「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」 作:バクシサクランオー
感想、誤字脱字報告もありがとうございます。
U U U
鏡を見ながら頭を触る。
どうにも落ち着かない。
私の勝負服の頭装備がシンプルなサークレットでよかった。
これがスカーレットみたいにリボン、シュシュ、ティアラにツインテールとごちゃごちゃした装いなら鏡の前で無為に時間を費やすことになっていたかもしれない。
《あの属性てんこ盛りを喧嘩させず見事にまとめて魅力にしているダスカのデザインは神がかっているよなぁ。さすがチュートリアルヒロインだ》
テンちゃんの戯言はいつも通り。
右手の包帯と左腕のシルバー、白と黒の双剣等々、何かと
不思議なものだ。日常生活では右にリボンをつけようと左にヘアピンを挿そうとそんなことを感じたことはないのに。勝負服はウマソウルとの同調率を高めるための装いだという説と何か関係があるのだろうか。
《どうだろうねぇ。右耳と左耳、どちらに偏ってもバランスが悪い、か。何やら意味深なような、特に深い意味なんて無くてそれっぽく伏線みたいなものをとりあえず出してみただけのような》
さて、どうしてレースでもないのに勝負服に身を包み、鏡を前に似合いもしないことをしているのかというと。
今日は日本ダービーに向けた記者会見なのだ。気が重い。
《皐月賞の時点でファンからサインを求められる機会がたびたびあったもんなあ。ほんと、中央のウマ娘ってただの学生やれないんだとああいうの体験するたび実感するよ》
しっかり習うもんね、サインの書き方。
トゥインクル・シリーズは国民的娯楽。エンターテイメントである以上、こちらもエンターテイナーとしての立ち振る舞いは必要なのだ。世知辛い。
そりゃまあ、私だって走っているだけで芝やダートから金銀財宝がザックザク湧いてくると思っているわけじゃあありませんけど、ねえ?
仕事の一環だと思っているからやっているけど、学園を通さない突撃取材とかは絶対に受けないからね、私。走って逃げるから。壁も十メートルまでなら道の範疇だから。
これまでもマスコミの取材は皐月賞以前のG1等でたびたび経験していたが、今回は私にとって少し特別。
今回のインタビューを担当するのはテンちゃんではなく私なのである。
そう、それは遠い昔のようにも、つい最近のようにも思えるとある日の記憶。
ジュニア級ですらない、デビュー前の時期に自らの手で打ち立てたプチトラウマ。
――まだ二回勝っただけです。私をスカウトするかどうかは、ちゃんとレースを走り終えた後に決めてください。
あの一言のせいで私は中央のトレーナー勢から干されかけた。
今となっては彼女でよかったと思える桐生院トレーナーとの契約だが、当時は溺れる者が縋る藁として差し伸べられた手を掴んだだけである。
《あのとき掴んだトゥインクル・シリーズ出走チケットは間違いなく虹色に輝くSSRだったね》
そればかりは本当に不幸中の幸いだ。
ただ結果が極上のものだったとしても、あれが私の中で大きな失敗経験になっているのは事実。
その苦い思い出のせいで私は進路に関わる交渉事、つまりマスコミへの対応などを基本テンちゃんへ丸投げするようになった。
得意な自分がいるのに、わざわざ苦手な自分の方で苦労する必要なんて無いだろう。
誰かに押し付けているわけじゃない。自分でやらなきゃいけないことを、しっかり自分でやっている。
《自分が一人しかいない者の尺度で考えてはいけないよね、うん》
ただまあ、あのときの私がこれから始まる未来に向け、曲がりなりにも抱いていた希望や情熱みたいなものはあったわけで。
それを投げ捨てて嫌な記憶に成り下がってしまった一連の出来事から逃げているんじゃないかと咎められれば、否定する言葉は吐けないわけで。
あれから一年以上テンちゃんに守ってもらって。少しは私の側でもやってみるかと、ようやく自然に思えるようになってきたわけだ。
それ以外にも、もうひとつ。
あるいはこっちの方が動機としては比重が大きいかもしれない。
皐月賞ではマヤノに触れられた。NHKマイルカップではマヤノほど私に肉迫したウマ娘はいなかったが、全体的に私との実力差は着実に縮まっていた。
あまり考えたくはない話だが、この調子でいくといずれレース中にウマソウルを活性化させ過ぎてテンちゃんが疲労困憊になることもあるかもしれない。
否、あると考えるべきだ。
そうなると疲労困憊のテンちゃんにレース後のインタビューまで押し付けるわけにはいかなくなる。私だって疲れているだろうに、その上で不特定多数のマスコミに対応する必要が出てくる。
私はアドリブがあまり利かないタイプだ。
いちおう基礎スペックは高いので、お互いに未経験の分野なら上達速度で私が勝る。経験値で何とかなることも多いので、これまで蓄積したものの応用で経験者を上回ることだってある。
だが本当に何もない状態からぱっと勘所を掴んで上手く対処するようなことはできない。そういうのはマヤノの得意分野だ。
《例えるのならマヤノはスキルヒントのレベルが高いタイプの天才。リシュは獲得するスキルポイントが膨大なタイプってところかな》
うん、たぶんそう。よくわかんないけど伝わってくるニュアンス的にそんな感じだと思う。
だから今のうちに練習しておきたい。
今この時なら盛大に失敗してもフォローしてくれる相棒がいる。
仮にレースの疲労の無い状態でさえまともな受け答えが出来ないのなら、レース直後の勝利者インタビューは絶望的なことになってしまうだろうから。
今回インタビューを受けるのは今年度の日本ダービーに出走する総勢十八名のウマ娘たち。
レースを走る観点からすれば自分以外に十七人も出走するというのは多く感じるけども。
多くのウマ娘が、トレーナーが憧れる日本ダービー。生涯に一度しかチャンスが訪れない特別なレース。この道に進むと志したその起源に絡んでいるウマ娘も少なくない。
それにも拘わらず、同じ世代の中から出走できるのはわずか十八人のみ。
十八人『しか』なのか、十八名『も』なのか、そこは立場によって感想が分かれるところだろう。
《ただまあ、本命だろうと伏兵扱いされていようと現状では勝者も敗者も無い同じ十八分の一だ。今の段階から勝敗が決まったかのように露骨な扱いをして、騒ぎ立てるような軽薄で悪質な出版社は学園が弾いているはず。
となると、インタビューの時間はおおよそ平等だろう。一人あたりの割合はたかが知れている。共通の質問としてレースに向けた意気込みを語らせて、その他個別に二、三個質問をするといったところかな》
レースに向けた意気込みねぇ。
これといって特に言うことは無いんだよなぁ。
無難に『がんばります』とか?
いやいや、がんばるのは当然のことだろう。がんばらないウマ娘なんてこの世にはごまんといるだろうが、中央という環境に限定すればツチノコ並みに珍しい存在のはず。
《がんばり方が風変わりすぎる子や、がんばり過ぎて今は疲れてしまった子とか、一見してがんばっているように見えない子は一定数いるけどね》
でもそういう子は日本ダービーに出走できないよね。
少なくとも私の知る限りではダービーに出てくるような面々は多かれ少なかれ、傍目にもわかりやすくがんばっている子たちばかりだ。
そんな中でうかつに『がんばる』などと宣った日には、むしろこれまでのレースはがんばっていなかったのかと批判されかねない気がする。いや、これはさすがに穿ち過ぎた見方かもしれないけど。
《そうだねえ。がんばれていない自分に負い目を感じている人間にとって『がんばれ』という言葉は『もっと努力ができるはず』と咎めているように聞こえる。
でも自分が『がんばれ』って言うときはそういう意味じゃないだろ? 『好きだ』や『愛している』がただ単に相手に好意を伝える意図だけではないようにさ。
期待、応援、祈り、願い、その他もろもろの相手に向けたポジティブな感情を言語化するときに使われる包装紙が『がんばれ』の四文字ってだけなんだよ。
だから『がんばる』だって同じ理屈さ。包装紙の模様なんて些細な問題。気にせず使っちゃっていいと思うぜー。ま、相手がうつ病とかならまた話は別だが、うつ病の人間がインタビュアーやってんならそれはインタビュアー側の問題だ。ぼくらが気にしてやる義理は無いよ》
そんなもん? ふーん、そんなもんか。
でもやっぱり『わたしがんばっているのです』と表明するのはしっくりこないんだよなぁ。一緒に走る子たちに『がんばろうね』とか『がんばってね』とか言うのはまだわかるんだけど。
練習以上の成果を本番で出したことなど無い。いつものように走って、いつも通りの結果を得る。それが私の走り方だ。
あとその包装紙を巧みに使いこなしているテンちゃんが言っても気休めにしか聞こえない、かな。
《あはは、そんなもんかなー。
ま、国語のテストと面接とマスコミの取材では正直な自分の意見より出題者の求める正解を答えた方が吉ってのが世の摂理だけどさ。
わざわざマスコミのやつらに媚を売ってやる義理もない。これまでぼくも好き勝手やってきたんだし、そういうキャラだと世間には認識されている。だからリシュも好きなようにやっちゃいなよ》
そうしようか。
本当にダメそうなら脳内でちゃんとストップかけてくれるだろうし。
テンちゃんはこの人生を私のものと定義してるようで、逐一私の言動を添削するような真似はしない。
もし忠告を受けていれば防げたかもしれない痛い目には何度も遭ってきた。
ただ、本当に越えてはいけない一線を越えそうになったときはきちんと止めてくれる。こちらから助言を乞うたときに突き放されたと感じたこともない。
その点は信頼しているし、安心もしている。
よし、とにかくインタビューに応じるというだけで手一杯になるのは目に見えているのだ。私は自分の感情に正直に生きるぞー。
ってな感じで。
「まずはダービーに向けた意気込みをお聞かせください!」
「私はいつも通り走るので、皆さんの健闘に期待したいですね」
うーん、どうしてこうなったんだろう?
あ、これ予習したところだって内心すごくテンションが上がったのに、口から出してみると微妙にニュアンスが変わっている気がするぞ。
硬直した記者会見の空気と脳内で腹を抱えて爆笑するテンちゃんに挟まれながら、私は内心こっそり首をかしげるのであった。
《ち、ちなみに『健闘』って運動会の応援合戦とかで多用されるから感覚鈍っているけど、本来は格下が格上に善戦するときに用いられる言葉だからな……》
息絶え絶えにテンちゃんが解説を挟む。脳内で呼吸困難になることも腹筋が攣ることも無いのに芸が細かいことだ。
うーむむ、コミュ障が多少事前に備えたくらいで何かが変わるのなら、そもそもコミュ障などになっていないか。
苦手分野のハードルは低く設定しておくべきだろう。今回は私が受け答えに成功したというだけで十分合格点ということにしておこう。
『……』
せめてもの対応として、周囲の視線に愛想笑いをしておいた。
今回のインタビューは質疑応答こそ個別に行われるがウマ娘は一人ずつ呼び出されるわけではなく、時間短縮の名目で幾人かまとめてマスコミの前に立つ形式となっている。
十八人もいるのだから時短はわからんでもないのだが、これから同じレースで競い合う相手を前に意気込みを語れというのはなかなかにハードルが高いとも思う。
まあトレーニングができないのに精神的疲労ばかりがっつり溜まる時間が少しでも短くなるのはこちらも望むところではあるのだし、異論はないけども。
『…………』
あくまで私がインタビューを受けているタイミングなので、他のウマ娘たちは礼儀正しく沈黙を守り静かなものだ。
ただ、『目は口ほどにものを言う』を体現しているだけで。
鋭い眼光の集中砲火。視線に質量があれば私は穴だらけになっていたことだろう。
これが日常モードなら怯みもしたのだろうけど。記者会見というイベントを前にしっかり覚悟を決めて来たおかげか、今の私は半ば戦闘モードの感性。
それが同じダービーに出走するウマ娘たちからの物言わぬ重圧で、完全にスイッチが切り替わった。
「当社の調べに依りますと、現在テンプレオリシュさんが一番人気に推されていますが、それについて何か一言」
「ありがとうございます。光栄です」
インタビューの真っ最中だ。
私から彼女たちに話しかけることもできないが、別にここで声を荒らげたりすごんだりする必要などない。
ただ一瞬だけすっと視線をマスコミから逸らし、彼女たちを見つめ返すだけでいい。視線の矢印が一方通行から双方向へと変わり、込められた熱量の差を内包した圧倒的質量の差で凌駕する。
とっさに目を逸らしてしまった者。気合いで目を逸らさなかったが、心が逸れたことを隠しきれない者。目も心も逸らさず喰らいついてくる者。
反応は様々だが、格の違いはこれではっきりした。私を抑え込もうとしていた圧が空気の中に霧散する。
その十把一絡げに蹴散らした相手の中にはあれだけテンちゃんが気にしていたウオッカの姿もあった。
あれ? なんかウオッカ調子悪そう?
《そうね、すごくあっさり目を逸らしたよね》
常に全力全開アクセルべた踏みで生きてるようなスカーレットと違って、ウオッカはムラがあるタイプだけど。
ここはダービーへの意気込みを語る場だぞ。いつもの彼女ならテンションぶち上げて大好きなビッグマウスを叩きそうなものだが。
大丈夫なのかな? 今のウオッカはノッてないときの雰囲気だ。
何か調子を崩すようなことでもあったのだろうか。
《あー》
テンちゃん心当たりあるの?
《ああ、うん。ダスカが優等生の皮を被った熱血根性脳筋なら、ウオッカはファッション不良で隠れがちだけど本質的には常識人だ。
桜花賞のダスカや皐月賞やNHKマイルCのぼくらを見て、一時的に自信を喪失してしまったのかもしれない》
ふうん?
自分が勝つと信じられずに走ることほどつらいこともそうないだろう。
レースを勝つという視点では、強力なライバルが不調というのは悪い話ではないけども。
数少ない友人の、夢といっても過言ではないレース。それなのに悔いの残る走りをしてしまったらと思うと、後味が悪いなんてもんじゃないぞ。
《たぶんだけど、大丈夫だよ》
テンちゃんの声には静かな自信が満々と漲っていた。
ほむ。その心は?
《このタイミングで絶不調なんて少年漫画ならあからさまな覚醒フラグだもん。これは絶対に直前ギリギリの超ハードな修行パートを挟んで、本番ではすごいことになって登場してくんぞ》
えぇ……。
あのさぁ。
《だって〈キャロッツ〉のトレーナーとあのウオッカだぞ。それくらいしてくると想定しておいて損はない》
あー、そうか。むしろそっちで考えるべきか。
そんな物語の主人公みたいなと思ったけど、たしかにゴルシTもウオッカも物語の主人公みたいなやつらだった。
だったら私は常識ではなく、これまで私が見聞きした『彼らのこれまで』に比重を置いて考慮するべきだろう。
何より今ここでウオッカが本当に絶不調だったとしても、流石にこのタイミングで敵に塩を送る余裕は私には無い。
私だってダービーが控えている当事者なのだ。自分のことだけで精いっぱいである。
だからテンちゃんの根拠無用のふんわり予言を私は無責任に信じることにした。
きっとウオッカなら大丈夫だ。
「東京優駿を走るにあたって注目しているライバルはいますか?」
「特には」
強いて言うならこれだけテンちゃんが注目しているウオッカが有力候補だが、出走している時点で彼女たち全員が今年度クラシック級の頂点だ。
油断していい相手など一人もいない。かといって十八人の名前をひとりひとり挙げていくのはテンポが悪い。何より複数人まとめて呼び出されるほど時短を図っているのに、そんな遅延行為は避けるべきだ。
彼女たちが優駿であることはレースのタイトルからいっても共通認識なのだからざっくり流していく。
「最後に、何か一言お願いします」
「レースもライブもひとりではできないので。特にライブではいつも両サイドやバックダンサーを務めてくださって感謝しています。次もよろしくお願いします」
地元ではひとりで走っていることの方が多かったから。
誰かと一緒に走れるのは当たり前ではないということを私は知っている。
感謝、というのは的確な表現ではなかったかもしれないけど。インタビューという状況下、ゆっくり慎重に喋っていては言葉が追い付かない。多少不適切でもそれっぽい単語を繋げて出していくしかなかった。
それに私は負けたことが無いが、レースで負けたときの疲労は勝ったときの倍ではきかないと聞く。
そんなコンディションでいつも彼女たちは観客を楽しませようと、笑顔でライブを務めているのだ。傲慢な視点であるという自覚はあるけど、尊敬の念を抱いているのは嘘ではない。
そこに『次も負ける気は無い』という強気を一握り滲ませる。あまり度が過ぎると不遜だと反発を買うだろうが、これくらいなら『私が勝つ!』という宣言は珍しいものでもないのだし許容範囲だろう。
かくして私のインタビューはつつがなく終わった。
うん、コミュ障が鬱を発症せずに生きるコツはハードルを極力下げることだ。
何か問題が発生して記者会見が打ち切りとかじゃなかったんだから、つつがなく終わったんだよ。
「リシュせんぱーい!!」
インタビューの後、勝負服から制服に着替えて、精神的な疲労からぐったりしていると。
いたく興奮した様子の〈パンスペルミア〉の後輩が飛びつかんばかりの勢いで話しかけてきた。
そういえばあの会場にはカメラもあって、学内なら映像はリアルタイムで確認できたんだっけと思い出す。
いつか自分たちが受ける側になったときの教材でもあるのだろう。中央は教える側も教わる側も意識が高い。ときとして息苦しくなるほどに。
でもそこで本当に性根の底からのんびり寝っ転がってサボってしまうような子は、この界隈で長生きできないんだろうなあ。かなしい。
まあ私は苦労に見合うだけ稼がせてもらっている分、大多数よりずっとマシだった。
「すっごくカッコよかったです! 感動しちゃいました! もう無慈悲で傲慢な“銀の魔王”って感じで鳥肌たちっぱなし!!」
「あー、そう……」
ぶんぶんと小さな子供のように大仰に手を振って力説している。身長で言えば少し見上げなきゃいけないくらいに私の方が小さいけど。
気の利いた返しができなくてごめんね。そういうのはどっちかというとテンちゃんの得意分野だから。
面倒見のいいテンちゃんにバトンタッチすることも考えたが、あのインタビューを受けたのは私だ。だったらこれの対処を含めて練習だと、腹に力を入れて気力を汲み上げる。
「あーあ、わたしも芝が走れたらなぁ! ダービー目指すって言えたのになぁ!」
この後輩ちゃんの適性は完全にダート寄り。
一時期はそのことにコンプレックスを抱いていた時期もあったらしい。
ただチームに入って、これ以上なくダートをイキイキと走るデジタルを間近で見て、『芝で走るウマ娘がカッコいいのではなく、カッコいいウマ娘が走るレースは何であってもカッコいいのだ』と思うことができたそうだ。それだけでもアオハル杯はよみがえった甲斐があっただろう。
テイオーほどぶっとんだ天稟の持ち主ではないから、一年間は教官の下でトレーニングを積み重ねてからデビューする順当なコースになると思う。新入生の中では上位三割に入る素質の持ち主だから一勝の壁は突破できるだろうけど、その後は未知数というのが私の見立て。
トレーナーと契約してデビューを果たすまでに、今の調子で実力をつけていけば何度かアオハル杯ダート部門のレギュラーとして実戦の空気を味わわせてあげることができるはずだ。
願わくはアオハル杯がこの子たちの未来に少しでも多くの実りをもたらさんことを、なんてね。私も少しは先輩らしい自覚が出てきただろうか。
「ねね、リシュ先輩はデジタル先輩と同じように芝とダート両方いけるんですよね? リシュ先輩はダービー勝ったあとにダート走る予定とか無いんですか!?」
「まだダービーは始まっていないよ。走っていないし、勝っても負けてもいない」
少しばかり語気を強めて釘を刺す。
負けるつもりがないというのと、負けないことを大前提に予定を組むのはまるで別物だ。
勝利しか見えなくなった時、敗北はしたたかに長い指を絡みつかせてくるもの。私は負けるつもりがないのだから、勝ったつもりになってはいけない。
「あ、すみません……」
しょぼんと耳と尻尾を垂れさせる後輩を見ると心が痛む。
世の中には相手に説教でマウントを取ることに愉悦を覚える人間もいるらしいが、きっと私は分かり合えそうもない。
必要なことだったとしても、する方もされる方も説教なんてこりごりだよ。
気まずい空気を何とかしたかったのか、はたまた絆されたのか。ここで言うつもりのなかった情報をうっかりこぼしてしまった。
「ただまあ、ダービーを走り終わった後に大事が無ければ……。六月はゆっくり休んで七月のジャパンダートダービーも視野に、って今のところ桐生院トレーナーとは話している」
「せんぱーい!!」
本当に飛びついてきたのでするりと避け、勢い余って転びかけた彼女の腕を掴んで支えてやる。
感情表現がいちいち大仰なことだ。こんなに慕われることなんてやった憶えはないんだけどな。またテンちゃんが知らないところで何かしたのだろうか。
《モブウマ娘ちゃんもみんな生きていて、みんな成長しているんだよな》
尋ねてみても、脳内でテンちゃんは眩しそうに眼を細め笑うだけだった。
次回、ウオッカ視点