「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」 作:バクシサクランオー
感想、誤字脱字報告もありがとうございます。
U U U
走る。
騒音の無い、冷たくてやさしい水槽の中。
きらきらと足元を照らす熱の無い照明。ガラスで区切られた無数の世界。
記憶の水中を泳ぐ鮮烈な影の数々。ここは情報で織り成される水族館。
前を走るハッピーミーク先輩の白い後ろ姿をひたすら追いかける。
力尽きたようにずるずると垂れてくるスカーレットをかわし、入れ替わるように伸びてくるウオッカと並ぶ。
まとめて圧し潰そうと後方からリトルココンが仕掛けてくるが、まだ許容範囲。一息入れたいところだが、余裕はない。
ドン、と後方で爆発する威圧感。来る。ここに来る。まるで切りつけたようにラインが理解できるが、今の私に防ぐ術はない。
押し寄せる影。猛禽のように輝く金の瞳。凄まじい末脚でいっきにレースを持っていく。“怪物”ナリタブライアン。
ああ、今回もダメだったか。
ゴール板を駆け抜ける黒鹿毛を見ながら、私の意識は浮上した。
水の中に包まれるような冷たい浮遊感から、頼りない空気の中へと帰還する。ジャングルジムの上に腰かけて足をぶらぶらさせている己を把握する。
青空の下。暖かくなってきた風の吹き抜ける公園。タンポポの綿毛がひとつだけ、群れからはぐれたように通り過ぎたのが遠目に見えた。うん、春だ。
ただいま休日中。ここは自主練の最中に寄った公園。近所の子供たちの遊び場になっているところなのに珍しく今日は誰もいない。
《おかえりー》
ただいま。
はあ、やっぱり相棒がいると落ち着く。あの空間のきらきらとした冷たく安らげるデザインは好きだし、単純に性能で見てもトップクラスなんだけど、ふたりで一緒に潜ると展開時間が大幅に減るのが玉に瑕だ。テンちゃんの負担も大きくなるし。
単独で潜れば三十分は維持できるが、ふたりで潜ればせいぜい五分。それではいいとこ二レース、短い距離を無理やり詰めても三レースが限界。ひとりで潜った方が効率的なのだ。感情的な問題はともかく。
《どうだったー?》
2400mはまだまだダメだったよ。やっぱりナリタブライアン先輩は当人の好きなように走らせちゃあかんやつだね。一度調子に乗せると手が付けられなくなる。
実力で勝ったとは思っていなかったけど、こうやって相対すると改めてアレは反則だと思う。しかもあれは去年、種目別競技大会のときに蒐集した【領域】の断片、テンちゃんが言うところの『因子』を基に構築したデータなので、今の実物はさらに伸びている可能性が大というね。
固有スキル【HAPPY AQUARIUM】
ミーク先輩からいただいた【領域】だ。いろんな意味で枠に嵌らない彼女らしい固有スキルであり、その利便性は私の知る【領域】の中で随一である。
一般的な【領域】はレース中に外側に向けて短時間展開されるのに対し、【HAPPY AQUARIUM】はトレーニング中に内側に向け長時間展開される。世界を塗り潰すのではなく自分の中に世界を展開するというその風変わりな特性ゆえか、効果時間が長いうえに、具現化にかかる負担は少ない。
効果は精度の高いシミュレーション。いわゆるイメージトレーニングであるが、事前に正確なデータさえ揃っていれば現実に見劣りしない経験を得ることができる。
発動条件は『リラックスした状態で一定時間青空を見上げる』こと。なお曇りや雨でも一応は発動できるが、悪天候であればあるほど内容は劣化する模様。
もともとストック時にオリジナルより性能が劣化しているところを、私の場合は【
《クールタイムの兼ね合いもあるしね》
私は【
何故ならそうやって獲得したスキルは私のものであっても私ではないからだ。つまり、あくまで私の内部に取り込んだ他人の能力なのである。
だから一度使えば再使用できるようになるまで相応の時間を必要とする。テンちゃん曰く、私の心身に過剰な負荷をかけないための保護機能らしい。その割にはストックしたスキルを並列して使用できるのが微妙に不可解だったけど、以前にウオッカとナリタブライアン先輩の因子をまとめて取り込んだときの『消化不良』みたいな状態にならないための措置なのだろうと今は納得できる。
要するに、境界線を越えないことが重要なのだ。そして一度取り込み終わった固有スキルごと個別にメーターは管理されているのだろう。
《【
そのときの調子にも依るが、クールタイムは平均しておよそ半月。スキルごとにもばらつきがある。ミーク先輩の【HAPPY AQUARIUM】に至ってはまるまるひと月だ。脚を消耗させずライバルたちと切磋琢磨できる貴重なスキルなだけに一か月ごとにしか使えないのはすごく残念である。
これからのレース間隔によってはストックが尽きた状態で次のレースに臨まざるを得ないこともあるかもしれない。そういう意味合いでも連戦は極力避けたいところだ。
まあ、尽きるどころかそもそもストックを使わざるを得ないって状況になったことがまだ数えるほどしかないけど。
弥生賞もふつーに勝ったし。
連戦で思い出したけど、〈ファースト〉との四連戦は実に貴重な経験だった。
悪事千里を走るというやつか。噂は広がるもので、『テンプレ連戦』の呼称にて学園で密かに囁かれているあの一件。
《結果ほど実力差は無いからな。くれぐれも油断すんなよー》
ことあるごとにテンちゃんはそう忠告する。私だってこれでも自分の実力に夢を見ているお年頃。時折わずらわしいと感じなくも無いが。
それでもまあ、勘違いして痛い目見るよりは口うるさく忠告された方がずっとマシなのだろう。
《あそこまで綺麗にハマることってそうそう無いからな》
あの一連の流れは最初から最後までテンちゃんの計算の範疇だった。
最初におさらいしておくとあの一件、私たちが介入した目的は大きく分けて二つあった。
一つはデジタルの要請通り、チーム〈ファースト〉と〈ブルームス〉のいさかいを仲裁すること。
もう一つは将来に備え、自分がどこまで無茶に耐えうるのか野良レースで限界の目安を探ること。
だからといってそれらをまとめて叶える方法として『〈ブルームス〉の代理で連戦し、全勝して〈ファースト〉の戦意を木っ端みじんにする』なんて案が出てくるあたり我ながらだいぶ頭おかしいと思うけど。
そんな力押し極まりないアイディアではあるが、それを押し通すために裏でいろいろと考えていたのだ。
まず〈ブルームス〉の代理に割り込む件。
これはごり押しでいけると踏んだらしい。
そもそもテンちゃんが〈ファースト〉に向けて言った『ライスシャワー先輩は即興に弱い』という弱点。これは彼女だけではなく実は対峙していた〈ファースト〉全体に当てはまる。
〈ファースト〉は樫本代理が率いるワンマンチームだ。これは樫本代理の意志が全体に行き届きやすい組織の構造である反面、樫本代理不在の〈ファースト〉は組織間での意思疎通に欠ける脆弱性を持ってしまう。
《いやまあ、理子ちゃんがいたところでチーム〈ファースト〉はコミュ障集団のような気がしなくも無いけどねえ》
そのためのUMAの被り物。
一目瞭然で問答無用のインパクトで相手の意識に無理やり空白を作り、そこに付け込んで話を誘導した。
ばかばかしいが何かと応用が利く、有効な手である。
あとはすべてが終わった後に、脱いで注目を集めるという用途もあったようだ。
噂とは広まる過程でより簡略化され、極端に味付けされるもの。
UMA覆面のまますべてを終えたら事情を知らない目撃者からは『あの覆面は誰だ!?』となるが、四連戦した方が覆面を外せば『UMA覆面が〈ファースト〉を単独で圧倒し、覆面を外したその正体はテンプレオリシュだった』という情報が残る。
噂に群がる不特定多数への対処は私もデジタルも拙いの一言だ。身体を共有している以上私も巻き込まれることになるが、テンちゃんはターゲットを自分一人に集めたかったのだろう。
まあその目的はおおむね達成されたと言えるが、詳しく話すと脇に逸れるので詳細は後にまわすとしよう。
《なんだかんだ言ってあの子たちも学園のウマ娘。常識的で善良な感性を持っている。だから、一握りの悪意でも望んだ色に簡単に染めやすいのさ》
偽悪ぶっちゃいるけど、テンちゃんの話術はかなり巧みだと思う。少なくとも私には真似できない。
《建前の補強はデジタルがしてくれたしね。人間っていきものは内容を理解できずとも、いや理解しきれないからこそつらつらと並べ立てられた情報を前にすると一定の説得力を感じてしまうものさ。思考停止しているだけとも言うね。
それにあの頃の〈ファースト〉は自分たちが強者であるという傲りがあったから。面倒な話を打ち切るために実力で黙らせる、つまり乗ってくる公算は高かったよ》
それにしても、ある程度彼女たちの人となりを把握していなければ、多少強引にでもあそこまで誘導できるものだろうか。
いったいどこで拾ってきたプロフィールなのやら。私が興味ないから聞き流して忘れているだけという可能性も非常に高いが。
次に、ちゃっかりと〈ブルームス〉の代理に収まった後のやり取り。
まるで私たちだけで五連戦するようなことを言っていたが、実のところデジタルが助力を申し出てくるのは想定の範疇だった。
というか、さすがにそうじゃないと厳しい。デジタル本人には話していなかったから、彼女の反応自体は演技じゃなかったけどね。
そして中距離、マイルの前半戦。そしてダートをデジタルに走ってもらい、短距離、長距離の後半戦。この走る順番も計算しつくされたものだ。
《ビターグラッセは最初に潰しておきたかったからな》
声が大きくて態度が快活。
それだけで立派にひとつの資質だ。チームワークの無い〈ファースト〉においてはまったく活かしきれていないが、リーダーシップに繋がりうる才能である。
もしもチームが追い詰められたとき、ビターグラッセが健在なら彼女が持ち前の根性で声を張り上げ、それに釣られるようにチームが息を吹き返すこともありえたかもしれない。その可能性を事前に潰しておきたかった。
《チーム〈ファースト〉ってチーム内部における人望がないからなあ。ぼくらにとっては好都合だけどさ》
『あんたほどの人が言うなら、納得は出来ないけど飲み込むよ』。あまり気持ちのいいものではないが、人間関係の中では必須の妥協。その基盤になるのが人望だ。
〈ファースト〉にはそれがない。強いて言うのならメンバーから樫本代理に向けられている感情がそれなのかもしれないが、メンバー同士の関係性の中には皆無だった。
ウマ娘は本能的に自分より速いウマ娘に敬意を払う傾向があるし、中央だとその傾向がなおさら強くなる。
しかしその逆もまた然り。足の遅い相手にはどうしても侮りの感情が生じてしまう。
真っ先に敗北者というレッテルを張りつけ弱者と印象付けることによって、チーム内からビターグラッセの発言力を失くす。
それが真っ先に彼女を目標に据えた理由だったわけだ。
まあ、余力があるうちに下したかったというのもあるけどね。テンちゃん曰く、ビターグラッセとリトルココンは〈ファースト〉の中で双璧を成す潜在能力の持ち主らしいから。
《まったく、ウララちゃんを見習うべきだよね》
いやいや、ハルウララ先輩の性格はもはや真似できない才能だろう。
あれだけ負け続けていて、誰がどうみても足が遅いのに、あれだけ愛されて敬意を払われているのだから。『彼女がいなければ今の重賞ウマ娘の顔ぶれは少なからず変わっている』などとまことしやかに囁かれているほど、ハルウララ先輩に心を救われた中央のウマ娘は多いらしい。
仮の話だが、もしもハルウララ先輩が〈ファースト〉にスカウトされていれば今頃、実力と人望が揃った最強のチームが爆誕していたりするのかもしれない。
《たしかにあれだけレース出走しまくって故障しない頑丈さと天真爛漫さを併せ持ったウララちゃんは理子ちゃんと相性いいかもね。〈ファースト〉としての運用を考えるとウララちゃんが埋もれるだけの気がするけど、専属ならあるいは……》
話が逸れたな。
まあそうやって各個撃破の流れに持ち込んでしまえば、後は烏合の衆とまでは言わないが。二対一を四回繰り返すだけの話だ、数の利はこちらにある。
単純な実力で言ってもあのときの〈ファースト〉個々の面々と私では私の方がやや上。隔絶した差こそ無いが、さらに有利な状況を整えてしまえばそれは打破し難い壁へと変ずる。
ビターグラッセは並んだ瞬間何故か大きくフォームが乱れたので、そのまま追い抜かして一勝だった。
この現象は昔からわりと発生するのだが、原因はよくわからない。テンちゃんに聞けば細かい理屈と併せて教えてくれるのかもしれないけれど、その場合【灯篭流し】のときみたく技として分類されて香ばしい名前とか付けられそうなんだよね。
《【蜃気楼】……いや、もっとシンプルに【陽炎】くらいにした方がカッコいいかな?》
だから命名するなというに!
これのおかげで地元では私と走ってくれるウマ娘がどんどん減っていた。
なのに原因を究明して改善しようとするよりも、テンちゃんからもたらされる羞恥を避けたい気持ちが強いあたり、私の人付き合いに向ける意欲の希薄さがよくわかるというものだ。
まあいいじゃないか。私自身に問題があると考えるより、謎の現象が原因だと考えた方が結果は同じでも気持ちは楽なのだから。
《何気にマイル戦が天王山だったよなー》
ビターグラッセという紛れもない強敵相手からの息をつく暇もない連戦であり、小細工無しの実力勝負をせざるをえなかった第二戦のマイルが一番大変だった。
でもそこを乗り越えてしまえば後は楽なものだ。あちらが勝手に崩れていくのだから。
〈ファースト〉は完全に徹底した樫本代理のワンマンチーム。つまりチーム内部に精神的支柱がないという、学園においては珍しいチームなのである。だから樫本代理がいない状態で一度崩れ出したらもう止まらない。ストッパーになりうるビターグラッセは最初に潰した。
《リトルココンもリーダーになりうる素質はあるけど、そこは話術とパフォーマンスで惹きつけることで阻害する。体力回復のための時間稼ぎにもなって一石二鳥だね》
テンちゃんのいうことはだいたい合ってることが多いけど、そればっかりは疑問なんだよね。
リトルココンが実力者だというのはわかるが、リーダーの資質という点に関しては非常に疑問だ。すごく懐疑的。友達を作れば人間強度が下がるとか言い始めるタイプのコミュ障でしょあれは。
《あはは、本当に引きずってるなあ。リシュがここまで苦手意識を抱くのも珍しい》
うーんそりゃ、苦手な相手はそっと距離を置くことでいままで対処してきたけど。
リトルココンの場合同室だから逃げられないし、テンちゃんとの距離は近いしで、どうしても視界に入り続けるのだ。
その結果として初対面のときの苦手意識が薄れないまま一年以上燻り続けたのである。もう沁みつくというものだ。
最近は徐々に緩和しつつあるけども、それも今は置いておこう。
ダート戦でのデジタルは相手のチームを崩すという意味ではこれ以上ない働きをしてくれた。
明確な根拠が無いから、結果的に勝ちきれなかった末の引き分け扱い。
だからこそ相手からしてみれば『譲られた』という負い目になる。自分たちの方が強者だと思い込み、あれこれと罰ゲームを積み上げてプレッシャーを掛けていたのだからなおさら。
あそこから一気に〈ファースト〉は崩れ始めた。
《あそこまでデジたんが伸びてるとはねー。まだ二回しかアオハル魂爆発してないのになあ》
テンちゃんが言うところの『アオハル魂爆発』はおよそ半年に一度のスパンで行われている。
爆発が可能な密度までウマソウルを高めるのに必要な時間でもあるし、あまり短期間に拡張を重ねすぎると身体とウマソウルのバランスが崩れるリスクがある、のだとか。
ぶっちゃけ理屈はよくわかんないけど、ぐんと下り坂でペダルを踏みこみ過ぎた自転車のように身体能力が跳ね上がる感覚はたしかにひやりとするものがある。慣らすのに半年の時間が必要だという意見には頷けるところだ。
それに何より、テンちゃんが裏でごそごそ何かやっているとしても、それはデジタルが常日頃から重ねている努力あってこそ成り立つ成果だろう。
私はウマ娘ちゃんラブな普段の態度を捨ててまで必死に勝利を目指してくれたあの時のデジタルに敬意を表したい。
《デジたんに向けて説教要素まで網羅してしまうとは、本当にあの時のぼくはテンプレオリシュやってたぜ》
そういえば話は少し逸れるけど。
テンちゃんの存在が認識された後も、驚くほどにデジタルとの距離感は変わらなかった。
テンちゃんの存在が明確になった直後に〈ファースト〉との一戦が挟まれ、関係性の再構築がうやむやになってしまったというのも大きいかもしれない。
私もデジタルもコミュニケーション能力に長けた方ではない。一度流れてしまったことを、わざわざ蒸し返そうとする気力も手腕もお互いに持ち合わせていないのだ。
まあそれを差し引いても、案外そこまで大仰に考えることはないのかもしれない。薄々気づいていながら口に出していないだけという相手は意外と多いのではなかろうか。
あまりに変わらないデジタルに、そう思わされる。
私たちはともかくとして。世間一般的に二重人格は病気であり、その発症には多大なストレスが伴うとされている。
デリケートな問題であり、推理小説の探偵と犯人ではないのだ。気づいたところでわざわざ面と向かって指摘しなければいけない道理はない。
変化らしい変化といえばテンちゃん個人のネット上のアカウントがいくつかデジタルのアカウントとお友達になったことくらいか。本当にそれくらいの出来事しか起こっていない。
そうなってくるとわざわざカミングアウトするのも自意識過剰のような気がして、〈パンスペルミア〉を始め私はテンちゃんの存在を明示していないままだったりする。
求められたら説明する感じでいいよね。こんなんだからコミュ障のままなんだろうなあ。
残る短距離と、長距離。共に〈ファースト〉を名乗るにふさわしい実力者だった。簡単なレースなどと冗談でも言う気になれない。
でも、楽な作業だった。
譲歩された勝利に、現実味を帯びてきた全敗の恐怖。己の身に降りかかってきた現実味の無い重大な罰ゲーム。
もはやレースが始まる前から掛かっているようなものだ。精神的支柱は不在。立て直すことも許されない。
状況は整った。あとはただの答え合わせ。
短距離の子は軽く押すだけで崩れたので、そのまま押し切った。
もともとテンちゃんの見立てでプレッシャーに弱い子だと踏んでいたらしい。最後の決戦に向けての箸休めといったところか。
長距離ではリトルココンが野良レースにも関わらず【領域】まで使ってきたけれど。
初見殺しという点で私の【
3000mはこの時期のクラシック級ウマ娘にとって未知の距離だ。あるいはそれもあってリトルココンは何が何でも勝ちに行ったのかもしれない。自分が有利な条件で負けることなど中央のウマ娘のプライドが許さないだろうから。
でも、私にとっては不慣れではあっても未知ではない。ミーク先輩から譲り受けた水族館の中で何度も七バ身差の衝撃と称えられた“怪物”を経験している。テンちゃんの助言に従ってナリタブライアン先輩の因子を取り込んでおいて本当によかったと思うよ。
そもそも本当のレースならともかく、あの野良レースは併走、あるいはかけっこに近い一対一の勝負だった。読みや駆け引きよりも身体能力のごり押しが利く。
幾重にも張り巡らされた策謀に絡めとられた時点で、あの3000mは私のテリトリーだった。そういうことだ。
《ふっ、まるで将棋だな》
たしかに駒の性質を把握して、盤上を読みながら一手一手詰めていくという意味では詰将棋に近いかもね。
私としては推理小説の解決パートの方がたとえとしてしっくりくるけど。ごちゃごちゃとした全体像が理路整然と整理されていくさまが似ている。たまに『え、それで通すの?』ってトンデモ理論が挿入されることがあるのも含めて。
《ネタが不発したときのやるせなさったら無いよね》
何かのボケだったらしい。気づかなくてごめんね。
テンちゃん曰く、あそこまでこちらに都合よく最初から最後まで完走できる可能性は三割も無かったそうだ。
策略は複雑化すればするほど繊細になり策に溺れるリスクが高まるので、単純な力押しができるのならそれに越したことはないとも言う。
誤差を許さぬ神算鬼謀ではなく、こうなるはずだという魔性の決め打ちでもない。
ただ広く俯瞰して、己の手の届かない範疇までしっかり把握した上で、手の届く範囲を着実に埋める秀才の知略。
あそこまで人心と状況を読み込んで策を練り実際それは結実したのに、テンちゃんにとっては自分が対策を用意できた三割の未来でしかなかった。倍以上のどうしようもない可能性が見えていたのだ。
冷静で、客観的で、臆病な策士。
一連の流れをこうして振り返ってみれば、裏に透けて見えるのは普段のわざとらしいハイテンションの絡まないテンちゃんの素の部分。なかなかお目にかかる機会がないので、こうして垣間見えただけで何だかラッキーな気分になる。
普段の妙なテンションも好きだけど、どうしてわざわざ素の性質とは異なる自分であり続けようとするのかはいまだにわからない。それが何となく悔しい。
まああのときは割と素が露出していたか。
もともとテンちゃんは裏で俯瞰しているときはともかく、表に出た状態で自身の主導で動いているときはあのハイテンションを維持することを苦手としている。竜頭蛇尾は言い過ぎだが、やはり無理している部分もあるのだろう。
レース自体は二人で分担していたが、それでも後半になるとテンちゃんは疲労で精彩を欠いていた。そんな状態で、あるいはそんな状態だったからか、ライスシャワー先輩に涙ながらに制止されるようなことになってしまい非常に凹んでいた。
見えているものが違ったのだ。
テンちゃんにとって樫本理子という女性はトレーナーである以前にURA職員であり、理事長代理だった。
これは極論だが、トレーナーとは言ってしまえば自分の担当ウマ娘だけを強くする職業である。
その職に就いている者の人となりや信念や主義主張はともかく、他トレーナーの担当ウマ娘が強くなれば、自身の担当ウマ娘が敗北すれば自身の評価が下がってしまうのは事実だ。
だが理事長代理は違う。トレセン学園の理事長とは、生徒全員が強くなることを第一とする職業だ。
これも当事者たちの感情をあえて無視して言わせてもらえれば、〈ファースト〉の担当トレーナーであることはあくまで理事長代理業務を円滑に進めるための手段でしかない。
テンちゃんの中では樫本代理のトレーニングメニューは管理主義布教のために露出を前提としたものだった。
その内容が広まれば広まるほどウマ娘が幸せになる可能性が広がる。だからその気になればいくらでも詳細な情報を入手できるよう、樫本代理の側が準備をしているとさえ踏んでいた。
積極的に樫本代理から布教しないのは担当している〈ファースト〉の面々に対する義理立てと、あとはフリードリッヒ大王のジャガイモ宣伝と同じ理屈もあるかもしれない。
人は投げ与えられた施しにさして価値を感じず、逆に厳重に警備されているように見えるものを自らの手で盗み出したときは大きな達成感と共に入手したものの価値を確信する生き物だから。
だから参考までに正確なものを入手しておきたかったのは事実だが、実際は絶対命令権を使うほどの価値は無い。『それっぽく相手にデメリットがありそうなことを命令しましたよー』というポーズだけのつもりだったのだ。
まあそんなテンちゃんの内心が、あの場での共通認識であるはずもなく。
内実は手を変え品を変え策に策を重ねて幸運に助けられ拾った勝利だったとはいえ、外から見れば四対一での完勝。実情はともかく圧倒的武力を笠に担当トレーナーの企業秘密を渡せと脅されたように感じたのではないか、とは後日精神を持ち直して冷静になったテンちゃんが振り返るところだ。
価値観の相違はいつの時代も悲劇を生むね。
《まー世の中には戦意が無いことを示すために白旗を掲げたら、相手側にとっては『きさまらを皆殺しにしてまっさらにしてやる』って意味ってこともあるからね。異文化コミュニケーションむずかしいね》
そこまでは言ってないが。
うじうじと凹んでいるテンちゃんを慰める時間は悪くないものだった。私には真似できそうもない大胆な策略でアオハル杯ランキング一位のチームを手玉に取った直後の
お互いに弱さや醜さを隠さなくていい関係性とはいいものだ。隠し事や秘密が無いとは言わないが。
たとえば私的にはライスシャワー先輩の一件よりも、その後のミホノブルボン先輩の方が印象的だったかもしれない。
実はテンちゃんが表に出ている間、私が起き続けていることって少ない。レース中なら緊張しているから眠くなることなんてまず無いけども。
例えるのなら幼少のみぎり、親におんぶされた状態で歩いているような感覚。自分で自由に身体は動かせないけど安心感に包まれ不安はまったくない。そんな状態が長時間続くとついうとうとしてしまうのも仕方のないことだろう。
身体の主導権こそ私が握っているが、テンプレオリシュとは『私たち』のことである。だからテンちゃんが使いたいと言えば基本的に理由なんて聞かず譲り渡すし、その先で何をやっているのか逐一確認しようとも思わない。
そもそも今回の一件でデジタルが私たちを頼ってきたように、テンちゃんが何やら水面下で活動を続けていたことは実は一部では有名な話だったそうだ。
些細なすれ違いから関係がこじれかけたところにずけずけと割って入って口を挟んだり、すれ違いざまにぼそっと今後の活動の根底を揺るがしかねないアドバイスを囁いたりする、小柄な葦毛。
そんなことをしていたのかと意外に思う気持ちと、テンちゃんは面倒見がいいからなあと納得する気持ちが半々だ。
身体を共有している以上、私たちの行いは善であれ悪であれ私たちふたりでその報いを受けることになる。自身を裏方だと定義しているテンちゃんが、尾を引きそうな対人トラブルにわざわざ自ら首を突っ込むことは地元ではあまり無かったのだが。
そうまでして見過ごしがたい悲劇だったのだろうか。それはあり得た過去と変わった現在を観測しえない私にはわからないが、あのミホノブルボン先輩の謝罪を聞いたときからテンちゃんの中で何かが変わった気がする。
たぶんだけど、優先順位に明確な変更があった。
《ぼくはオリ主ではあっても、決して世界の中心なんかじゃない。この世界はぼくに見向きもしないで恙無く進行している。だから何もしていないのに
やっぱりダメだ。傲慢にも後悔しちゃうんだ。もっと何かができたんじゃないかって。蝶の羽ばたきですら世界の裏側でサイクロンを起こせるのなら、ぼくの一挙一動は少なくとも蝶の羽ばたきよりかは質量を有しているだろうから》
あまり卑下しないでほしい。そういうのは好きじゃない。
テンちゃんは間違いなくあのとき〈ブルームス〉を助けたし、それは私にはできないことだった。
私なら途中で飽きて力押しになってただろうし、でもそれで押し切れるほど〈ファースト〉は甘い存在ではなかった。
いざというときに私は自分の才気に任せたごり押しを選んでしまう。私が自分のことを雑と認識する所以だ。
だからあれはテンちゃんだからできたことで、その功績はたとえ本人にだって否定してほしくない。
《おっと、自嘲っぽく聞こえちゃったかな。ごめんね? 気を付けるよ。まあ何でもできるとは今でも思っていないし、やれることを何もかもやろうとも思わないけど。手の届く範疇で何かはしたいとは思うかな》
うん、テンちゃんにやりたいことがあるのなら付き合うよ。今のところ私に明確な人生の大目標みたいなものってないしね。レースと賞金はあくまで生きるための手段だ。目的じゃない。
ひとまずトゥインクル・シリーズの目につくタイトルを根こそぎ獲得してやればいいか。それで何が変わるのかまでは知らんが、歴史に名を刻み世界を震撼させることくらいはできるだろう。必要とあれば世界を股にかけるのもやぶさかではない。
それだけの発言力があればテンちゃんのやりたいこともやりやすくなるんじゃない?