぁ…名医を持ってしても治療法は分からないか……」
「万が一あったとしても、手術費は膨大でしょうね…」
「ましてや世界一の名医相手じゃあな」
そう言うと、アンジェ達はそのまま寮に消えて行った。