「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」 作:バクシサクランオー
感想、誤字脱字報告もありがとうございます。
U U U
『神話と呼ぶにはあまりに荒唐無稽』
『伝説と呼ぶにはあまりに発展途上』
『そう、それは『
『現代で対峙することになった
ネットで見たキャッチコピー。
考えたのはたしかデジタルのやつだっけ。相変わらず多芸で器用なやつだ。
「御伽噺、かぁ……」
NHKマイルカップ以来、日本ダービーの大本命はリシュになっちまった。
『誰が勝つか』というレースじゃねえ。
『誰がリシュに勝てるのか』と世間のやつらは注目している。
気に食わねえけど、そう思わせるものをリシュは見せた。
裏を返せば世間にそう思わせるものしか俺たちは見せることができなかったってことだ。
本当に気に食わねえのならダービーで勝てばいい。それだけで下バ評はひっくり返る。ぐちぐち腐って文句を言うのは中央のウマ娘のやることじゃねえ。
俺が憧れた、トゥインクル・シリーズを走るウマ娘の姿じゃねえ。
勝てるのか?
脳裏によぎる疑問。
桜花賞でスカーレットに負けた俺が。
皐月賞に勝ち、NHKマイルカップで飛躍的な進化を魅せたリシュに。
「っ! ちげえ!!」
思わず舌打ちする。
『勝てるのか』って考えてる時点で上に見ちまっている。共にゲートに入る対等な相手じゃねえ。見上げちまってるんだよ、リシュのやつのことを。
戦う前からしゃがみ込んじまっているやつがまともに走れるわけねえだろ!
「……くっそ」
もっと上手くできると思っていた。
根拠となるだけのものはちゃんと積み重ねてここまで来たと思っていた。
そりゃあ多少は勢いでどうにかしようとしていた部分があったことは認めるけどよ。
――勝たせてもらうわよ
桜花賞の最後の直線、舞い散る桜よりもなお鮮やかな真紅の花吹雪を思い出す。
周囲を突き放すような“領域”の具現化。己が一番なのだという強い意志と覚悟を前に、俺の“領域”はスカーレットを差し切ることができなかった。
俺だって仕上げてきたつもりだったのに、完成度で押し負けた。
――私はいつも通り走るので、皆さんの健闘に期待したいですね
ダービーに向けた記者会見、にこやかなポーカーフェイスで言い切ったリシュを思い出す。
礼儀を欠くとかなんとか、批判する声はたしかにあった。
けど、戯言だと嗤うやつは一人もいなかった。去年の今頃は零細ですらない、まったくの一般家庭出身のイロモノだと見ていた識者気取りの方が多数派だったっつーのに。
今でも血統至上主義者のお偉いセンセイの中にはやれ歴史の中に消えていったどこぞの名門の先祖返りなんじゃないかなんて、証明しようも無い仮説を打ち立ててるヤツだっているけどよぉ。
いったいどこの血がどんな風に目覚めればアレになるんだって話だよ。ありゃあ誰がどう見ても末裔じゃなくて初代とか始祖の方だろ。のちに続くのかまでは知らねーけど。
メイクデビューから数えて七戦七勝。格下狩りで造り上げたハリボテの戦績などではなく、そのうち朝日杯FS、皐月賞、NHKマイルCの三つがG1。重賞だけ数えても五連勝。
対峙してきたウマ娘の血と涙で築き上げた緋色の戦果。クラシック級の半分も過ぎていない、デビューからたった一年でこれだ。
……俺にはできなかったことだ。
ダービーはガキの頃、父ちゃんに連れて行ってもらって初めて見たレースだ。
俺がトゥインクル・シリーズを走りたいと思ったきっかけの特別なレース。桜花賞からの変則ローテ、非常識だのなんだの言われようとこれだけは絶対に走ると決めていた。
実際にこうして同期の中から選ばれた十八の枠に入ることはできた。記者会見も終わって、あといくつ寝ると本番だって時期だ。
なのに全然ワクワクしねー。むしろ不安と恐怖だけが募っていく。ぐるぐると嫌な考えばかり頭の中を巡って、自分がこれまでどうやって走っていたのかさえ忘れそうになる。
スカーレットがいればまだ意地も張れるんだが、ダービーにアイツはいねえ。
自分が勝てると思っていたから走れたのか?
相手が自分より弱いと思っていたからデカい口を叩けていたのか?
「んなの、ダサすぎんだろ……」
口からこぼれたその声は、自分でも笑っちまうくらいにか細かった。
「確保ぉ!」
「うお!? え、はえええええ?」
次の瞬間、俺はマスクとサングラスで人相を隠した謎の葦毛ウマ娘に麻袋を被せられ拉致された。
いや、ゴールドシップ先輩。変装するつもりなら真っ先に隠さなきゃなんねーのはその葦毛っしょ。その
「はいよっ、ゴルゴル便いっちょうお届け! 印鑑とサインはこいのぼりの頭に頼むぜ。でもアイツこのまえ滝下りしてウナギになっちまったからなぁ」
「うん、ありがとうゴールドシップ」
どすん、と地面におろされて反射的にイテッと声が出ちまったけどそこまで痛くなかった。怪我しないように気は使われている、気がしなくもない。
運搬が終わったと判断してもぞもぞと麻袋から抜け出すと、予想通りそこにはうちのトレーナーと変装を解いたゴールドシップ先輩の姿がある。
えっとここは……学園のグラウンドか?
「あー……えっと、何の用っすかね?」
何となく起き上がらないまま、おずおず見上げながら尋ねる。トレーナーは相棒だからタメ口なんだが、先輩には敬語が俺のポリシー。礼儀も守れないウマ娘なんてダサすぎだからな。
今回はどっちが首謀者なのかわからなかったから、どちらともなく曖昧な方向に敬語で問いかけたんだが。
おだやかに苦笑しながら返答したのはトレーナーの方だった。
「すまないねウオッカ。遅くなった」
「おそく……?」
「例の秘密の特訓だよ。なかなか都合がつかなかったんだが、今日ようやく捕獲に成功してね。ダービーにぎりぎり間に合ってよかったよ」
「あー……」
そういえば言ってたな、そんなの。俺をダービーで勝たせるため、リシュと対峙するまでに一度はやっておきたいっていう『秘密の特訓』。上手くハマれば飛躍的な実力の向上も見込める、かもしれないとか。
トレーナーの一存だけではどうにもならないから、準備が整い次第知らせてくれるって話だった気がする。
いつもの俺なら飛び上がって喜びそうなもんなんだが……。
ダメだな、いまいちエンジンがかからねーっつーか、テンションが上がりきらねえ。つーかこんなワクワクする内容をこんな漠然としか把握できてねえって時点でおかしいだろ。
曖昧な申し訳なさと、ぼんやりした焦燥。それを覆い隠してしまうほど膨大な無気力が自分の中に詰まっているのをようやく自覚した。
「へえ、この子と模擬レースすればいいの?」
背後から聞こえた声。
連想したのは鮮烈な緑。青々と茂るターフか、それともその上を吹き抜ける風か。
ざあっともやもやが吹き散らされたような心地になって振り返る。いや、リンゴが重力に引かれて木から落ちるみてーに、その存在感に視線が吸い寄せられたのかもしれねえ。
振り返った先、俺を挟んでトレーナーの対面にいたそのウマ娘は面識のない相手で、それでもその人のことを俺は知っていた。
その伝説を聞いたことがある。
皐月賞。
ただでさえ後ろの脚質が不利とされている、最後の直線が短い中山レース場。そこにスタミナを消耗させ末脚を鈍らせる、走るウマ娘がみんな泥んこになって人相すらわからなくなりそうな悪天候の不良バ場。
そんな不利な条件を一顧だにせず己の走りを貫き通し、最後の直線で後方から追い抜き一着。
日本ダービー。
当時存在していたジンクス『ダービーポジション』。二十人を優に超える人数が出走していた当時のダービーでは『十番手以内で第一コーナーを回らなければ勝てない』とされていたそれも、そのウマ娘を縛ることはできなかった。
最後方からスタートし、道中では先頭から二十バ身ほど離された十七番手。それを第三コーナーの出口では六番手まで押し上げ、最終コーナーで先行勢を猛追。いっきに交わして誰よりも速くゴール板を駆け抜けた。
菊花賞。
坂はゆっくり上がってゆっくり下りる。これは常識っつーかセオリー、レースの基本だ。菊花賞はクラシック級のウマ娘が初めて経験する長距離G1で、3000mに坂が二つも待ち構えている。そこで加速するのはスタミナを消耗するタブーといってもいい。
そのウマ娘はタブーを犯した。二周目第三コーナーの上り坂から次々と先行勢を追い抜かし始め、最終コーナーの下り坂を加速しながら先頭に立った。
「んー、アタシのこと知ってる感じかな? 顔がバレすぎているのも考え物だねー。でも自己紹介ナシってのもスッキリしないし」
神話だったクラシック三冠を現代に再来させた風雲児。
瑕疵の無い皇帝とは違いその三冠までには敗北も経験したが、泥にまみれてなお鮮烈なその走り方で、あるいは皇帝よりも愛されたかもしれない天衣無縫のウマ娘。
「アタシはミスターシービー。よろしくね」
生ける伝説がそこにいた。まるでこれから走りますと言わんばかりにジャージに身を包んで。
「うっす!? しゃーす! 俺ウオッカっていいますっ」
ばね仕掛けのように身体が跳ね上がって直立不動の姿勢になる。ダセーっつか滑稽っつか、顔がどんどん赤くなる自覚があるけどそれ以上にパニックで思考が纏まらない。
そう言えばトレーナー、『捕獲に成功した』とか言ってたか? ダービーの練習のために三冠ウマ娘ミスターシービー捕まえてきたのか? それはちょっと非常識すぎんぜ相棒!? さすがゴールドシップ先輩育てただけあるわ!
ああ、そうか。そういやゴールドシップ先輩とミスターシービー先輩ってそれなりに因縁があるのか。
三冠ウマ娘ミスターシービーの数あるレースの中でも、ベストバウトに選ぶ者が多い菊花賞の坂で加速した掟破りの勝ち方。
それを踏襲するように菊花賞を制しクラシック二冠に輝いたのが、何を隠そうゴールドシップ先輩だ。
追い込みという脚質を得意とし、周囲の常識に囚われないという点でも共通している。
ただまあ、表面上は似通っていても根本はまるで別物だろうな。
ゴールドシップ先輩はルールがあればとりあえずドロップキックをかましに行く破天荒。
対するミスターシービー先輩はひたすら己が道をゆき、結果的にそれが周囲の常識とそぐわずとも意に介さない風来人。
すげーざっくりした印象と言い方になるんだが、たぶんそんな感じだ。
この二人は初代URAファイナルズ長距離部門決勝戦で雌雄を決した。
URAファイナルズ、それは『あらゆる距離、あらゆるコースを用意する』という新設されたばかりの夢の祭典。そのあまりにも大掛かりすぎる性質上、毎年開催は事実上不可能でオリンピックよろしく四年に一度の開催と相成った。第二回は来年、俺たちがシニア級になった年に行われる。
普段トゥインクル・シリーズはトゥインクル・シリーズ、ドリームトロフィーリーグはドリームトロフィーリーグでそれぞれ開催されていて、両者の選手が混ざり合うことはねえ。しかしこのURAファイナルズは文字通り『URAに所属するすべてのウマ娘』に資格がある。出走するためにはファン投票から選ばれたスターウマ娘に名を連ねる必要があるけどな。
昔からひそやかに言われていた。
『レジェンドは保護されている』
まあ言わんとしていることはわかる。
技術的な意味でも、感情的な意味でも。
前者は単純だな。十年前の常識が現代の非常識なんてことはざらにある。今でこそ運動中の水分補給は常識だが、そうじゃない時代だってあったんだ。
そうやって日進月歩の技術と知識の発展があって、レコードは日々更新されている。だからドリームトロフィーリーグに移籍したレジェンドとトゥインクル・シリーズの現役選手が戦って、本当にレジェンドの方が強いのか。そういう意見は出てくるってもんさ。
後者はその、あー、アレだ。
俺だっておぼえがある。『ウオッカはまるで○○みたいだー』って熟年のレースファンが過去のウマ娘の名前を出してくんの。
たぶんあちらさんは誉め言葉のつもりなんだろうけどなぁ……。もやっとするんだよなあ。これがまだブライアン先輩とか、こっちもビビッと痺れるくらい尊敬できる人に譬えられたんなら光栄だって素直に喜ぶこともできたのかもしれねーけどよぉ。
名前と戦績くらいしか知らない相手を引き合いにだされてもなあ。どんな顔しろって話だよ。
いや、本当に悪気が無いのはわかっているし、歴史に名を残すウマ娘と並べられて光栄だぜって思う気持ちも無いわけでもない、けどさ。
今ここで走ってるのは俺じゃねーか。どうしていもしないウマ娘の名前をわざわざ出すんだって腹が立つんだよな、やっぱり。
極端なたとえをするのなら。
ガラス細工に『まるで宝石みたい』って言って誉め言葉になるのは、宝石がガラス細工よりも格上だからだろ。
相手からしてみりゃあ宝石を引き合いに出して褒めているんだろうけどさ、自分がガラス細工の側だと暗に告げられて愉快になるウマ娘ってそういないと思うんだがなぁ。
マスコミ関係者とかでも平気で言ってくることあるから、俺のプライドが変に高すぎるだけなのかなあ。周囲のやつらは言われて嬉しいのか、それ?
だって一着にならないと意味ないのがレースの世界じゃねえかよ。
誉め言葉として受け取っているこちらですらもやっとするんだから、ファンの立場だともっとムカッ腹が立つんじゃねえかな。今ここで走っている俺のヒーローをくだらない過去の色眼鏡で歪めるなーって一発くらい蹴ってやりたくなると思う。
だからまあ、トゥインクル・シリーズに熱狂する一部のファンにとって。逐一レジェンドを引っ張り出してくる一部のドリームトロフィーリーグファンは面白くねーんだ。
ドリームトロフィーリーグに移籍したレジェンドは本当に強いのか?
URAファイナルズはそんな長年のファンたちの疑問に決着を付ける大型新設レースでもあったわけだ。
結果は一目瞭然。
ドリームトロフィーリーグは本格化を終え、全盛期を過ぎたウマ娘が大半を占める。過去にどれだけ煌びやかな成績を残していたところで衰えからは逃れられない。そう残酷な現実を突きつける結果になったレースがいくつもあった。
そして、多少衰えたくらいで人の手が届くような存在は本物の伝説ではない。
マイル部門のマルゼンスキー、中距離部門のシンボリルドルフ。あの二人のレースをみてそう思い知らされたファンは多かったはずだ。
ドリームトロフィーリーグはレジェンドを保護する楽園ではなく、夢が
全部が全部そうってわけじゃねーけど。そういう一面があったってのは誰も否定できねーんじゃねえかな。
長距離部門もそうなるはずだった。ミスターシービーってウマ娘はあの二人にも勝るとも劣らない存在だ。
ああ、そこにゴールドシップ先輩がいなけりゃな!
新旧菊花賞タブーウマ娘対決なんて、安直な見出しで盛り立てたマスコミどもには猛省を促したいね。あのレースはそんな安っぽい装飾で飾っていいシロモノじゃなかった。
心底シビれたぜ。
うん、すごいお人なんだよな。ずっと一緒にいるから感覚麻痺しそうになるけどよ。
視線の先ではゴールドシップ先輩が、ウナギになりたくて嵐の夜に水たまりに泳ぎに出かけるミミズ太郎の冒険をパントマイムで表現していた。
めちゃくちゃ真顔でやってた。
人間って言葉を介さずともそれだけの情報を伝達できるんすね……。感覚麻痺しているのは時間だけが理由じゃない気がするぜ。
「聞いての通り、今日はミスターシービーと模擬レースをしてもらうよ。せっかくの機会だ。焦らないでじっくり準備しておいで」
「えっ、ちょ待てよトレーナー!?」
いや待たせるのは俺の方だが。
急に拉致られたからまだ制服だぞ俺? ここから着替えてアップも考えると三十分はかかるぞ。あのミスターシービーをそれだけ待たせるってプレッシャーやべーんだが?
「大丈夫だよ。シービーは自分の嫌なことは絶対にやらないからね。ここで待ってくれるってことは本人も乗り気ってことだ。そもそも急になったのはシービー側の都合だからね。ウオッカが気にすることはないよ」
おだやかに笑う俺のトレーナーが怖い。ゴルシTの名は伊達じゃねえ。こいつヤベーやつだ。一年以上の付き合いだけど改めて痛感した。
シービー先輩がこてんと首を傾げる。
「えー? アタシ、貰った分の報酬はちゃんと働くよ? 具体的にはパフェ三杯分くらいまではふわふわどこかに飛んでいったりしないから」
「ミスターシービーというウマ娘に対する報酬として考えれば、ここまでご足労いただいた分だけで十分元が取れてるよ。ここに来て、ウオッカを見て『待つだけの価値がある』と君が判断すると踏んだから、パフェ三杯だけで手を打ったんだ」
トレーナーあああああ!? 信頼が重いぜ相棒!
「……へえ」
ず、と空気が重くなる。
特にすごんだりしたわけじゃない。表情にもほとんど変化なし。飄々とした雰囲気のまま。
ただ、トレーナーの依頼に関与するだけの存在から『
「なるほど。感性は鋭いみたいだね。うん、“楽しい”かはまだわからないけど“楽しそう”だ。いいね、ワクワクしてきた」
「……うっす」
視界に入っただけでこれかよ。
ああなるほど、たしかにこれはダービーに向けて必要なことだろう。種目別競技大会の後にリシュと目が合ったときと同質の感覚がする。
あのときから俺は強くなった。あのときのリシュに見つめられてもあのときのように気圧されるつもりはない……と思ってたんだがなあ。
今のリシュはいったいどれだけ伸びているのやら。
追いつくだけじゃ意味がねえ。勝ちたいのなら、いくら三冠ウマ娘とはいえ興味を持たれた程度でビビってちゃ話にならねえ。
「この時期に模擬レースなんて大丈夫なのかなって、他人事ながら少し心配していたんだ。でもミスターゴルシTが保証するだけの下地はあるみたい。
わかった。アタシはアタシの意志で待っててあげるから、キミものんびり仕度を済ませておいでー」
「うっす! あざーっす!」
シービー先輩に快く送り出された俺は速足で着替えに向かう。
気は急くが、仕度に手を抜くのは論外だ。
なんせ今はダービー直前。スカーレットのやつがティアラ二冠目を勝ち取り終わった数日後くらいにはきわっきわのスケジュール。故障はできねえ。いや、それが無くとも伝説の先達を前に準備を疎かにするなんてありえねえけどよ。
これほどまでに違うのか。
「はい、アタシの勝ち」
二人っきりの模擬レース、もはや併走トレーニングに近いそれは自然と俺が先行するかたちとなった。
俺も本当に得意なのは差しなんだが、追い込み一本でトゥインクル・シリーズを走り抜いたシービー先輩に比べたらまだ先行策も場合によっちゃ使い分ける柔軟性がある。
まあこの場合、柔らかいことを誇る気にはなれなかったけどよ。自分が納得できない走りは有利不利に関係なく絶対にやらない。天衣無縫な態度の芯に潜んだ硬質な覚悟。シービー先輩のそれに比べたら俺の柔らかさは軟弱にさえ感じたから。
それでも少しは思ってたんだ。追い込みのメリットはバ群の中での位置取りを免除されることが大きい。位置取りの要素なんてあってないようなたった二人の模擬レース。末脚勝負に持ち込めば、俺だってそう見劣りするもんじゃないはずだって。
ズドンと背後から地面が弾むようなプレッシャーが響いたかと思えば、あっという間に最後の直線で追い抜かされていた。
アレは、なんだ?
“領域”?
たぶんそうだ。海水の中を泳ぐ魚が水中にいることを自覚しないみてーに、膨大過ぎて全体像はおろか展開されたことさえはっきりとは認識しきれなかったけども。
でもそれにしては疑問が残る。“領域”具現の条件ってそんな簡単に満たせるもんなのか?
「どう、なにかつかめた?」
膝に手をついて身体を支え、肩で息をして体力回復に努めている俺に悠々とした足取りでシービー先輩が近づいてくる。
「えっと……」
言葉が詰まる。何を言えばいいのかわかんねえ。
正解はどこだ? そもそも俺は何を求めてこの模擬レースを始めたんだっけ。
「答えを探すな。オマエには見つけられん」
背骨をぶん殴られたような衝撃を錯覚した。
ごふっと息を吐きながら慌てて振り返る。どうして気づけなかったのか、猛禽じみた雰囲気を纏う人影がグラウンドを見下ろすように立っていた。
いや、本当にどうしてこんなビリビリくる重圧に気づけなかったんだ? 俺はそこまで余裕が無くなっていたのか。
「ぶ、ブライアン先輩……」
なんてこった。このせま、いわけじゃねえがトゥインクル・シリーズに比べたらとてもじゃないが広大とは言えないグラウンドに三冠ウマ娘が二人もいやがる。レジェンドの密度が高すぎて窒息しそうだ。
「あ、ブライアンだ。キミも一緒にやる?」
シービー先輩の目がブライアン先輩を捉えた瞬間、彼女の雰囲気が『後輩の教導』から『獲物を前にした』ものへと切り替わった。
それだけで、零れる威の余波だけで膝を屈しそうになる。そんな心底ビビっちまってる自分が情けなくて唇を噛みしめる。下を向いている暇なんてねえと頭では思うのに、気づくとうつむいてターフを眺めていた。
「いいや。いくら飢えていても、後輩の獲物を横取りするほど恥は忘れちゃいない」
「お、じゃあゴルシちゃんと一緒にカバディすっか! アタシくまさんチームなっ、ほーれカバディカバディ!」
ゴールドシップ先輩が並外れた肺活量を発揮しながら凄まじい速度の横歩きで視界から消えて行っても躊躇なくスルー出来る程度には皆、ゴールドシップというウマ娘に慣れている。これがチームの絆ってやつか? たぶん違うだろう。
シービー先輩から視線がいっさい揺らがないまま、ブライアン先輩は言葉を続けた。
「それに食いさしで満足できるほど行儀よくもないんでな。アンタを喰らうのは今ではなく次、夢の箱庭と決めている」
「……へえ」
「それまではせいぜい、おとなしく飢えておくさ」
うつむいて、膝に置いた手がつっかえ棒になって崩れ落ちていないだけの俺の頭上を言葉が飛び交う。
顔を上げろよ。こんなことやってる場合じゃねえって。凹んでいるヒマがあれば少しでも多く走るべきだろう? 尊敬する先輩方のお時間を取らせておいて、何ぜーたくに自己憐憫を満喫してんだよ。俺はそんな御大層なことが許されるご身分じゃねえだろ。
そう思うのに、思考が文字列となって脳内を流れるだけで胸に届かない。身体は冷えちまって、萎えちまっていた。
ダメなのかなぁ、俺。もう無理なのかなぁ。
ダービーはずっと俺の憧れだった。これだけは絶対に、誰に何を言われても譲れないと思っていたけど。
諦めた方がいいのかなあ。
じわじわと目が熱くなる。ダサすぎんだろと思っても止められない。
「何を俯いている。芝の上にオマエの求めるものがあるのか? 顔を上げろ」
ぐいっとまるで顎を掴まれたように、声の力に圧されて俺の顔が上を向く。
目が合った。
「オマエは私と似たところがある」
ブライアン先輩の金色の瞳は、予想していたような失望も侮蔑も浮かんでいなかった。
ただ硬質で、鋭利で、そしてまっすぐで。
「自分の中に最初から答えがある。だから頭で考えても無駄だ。逆に思考で輪郭をぼかす結果になりかねん」
俺のことを見ていた。
「衝動に向き合え。渇望から目を逸らすな。オマエの中の熱は何と言っている? どれだけ否定しても湧き上がるものがあるのなら逃がすな。捕らえて、喰らえ。
そして湧き上がるものがないのならやめておけ。周囲の理屈に唯々諾々と従い進み、その先で勝っても負けてもただ乾くだけだ」
そう淡々と、ブライアン先輩は言いきった。
「おれ、は……」
スカーレットもリシュもすげーやつだ。
覚悟も決まってるし実力もあるし、何よりズバッと鮮やかだ。同期から見てもめちゃくちゃカッケェ。
俺とは大違いだ。
勝てねえ、って思っちまった。
でもそれは勝ちたいって衝動を捨てきれないからだろ?
「いいんすかね……?」
ダービーは憧れだった。
なのにいつの間にか、自分が一着でゴール板を駆け抜けるビジョンがまるで浮かばなくなっていて。
近づけば近づくほど怖くて、そんな自分が情けなくて。本当にこんな自分が出走していいのかなんて、今さらすぎることをくよくよと悩むようにすらなって。
「こんなにビビッてるのに、そんなのダセーって自分でも思うのに」
死ぬほどブルっちまってるのに、どうしても憧れの火が消えないんだ。
「ダービーを勝ちたいって……!」
棄てたくても棄てられない。逃げたくても逃げきれない。
そんな炎が自分の中に燃え盛っていることを、否定しなくて本当にいいのか?
「その恐怖はオマエの感性の鋭さが嗅ぎとったものだ。ただ誇ればいい。それに、戦いに恐怖しない者などいやしない」
ブライアン先輩は俺の言葉を鼻で笑った。
「恐れを知らないのだとすればそれはただの愚鈍か、あるいは無知を自覚できないほどに未熟なだけだ」
「……ブライアン先輩もビビったりするんすか?」
この人が何かを恐れるとこを想像できない。
信じられない思いで投げかけた問いは、目の錯覚じゃなけりゃ。
「姉貴に聞いてみろ。水たまりに驚いて転び、脇から飛び出た猫に驚いて身の丈ほども飛び上がり。挙句の果てには自身の影におびえて逃げ、逃げきれないことに恐怖して泣きじゃくる。幼いころの私ほど
想像したこともなかったやわらかな笑みを、ほんの一瞬だけこの人から引き出すことに成功した。
思わず見惚れちまったよ。ブライアン先輩もあんな顔するんだな……。
そっか。いいのか。
勝てる気がしなくて。それでもあいつらに負けたくなくて。
毎日の挑戦と、その結果の落差が苦しくて。
理想にいつまでも追い付けない現実がつらくて。
目標に届かない今が怖くて。怯えて。それでもどうにかして超えてやりたくて。
それで――いいんだ。
すとん、と。
自分の中で今まで宙に浮いていたものが地面に降りて、そのままどっしりと根を張ったような心地だった。
「へー、案外まじめに後輩の面倒を見てるんだ。あのブライアンがねえ」
「フン、こんなものを『面倒を見る』とは言わんだろう。ただ感じたことを言ったまでだ」
別に煽っているわけではなく、本当に本気で意外だったのだろう。
わりと失礼なことを言いながらしげしげと見つめるシービー先輩に、ブライアン先輩が腕を組んで鼻を鳴らす。
「教え導くというのは気まぐれに言葉を吐くような簡単な作業じゃあない。毎日コツコツと目に見えない何かを積み上げる、自分が積み上げていると信じられる真面目なやつらの仕事だ。エアグルーヴやルドルフがやっているような」
「でもウオッカがキミにとってかわいい後輩じゃなけりゃ、ブライアンは声をかけようとは思わなかったんじゃない?」
あ、ブライアン先輩がそっぽを向いた。
へへ、なんか照れるけど嬉しいな。そっか、俺はブライアン先輩のかわいい後輩になれているのか。
でも俺はとっさに言い訳が出てこずに視線を逸らして誤魔化すブライアン先輩もかわいいと思いますよ! さすがにこの場で面と向かっては言わねーけど!!
「ふーん。案外アオハル杯って役に立ってるのかもしれないね。んー、あらためてドリームトロフィーリーグは参加できないのが残念」
「そう頻繁に檻に閉じ込めた夢の鍵を開けるつもりは上には無いということだろう。祭に魔が紛れ込むのはままあることだが、それは魔が潜むからこそ成り立つものだ。アンタらは名も顔も知れ渡り過ぎている。萎縮するやつらとぶつけ合わせるのは酷だろうさ」
「うん! やっぱり少し変わったねブライアン。キミが第三者の心配をするなんて」
やっぱり何気に失礼なことを言いながら、シービー先輩の視線がするりと俺に向く。
「一回だけで精根尽き果てた様子になってて、仕方がないかーとは思ったんだけどさ。やっぱり少しはガッカリしたんだよね。これならダイワスカーレットの方が楽しかったかなって。あのたった一つにすべてを懸けて擲つことができる愚かしさはわりと好みだったから」
「うぐっ」
思わず声が漏れる。返す言葉も無い。
さっきまでの俺は完全に腐っていたからな。いや、今だってごちゃごちゃしたもんを頭の中にあるゴミ箱にがっと突っ込んで蓋してのり付けしただけだ。ぶっちゃけのりはまだまだ生乾きだったりする。
でも俺の中のエンジンに火がともっている。ドゥルンドゥルンとうるさいくらいに咆えている。これは誰にも止められない。そう、俺自身にだって。
「サーセンっした! みっともねえ姿見せて、失望されるのも当然っす!」
今の俺にできるのは勢いよく頭下げて素直に謝ることくらいだ。さっきまでのテメェが教えを乞うにふさわしい態度じゃなかったって事実は時間を巻き戻しでもしない限り変えられない。
だから、いつだって今からだ。俺はまだこの伝説から学べるものを何も学べちゃあいねえ。これで『はい、おしまい!』は避けたかった。
ただまあ、シービー先輩の表情に険は無い。いや、いざとなればその表情のまま我が道を行く人ではあるんだろうが。なんとなくこの場に興味を失くしたという風には見えなかった。
「ううん。今はちょっぴり“楽しい”かなって思ってる。ねえミスターゴルシT、どこまでが計画通りだった? ブライアンがこなければ、もしかしたら彼女は潰れていたかもしれない。ダービーに勝たせるためとはいえ相当な賭けだったと思うけど」
「賭けずに勝てるダービーじゃないだろう? うちの方針とは異なるけど、『ダービーに勝てるのなら引退してもいい』なんて言葉も残ってるくらいだ」
トレーナーの声色はどこまでも穏やかだった。
「ウオッカなら賭けて後悔する結果にはならないと信じていたよ。ブライアンがここまでしてくれるのは嬉しい誤算だったけどね」
「いいね、クレイジーだ」
だからこそ小さくこぼされたシービー先輩の意見に心から賛同するけどな! さらっと俺の選手生命とついでに自身のトレーナー生命をチップにしてないかそれ!?
「アタシはあまりそういうのが得意な方じゃないけど……それでも後進の成長を嬉しく感じるくらいの感性はあったみたい。
ブライアンの気まぐれがより良い結果に繋がるように、アタシも何かしてあげたい気分になってきたよ。もう一回、走ろっか?」
「おーいぃ! 何で百まで数えたのに探しに来ねーんだよお前らはよぉ! ひとりかくれんぼだと降霊術になっちまうじゃねえか。ただでさえトレセン学園は満員御礼なんだからこれ以上増えたらいよいよ収拾がつかなくなっちまうぞっ」
いつの間にか種目が変わっていたゴールドシップ先輩が帰ってきた。支離滅裂な内容はいつも通りだけど、ちょっと不安になるからそっち方面はやめてほしいっす。
ただでさえこの学園って怪談が多いんだよな。夜中の謎の発光物体とか、幽体離脱するアグネスデジタルとか、美浦寮の天井を這いまわるウマ娘の姿をしたなにかの目撃証言とか……。
ちなみに最後のやつはリシュが蹴っ飛ばして木っ端みじんに砕け散ったという証言を最後にぱったり目撃されなくなった。いろんな意味でやべぇ。
「おかえりー。ゴールドシップも一緒にやる?」
「お、いいなそれ。オホーツク海で鍛えたマグロ一本釣りの極意を見せてやんぜ!」
オホーツク海にマグロっているのか? オホーツク海はカニとかが獲れる寒い海でマグロは温暖な海域にいるイメージなんだが。
それはともかく、マイペースの極みでシービー先輩が誘った結果なんかとんでもないことになってきてないかこれ。
ブライアン先輩がさっきからチラチラ見てる。気持ちはすげーわかるっす。レースに携わるウマ娘としてミスターシービーとゴールドシップの欲張りセットと併走できる機会なんて血が騒がなきゃ嘘だけど、前言撤回して参入するのはなんかダサいっつーか。
最初に語ったみたいに、いざ参入しちまったら抑えが利かなくなって俺のトレーニングどころじゃなくなるってのもマジだろうし。
あ、すげー残念そうに視線を逸らした状態で止まってため息をついた。本当に申し訳ないし、ありがたい。その心意気、絶対に無駄にしないっすから。
「ダービーを勝つコツはね、『絶対に勝つ』って思うことだよ。だってダービーは一度きりしかなくて、走ったあとに納得するためには勝つしかない。
アタシはルドルフみたいに話し上手じゃないから、走ることしかできないけど。それでもいいよね?」
吸い込まれそうな目。これを俺の糧にすることができるんなら。いいや、ここで喰らえなくて何がブライアン先輩の後輩だって話だ。
おっしゃ、気合十分。覚悟は決まった。シービー先輩が根っからの感覚派であることは間違いないだろうし、理解できない分は後でトレーナーに解説を頼もう。
「教えてあげる」
シービー先輩の差し伸べられた手から、鮮やかで強烈な風が吹きつけてくるようだった。
ダービーだと思った?
残念、修行パートでした!
次こそダービー開始!
ウオッカ視点はもうちっとだけ続くんじゃ…