「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」 作:バクシサクランオー
執筆速度と章の長さの兼ね合いから、今回は章を前後編に分割することにしました
それぞれ一区切りつくところまではやるのでその点はご安心をば。
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生き延びた、戦士たちの休息
U U U
湯につかるというのは、日本人にとって生活の一環である。
時代の変遷とともにシャワーで済ます人も増えたみたいだけど、私は日々身体を酷使していることもあって表面を流すだけでは少し足りない。メンテナンス的な面から見ても定期的にしっかり湯舟に浸かって芯まで解きほぐしておきたい。
そういう慣習的な前提があって、必要という心構えがあった。それゆえにあまり意識してこなかったけど、こうして改めて最高品質のものを味わう機会に恵まれて。
今更ながら気づかされた。これってとても気持ちのいいものなのだな。
「はふぅ……」
思わず声が出てしまう。
《中学生にしてその境地に至るとはねえ。まあ温泉入ってしっかり食べてを繰り返せば屈腱炎だって治るという説もあるし、ウマ娘にとって温泉は特別なものなのかもしれないな》
レースに生きるウマ娘にとっての死病、屈腱炎がそんなことで治れば誰も苦労はしないんだよなあ。どれだけのウマ娘とトレーナーが救われることやら。
あと温泉じゃなくてリゾートスパね。優待券もらったやつ。けっこういろんな種類の湯があるみたいだし、探せば温泉の一つくらいあってもおかしくないけど。
「お客様、お飲み物はいかがでしょうか?」
「え、あ、はい。じゃあ、もらおうかな……」
全国展開もしている高級リゾートスパ『Sword Lilly』。
高級というだけあって利用者一人当たりに用意されているスタッフが多い印象を受ける。庶民的感性からすると、それが料金のうちとはいえ他人があれやこれやと世話を焼いてくれるのは落ち着かない。
でも、だからってそうやって人件費をかけることで設備としてのクオリティを維持しているのだとすれば、遠慮して品質を落とすのもバカらしいことだ。
「ほわぁー。おいし」
ぐっと腹の底に力を入れていったんサービスを受け入れてみる。するとさすがはのプロの手腕と言うべきか、流れるように解きほぐされてしまった。
《ちなみに『Sword lily』はグラジオラスの英名だねー。そのまま『Gladiolus』と呼ぶこともあるけど》
グラジオラス、ね。
ウマ娘というのはつくづく不思議な生き物だ。そんな不思議な存在の、さらに摩訶不思議とオカルトを集めて詰め込んだのが【領域】だもの。
生まれ育ちが異なる世界から受け継いだはずの魂にまでしみついている。そういうこともあるか。
《【ピンクのgladius】――『gladius』はラテン語で剣を意味する言葉で、日本語でグラディウスといえば古代ローマの剣闘士が用いる刀剣のイメージが強いけど……。グラジオラスの名前の由来であるとも言われているんだよね。まっすぐ伸びる葉が剣のように見えるって》
テンちゃんが
《ちなみにグラジオラスの花言葉は『密会』『用心』『勝利』『忘却』、さらにピンクだと『ひたむきな愛』『満足』『たゆまぬ努力』あたりが該当するかな。なかなかに意味深だねえ》
うーん? いや、変わらないでしょ。
私の中にある、私以外に起因する【領域】の数ある一つ。そこに込められた想いに深いも浅いも、貴賤も何もあったものではない。
どれも血肉に変えて、共にいくだけだ。
《アハ、そりゃそうか。想いを託されて走る、ただそれだけ。言われてみりゃこれまでずっとやってきたことで、これからやっていくこと。ちょっと目につく形になったところで何も変わりはしないよなあ》
テンちゃんの声色にやや自嘲が滲んだ気がした。
このあたりの価値観は私が一歩先を往くというか、私の感覚がナチュラルに捕食者寄り過ぎるというか、まあそんな感覚のズレをしばしば感じなくもない。
「器はこちらで回収いたします」
「あ、ありがとうございます……」
さて、人間というのは自らの知識と経験をある程度越えてしまったら『なんかすごい』くらいしか感想が出てこないものだ。
だから私も、どうにも本当に高級スパの中でも最高品質のサービスを提供してくれるらしいこの年間パスに同じような感想しか抱けていないのだが。
ただこれはトゥージュール先輩からいただいた誕生日プレゼント、ではなく無作為に選ばれたテスターという建前だったはずだ。
だからテスターとして、これだけは言っておくべきことがある。
「リシュ、お湯から上がったらもう一度脚を見せてください」
「はーい」
中央トレセン学園生徒をターゲットにした高級コースであるのなら、トレーナー同伴を前提としたペアチケットにしておくのが無難だと思う。自己負担で隣に立ってもらうのは本当に心苦しいから。
いちおう葵トレーナーも施設を満喫しているようではあるけどさ。常に私が目に入るところにいるし、やっぱり担当ウマ娘第一なんだよね。
「……ふわぁー……ごくらく、ごくらく……」
「…………」
ついでに、オプションでウマ娘側も複数人招待できるシステムにしておいた方がいいかもしれない。
同じ湯舟でとろとろと蕩けているミーク先輩と、借りてきた猫のように隅っこで固まっているデジタルを見ながらそう思う。
専属契約なんてそうあるものじゃない。ウマ娘側の需要に対し、いつだってトレーナーの供給は追いついていないのだから。
一人に専念しなければならないほどトレーナー側が未熟、つまり新人トレーナーか。あるいは貴重な熟練トレーナーを専属として付けざるを得ないほど、それに値するほどにウマ娘側が特殊かつ価値があるか。大抵はそのどちらかだろう。
実際、新米寄りのうちの葵トレーナーだって三人の担当を持っているわけだし。トレーナーの身体が一つしかない以上、私と一緒にこうしてスパに来ていれば残りの二人はその時間フリーになるか一緒に来るかの二択しかなくなるわけで。
経費で落ちるから心配いりませんと葵トレーナーは言っていたが……。果たしてこんな高級スパの利用料金を経費で落とすなんてことが、この時代の中央では許されているのだろうか?
《まー身銭きっていたとしてもぜんぜん驚かないね。おデジがカチンコチンになってるのって、高級な雰囲気に当てられていることや、スタッフに世話を焼かれることにプレッシャーを感じているっていうのもあるだろうけど。葵ちゃんにこんな高そうなスパに連れてこられて恐縮してるってのも大きいだろうし》
だよねぇ。そういう意味じゃミーク先輩がぐてーっとリラックスできているのは場慣れもさることながら、『葵トレーナーに甘える』という行為そのものに慣れているのも大きい気がする。
葵トレーナーの実家がかなり太いことはもはやこの場にいる全員の共通認識だし、その恩恵もさんざん受けてきた。彼女自身高給取りのお金持ちであることもちゃんと知っている。
それはそれとして『迷惑をかけてもいい』と思えるかは別問題なのだ。特にデジタルのような少女にとっては。
《人見知り気質で他人に甘えるのがすこぶる下手だからねえ。距離感のバグる特定分野以外は総じて
公式チームの最低人数は五人からだ。
この人数に対応できるよう、招待チケットの方でもあらかじめ何らかのオプション制度を用意しておいた方が無難だろう。
今度提出するアンケートの備考欄にはそう記載しようと、ぼんやり考えるのだった。
しぬかとおもった。
スプリンターズSの感想は真っ先にそれが来る。
いや、実はこれがターフに転がって息を引き取る間際に見ている胡蝶の夢なのだと言われても納得できる。そういう戦いだった。
勝ったけどね。生き延びたんだけどね、私たちは。
《歴史に曰く、サクラバクシンオー号は当初こそ生真面目な性格が裏目に出て一本調子の逃げしかできなかったが。
テンちゃんは語る。私には知る由もない、どこか遠くの私たちに『似た』、つまり決定的にどこか『異なる』歴史の話を。
《好ポジションにつけ、最後の直線で抜け出す先行型。お手本にはお手本と言われるだけの理由がある。揺るぎない強さがある。もしもそうやってあの脚を、スピードを、レース展開に合わせて万全に使うサクラバクシンオーをやられていれば……どうなった、かな。勝ち目はあったのかな》
でも、そうはならなかった。どこまでもバクちゃん先輩は逃げで突き進んだ。
最も足の速いウマ娘が、内枠という最短距離を、先頭で駆け抜ける。
これが最強でないわけがない。そう体現する姿勢でぶち抜いてきた。
《実際、昨年のぼくらはそうやって勝ったわけだしなぁ》
でも、どんな分野でもそうだが。
先頭を往く者より、それを追う者の方が、ずっと少ない労力で同等以上の速度を出せるのだ。
それはレースだって同様。スリップストリームとか、脚を使うとか、そういう技術を抜きにしても。本能的な次元の話で追う方より追われる方がずっときつい。
追う方が狩る側で、追われる方が狩られる側なのだ。そんな生物の根底に刻まれたルール、それに伴う心身の消耗はバカにできるものではない。
私たちのように己が内でいったん完結した精神構造をしているのならまだしも、いくらバクちゃん先輩とはいえ独りでは消耗が皆無とはいかないだろう。
《あれ? って思ったのは夏合宿の『ドキッ! ビーチで水鉄砲バトルロイヤル~あの夏の思い出仕立て~』のときだったんだよね》
その正式名称はわざわざ記憶に値するようなものだった?
《あのときサクラバクシンオーは縦横無尽に活躍した後、マヤノトップガンに不意を突かれて負けた。別にそれ自体はマヤノの戦功であって、バクシンオーの不名誉というわけではないけど……。
もしもここのバクシンオーが周囲と折り合いをつけていたらまた展開は違ったんじゃないかなって。そう考えたら、あえてここのサクラバクシンオーは『皆の先頭を走る学級委員長』をやっているように思えたんだよ》
それが私たちのつけ込む隙になった、と。
展開に合わせて脚を温存したバクちゃん先輩をあの良バ場の最終直線で相手にするなんて、できることなら想像すらしたくない。対策しなきゃ勝てないから
《オワタ式ってのは無限コンティニューできるからやることなんだよ、ってどこかの誰かに説きたくなる経験だったな、あれは……》
テンちゃんも脳内で遠い目をしておられる。死んだ目とも言う。
真面目な人は怒るかもしれない。己が短距離における圧倒的強者だったころを忘れられていないだけのただの傲慢だと。
賢い人は笑うかもしれない。ちゃんと考えて工夫をすれば勝てる状況でそれをやらないのは怠惰に過ぎないと。
だけどきっと、違うのだ。あの人にとっては。
誰よりも先頭を走る、すべてのウマ娘のお手本であり続ける。それがかの先輩の中で輝き続ける学級委員長としてのあるべき姿。
その中で周囲に合わせて自分の動きを調整する先行策は、彼女にとっての『サクラバクシンオーのあるべき姿』ではなかった。
そういうことだ。それだけの話だ。ただその想いを守り抜くためにバクちゃん先輩は今もなお先行策ではなく逃げ一本調子で走り続けている。
《歴史と名前を受け継いだところで、その歴史と名前の操り人形になるわけじゃない。ああそうだ。ゲームでもアニメでもマンガでも冒頭で必ず言及される、『この世界に生きる彼女達の運命は――まだ誰にもわからない』。サクラバクシンオーは学級委員長である自分を選び貫いた。そういうことだ》
思い返せば天皇賞(春)のときもそうだった。
GⅠ最長距離の3200m、京都レース場の二度の坂越え、さらに雨天という悪状況の中でそれでもあの人は先頭を突き進むことを選んだ。
そもそも、まっとうな常識を持ち合わせたウマ娘なら短距離適性に生まれたことを自覚しながら天皇賞(春)に出走したり、有馬記念を想定したトレーニングに全力で時間と労力をつぎ込んだりするような真似はしない。
今になって道を違えたわけではない。最初からそういうお人で、周囲を取り巻く環境が変わっても今もなおそのままのあり方を貫いているというだけ。
現実に取り残されたわけではない。あの人はずっとみんなの前を走っているだけなのだ。何故ならサクラバクシンオーとは最速のウマ娘だから。
ちょっと周囲を周回遅れにしちゃって一見すると最後尾を走っているように見えるだけだ。だから、あの人はあれでいいのだろう。
ま、それは勝敗を区切る最初のラインというところ。
それがある程度くっきりと引かれたものであったとしても、その一本だけで結果が確定するほどレースは甘くも単純でもない。
ほんとうにしぬかとおもったんだから。
レース前からの確定事項一つでこの私が死を覚悟するはずもないのだ。
【領域】。これはもう単純に最初から最後までほぼ使いっぱなしだった。
レース後に孤独になることも大前提。【
【領域】を認識できるウマ娘が観客席のような一歩引いて俯瞰できる場所から見ていれば、私のいるところだけ花火大会が開催されているようにでも見えたのではなかろうか。そんな頻度でどんどん使っていった。
それを真正面から受けて立ったのが我らがバクちゃん先輩である。いくら穿っても、どれだけ削っても、いっこうに底が見えない膨大な質量。出血を強いているはずなのにこちらが先に息切れするのではないかと戦慄するタフネス。
彼女の前で次から次へと己が内に蓄えた数々の【領域】を具現化していくとまるで……なんだろう?
この三年間で私が受け取ってきたもの、託されたもの、踏み砕いてきたもの。その他もろもろ善悪も貴賤もなくただ生きるため積み重ねてきたものを丁重に披露していくような気がして。
《なんだか、受け止めてもらったような感じがした?》
ん。
勝った私の口からは人前ではとても言えやしない。もはやこの時代の短距離最強はバクシンオーではなくテンプレオリシュだ。そうでなければならない。
でもきっと、これからずっと。
誰かの短距離を見るたびに、自分であの距離を走るたびに。私はずっとあの人の背中をどこかで追い続けるのだろうな、と。
そんな気がしている。
枠番。七番は大外というほどでもないが、一番と二番をタイキ先輩とバクちゃん先輩が占領しているのが間違ってる。
ルールに則った何も問題ない行動だけどこう、理不尽だと思う。
内枠はスタートダッシュに失敗すれば外から蓋をされ閉じ込められるリスクを負うが、あのサクラバクシンオーが立ち上がりで他のウマ娘に後れを取るはずもなく。まあそれは内枠を取られた時点でそうなるだろうなと想定の範疇だったが。
タイキ先輩がほんとうに内に入れさせてくれない。そのただでさえ体格に恵まれたウマ娘だというのに、全盛期を過ぎてなおあの圧倒的なパワー。溢れる威圧感はまさに“巨躯”と評するべきもの。
おかげでスプリントというコンマ一秒を削る電撃戦で少なからず距離のロスを甘受せざるを得なかった。
《不幸中の幸いは『この二人が圧倒的強者である』ということが、今期のスプリンターズSに出走したウマ娘たちの共通認識でもあったことだね》
人間のリソースには限りがある。
何もかもに対策が打てるのならそれが理想だが、現実はそうはいかない。
一つを終え、網羅しようと次に手を伸ばし、それが終わりまたその次に手を伸ばせるようになったころには既に最初に終えた対策は時代遅れになりつつある。そういうものだ。
《才能に劣る者が万全な対策で強者を上回るなんて、なかなかできることじゃないってことだね。一日はみんな平等に二十四時間なんだから。仮に万全な対策ができたとすれば、それは第一に時間があって、ついでに資金と才能が十分に足りた幸運で稀なケースか……あるいは『万全』だと錯覚しているよくあるパターンのどっちかだ》
だから優先順位をつけて取捨選択を行うのだ。そして短距離において“銀の魔王”テンプレオリシュは大多数の最優先事項になりえなかった。
つまり、普段より隙間が空いた。
それが私の道になった。
第四コーナーカーブ。バクちゃん先輩の速度について行けず、先頭集団から剥がれるように脱落していくウマ娘たち。逆に末脚を使って後方から直線勝負に躍り出るウマ娘たち。
その隙間を縫いながら、私にだけ見える道を通って内側から抜け出て、バクちゃん先輩と鍔迫り合いの姿勢に持ち込んだ。
あれで審議のランプが灯らなかったのは幸運だった。いや、私が審議上等の危険行為をやらかしたという意味ではなくて。
私の見えている世界と周囲の認識している世界にはギャップがある。
私がいけると思ったところを周囲は無理だと言う。私には道に見えるところが周囲には行き止まり、いや壁に見えている。
だから反則を取られないように。衝突するなどと誤解させ、急ブレーキや転倒などのアクシデントを引き起こさぬように。
普段の私は自分が『いける』と認識した部分から一回りから二回り、大きめの安全マージンを取って走っている。
あのときにはその余裕がなかった。私は私の見える道に率直に飛び込んで、きっと周囲は私が通った後にそこに道があったのだとようやく認識した。
それでも事故は起きなかった。
《あれは周りのレベルの高さに救われたよなぁ》
将来的にはともかく、現段階で審議の有無は人間が判断している。AIではない。つまりルールブックに基づいた基準こそあるが、それを適用する際には主観が強く反映される。
もし私が飛び込んだときに周囲がびっくりして仰け反ったりして、それが接触や転倒に繋がれば一発アウトだっただろう。降着によって一着を逃すだけではない。反則のペナルティで秋シニア三冠にも出走できなくなる可能性だってある。
《まあ、秋シニア三冠まるごと消し飛ぶのはよっぽど悪質と判断された場合だろうけどねー》
そうならなかったのは、周囲の目にも私がちゃんと道を通ったのだと判別できたのは、バ群を構成するウマ娘たちが必要以上に揺らがなかったからだ。
あの刹那の攻防戦の中で皆が皆、私がなぞった隙間をちゃんと道として認識してくれたから、私は反則を取られずに済んだ。
GⅠの舞台に立つウマ娘たちの技量に救われた。そういうことだった。
あと語っておくべきことといえば、テンちゃんが
それが本当に適切な表現なのか、微妙にニュアンスが異なる感じもするのだけれど。一種の暴走状態に陥ったことはたしかで、ウマ娘がレース中にそんな状態になったのだから掛かりの範疇に区分していいだろう。
死んでたまるか、と。
そう言っていた。それ自体は私の望んでいたことなのだけど……。
レース中なら致命傷。思い出した死の恐怖が、生への渇望が、土壇場で噴出してしまったわけだ。
本来なら最悪の事態だ。短距離とはいえ数字にして1200m。肉体と精神のバランスが崩れた状態でまともにレースを完走できるはずもない。
そうならなかったのは、むしろプラスに転じたのは、猛る精神に合わせるように急激に肉体面のスペックが肥大化したから。
『極・アオハル魂爆発』。テンちゃんはそう呼んでいたっけ。
《いやぁ、あそこでアレが出るとは予想外。本来レース中に出るようなものじゃないんだよ》
似たような経験は一度ならずあった。トレーニング中に自分の外側まで広がった魂が仲間のそれと共鳴して、ふっと広がるような心地。同時にぎゅっと能力も上がってちょっと怖い。足を踏み外しそうなひやりとした感覚。
それの、さらに極まったバージョン。本来なら掛かりとなるはずのアクセルべた踏みに成長したエンジンが追いついた。ボディは軋みもしなかった。
広がり続けたバクちゃん先輩の【領域】と、重ね続けた私たちの【領域】。それがぎゅっと凝縮されて一塊の紫となり、爆発したのが見えた気がした。
《残り体力に関係なくトレーニング失敗率ゼロになる仕様が、レース中ではあのような形で恩恵になるなんてなあ》
昨年のレコードタイムを更新するほどのスピードを出しても私の脚を踏み砕かずに済んだあの現象……掌握して再現できればこれからの戦いがぐっと楽になる、かもだけど。
《やめておいた方がいいね》
テンちゃんは消極的、とはまた異なるきっぱりとした否定の姿勢を見せている。
《ルールを守らないってことは、ルールもまたこちらを守ってくれないってことだ。だから横紙破りをしているときこそ細心の注意を払って引き際をわきまえておく必要がある。死にたくなければね》
などと、世界を永続的に殴り倒してたった一人のためにウマ娘の枠をひとつ追加させたような実績を持つ半身が宣っておいでです。
いや、だからこそ、なのかな? 空前絶後の危ない橋を渡り終えた立場だからこそ言えることもあるのかもしれない。仮に同じくらい危険だったとしても私が途中離脱することもないのだが。
《毒を食らわば皿まで、なんて言うけどさ。どうせ死ぬなら皿を食おうと致命的に変わりなしってだけで、死ぬつもりがないのなら皿なんて食ってる場合じゃない。毒をどこまで取り込めばいいのか、致死量をギリギリまで見極めないと》
だがまあ、リスクを考慮するのとスリルに酔うのとでは似ているようで違うということだろう。肝に銘じておこう。
そもそも私はギャンブルが嫌いだ。だって大抵の相手がギャンブルだと言っているものが、私にとっては賭けではなくやる気になるかならないかの問題でしかないから。
今の私は複数まとめて振ったサイコロの出目を任意のものにすることができる。トランプについた微細な傷や指紋などの汚れから統一規格の量産品を区別することができる。
ただすごく疲れるからあまりやりたくない。
ギャンブルになるのは能力が足りていないだけ。物理演算やら身体操作やら記憶力やら観察眼やら、必要なレベルが足りていないから運というものに頼らなければ望む未来を掴めないのだ。それだけのことだ。
だからスリルというものに魅力を感じたことはなかったし、これからもそうでありたいと思う。スリルが人を惹きつけ狂わせる毒を持つのは確かな事実で、私は人なのだから。
テンちゃんの掛かりはこれからのレースでも考慮しなければならない早急な課題だ。
これまではどちらかといえば私が逸る側で、そこをテンちゃんが脳内でペラペラとなだめすかして調整してくれていたように思う。
それができないとなると……もしかしてこれ、私が掛かったテンちゃんを抑えなければいけないやつか? マジで?
ともあれ、次に掛かったときに同じ方法で切り抜けるのはたぶん無理。期待しちゃダメなやつ。
誤解しないでほしいのは、運の要素を否定しているわけではないということ。むしろこうやってレースを振り返って、どうやれば運の介在しない成果だったという結論に至れるというのか。
そういえばレースの後、どこかの誰かが口々に言っていた。『もう幸運とは言わせない。テンプレオリシュは純粋な実力で史上最速に至ったのだ』などと。
はっ、笑わせる。
自分で言うのもなんだが、言う権利を持つのが私くらいしかいないからあえて自分で言おう。
そうとも、私は勝った。この頂点まで上り詰めた。バクちゃん先輩に取って代わって居座ったこの玉座には確かに『史上最速』の四文字が刻まれているとも。
高みに至れば至るほど、己の実力のみで影響を及ぼせる範疇がどれだけ矮小なのか痛感する。これだけ偶然に助けられて、予想外を想定外で乗り越えて、なにが純粋な実力だか。
《どこぞの世界最高峰のスナイパーも成功の秘訣は『十パーセントの才能と二十パーセントの努力、そして三十パーセントの臆病さ……残る四十パーセントは“運”だろう、な』と言ってるからなー。
高みに至るということは、それだけ視野が広がるってことなんだろうさ。繊細になると言い換えてもいい。自分にできることがミリ単位で理解できる人間は己の届かぬ数ミリがどれだけ致命的か知っているが、それはセンチ単位でしか物事を把握できない人間にとっては己の実力のみで対処できる問題に過ぎないってことだね》
何気なく塗りつぶした数センチに、どれだけの幸運と不運が錯綜していたのか気づくこともなく――か。その方が気楽ではあるのかもしれない。
それにしても四割というのがまた絶妙な塩梅だね。私たちの場合は才能の割合がもうちょっと多いかな?
このような葛藤も苛立ちも、充実感も優越感も見栄もプライドも何もかも、人格が一つしかなければ独りで背負わねばならないのだ。
そりゃあ、気心を許せる他人に相談することはできるだろうけど。言葉に押し込めた時点でそれはもう心の中を満たしているものとは別物になる。それでは完全に分け合うことはできない。
つくづく、そんな未来は御免被る。
たとえ死んでも、ね。
シングレ面白いよね。放映中に更新できてよかった