「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」 作:バクシサクランオー
感想、誤字脱字報告もありがとうございます。
U U U
ウマソウル。
それはウマ娘の根幹を成すものにして、いまだ神秘のヴェールが剥がれぬ未知。ウマ娘の不思議要素を辿ればだいたい根源はそこに繋がっている。
ヒトとウマ娘、共に歩むその歴史の長さは太古の壁画の存在が示す通りかなり長い。
だが世界の神秘の多くを科学が取り払ってなお、レースを走る彼女たちのために医学が寄り添ってなお、ウマ娘という存在そのものに対してわかっていないことは多い。
わからないものをわからないままに受け入れている。それが当たり前だから。大切な友であることに違いはないので。まあ、そんなふんわりでやんわりしたこの世界の在り方が私は嫌いではない。
そしてここにひとつ、人語を解するウマソウルが存在している。
むかし、好奇心のままにテンちゃんに尋ねてみたことがあった。ウマソウルとはいったい何なのかと。
《そうだねー。『自分のことは自分が一番よくわかる』だなんてよく聞く文句だけど……リシュだって『今日の私の肝臓は三パーセント機能が低下しています』だなんてはっきりわかりはしないだろ? なんか体調悪いなーって漠然と感じるだけで。
だからあくまでぼくが把握している、おおざっぱな認識の話になるんだけど》
そう前置きをして、テンちゃんは話してくれた。
《ウマソウルってのは“願い”の結晶だ》
願い? 異世界の『ウマ』って生物の魂なんじゃないの?
そんなことを尋ねた気がする。テレビの中で専門家が、もったいぶった言い回しでそんなことを述べていたんだったか。
そもそも当時の私がそんなことを聞いたのも、たしかそのテレビがきっかけだ。肩書だけはご立派な輩が私の半身を偉そうに語ることへの苛立ち。偉そうにしているアレの鼻を明かしてやりたい、そんな稚拙な功名心が背中を押していた。
それに任せて、いつもおしゃべりなこの同居人が不思議と触れようとしない領域に踏み込んで、そして得られた『やっぱりアレは間違っていたんだ』という優越感。
なんだか悪いことをしているようでドキドキして、でも悪くない気分だった。
《うん。他の世界ではどうなのかまでは知らないけど、この世界線ではたぶん違うと思う。ピースと本質的に同じなんだよ。あれもフレーバーテキストで『育成ウマ娘ごとの願いが結晶化された専用のピース』ってあったし。馬という概念に蓄積された信仰を名前で括ってパッケージ化したもの。それがウマソウルなんだろう。
そもそも、ぼくがこちらに来た時点でご存命の原作はけっこうおられたからなあ。悪気があるわけじゃないんだろうけど、死を前提とする『生まれ変わり』の概念が介入するのはちょっとね。いやまあ、不幸な最期を迎えた馬たちが来世では幸せにって意味では生まれ変わりだった方が望ましい層もいるのか?》
まあ言っていることが理解できたかというと話は別だけど。
《想い、祈り、信仰、まあ呼び方は何でもいいけど。有名な名前で括ればその容量は膨大なものになる。逆に、名前で括れさえしてしまえばいちおう形にはなるんだ。
著名なサラブレッドに割り振っただけでは収まりきらない、馬という人類の友に向けられた様々な想い。零れ落ちたそれらがこの世界に根付くために自ら名乗ったのがリボンとかミニとかパルフェなんじゃないかな》
当時の私いくつよ? 今年中等部一年なんだから、最高でも小学生か。まあそれを差し引いてもテンちゃんが言っていることは理解できないことが多々あるが。
《ウマソウルを構成しているのが原作ご本人、もといご本馬の魂じゃなくて人々の信仰だって根拠もいちおうあるよ。
わかりやすいのはキングヘイローかな。史実の彼は雨が嫌いで砂埃も嫌い、それらが飛んでくる馬群の中も嫌い。なんなら夏の暑さも嫌いで、嫌なことがあるとすぐに勝負を投げてしまう。血統は優秀で能力もあるが悪い意味でお坊ちゃん気質だったという話だ。
でもきっと、この世界のキングちゃんは『幾多の敗北を乗り越え栄光をつかみ取った不屈の馬』という信仰の結晶を宿した、泥と涙が誰よりも似合うご令嬢なんだろうさ》
このセリフなんて最たるものだろう。当時、キングヘイロー先輩はデビューなんてしていなかった。
どうしてデビュー前の彼女のことを見知ったように語れたのか、我ながらテンちゃんのふんわり予言はときどき底が知れない。
《でもベロちゃんと呼ばれるほど担当トレーナーにデレデレになっているエアグルーヴならちょっと見てみたいかも》
しょせんはアホな私の片割れなので、それで畏怖したり嫌悪したりってことにはならないが。べろべろ担当トレーナーの顏を舐めまくるエアグルーヴ副会長……もはやそれ怖くない? 自他ともに厳しく律する女帝と呼ばれる彼女がそんな状態なら救急車呼ばないといけないでしょ。
当時の私はどっちも知らないで、いや誰だよとツッコミを入れることしかできなかったけど。
ああ、でも結局聞けなかったことがある。
ウマソウルが願いの結晶だというのなら、テンちゃんはいったい誰の、どんな願いだったのだろう。
さて、どうしていまそんなことを思い出しているのかというと。
いま私が勝負服を着ているからだ。
ウマ娘の魂の在り方を映し出す、レースを走るすべてのウマ娘の憧れ。その全てがオーダーメイドで作成されるこの世に一つだけの晴れ着。少し前まではG1でしか着用を許されなかったもの。逆説的に言えば、その所有はすなわちそのウマ娘にG1出走経験があることを意味する。
G1 朝日杯フューチュリティステークス。
クラシック三冠へと至る登竜門に今日、私は挑む。
なお余談だが、今ではアオハル杯でも着用を許されている。トゥインクル・シリーズなら
アオハル杯は勝負服を持っていない子もステージ衣装で走る華やかな催しなのだが、やっぱりせっかく着れるのだから勝負服で走りたいと思うのが乙女心。一回目のプレシーズンまでに間に合ってよかった。
ここに至るまでの道程を思い出せば込み上げるものが……ある、かなぁ?
メイクデビューを含めここまでOP、G3とのべ三戦走ったわけだけども、ぶっちゃけどのレースを走ったのかぱっとは思い出せないくらいには感慨が湧かない。
勝てたことはもちろん嬉しい。賞金が入って嬉しい。将来の展望が立ってほっとしている。でも、誤解を招くような発言だが私が勝つのは当たり前のことだった。
レースに絶対はないが、順当はある。順当な結果を特別に喜べるかというと、うーんって感じだ。
《レースよりも賞金の方に意識が向いてるってだけで、リシュって物欲はむしろ乏しい方だからなぁ。三年間順当に走れば将来困らないだけの総額が手に入るから、目の前のレースの賞金をいちいち目を血走らせて意識したりしないんだよねえ》
別におかしいことじゃないでしょう?
私は両親に愛情を受けて育った。必死になって求めずとも満たされるような育ち方をしたのだ。必要なものが必要なだけ揃っているのなら、必死にそれ以上を求めても荷物になるだけである。
私は生涯年収をまとめて稼ぎに来たのであって、金に囚われる気はさらさら無い。金なんてしょせんは権利を数値化した目安だ。極論人類社会で生きようとするから必要なのであって、無人島だろうとジャングルだろうと生存可能な私たちには必須じゃない。
《どこにだっていけるし、なんだってやれる。ま、ある程度自然のある所なら食物連鎖の頂点に立って悠然と生きていけるだろうね》
ただまあ、桐生院トレーナーは収得賞金などの出走条件を満たすことはもちろん、今のうちに長距離移動に慣れることを念頭に置いたレース場の取捨選択とか、未熟なジュニア級のウマ娘の身体に必要以上に負荷をかけず同時にレース勘を損なわない日程調整とか、すごく色々と考えてくださっていたようなので。
勝利を得て感涙にむせぶウマ娘ちゃんたちも多い中、その熱意を共感せず、桐生院トレーナーにも熱を見せられないのは、少し申し訳ない気がしている。
《これまでのレースで一番きつかったのって種目別競技大会の芝2000mだもんね》
うん、あれはひどかった。
周囲がトレーニングの傍ら調整してきた中ひとりだけガチに焦点を合わせておいて、バ場が荒れていたという私にかなり有利な条件で、初見殺しの性質が強い私の固有とこれまでストックしてきたスキルをフル活用して、最後の方には使いたくなかった奥の手まで使わされて。
それでもラストにあのタイミングでウオッカが覚醒していなければ負けていたと思う。ハナ差の勝利だったけど、私の方がナリタブライアン先輩より強いなんてとても言えない。
《未熟な者同士、仲間と力を合わせて圧倒的格上を辛うじて降す。少年マンガの黄金パターンだなー。修行パートを挟んで次はぼくらだけでも勝てるようになろうね》
同意も無く一方的にウオッカの【領域】を刈り取ったのを『仲間と力を合わせて』は流石に装飾が過ぎるのでは?
《どうあがいても過去に起こった事実は変わらないんだ。だから真実くらいは耳触りよく装飾したもの勝ちなのさ》
ほんとに物は言いようだ。まあ、私も別に悪かったと思っているわけでもないので強くは言えないけど。
真剣勝負の最中に相手にデバフをかけるのも、相手を糧にして成長するのも、真っ当な戦術だろう。
《うーん、そのあたり見解が一致し過ぎて逆に心配というか罪悪感というか。悪影響与えちゃったかなぁ》
はっ、何をいまさら。
それはさておき、種目別競技大会はレースも大変だったけど、その後もまたひどかった。奥の手を使わされたことでテンちゃんがレース直後からダウン。おかげで私は絶不調だ。独りは本当にダメなんだって。
我が身で経験するたびに思うのだが、やっぱり人格がひとつしかないというのは構造的欠陥が過ぎるんじゃなかろうか。
自分を俯瞰してくれるもう一人の自分がいないから単純に視野も思考も狭まるし、相談しながら物事を決めることもできず、何か間違えそうになっても忠告が来ることも無い。自分にしかわからない達成感でニヤニヤしているときに喜びを分かち合ってくれる相手もいないのだ。当然、すべてを放り捨てて寝込みたいときにそっと代わってくれる相手もいない。
前世でいったいどんな悪行を働いたらそんな目に遭うのだろうと思うが、それが普通の人間というものらしい。人生ハードモードすぎるだろう。
《じゃあきっとぼくらは前世でとびっきりの善行を働いて徳を積んだんだろうね》
そうなんじゃない? 私に前世の記憶は無いけど。
《ぼくにも思い当たる節は無いから、やっぱり善行とか悪行とか関係なさそうだね》
あっそう。
まあ、それだけならいいんだ。あまりよくはないけど自分の意志で選んだ奥の手、テンちゃんが復活するまでは何とか耐えられる。
想定外だったのは私の内面の変化。妙に肉ばかり食いたくなったり、孤高を気取ってみたくなったり、知りもしないバイクについて語ってみたくなったりした。
特に印象深かったのは臓腑の底に溜まるような、ぐつぐつと煮えたぎる飢えと乾き。
あれがウマ娘がレースにかける情熱なのだとすれば、普段の私は本当にのほほんと走っているのだろう。だからといって何かを変えるつもりはないけど、他者の視野を理解する貴重な経験だったことは事実。
今はもう治ったから言えることだけどね。
《アレはナリブの衝動だから一般のそれと比べるとだいぶ濃度が高いと思うよ……レジェンド級の因子をいっきに取り込んだせいでしばらく消化不良を起こしていたんだ。今はもう完全に取り込んだし、それでノウハウも確立できたから次はもうこんなことは起こらない、はずさ》
微妙に不安が残る太鼓判をありがとう。
メイクデビューまでに調子を持ち直せたのは本当に運でしかない。改めて桐生院トレーナーには感謝しなければならないだろう。
これまでの三戦、何も得られなかったかというとそうではない。
むしろその逆。何を走ったのか思い出せないほどにレースそのものに対する関心は薄いが、一走一走ごとに私の中にかけがえのない経験が蓄積された。
どのレースを走ったのかは思い出せないが、一緒に走ったウマ娘たちの顔は忘れない。
メイクデビュー。実は私は走っていない。
その名の示す通り全員がデビュー戦。不慣れなウマ娘同士、接触などの事故が怖いからという理由でテンちゃんが逃げでぶっちぎった。触れるどころか影すら踏ませない徹底ぶりだった。
私がやったのはウイニングライブだけ。
テンちゃんには活動時間の制限があるとはいえ、私たちの勝利ではあるが私が走ったわけでもないレースのセンターを務めるというのは何だかむず痒かった。
でも、そんな呑気なことを考えていられたのも最初のうちだけだ。
『Make debut!』。すべてのウマ娘が経験する始まりの曲。
瑞々しい可憐な歌声の中に隠しきれない震え。笑顔の仮面では覆い隠せない激情のこわばり。それでも彼女たちは歌って踊り、二着以下のパートを見事に舞台の上で演じきった。
以前にも少し触れたがこの時期のメイクデビュー戦、私の同学年はかなり少ない。
その大半が一年以上うえの学年、同等の時間をかけてデビュー目指しトレーニングを重ねてきた先輩だ。それなのにデビュー戦の勝利を入学したての後輩にかっさらわれた。先輩とはいえ相手は年頃の少女。面白くない、なんて軽い言葉では済まないだろう。
でも彼女たちはレースの結果から逃げなかった。最後までライブをやりきり、きっと思い描いていたものではない形で拍手と喝采を受け、笑顔を返したのだ。
それを見て、肌で感じて、ようやく私は自分がトゥインクル・シリーズにデビューしたのだということを理解した。頭ではわかっているつもりで、覚悟が足りていなかった。
たぶんこれが私の中で『お金を稼げるかけっこ』から、『レース』に意識が切り替わった瞬間だった。
あとそれはそれとして、自分が初めて稼いだお金というのも重要なイベントだ。
後日、自室で子供の小遣いには過ぎた額が記載された明細を見てはニヤニヤして、同室のリトルココンに変なイキモノを見る目を向けられたのは真新しすぎる黒歴史だろう。
オープン戦。ある意味で私の本当のデビュー戦。
これもレースそのものにさしたる感慨はない。
一勝したウマ娘たちなら多少はレース巧者、事故が起きる心配も少ないとテンちゃんのアドバイス通り先行策で走り、順当に五バ身差で勝利した。単純な実力差の結果だ。
勝って、わかった。これがクラシック級、シニア級と時間が経てばともかく、現状だと同期に敵はいない。一見して勝てそうだと思った相手に、ただ勝つべくして勝てる。
そして少し怖くなった。私はこれからいったい、どれだけのウマ娘の想いを踏みにじることになるんだろうって。
ひとつのレースにつき現状のURAのルールならフルゲートで最大十八人。その中で勝利の栄光を掴めるのは先着一名様までで、たぶんその一名は常に私だ。
手加減なんて論外。レースに八百長はご法度だ。だけど私は知ってしまった。他の子たちがどれだけの熱意と衝動をレースに向けているのか。こんなことを考えること自体が傲慢だ。それもわかってるつもり、だけど。
楽しく走りたいとか、お金を稼ぎたいとか、そういう動機が低俗で。ただ一着を取りたいとか、日本一になりたいとか、憧れのタイトルを制したいとか、そういう動機が高尚などと思っているわけでもない……はずだ。
いや、やっぱりウソかもしれない。きっと私は数多のウマ娘の夢を摘み取る。その摘み取った夢たちを天秤の片方に、もう片方に私の想いを乗せて、それが私の方に傾くのか、あるいはせめて釣り合いがとれるのか、それが不安になってしまったのだ。
《胸を張れ。勝者が背中を丸めていたら、敗者はどこで泣けばいい?》
こういうとき、背中を押してくれるのはやっぱりテンちゃんだ。
《光に近づけば近づくほど影も大きくなって、でもその陰の中でしか泣けない者たちがいる。光源に近い者が背中を丸めたら影が小さくなってしまう。丸まった弱気の背中に誰が嫉妬と羨望の視線を向けたがる?
リシュのその優しさはとても素晴らしいものだと思うけど、ここでの謙遜は美徳じゃないよ。誰かが勝てば誰かは負ける。ぼくらが走らずともそれが変わらないのなら、だったら勝つのはぼくらがいい》
……うん。そうだね。
そもそもレースとはそういうもの。スポーツという存在そのものが優秀な遺伝子の選別という側面を持つ。
私たちウマ娘は勝つために走るけど、興行側からすれば一着とそれ以外を選り分けるために行っていると表現することもできる。
だったら私は君臨しよう。常に優良種に選別される側であるというのなら、見上げるに値する暴君の背中であろう。
たとえ私のレースにかける動機が生涯年収をがばっと稼ぎたいというしょーもないものであったとしても、それが気に入らないというのなら私以上の才能を持って私以上に努力をしてかかってこい。受けて立つ。そして私が勝つ。
メイクデビューがトゥインクル・シリーズで走る覚悟を決めたものであったのなら、OP戦は私が他のウマ娘たちに勝利し続ける覚悟を決めた瞬間だった。
G3。いわゆる重賞レース。
勝ち続けているとつい失念しそうになるが、勝利の栄光を掴むことができるウマ娘なんて全体の一握りだ。
中央に合格という、そこらのウマ娘の憧れをスタートラインと定義したとしても。まずトレーナーの目に留まってデビューできるかで最初の関門がある。さらにデビューしても引退までに勝利を経験できるのは実のところ全体の三割程度と言われており、つまり七割のウマ娘は何の成果も残せないまま学園を去る。華やかなスポットライトに隠されたレースの影の部分。
そんな世界において、重賞というのはひとつのゴールだ。幾多の戦いを乗り越え多くの挫折を経験してきた者が、最後に掴む栄光。これなら胸を張って引退できるという成果。
まあ私にとっては感慨も無く走り抜けた道中の一環でしかなかったけど。
それを悔やむつもりはないが、それはそれとして心が荒みそう。名門と呼ばれるウマ娘の子たちって幼少期からこんな世界に生きてるの? 尊敬するよほんとに。
このレースでは勝ち方にこだわった。これまで積み上げてきたもの、新たに学んだこと、そして直感、それらを組み合わせた成果を試す場として使わせていただいた。ジュニア級とはいえ重賞レース、相手にとって不足なし。
先行スタートで好位につけ、最後の直線で抜け出し一バ身差でゴール。二着の子は表情が死んでいた。気づいたのかもしれない。
きっちり一バ身。計算通りで、計画通り。パドックで各出走者の仕上がりを見て、展開を予想して、展開を支配して、そして想定外は最後まで起こらなかった。
《ぼくらが見習うべきはナリタブライアンじゃなくてシンザンだ》
神と称えられる三冠ウマ娘、シンザン。
伝説よりもさらに遠い、神話の住人。
彼女が圧倒的な存在であったことは現代まで残る数々のエピソードが示す通りだが、一方で当時のファンからは『そんなに圧倒的に強いウマ娘だとは思わなかった』という評価も残っている。彼女のレースは僅差の勝利が多く、ナリタブライアン先輩のように何バ身も差をつけた圧勝はほぼ無かったのだ。
最終戦績十九戦十五勝、二着四回。現代に至るまで破られていないこの神話もいま歴史として振り返るから一目瞭然なだけで、当時の人々の目からひとつのレースだけ切り取ってみれば勝ちは勝ち、負けは負けだろう。
『シンザンは銭のかからないときは走らない』
『利口な子で、無駄な走りをしないウマ娘だった』
当時のトレーナーは彼女をこう評したとも伝わっている。シンザンは『ハナ差勝ちでも勝ちは勝ち』という信念の持ち主であり、レコード勝ちに興味を示さなかった。
その気になればいつでも取れるものを、どうして必死こいて狙う必要がある? そんな自負に裏付けされた余裕が透けて見える。
彼女が全力を出すのは終盤の勝負所のわずかな時間のみであり、ゴールが近づくとスピードを落とし、ゴール後は誰よりも早く止まってさっさと引き上げていったなんて逸話もある。
まあ、トレーニングでも全然走ろうとせず、調整が間に合わなかった分オープン戦をトレーニング代わりに使っていたなんて逸話までは流石にお手本にしようとは思わないけど。それでも二着にちゃっかり収まっているあたり本当に規格外だ。
『レースをトレーニング代わりに使うのはファンや評論家の立場からすれば腹が立つ』
当時の評論家の苦言も残っている。
ちなみに生涯四回の二着のうち三回はオープン戦だったそうな。すべてのレースを万全の状態で走っていれば、いったいどんなことになっていたのやら。
私の目標も記録を残すことではない。レースに勝つことだ。
レコードタイムとは伊達や酔狂ではない。ウマ娘たちが限界に挑戦しぶつかった壁、その記録だ。つまりレコード更新とはウマ娘の生物学的限界に挑戦するということでもある。
レコード勝ちは健康によくない。いや何言ってんだお前と思われるかもしれないが、走る側からすれば切実な問題だ。私がお金を稼ぐ理由は何も将来の入院費用を積み立てるためではないのだから。私にはレース場に骨をうずめる覚悟も信念も無い。
だからこその一バ身。勝つべくしてきっちり勝つ。このG3はその手法を確立するためのレースだった。
……それに、だ。
ウオッカ、アグネスデジタル、マヤノトップガン、そしてダイワスカーレット。
私の狭い交友関係の中でさえ、同期にはこれだけ綺羅星のごとく才能の持ち主が存在している。
だからいずれ、必ず来る。限界に真正面から衝突し、ぶち抜いてその向こう側にいくことを強いられるような健康に悪いレース。
せめてそのときまで脚は温存させてほしい。ウマ娘の脚はガラスにも喩えられる。使いどころは見極めなければいけない。
負けるつもりは毛頭ないのだから。
さて、振り返ってみれば思ったよりも含蓄みたいなものがあったな。
《で、どうなのさリシュ。勝負服の着心地は?》
そろそろむきあわなきゃ、げんじつと。
それでもあまり直視したくないから、ざっくりした説明。
今の私の格好。
黒いロングコート。マンハッタンカフェ先輩のようなシックなものと比べると派手が過ぎ、黒繋がりでライスシャワー先輩のウェディングドレス風の衣装と比べると可愛らしさに欠ける。
胸の上でクロスしたサスペンダー。これがスカーレットならたいへん目に毒な光景になったのだろうが、私だとうん、逆に未成熟さが強調されている気がする。
右手に巻かれた包帯。左腕でじゃらじゃらと主張するシルバー。武骨なブーツ。極めつけは腰に一対の白と黒の長剣。
長剣二刀流である。いやなんでだよ。刃のついていないレプリカではあるし、流石にレースの時には外す、グラスワンダー先輩のセイントジェード・ヒーラーの杖のようなパフォーマンス用のものだけども。
いや本当になんでだよ。ウマ娘の腕力なら長剣で二刀流も可能だろうけど、それはそれとして大剣を両手で使った方が強いだろうに。創作の中では鈍重なパワー重視の武器というイメージが強いが、槍のリーチと剣の取り回しの良さを両立した高級な武器だぞあれ。
《ちなみに右の黒い長剣の銘は
やめて!? 名前付きで解説しないでっ!
せめて言語は統一しよう。何で黒い方はドイツ語なのに白い方は英語なの? 痛々しすぎるよぉ……。
まあ要するに、一部の十四歳あたりに人気が出そうな大変香ばしい装いであった。
これが私の勝負服。もちろん本番までに何度かこれを着て練習したが、しっかり全スペックが向上していたことがデータで裏付けされている。
これで真価を発揮する私のウマソウルってなにさ!?
《あーいむ、ゆあー、うまそーうる》
知ってるよ!
《ちっちっち、そこは『Nooooooooo!』だろ?》
あいにく、うちの母親はホースの暗黒面に堕ちた被り物好きではないもんでね。
《うーん。ネタは通じるんだけど微妙にこの世界線では原作の方が変わってるんだよなあ。たしかにウマ娘がやった方がアクションは映えるだろうけど》
戯言をほざいているテンちゃんが主犯ではあるが、この勝負服のデザインはいちおう私たちの要望を元にデザインされたものである。
いや言い訳させてほしい。ほんっとに忙しかったのだ。毎日トレーニングに勉強にとヘトヘトになって、時間の余裕もあまりない。自然と要望をまとめるのは疲労と眠気がピークになった夜の自室となる。
そんなときに脳裏で囁くモノがいるのだ。ついつい深夜テンションも相まってノってしまうのも仕方がないのではないだろうか。完成した品が届いたときも自分の勝負服が手に入った喜びの方が勝っていたし。
それもこれからG1の大観客の前にこの姿で出るとなったら正気に戻ってしまうというものでして。
《仕方がないだろ、テンプレオリシュなんだから》
何がどう仕方がないのか教えてくれませんかねえ!
《あ、長剣じゃなくて日本刀の方がよかった?》
ありがとう長剣に踏みとどまってくれて!
阪神レース場、出走ウマ娘に割り振られた控室の中にて。
勝負服に着替え終わった後、精神集中のためにと私たちだけの時間をつくってもらったのに、こんな使い方でいいのだろうか。たぶんよくない。
ちなみにウマ娘によっては、というかトレーナーがついていた方が精神安定が図れるって子の方が多数派なんだけど、私はふたりきりにしてもらった方がリラックスできる。そのあたりの機微をちゃんと斟酌してくれる桐生院トレーナーは本当に優秀だし、ありがたい。
《しかし、やっぱり中山レース場じゃなくて阪神レース場での開催なのか。たしかにスマホが普及しているご時世とはいえ、同期の顔ぶれを見ると改めてこの世界の時系列のごちゃごちゃ加減に困惑させられるなあ。阪神JFとの関係性とかどうなってんの?》
テンちゃんが何に困惑しているのかが私はわからないよ。三冠路線とティアラ路線のどっちに進むかの差じゃないの?
そんなもはや今日のレースとは関係の無い方向に話が逸れかけたとき、ウマ娘の鋭敏な聴覚が足音を拾った。もうパドックに移動する時間かと時計に視線を落としかけて、気づく。
足音は三人分。ひとつは桐生院トレーナーのもの。先導するように残り二人の少し前を歩いている。そして残りの二つ分、おずおずと並んで歩いているこの足音。聞き覚えがある。聞き間違えるはずがない。
《え? これって……》
テンちゃんも気づいた。ノックの音が部屋に響く。
「リシュ。開けても大丈夫ですか?」
「……どうぞ」
半信半疑で桐生院トレーナーに応じると、桐生院トレーナーに続いて二人の男女も入室してくる。
「リシュちゃーん、ひさしぶりー」
「よお、元気でやっとるか」
母と父がそこにいた。