「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」   作:バクシサクランオー

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檻が守るは獣か人か

 

 

U U U

 

 

「ふいー、つかれた」

 

 トイレに行くといって抜け出してきた。

 たかがゲーセンのスコアで本気になり過ぎなんだよスカーレット。

 そういうところも嫌いじゃないし、彼女の個性で強みだと思っているけど、付き合いきれるかと言うとまた話は別である。

 

《おつかれー》

 

 テンちゃんもねぎらってくれる。

 嘘はどんな些細なものでも瑕疵になりうるというのがテンちゃんの持論なので、ちゃんとトイレにはいって洗面台で鏡を見ながら考える。鏡越しに頭の上に乗せたぱかプチスカーレットと目が合った。

 まったく、スカーレットが私に勝てるわけないのに。

 彼女が私に勝る点は、熱意と根性のふたつ。

 

《あとは身長と体重とスタイルもかな》

 

 うっさい。本格化が終わればきっと伸びるもん。

 

 ともかく、身体能力とセンスに秀でた私の方がゲーセンの遊び感覚の中では圧倒的に有利なのだ。何年も練習期間があるのならともかく、即興のぶつかり合いで私がスカーレットに負けることはないだろう。

 彼女の強みはそこじゃないだろうに。

 

《理屈でどうこうできる本能は本物じゃないってむかし野球漫画の監督が言ってたぞ》

 

 その理論でいくとスカーレットの一番への執着は本物ってことか。納得はできるがそれはそれとして勘弁してほしい。

 このまま無策で帰ればまた『アタシが一番になるんだから劇場』に付き合わされるんだろうなー。やだなー。お互いにとって悲劇にしかならないじゃないか。

 

《何か飲み物でも買っていけば? 自動販売機があっちの方にあったはずだぞ》

 

 それだ。飲食でひと息入れたら流石のスカーレットも少しは落ち着くだろう。仮に落ち着かなくても缶コーヒーを飲み干すまでは大人しくしているはずだ。

 そうと決まれば話ははやいと、小銭の枚数を確認しながら歩きだしたところで。

 

「おっと」

 

 見覚えのある人影が目に留まった。

 私服姿を見るのは初めてか。

 いや、そもそもそこまで付き合いのあるひとでもない。

 

「うん?」

 

 あちらもこちらに気づいたらしく足を止める。

 ナリタブライアン先輩。

 トゥインクル・シリーズを代表するスターウマ娘のひとり。

 日本のレース史上いまだ成し遂げた者が片手で数えられる偉業、クラシック三冠を成し遂げたレジェンド。

 今の私のレース経験の基礎を形成している一方的な恩人ではあるがその反面、個人としての付き合いは非常に浅い。種目別競技大会の後も特に会話なんてしなかったし。

 接点という意味ではナリタブライアン先輩と同じアオハル杯チーム〈キャロッツ〉に所属しているスカーレットの方が、よほど縁が深いだろう。

 

 そんな彼女は私の姿を確認するや否や、何故かつかつかと距離を詰めてきた。

 いや、別に詰め寄っている気は無いのかもしれない。

 脳内のレース関連フォルダからナリタブライアンの頁を引っ張り出す。彼女の身長は百六十センチ。実は百六十三センチあるスカーレットよりも低いのだ。

 だがその猛禽類じみた雰囲気のせいで多くの人間がプラス二十センチくらいに錯覚する。その威圧感のせいでただ近寄られるだけでも無駄にプレッシャーを感じてしまうのだろう。

 

「おい、宝塚には出るのか?」

 

 うわぁ、挨拶も前置きも無くいきなり本題。

 単刀直入過ぎて意味を捉え損ねそうですらある。

 あまり多弁な方ではないのだろう。イメージ通りではあるけども。

 気の弱い子ならこれだけで泣いちゃいそうだ。

 ただ、個人的には同族の香りが好感かな。言わんとしていることは伝わってくるし。

 

「出ません」

「何故だ? いたずらに歳月を重ねただけのやつらに気兼ねする性質(たち)とも思えんが」

 

 いやいやいやいや。

 G1ですからね、宝塚記念。

 グランプリですからね。人気投票ありますから。少なくとも出走メンバーは『いたずらに歳月を重ねただけ』なんて可愛らしいものではないだろう。

 皐月賞ウマ娘なら話題性もあるし、もしかすると票数自体は集まるかもしれないけどさ。それでも私が出ようと思えば出られることを前提に話が進むのは何かおかしくはなかろうか。

 まあ私がその気になって出られないとは思わないのも事実だけど。

 

「脚の負担があるので」

「ふっ、勝てんとは言わんか」

 

 獣のような金色の瞳がぎらりと愉快そうな光を帯びる。

 不思議だな。人と目を合わせるのは苦手なはずなのに。

 怖くないぞ。なんか絶妙に波長が噛み合う感じ。

 

「負けるために出走するウマ娘なんて中央にはいませんよ」

 

 マツクニローテでダービーを走った後に宝塚記念でシニアの一級品と激突。

 その後におまけでアオハル杯プレシーズン二回戦もついてくる。

 ちょっと無理だ。

 

「お前はいつ()()()に来る?」

「最短でスプリンターズステークスですかね」

「チッ、短距離か……」

 

 必要最小限、というにも少しばかり言葉が足りないかもしれない応酬。

 この会話のテンポは嫌いじゃない。

 

「うん? たしか今年のスプリンターズSにはサクラバクシンオーが出るだろう。そいつには勝てるというつもりか?」

 

 おお、バクちゃん先輩はこのナリタブライアン先輩にさえ認識されているのか。

 適性距離が違うからレースで相まみえる可能性は限りなく低いだろうに。自身の獲物になりえない相手に対してとことん興味が無さそうな性格なのに。

 なんだか嬉しいな。ついでによくこの性分で生徒会副会長なんて務まっているなこの人。他役員の苦労がしのばれる。

 

「勝算が無いわけじゃないですし、それに……」

「それに?」

 

()()()()。手が届くところにあるなら欲しくありませんか?」

「……フッ。たしかにな。私も短距離に適性があれば抑えはきかんか」

 

 あえてこの人のフィーリングに合いそうな言葉を選んだが、まんざら嘘というわけでもない。

 私が一般的なそれとはかけ離れた感性の持ち主だろうと、いちおうウマ娘の端くれだ。最速の称号にくらりとくるものはある。

 バクちゃん先輩は今が脂の乗り切った時期。勝つなら今だろう。

 テンちゃんの偉業を求める方針にも合致している。

 

 それに、ウマ娘のレースにおける旬は短い。

 もしも本当にバクちゃん先輩が中長距離で成績を残すのなら、このタイミングがギリギリのラストチャンスだ。

 私がバクちゃん先輩に走法を伝授するつもりがあるならば、ここで足りないピースを埋める必要がある。

 全てがバクちゃん先輩のためというわけではないが、それらの要素を含めクラシック級のこの時期にぶつかるのが最適と判断した。

 健気な後輩が一年かけて練り込んだ努力の結晶。是非とも完成したあかつきにはバクちゃん先輩に活かしてほしいものである。

 

「ナリタブライアン先輩と当たるのはたぶん有記念あたりになるんじゃないかと」

「ほう? ジャパンカップには出ないのか?」

 

 しつこいようだが。

 有記念もジャパンカップも出ようと思って出られるようなものではない。重賞なのである。それもG1なのである。

 そして私は皐月賞を取ったとはいえ、あくまでクラシック級の夏もまだ迎えていない、発展途上の若輩者。

 私がレース界隈の上澄みである中央、その中央でもまた上澄みの一滴であることはこれまでの実績から否定しようのない事実だが、それはそれとして何かおかしいのではなかろうか。

 ふと我に返ると羞恥と衝動のままに頭を掻き毟りたくなりそうだ。あまり考えないようにしよう。

 

「あと長々と呼ばれるのは気怠い。ブライアンでいい」

「ではブライアン先輩と。私のこともリシュでいいですよ」

 

 うわぁ、今の私すごくなかった?

 この切り返し。とっさに出たのは我ながら素晴らしい。コミュ障である私も着実に進歩しているのだと実感できる。

 

「脚が、ね。無理はしない主義なんですよ」

 

 無茶はたびたびテンちゃんに引っ張られてこなしているけども。

 取り返しのつかないことになりうる無理には極力手を出さないのが私たちのモットーだ。

 

「脆いのか?」

 

 デリケートなことをずばっとお尋ねになる。

 そんな彼女の態度に怯むどころか、どこか愉快に、いや痛快にすら感じている自分がいる。

 

「いいえ、むしろすこぶる頑強です」

 

 ただ、私の全力に耐えうるほどではないというだけの話。

 ウマ娘は生物学から少しばかりはみ出た存在だ。しかし生物である以上、その生き物の規格に沿った上限は存在する。それは何かと規格外扱いされる私も例外ではない。

 私の脚力の上限に耐久力の上限が追い付いていないのだ、今はまだ。

 そして目の前の御仁は全力を振り絞らずに勝てるような相手ではない。ジュニア級のときの種目別競技大会のあれはただ単純に、相手が油断しているうちに稼いだ貯金が尽きる前にゴール板を通り過ぎただけのこと。

 ブライアン先輩はあれを自分の敗北と認めているようだし、私もどのような形であれ勝ちは勝ちだと思っているが、実力で彼女を上回ったと思ったことは一度もない。

 私の勘が正しければ、この脚が私の全力を十全に揮うに足るまで成長するのはシニア一年目の春だ。それまではこの脚に無理はさせたくない。

 そういう事情を飾りのない言葉でつらつらと語る。聞く相手によっては不愛想を通り越し、怒っているのかと不安を抱かせるレベルの武骨さ加減だったが、その心配はお互いにしていなかった。

 やはり私と彼女はどこか感性が似ている。

 

「仮に出るとすればジャパンカップではなくマイルチャンピオンシップの方でしょうね」

 

 マイルや短距離が簡単なんて言うつもりはないし、もし言うようなやつがいればバクちゃん先輩との併走トレーニングを経験していただきたいところだけども。

 単純に身体にかかる負荷という面で見れば、やはり距離が延びれば延びるほど増大する傾向がある。

 スプリンターズSと菊花賞で消耗した脚にどれだけの余力が残っているのか次第だけど、それでも中距離以上はいささか厳しいかなというのが今の見立てだ。

 

 ちなみにマイルチャンピオンシップもシニア混合のG1だ……もはや何も言うまい。ブライアン先輩との会話中は脳の一部を麻痺させておいた方がよさそうだ。

 ジャパンカップと同じ十一月下旬に開催されるレースであり、同日開催ではないから理論上は連闘が可能だが。やりたいとは思わない。

 

《ちなみにこの二レースを含む重賞六戦を四か月という短期間のローテでこなし、さらに件のマイルチャンピオンシップでは『届くはずがない』と言わせた差をラストの直線で差し切った怪物がいたりするんですけどね。オグリキャップっていうんですけど》

 

 その過酷なローテの是非はさておき、偉業であることは認めるけど。やっぱりマネしたいとは思わないね。

 

「そうか」

 

 ブライアン先輩は顎に手を当てて何かを考えているようだった。

 うーむ。秋シニア三冠の二冠目であり、海外勢に対抗する日本勢という図式が組み上がっている国際G1のジャパンカップで総大将の座を捨ててマイルチャンピオンシップに来るとは思わないけど。

 いやどうだろう。彼女が私と同じなら、多少のしがらみはさらっと無視して我が道を行くだろう。少し不安になってきた。

 彼女にとってそこまでの価値が私にあるだろうか。

 

《なんなら『オグリキャップにできたことが私にできないと思うか?』とか言って連闘しそうなキャラではあるよね》

 

 不安をあおるようなこと言わないでよ。それで故障された日には絶対しばらく寝覚めが悪くなるぞ。

 

「なら、どうして有には出るんだ?」

 

 でも、しばらく考えてからブライアン先輩が尋ねたのは別のことだった。

 どうして、か。

 ウマ娘なら、いやウマ娘でなくともこの国の人間なら多くの者が憧憬の念と共に語る夢の祭典。

 それを『出られるものなら出てみたい』ではなく『数あるレースの中でどうしてそれを選ぶのか』と、純粋に疑問を抱く。

 価値観が相似している相手とはこんなに話しやすいものだったのか。もしもこの世界がブライアン先輩みたいな人で溢れていたら少しは私もコミュニケーション能力を磨く日常を選んでいたかもしれない。

 

《それはそれで壮絶な世界になりそうだなぁ》

 

「待たせている相手がいるんですよ」

 

 いや、待っているのは私の方だろうか。

 『彼女』が私に勝っているのは熱意と根性の二点。

 今は私の方が速い。でも『彼女』には才能があって、環境のバックアップもあって、それを活かせるだけの運もある。いつか絶対に追いついてくる。

 そのいつかは、きっとそう遠くない未来の話で。

 

「無敗のクラシック三冠ウマ娘とトリプルティアラのウマ娘が年末の大舞台で雌雄を決する。面白そうだと思いませんか?」

 

 たぶん、私はその称号の持つ価値を正確に理解できているわけではない。

 ただ理解できないなりに敬意は抱いているつもりだし、大切にしようとも思っている。

 三冠の一つを達成したばかりの現状では大言壮語もいいところだが。

 不思議とこの先達の前では少しばかりカッコつけたことを言ってみたくなった。

 

「そうか」

 

 再び黙り込んで何かを考えているブライアン先輩。かと思えばふと顔をほころばせ、何かを懐かしむように口を開く。

 

「……アマさんも同じようなことを言っていたな」

 

 ヒシアマゾン。

 “女傑”の異名を持つ美浦寮の寮長。褐色の肌と腰の下まで届く青みがかった黒鹿毛が印象的なウマ娘だ。口癖が『タイマンだ!』なんてスケバンめいたキャラの持ち主ではあるが、その気風のよさと面倒見の良さで美浦寮の生徒たちからは姐さんと呼ばれ慕われている。

 そういえばブライアン先輩と同期だったか。たしか彼女はティアラ路線に進み、桜花賞とオークスを制していたはず。トリプルティアラはどうだったっけ。達成していたらそっちの方が印象に残っているだろうし、ダブルティアラだったのかな。それも十分に偉業ではあるけど。

 ねえテンちゃん、どうだっけ?

 

《本当にこの世界線はごちゃごちゃだよなぁ。ゲーム準拠といってしまえばそれまでだが。()()()ではたしか外国産馬ゆえにクラシック登録できず裏街道を余儀なくされていたはずだけど……。まあ実力のあるウマ娘がふさわしい舞台に立てるのは悪いことではあるまい》

 

 今は電波の届くところにいて会話が成り立たなかった。残念。

 

 ブライアン先輩は私と同じ栗東寮の所属だが、自分のことに無造作な様が琴線に触れるのかヒシアマゾン先輩が世話を焼いているところをよく見かける。

 彼女たちがクラシック級で覇を競ったその年の有記念がブライアン先輩の勝利で締めくくられたことから、世間では怪物ナリタブライアンの方が女傑ヒシアマゾンよりなお格上であると見做す傾向が一般的ではあるけど。

 あるいは当事者たちにしかわからない特別な因縁があったのかもしれない。

 

「アイツが言っていたことがある。空腹は最高のスパイスだと」

 

 ここで言われている『アイツ』とはブライアン先輩の担当トレーナーのことを指すのだろう。ぶっきらぼうな声色に滲むたしかな信頼とぬくもりに説明不要の確信を抱く。

 かつて種目別競技大会の前に、手あたり次第に集めた資料。

 その中には『月刊トゥインクル増刊号ナリタブライアン特集』みたいな色物もあったりした。当時の私はデビュー前のジュニア級で、相手はトゥインクル・シリーズを代表するシニア級の一級品。私だって不安や緊張を覚えないわけではないのだ。玉石混淆だろうと一つでも積み上げられる要素が欲しかった。

 まあそれが実際に役に立ったかはさておき、その中にこんなエピソードがあった。

 

 ナリタブライアンというウマ娘はデビュー前から素質はピカ一と目されていたものの、その獣じみた渇望が災いし、仕掛けられるとたやすく掛かってしまうという弱点があった。

 そのため勝つときは大きく勝つのだが、大人数で走るレースでは自分のペースを保てず大敗することも少なくなかった。

 それを矯正し、今の走り方を仕込んだのが彼女の担当トレーナーだ。

 我慢するのでも、抑えるのでもなく、衝動を溜め込む。

 そして最後の直線でいっきに爆発させる。

 そうして鋭い末脚を長く使うナリタブライアンの今の走法の基礎が完成したわけだ。

 

 月刊トゥインクルはテンちゃんが信頼しているし、私もこれまで接してきた感じでは一定の信頼性があると思う。

 娯楽を目的にした雑誌である以上、装飾が無いわけではないのだろうけど。

 

「お前相手なら年末まで飢えてみるのも、悪くない」

 

 そう言って目を細めるブライアン先輩を見る限り、きっとあのエピソードは本当だったのだろう。

 走法はウマ娘の命。その命を誰かの手に触れさせ、指紋を残されてなお心地よい。そんな相手が彼女にはいるのだ。

 私と桐生院トレーナーはどうだろうか? うーん、一年の付き合いではまだそれほどではないかな。

 私の命は、魂はテンちゃんのことだから。

 

《完全にロックオンされちゃってんねえ》

 

 そうだねぇ。

 本当はブライアン先輩とはシニア級になってからやりたかったんだけどね。

 まあ私のせいで無茶なローテーションを組むようなことはなさそうで、その点は一安心である。

 

 それにしても。

 私がメインディッシュ扱いなのはさておき、ブライアン先輩のローテーションってそれ以外を前菜扱いできるようなものだっけ?

 うーん、謙遜する気は無いが、それでも過大評価されているというか。

 なんかこう、プレッシャーを感じるぞ。別に期待に応えなきゃいけない義務はないんだが。

 

「お待たせする分、来年からは背中を追わせてさしあげます」

 

 リップサービスのひとつくらいはしてもいいかもしれない。

 ブライアン先輩はきょとんと眼を見張ると、声を上げて笑った。どっちも普段のイメージにそぐわない感情表現ではあったが、まあ喜んでくれたみたいだしいっか。

 ひとしきり笑った後、ブライアン先輩は口を開く。

 

「ふう……気になっていたんだが」

 

 聞きたいことは聞き終わったからさっさと立ち去るという空気だ。私も長々とお喋りすることが楽しいタイプじゃないし、さくっと別れることに異議はない。

 

「どうして頭の上にダイワスカーレットを乗せているんだ?」

「…………」

 

 そういえばスカーレットのぱかプチ、ずっと頭の上に乗せたままだった。耳の間にジャストフィットしていたから完全に存在を失念していたぞ。

 これまでの会話からさっきのカッコつけまで、ずっとそこにいたのかぁ。

 

「頭の上に乗せておけば手が空くので」

「そうか」

「はい、そうです」

 

 それを最後にブライアン先輩は去っていった。

 ……これが羞恥心か。

 

 

U U U

 

 

「ただいまー」

「うん……おかえり」

 

 ブライアン先輩と雑談していた分、帰りはそれなりに遅くなってしまったけど。

 スカーレットは何も言わなかった。彼女の性格なら文句のひとつでも飛んできそうなものなのに妙に反応が鈍い。

 いやまあ、私を探しに来た彼女がこっそり物陰で聞いていたのは知ってるんだけどね。

 

《鈍感系主人公とは違うのだよ》

 

 息をひそめたところで気配を消す訓練を積んだことがあるわけでもなし。

 そもそも心臓が動いている以上そこに体温と心音が存在するのだ。いくらゲームセンターが騒がしいとはいえ、その程度のノイズで私がスカーレットに気づかないわけがない。

 

「コーヒー買ってきたけどいる?」

「ええ、ありがとう」

 

 同じ商品のあったかいのとつめたいのが両方自販機のラインナップに並ぶ季節。動けば汗を流すほど暑いのに、立ち止まっていると肌寒い。

 今回は熱くなりがちなスカーレットを冷却する意図を込めて、つめたいカフェオレをチョイスした。

 プルタブの引き起こされる音が会話の間隙を強調するように響く。

 

 ウオッカあたりはカッコつけて、マヤだとオトナの女性に憧れて、ブラックとかエスプレッソとかに手を出すが。

 テンちゃん曰く、幼いころの味覚は幼いころにしか味わえないのだから、苦くて飲めないなら苦いまま無理に飲まなくていいと言っていた。特に異論はない。

 ちなみに余談だが、そういうテンちゃんはブラックどころかエスプレッソだろうが美味しそうに飲んでいる。身体は共有しているはずなのに不思議な話だ。

 なんだか負けたような気がしてちょっとだけくやしい。

 

《コーヒーを飲んでも胃が痛くならないのは今世の大きなメリットのひとつだと思っている。ウマ娘は毒が効きにくいって言うからその恩恵かな。個人的には『馬』なのにカフェイン平気って違和感が無いでもないけど、チョコレートやコーヒーが制限されないのは純粋にありがたい》

 

 ミルクと砂糖の甘さがひんやりと喉を通り過ぎていく。

 ふう、と意図せずため息が漏れた。

 ブライアン先輩との会話は小気味いいテンポだったが、それはそれとして誰かと会話を長時間続けるという行為そのものにそれなりの負荷がかかってたらしい。コミュ障とは好き嫌いではなく体質なのだ。

 

 別にスカーレットに聞かれたことについては、特に思うことはない。

 ことさら本人を前に声を大にして語る内容でもないが、聞かれたからといって困るようなことを言った覚えもない。

 他人の無責任な期待というのはときに重圧となるが、スカーレットなら大丈夫だと思っている。

 信じている? それとも甘えだろうか?

 どっちでもいいか。

 これくらいで潰れてしまうのならそもそも、彼女はここまで私についてきていない。

 

《期待とか信頼とかさぁ、言葉は綺麗だけどさぁ。そういう重圧も価値のあるものだって、信じてもらえるうちが華だって、声高々にのたまうのはたいてい重圧をかける側なんだよね》

 

 何か嫌なことでも思い出したのか、テンちゃんの声が微妙に尖っている。

 うーん、やっぱり甘えか。

 テンちゃんの言うことは真っ当だ。世間一般の正否に合致しているかはともかく、私にとっては常に耳を傾ける価値がある。

 大切なことは口に出さねば伝わらない。逆に言えば、口に出してしまえば相手に伝わってしまう。それが本当に自分の伝えたかった内容かをさておいて。

 スカーレットだって私と同い年の少女だ。傷つくこともあれば、しゃがみこんでそのまま動けなくなることだってあるだろう。

 まあ彼女の場合、そう時間を置かずに『あー、もー! アタシが一番なんだから!』と再び起き上がる姿が容易に想像できすぎるというか。実際にこの目で何度か見たことがあるというか。

 甘えてしまう程度には、スカーレットは強いから。

 彼女の強さは私が一番よく知っている、なんて偉そうなことは言わないけども。

 彼女が強さを発揮しなければならないほど追い詰められる、その最大の要因は私だろうという自覚はある。さすがにね。

 

「ねえ、アンタの次走っていつだっけ?」

 

 缶コーヒーの嚥下で誤魔化していたどこか気まずい沈黙を破ったのはスカーレットの方だった。

 これは中央のウマ娘においては『今日はいい天気だね』に次ぐ中身のない会話の滑り出しである。

 それなりに親しい間柄なら誰がどのレースに出るのか、日程含め頭の中に入っているのだから。わざわざわかりきったことを口に出してまで言葉の空白を埋める行為に過ぎない。

 まあ私としてはスカーレットのアタシが一番になるんだから劇場がひとまず終幕を迎えたらしいというだけで福音だ。

 

「NHKマイルカップだよ。今年の開催は五月十三日。ああ――スカーレットの誕生日だね」

 

 まるで思い出したように忘れてもいないことを口の端に乗せる。

 長い付き合いだけど、彼女に誕生日プレゼントを渡したことは一度きりだ。

 

 なんとなく彷徨う視線が紅の髪に吸い寄せられる。

 ツインテールに髪を束ねる水色のファーシュシュに左耳を飾る赤いリボン、中央に据えられた母親譲りのティアラ。多種多様な装飾は一歩間違えれば賑やかを通り越して騒音になりそうなものだが、スカーレット当人が何よりも華やかなので絶妙に調和がとれている。

 

 彼女のツインテールがまだ肩に届かない長さだったころ、一度だけあの紅を私の贈った髪飾りが彩ったことがあった。

 

 小学生の少ないお小遣いをせっせとやりくりして購入した、当時の私の精一杯であり、最大限であった。

 今もそうだが、私はあまりファッションに興味がない。

 マヤノやデジタルと出かけなければお洒落な服を購入しようなどというモチベーションが保てないだろう。目が飛び出るほどお高い服がどうしてそんなお値段になるのか理解できないことも多々ある。

 

 だけど不思議なことに。物の良し悪しがわからない素人であっても。

 高級品の中にひとつだけ安物が交じっていれば、ひどく悪目立ちしていることには気づけるのだ。

 スカーレットはお嬢様だった。私は普通の家の子供だった。その格差はお互いが何気なく身に着けているものにも反映されていた。ただそれだけの話。

 誰が悪かったわけでもない。何が悪かったという話ですらない。ただ『違った』というだけのこと。

 幼き日の私は気づいて、傷ついた。胸をときめかせながらプレゼントを選んでいたとき、テンちゃんがもにょもにょと歯切れ悪く違う選択肢を提示していた理由をようやく理解した。

 幼き日のスカーレットは傷つけたことに気づいた。そんな表情をしていた。

 私がスカーレットに誕生日プレゼントを贈ったのはそれが最初で、今のところはそれが最後だ。

 

 お金がないということはみじめなのだと、初めて実感した。

 一瞬であろうとお金持ちではない両親を恨み、その家の子供であることを恥じた。

 そんな自分が信じられなかった。消えてしまいたくなった。

 思えば今こうやってレースの賞金に執着しているのも、ファッションにあまり興味が抱けないのも、あの日の思い出が少しは影響しているのかもね。

 

《いや、ファッションに関してはただのものぐさだろう》

 

 それっぽく感慨に浸っているんだから正論でぶった切るのはよくないと思うなぁ。

 

 ……今なら少しはマシなものが渡せるだろうか。

 これがもし我らが栗東寮の寮長フジキセキ先輩あたりなら『貴女に勝利の栄光を捧げる権利をわたくしめにいただけますか?』なんて気障な言葉を贈るのかもしれないけど。

 私は無いな。うん、無い。

 私のキャラじゃないっていうのもあるけど、せっかくのレースなのによそ見をするのはもったいない。

 私を見てくれる。私と競ってくれる。

 それが当たり前のことじゃないって私は知っているから。

 

《地元ではダスカしかできなかったことだもんね。何だかんだ中央のレベルは高いよ》

 

 それに目の前で競う相手を見ないのは不実という気がして落ち着かない。

 モチベーションになるのはいい。動機だって人それぞれだろう。

 でも、『スカーレットのため』に走るとなると何か違うと思うのだ。

 

「マツクニローテなんて本当に大丈夫なんでしょうね? いまどき根性論なんて流行らないわよ?」

 

 と、何やら熱血根性一番バカが申しております。

 まあ心配してくれているのだろう。

 私だって同期が幾人もの脚を奪ってきた悪名高きローテを走ると聞けば心配のひとかけらくらいは抱く。

 それが行動に繋がるかはともかく。たぶん行動を起こすとしたらテンちゃんの方だ。

 

「だいじょうぶ。私が勝つよ」

「っ」

 

 カフェオレをあおり、端的にそれだけ告げる。

 言葉に圧されたように一瞬わずかに仰け反りかけたスカーレットだったが、ぐっと踏みとどまって逆に前のめり距離を詰めてきた。

 

「へえ、油断して足をすくわれなきゃいいけど」

「きみが誕生日を心置きなく祝えるよう力は尽くすさ」

 

 これくらいは言ってもいいだろう。

 知人がレースで負けた同日の誕生日パーティー。心情的に一点の曇りもなくというのも難しかろう。それは一般論のはずだ。

 別に勝利を誕生日プレゼントにするとか、そういう気障な表現にはなっていないはず。

 

 油断しなければ、なんて相手を下に見た表現だ。

 だからモヤッとしなくもないが、私が頭一つ抜けているのは歴然たる事実だった。

 NHKマイルカップの出走メンバーは皐月賞のマヤノに比べると一枚落ちる。テンちゃんが言うところのネームドが存在しない。

 最も優れている者が勝てるという単純なものなら、そもそも競い合いなんて発生しないけど。皐月賞で浮き彫りになった個人的な課題も少なからずあるけど。

 まっとうに走ればまっとうに勝てる。次のレースはそういう勝負だ。

 

 缶を逆さにして最後の一滴まで飲み干し、ぺしゃりと圧し潰す。

 さて、ゴミ箱はどのあたりだったか。熱のこもった空気が一度途切れてしまった以上、無理にゲーセンに居続けることもあるまい。それにうっかりスカーレットのアタシが一番になるんだから劇場の再演なんてことになっても面倒だ。まだ今日は時間があるし、今度はカラオケあたりにでも行ってみようか。

 そんなことを考えながら歩きだし、気配がついてこないことを不思議に思って振り返る。

 スカーレットは顔を真っ赤にしながら缶を持ってぷるぷる震えていた。

 

「な――」

 

 ――にをしているのかと尋ねかけて、次の瞬間に察する。

 ただ残念なことに最初の一音は既に口からこぼれてしまっていて、気づかなかったふりをするのは無理そうだった。

 

「……えっと、スチール缶を縦に潰せたところで足が速くなるわけじゃないから」

「うっさい!」

 

 私の手の中で厚めの鉄の円盤と化していたコーヒー缶の残骸は、無造作にゴミ箱目掛けて投じられ軽快な音と共に収まった。

 スチール缶を握りつぶすくらいならできるウマ娘は多いだろうけど。片手でコップクラスターよろしく縦に圧縮できる子はそうそういないだろう。

 だからうん、スカーレットができなくても何も恥じることはないと思うよ。

 

 

 




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