「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」 作:バクシサクランオー
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U U U
東京レース場開催、天皇賞(秋)。
かつては国内シニア級ウマ娘の最高峰と位置付けられたレース。旧八大競争の一角であり、名門メジロにとっても重要な意味を持つGⅠです。
時が進むにつれジャパンカップや有馬記念など、単純な一着賞金では上回るレースがこの国には生まれてきましたが。最も長い歴史と伝統、それに付随する『地位』とでも呼ぶべきものがいまだこの盾にはあります。
秋に開催される天皇賞は国際化の理念のもと、施行距離が伝統的な3200mから2000mへと短縮されました。以来、このレースは『中央の中距離ナンバーワン決定戦』という立ち位置になったのです。
先日の菊花賞ではトウカイテイオーが勝利し、今年も新たなクラシック三冠ウマ娘が誕生いたしました。
『クラシックレースの長距離にメジロマックイーンがいれば、また違う結果になっていたのではないか』と。わたくしの不在を惜しむ声があったことは忘れてはならないことです。一生、この選択を選んだことをわたくしは忘れません。
もとより並々ならぬ覚悟と共に臨んだこのレースですが、また一つ負けられない理由がこの背に積み重なりました。
本日は見事なまでの秋晴れ。ここ最近快晴が続いたこともあり、不良バ場による紛れの心配はせずともよさそうですわね。
何でもできる“銀の魔王”にとって、何かが起こりうる悪天候は不安要素ではなく己が
「……雨が降っていなくてよかった」
ふいに漏れ出るつぶやき。
何故だか、心の底から安堵している自分がいます。
『不良バ場の秋天』という条件に漠然と抱いていた本能的な忌避。それは人知れずそっとこの場で溶けて消えていきました。
パドックで見たウマ娘は皆が皆、凄まじい威圧感を放つ方ばかり。まるで堅牢な城壁が立ち並ぶようなプレッシャーは今の我が身の薄さ、軽さを否応なしに実感させられたものです。
シニア級の方々の中にクラシック級の身で押し入ったのですからある種当然のこと。そのような理由でいまさら怯むわけにはまいりません。
胸を張り、笑みを浮かべてメジロとして格を示しました。観客の目に浮かんだのは苦笑や嘲笑ではなく期待と感嘆であったことから、少なくとも虚勢とは見做されなかったようです。
「ブライアン先輩、今日は俺が勝たせてもらいます!」
地下バ道を通る際、行く手からウオッカさんの声が聞こえてきました。
ターフに足を踏み入れてしまえばあとはもう、ゲートインからのレース本番を待つばかり。その一歩手前にあたるこの場所で、戦友にして一着を目指す上では不倶戴天の敵となる相手と最後の言葉を交わす。そんな機会を作るのはままあることです。
邪魔にならぬよう歩調を緩めます。横を通り過ぎてもいいですが、ここは彼女たちの会話が終わるまで少しばかり立ち止まっても罰は当たらないでしょう。
「俺、東京レース場では最強って決めてるんで! ブライアン先輩もリシュもデジタルのやつも、みんなまとめて最後の直線でぶち抜いてやりますっ! 復帰に向けて必死こいて調整しているスカーレットのやつには
「そうか」
パドックでのアピール中、誰もが油断ならぬ優駿揃いの中でも、ひときわ目を引く存在感の持ち主が二人おられました。
そのうちのお一人が今、ウオッカさんに話しかけられているナリタブライアンさん。
今年の春シーズンを全休し、何か前哨戦をひと叩きするでもなくいきなりGⅠを復帰戦とした現状は不安視されても致し方のないものです。
そんな常識を、このお方は自らの佇まいだけで吹き飛ばしてしまった。
走りはおろか、言葉さえ必要ない。ただ立っているだけ。目を伏せ、腕組みをして直立しているだけ。それだけで本能が理解させられる。
ああ、これは“怪物”だと。
「あとその新衣装めちゃくちゃカッケェっすね!! やべーオーラ漂ってる感じがこう、もうたまらねえっす!」
「そうか」
その身を包むのは新たな黒衣。
かつて彼女が史上五人目のクラシック三冠ウマ娘となり、年度代表ウマ娘に選出されたとき。その功績から授与されるはずだった新規の勝負服がありました。
それは当時、ご本人の『興味ない。いまの
そうして春シーズンを全休してまで調整に費やしていた彼女のもとへ、満を持して職人側からアプローチが送られました。『今こそ我々のお力が必要ではないですか?』と。
圧倒的な強さはそれだけで人を魅了する。いざというときに自ら馳せ参じる者を生み出す。
式典に臨む態度はさておき、わたくしもいずれはその高みに至りたいものです。ええ、今日をその一歩目といたしましょう。
荒々しくどこか男性的な装いであった一着目に対し、二着目のそれは女性的で、黒を主軸に紫を添えた優美なドレス。
ただ華やかなだけの装いではなく、黒く燃え上がる飢えと衝動を織り上げ、衣装の形に縫い留めたような猛々しさと妖艶さがあります。
銘を“餓狼”。名は体を表すとはこのことでしょう。肉体的な全盛期を過ぎ、それでも渇望を失わず次なる闘争を求める彼女に捧げられた新たな翼。
ナリタブライアンは変わった。それはあって然るべき劣化ではなく、次のステージに至る変化。周囲から隔絶した身体能力のままにクラシック三冠を奪い取った彼女はもういない。
ここにいるのは飢えに身体を絞り、牙を研ぎ澄ませた獣。この秋シニア三冠、ファンは期待通りに予想以上のものを目の当たりにすることになるでしょう。
そう確信させられました。
「でも負けねえっす、絶対ッ! じゃあ俺、先にいかせていただくのでっ。失礼しますっ!!」
「ああ」
びしりと九十度近く頭を下げて一礼すると、そのまま駆け足でウオッカさんはレース場へと向かっていきました。
アウトローに憧れているわりに、入学当初からこのようなところは本当に礼儀正しいお方なのです。それともアウトローに憧れを抱いているゆえに、なのでしょうか。
そのあたり、本当に不思議ですわ。ウオッカさんに限った話でなく。社会の規則や規範に反発して道を外れたはずなのに、その外れた先で一般社会よりよほど厳しい規律に自ら雁字搦めにされることを選ぶなどと。自ら選択したという事実が重要なのでしょうか?
名門のウマ娘という、ある意味で誰よりも事前に用意されたレールに沿って生きている身からすれば理解しがたい感覚です。
「…………」
「っ!」
ブライアンさんの視線が一度こちらに向き、そのまま何事もなかったかのように正面へと向き直りました。
無言で歩き出すその背中が何よりも雄弁に語っています。『
ええ、こちらが勝手にそう受け取っただけです。歯牙にもかけぬ相手に向け、語る言葉を持つようなお人ではないでしょうから。
ええ、ええ。妥当な評価でしょう。今のわたくしはまだ何者でもない。ただメジロに生まれ、メジロとして育ち、ジュニア級ではホープフルSを制し、秋天に出走する権利を得ただけのクラシック級のウマ娘。それだけの存在ですもの。
「……ふーっ」
呼吸を整え、わたくしも後に続きます。
地下から外へ。広がる光と歓声。思わず細める目。
虹彩がまばゆい青空に適応するよりもはやく、視線が彼女を捉える。強豪揃いのパドックの中でさらに頭一つ抜けた存在感を放っていた、もう一人の姿を。
その存在感はもはや質量を有している。膨大な質量が重力を伴って周囲を引き寄せている。視界の中心を奪い取られる。
日光を反射しまばゆく輝くその銀に、なぜか抱いた印象は深々と広がる穴でした。
これだけの熱を一身に受けながら彼女はまるで染まらない。その程度の熱量ではとても足りぬと言わんばかりにすべて飲み干して平然とそこにあり続ける。
スタンドから降り注ぐ声援も、周囲の視線も、それらをまとめてほっそりとした肩に流して。自然体に纏う佇まいはまさに“銀の魔王”。
映像記録でなら数え切れぬほど見たお姿。一着を競う相手として、同じターフを踏みしめて並ぶのは当然のことながら初めて。
百聞は一見に如かず。百見は一験に如かず。
わたくしはメジロのウマ娘です。努力では到達しえぬ、巨大な宝石の如き天賦の才というものに人より多く触れる機会がありました。
その一方で。レースに生きる中で、研鑽された努力の極致も数多く見てきました。砕いて捏ねて炎に身を晒して焼き上げた、白磁のような美しさを知りました。
研磨されなければ宝石は光らず、適した素材を選ばなければ白磁には至りません。努力と才能、そのどちらかだけで成り立っているものはまず存在しません。
ただ、どちらの色合いが強いのかで醸し出す空気は変わります。同じ高みにあるものでも、両者の輝きには差異があります。どちらが格上という話ではなく、単純に性質が異なるのです。
メジロとして、他家よりも知識と技術の蓄積がある。なまじその自負があるので惑わされた。
桐生院には彼女のような存在を作り上げる
ならばその片鱗だけでも今日の交わりで持ち帰れないかと、見当はずれの企みすら密かに抱えておりましたとも。
嗚呼、そのお姿を見て確信いたしました。
どれだけ優れた職人の手によるものだとしても、人が磨いたものは人の色を帯びるもの。
あの底知れぬ艶はどうあがいても人の研鑽では出せません。
――あれは竜です。
おばあさまの声が脳内でよみがえる。
これに血を重ねて追いつくのは、なかなかに骨が折れそうですわね。
『ウマ娘が追い求める一帖の盾、鍛えた脚を武器に往く栄光への道! 天皇賞(秋)!』
『快晴の東京レース場。ターフも良バ場の発表となっております。この絶好の大舞台で強豪たちをねじ伏せ、中距離最強に名乗りを上げるのはいったい誰か』
『三番人気を紹介しましょう。ウオッカ、一枠一番での出走です』
『府中の左回りという条件が評価されたか本日は三番人気に推されましたウオッカ。実際、状況が噛み合ったとき彼女の豪脚は目を見張るものがありますよ』
『二番人気、ナリタブライアン。八枠十七番での出走です』
『怪物が秋の三冠に帰ってきた! 新しい黒い勝負服が秋晴れによく映えています。気迫は十分。あとは大外に近い枠番が勝負にどう影響を及ぼすか』
『そして本日の一番人気はこのウマ娘を置いて他にいない! 七枠十四番テンプレオリシュ!』
『言わずと知れた現代の生ける伝説。スプリンターズSで最速を証明して、この秋シニア三冠の一冠目に手を伸ばす銀の魔王。今日こそ彼女の覇道を遮る者は現れるのか?』
天皇賞という格式も、そこに至ったウマ娘たちの栄誉も、すべてはただ一人の添え物あつかい。
それでいいのです。絶対強者とはかくあるべし。そのような扱いこそが正解。
不満があるのなら、許しがたいと憤懣するくらいなら、用いるべきは口先ではなく脚。世間の評価を走りで覆しなさい。
わたくし共はウマ娘なのですから。
『ゲートイン完了。出走の準備が整いました』
スタートの直前、しんと静まり返る観客席。
この瞬間、いつも感謝が心の奥底より湧き出します。レース場に訪れた人々の気遣いを、この恒例の光景を当然と驕ったときから我々の凋落は始まることでしょう。
圧縮され凝固するような緊張感。集中に押し出され、口の中から無意識に感じていた唾液の味が一瞬消え失せる。
金属音。ゲートが開く。
『さあゲートが開いた。各ウマ娘、きれいなスタートを切りました』
『みんな集中していましたねえ。好レースが期待できそうです』
東京レース場の芝2000mは第一コーナー奥のポケット地点からスタートします。
コース形状のイメージは『テープ台に設置されたセロハンテープ』でしょうか。セロハンテープの芯を東京レース場の一周として(テープの芯のようなきれいな円形ではなく、横に引き伸ばされたやや歪な楕円形をしていますが)第二コーナーに繋がる直線がその外側に、テープ台のカッター部分に延ばされたテープのようなかたちでスタートまで伸びているのです。
その形状ゆえにスタート地点から最初のカーブに入るまでが非常に短く、URAの平地の芝コースの中では最短の120m。ウマ娘の脚ならあっという間に通過してしまう距離です。
これは前脚質のウマ娘が外枠を引いてしまった場合、カーブでの距離ロスを甘受したくないのならそれだけの短い距離で進路妨害を取られないだけの安全圏を稼ぎ、内に切り込む必要があることを意味しています。
この特徴的な位置関係から『スタート直後から第二コーナー過ぎまでの激しい先行争いがレースの見どころの一つ』だと評されるその一方で。
枠順による有利不利の差が大きいとの指摘も根強いのです。
「ふっ……!」
ただ、今回のわたくしの枠順は二枠四番と内枠。スタートに失敗しなければ先行は難しいことではなく、実際に失敗は致しませんでした。外から審議対象になりかねない強引な進路変更が飛んでくることもなく、順調に位置取りを進めます。
それに魂がひどく安堵しているのはいったい何故なのでしょう? 疑問はあるものの、目の前のレースには関係のないことです。すぐに脳裏から消え去り思考はレースに埋め尽くされました。
『先行争いは十一番トモエナゲ、十二番トコトコ、十六番クラシックコメディ。これから第二コーナーへかかっていきます』
逃げ脚質の方々に前を譲りながら、中団よりは前あたり。
現在四番手。立ち上がりは万全といったところ。
一年前、秋天でリシュさんと戦うことを視野に入れて以来、密かに準備は重ねてきました。
その結論から申し上げましょう。テンプレオリシュに攻略法は存在しない。
魔王と呼ばれる相手ではありますが、これはテイオーが好きなゲームではありません。適切な手法を用いれば隙を晒してくれる
強いて言えば、最近は精神面が不安定とは聞き及んでおりますが……。それを容易く突けるのであれば連勝記録などとっくの昔に断絶しておりましょう。
圧倒的な強さと絶対的な安定力。その双方が合わさって初めてデビューから無敗の十八連勝などというバカげた記録が生まれるのですから。
こう言い換えましょうか。リシュさんに勝利するのに近道などありません。
一つ一つ、着実に。地道に。そうやって己の力を積み重ねて。高めて。
そうしてようやく勝負の舞台に立てる。薄く細い糸の上を素足で渡り続けてようやく勝利が見えてくる。
「ははっ」
「……!」
ええ、ですので。序盤の最難関はこの方です。
三枠五番、ビターグラッセさん。わたくしと同じ先行勢。枠順もわたくしのお隣。ゆえに、熾烈なポジション争いになる。わかりきっておりましたとも。わたくしにとってのベストポジションは彼女にとってもベストポジションなのですから。
肩がぶつかりそうなほどに身を寄せられる。澄み切った彼女の目と合う。絶対に譲らない。たとえ競り合いで消耗し、共倒れになるとしても。破滅に向かって全力疾走できるウマ娘なのだと、言葉よりも雄弁に態度で叩き込んでくる。
それが彼女の手札。自分はそのような存在なのだと悟らせることで、相手から道を譲らせる。生まれ持った狂気を有効活用している。
さすがはチーム〈ファースト〉を率いる双璧の一人。プレッシャーはなかなかのものです。アオハル杯では我々メジロもチーム〈ヘパイストス〉を結成し挑みましたが、ついぞ決勝戦まで駒を進めることは叶いませんでした。その実力のほどは重々承知しているつもりです。
ですが、お甘い。生クリームをたっぷりトッピングしたメロンパフェのごとく。
こちらは年季が違います。
ウマ娘の歴史の始まりと共にメジロ家があったわけではありません。今では名門と呼ばれる家系も、かつては有象無象の一つに過ぎなかったのです。
では、由緒正しき名門とそれ以外を分けたものはなんなのか。じつに単純な話です。
我々は生まれつき脚が速かった。知恵があった。頑強だった。気が強かった。声が大きかった。そして、それら暴力を周囲へ振りかざすことに躊躇がなかった。
ガキ大将が子供たちの中から選ばれるのと原理は何も変わりません。そうして周囲の上に立った者同士が見染め合い、血と歴史を重ねて名門となるのです。
世代を重ねるとともに富と名声を積み上げ、礼節の衣をまとい王侯貴族のように振る舞うようになっても。地金は変わらない。むしろ血を重ねることによって、ますますその色合いは濃くなっていると言ってもよろしいかと。
時が経ち、かつての姿を忘却し、周囲が憧れの視線を我々に向けるようになっても。その憧憬を裏切らぬよう常日頃から身なりを整えることが、呼吸に等しく行えるようになったとしても。当の本人たちは己のルーツを忘れてはいない。
いざというときは先祖代々受け継いだ、由緒正しき暴虐が顔を覗かせる。レースのような魂を曝け出す局面では、特に。
お退きなさい。そこはわたくしの場所です。
「っ!? と、と」
ビターグラッセさんに道を譲らせ、第二コーナーを抜ける。
このころにはもう序盤のポジション争いは終わり、レースは中盤へと移行していきます。
『第二コーナーをまわって向こう正面。先頭は十一番トモエナゲ、単身で飛ばしていきます。二番手は十二番トコトコ、三番手に十六番クラシックコメディ追走。その後ろ四番メジロマックイーン、その外に五番ビターグラッセがいきます』
『四番メジロマックイーン、落ち着いて走っていますね。自らの脚質に合わせながら周囲を確認できる絶妙な位置取り。さすがはメジロ、ジュニア王者の貫禄です』
カーブを利用して後方を確認。やはり目立つのは中団の中ほどにいるブライアンさん。バ群の中にあってなお存在感が隠しきれておりません。
あとは中団後方のウオッカさんと、そこに並ぶかたちのデジタルさん。このお二人も何気ない位置取りや脚運びにはっと目を惹きつけられるものを感じます。
不気味なのが差しというより追い込みに近い位置、中団よりさらに後方に控えているリシュさんでしょう。彼女の対応力なら思い切ってバ群の中に入ってしまった方がレースをコントロールしやすいと思うのですが。
それができないお方ではないでしょう。
『一番人気の十四番テンプレオリシュは現在シンガリから三番手、後方からのレースとなりました。失策か、はたまた狙い通りか』
『十四番テンプレオリシュ、彼女には七色の脚質がありますからね。この位置からでも十分勝利を狙えますよ』
たしかに外の枠順を引いてしまったのなら、無理に前に出ることなく後方からのレースに切り替えるというのは一つの手ではあります。単純に出遅れた等も、まあ可能性としてはゼロではありません。
ただ、この期に及んで相手の失態や無能に期待するのは楽観が過ぎるというもの。注意はしておくべきです。
それと同時に、相手に意識を割り振りすぎて自らの走りができなくなっても本末転倒。想定通りにいったことも、想定から外れたことも、全部まとめていつも通りのレース。
それでは参りましょうか。
ここからわたくしのレースを始めると致しましょう。
「しっ……!」
少しずつ、着実に。焦りは無用。
長いメジロの歴史の中でも名うてのステイヤーになれると期待された、わたくしの素質を万全に活かして御覧に入れます。
『向こう正面に入って先頭からシンガリまでおよそ十四バ身。十一番トモエナゲ、快調に飛ばしていきます。十六番クラシックコメディ並びかけてきた。内に十二番トコトコ、激しい先頭争い』
『少しずつペースが速くなっているようですね。スタミナが最後まで持つか心配です』
東京レース場は第二コーナー手前あたりからゆるやかな下り坂となっており、向こう正面の中ほどから第三コーナーの手前にかけて高低差1.5mの一つ目の上り坂があります。
その頂点に到達したあたりで、立て続けに動きがありました。
領域具現――熱血!ど根性坂
背後で“領域”が花開く気配。
魂越しに感じる空気とでも言うべきものと、展開された座標的にこれはビターグラッセさんのものでしょうか。
ただ、こちらはわたくしに影響を及ぼす性質のものではなさそうなので即座に意識から外します。
領域具現――Shadow Break
問題はこちら。ナリタブライアンさんの“領域”。
「ぜりゃあ!!」
気合一閃。彼女が自身に纏わりつく影を右腕に搦めとり、拳と共に地面に叩きつける情景が網膜を介さずはっきりと見える。
どすんと臓腑の奥底まで響く衝撃。崩壊する地盤はまるで小隕石が落下したかのよう。強風に髪が持っていかれ頭皮が引っ張られるような。強烈な引力が彼女を中心に渦巻いている。
あの影は周囲のウマ娘たちがブライアンさんに競り掛けたプレッシャーの具現化でしょう。“怪物”を少しでも削らんと果敢に挑んだ成果。それは確かに彼女を脅かす黒い影として、あの方を取り巻いていました。
しかしそれすらも“怪物”は喰らい尽くし、血肉に変えてしまった。毒を薬に転じるのではなく、毒を毒のまま呑み込み己が養分とする。なんというご無体。
あれでは掛けていたプレッシャーが倍になって跳ね返ってきたようなものでしょう。中団には動揺がさざ波のように広がり、その余波がわたくしたち先頭集団の方まで伝わってきます。きっと後方でも同じことが起きているのでしょう。
これが“怪物”。クラシック三冠を独占したウマ娘の器。開かれたそれはまるで閉じる様子を見せず、じわじわとこちらの心身に負荷をかけてきます。
ここまで鮮烈な“領域”を受けたのは初めてです。これがシニア級のレース。これがGⅠの舞台。
これが、テイオーの戦ってきた場所……!
次回、決着