「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」   作:バクシサクランオー

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怒涛のサポカイベント三連続!
ダービー決着ッ!!

後半は三人称視点です



サポートカードイベント:その山頂はどこにある

 

 

U U U

 

 

 見える。描かれていく。

 

 剣の軌跡。その予想図。

 ここに来る。それが鮮やかに赤いラインで浮かび上がる。

 たとえどれだけ高速で撃ち出された剣だとしても、軌道がわかっていれば避けられる。俺の超絶テクニックをご覧じろってな。

 “領域”のぶつけ合い、求める世界の引っ張り合い。相手が押し付けてくるルールに力尽くで抗う感覚はシービー先輩との特訓でようやく掴み取った成果だ。

 剣の直撃がリシュの“領域”が押し通った象徴。逆に言えば、当たらなければどうってことはねえ。

 鮮やかに塗り分けられたウマ娘の影と漆黒の長剣の雨の間を縫ってぐんぐんと上っていく。

 リシュの背中がはっきり見えた。前は足音さえ聞こえなかったのに、今ではほら、息遣いさえ感じられそうじゃねえか。

 一本、また一本……うおっ! あぶねー。

 でも避けきったぜ。

 獲物を狙う肉食の魚群のように宙を遊泳していた黒剣の群れは、今や弾切れだ。

 

「練習しておいてよかった」

 

 声が聞こえた気がした。

 レースの真っ最中。しかも東京レース場の長い直線、上り坂のラストスパートだ。呼吸すら覚束ないのに、のんきに喋る余裕なんてあるはずもない。

 でも確かにリシュはそう言った。もしかするとそれは、言葉じゃなかったかもしれねーけど。

 振り返りもしてねーのに、青の瞳がしっかりこちらを見た。

 

「いいよ、わかった。私たちの時間をあげる」

 

 代わりに、勝利はもらうね?

 

 展開されていたイメージが変動する。流動的だった漆黒の剣の投擲から、硬く静謐な舞台へと。

 空から幾本も降り注ぐ白い光。それはリシュを取り囲む墓標のように地面に突き刺さる。

 剣だ。光を放ちながらどこかのっぺりとした、陶器のような印象を受ける純白の長剣。

 片手でその刀身を掴んでリシュは引き抜くと、その切っ先をあっさりと己の胸の中へと導いた。

 光が溢れ、世界が侵蝕されていく。

 

――魂に刻まれた必勝パターンはひとつじゃないよ

 

 ふと思い出したのはシービー先輩の言葉。

 何度目の模擬レースだったか。シービー先輩とゴールドシップ先輩の“領域”にごりごり圧迫されて、指も動かせないくらいヘトヘトになってぶっ潰れていた時に、疲労と酸素の供給がうまい具合に噛み合ったのかようやく気付いたんだ。

 『あれ? どうして先輩方は“領域”が使えるんだ?』って。

 だってそうだろう。“領域”の発動条件は魂に刻まれた必勝パターンをなぞること。そんでもって必勝パターンってのは要するにレース中の条件で、その多くに位置取りが絡んでくる。

 要するに、三人だけの模擬レースなんかじゃ人数が絡む条件が満たせないんだよ。俺の“領域”なんてまさにそれだ。

 

――だからそれぞれに対応した“領域”が存在するし、なんなら実用段階まで高めないならそれっぽく形を取り繕うことだってできる

 

 実力が拮抗したライバル相手ならともかく、今の俺程度が相手なら各種必勝パターンの満たせるところだけつぎはぎした領域モドキで十分対処できるという内容を、直接的ではないにせよオブラートに包むような婉曲さも無く至極さらりと言われた。

 ふつーに凹んだ。でも、今こうして振り返ってみれば。

 追い込み一本でトゥインクル・シリーズを走り抜いたシービー先輩が、全然必勝パターンを満たせないままに形だけ具現した脆弱な領域モドキだったからこそ。

 “領域”の引っ張り合いのトレーニングに最適だとトレーナーは采配したのかなって。ルドルフ会長あたりだと絶対トレーニングにならなかっただろうし。

 そんでようやく特訓で自分がやるべきことを自覚して、そうすると不思議なもので尽きていたと思っていた気力と体力が湧いてきて、そんでまた走って。

 そうやってまたヘトヘトになって芝の寝心地を確かめる羽目になって、動けるようになるまで荒い呼吸の合間にとりとめもないことを話した。

 

――いくつも必勝パターンがあってごっちゃにならないかって? なるよ。なるなる。だから勝負服で使い分けるんだ。ルドルフとかわかりやすいね。逃げ先行で走るときの和装と、差し追い込みで走るときの軍装で“領域”がはっきり分かれているでしょ?

 

 いや、俺はルドルフ会長の“領域”をナマで堪能するようなおっそろしい経験はしたこと無いっすけど……。

 そうだ。複数勝負服を持っているような超一流ウマ娘は、それぞれの勝負服に合わせて『その服で一番使いやすい“領域”』をチューニングしているのだと言っていた。

 つまり勝負服はただウマ娘の魂を活性化させるだけじゃなくて、“領域”のコントローラーとしての役割も果たすってことだ。

 

 リシュの勝負服。

 レースを走るときには装備しちゃいないが、本来は双剣も込みでひとつの衣装だ。

 白と黒の長剣。黒い長剣はこれまであいつの“領域”で何度もみた。他人の“領域”へのカウンターで発動し、その効果を喰いちぎる無慈悲な能力簒奪だ。

 じゃあ、白は? 勝負服はウマ娘の魂の発露。カッコつけではあっても、余分な要素なんてひとつも含まれちゃいやしない。

 もしかしてあいつ、これまで半分しか――

 

 領域具現――因子簒奪(ソウルグリード) 白域(ホーリー・クレイドル)

  僭称(イミテーション)【深海廻廊】

 

 海水の壁が光を圧し潰した。

 

 

U U U

 

 

 第四コーナーを抜け最後の直線での応酬。

 『ダービーに始まりダービーに終わる』などと語る者がいるほどに、トゥインクル・シリーズの中で重厚な存在感を放つ格式高いこのレースが今年も完成を迎えようとしている。

 盛り上がりも最高潮だ。

 そんな東京レース場をその音量で崩さんとばかりに声を張り上げる観客たちの中で、いったい何人が正確にその現象を把握できただろうか。

 

「あれは……」

 

 ナリタブライアンは気づいた側の存在だった。

 深海に圧し潰されたように動きが鈍る先頭集団。その中でただひとり、重力から解放された魚のごとく軽妙な足取りで加速していく小柄な銀の影。

 まるで光の水溜まりを踏むように、その足元からちゃぷちゃぷと金色が立ち昇っているのを同じ色の瞳でナリタブライアンは認識していた。

 どんな高性能のカメラでも捉えることのできないウマ娘の本領。あれは“領域”だ。見間違えるはずもない。

 だってあれはナリタブライアンその人の“領域”なのだから。大地を豪快に砕いて光の奔流を纏うオリジナルと比べると、だいぶ小規模な具現化に留まっているようだったが。

 問題はそこではない。ナリタブライアンはいまここ、観客席にいる。これまでの戦績から『“領域”に対するカウンター』と推測されていたリシュの“領域”ではありえない現象だ。

 

「……なるほどな。そういうカラクリだったか」

 

 敬愛する姉や、同じ生徒会に所属するシンボリルドルフやエアグルーヴといった頭脳労働を得意とする面々を知っているがゆえに、ナリタブライアンは自身を聡明とは思っていない。

 だが彼女は愚鈍ではない。単純な身体能力だけで得ることのできる“三冠ウマ娘”の称号ではないのだ。ことレースに関しては明確な言語で理論を構築できずとも、直感的に正答を導き出せるだけの能力があった。

 

「ブライアン、きみの見えたものを説明してもらっていいかな?」

「愚かな話だ。私たちは牙の大きさや爪の鋭さに気を取られ、その本質を見誤っていたらしい」

 

 ゴールドシップ担当トレーナーのゆったりした問いかけに、視線を向けないままそう返答する。

 視線の先では次々と世界が塗り替えられていた。

 

『五番テンプレオリシュ、完全に抜け出した!? 二バ身、三バ身、止まらないっ!』

 

 興奮気味の実況と割れんばかりの大歓声。

 娯楽としてこの状況を甘受できる不特定多数から隔離されたように、この一角だけが声援の中に埋没しながら奇妙な静けさをたたえていた。

 

「やつの“領域”の本質は“捕食”だった。喰らったものは血となり肉となり、新たな爪と牙を構成する糧となる。それこそが真なる脅威だったということだ」

「えーと、それはつまり……これまでカウンターでその場限りのものだと思っていた『他者から奪った“領域”』の数々が、大盤振る舞いになっているってことかな?」

 

 資格無き者には見ることさえかなわない。果たしてそれは不幸なことだったのか、それとも幸福なことだったのだろうか。

 たとえ実力が一定のラインを満たしていなくとも波長が合えば“領域”の具現化を認識することはできる。ただ、その場合の把握できる内容はとても不安定なものだ。

 リシュに注目していた同期のウマ娘たちがこれまで気づけなかったあたり、相手へ直接干渉する黒剣の“領域”に比べ、自身の内部だけで完結する白剣の“領域”の具現化は察知するのが難しいのだろう。

 しかし一度至ってしまったのならもう、気づけなかった頃には戻れない。

 

「……ない……知らない、アタシは、あんな」

 

 眦が裂けんばかりに目を見開き、震える後輩にナリタブライアンはかける言葉を持たない。それは後輩自身が後生大事に抱えてきたもので、ずっと背負ってきたものだ。

 必要もないのに手出しするのは無粋を通り越して無礼ですらある。少なくともブライアンはそう認識している。

 

「一、二、三……いや、四か」

 

 空間が桜に染まる。ただ『走る』という一点だけで構成された、純粋なあまりどこか滑稽ささえ漂う世界。もっともその驀進を後ろから魅せられる側からすれば笑うどころではないだろうが。

 淡い桜の色合いに一片の紅が混ざったかと思ったとき、彼女の姿はゴール板を駆け抜けていた。

 

『ゴォール!! テンプレオリシュ、五バ身差の決着ゥ! これほどまでに違うのかっ。完勝でクラシック二冠を達成! しかもこれは……レコードです! レコードが更新されました!!』

『銀の魔王、東京優駿に消えない爪痕を残しました。かくして荒唐無稽な御伽噺は秋の舞台へと続いていきます』

 

 レース場が爆発した。そう錯覚するほどの大歓声。

 悲鳴、怒号の数々。もはや数多の人間が興奮しているということしかわからないこれら大気の振動も、この場の彼女たちを揺らがすには至らない。

 

「四枚だ。立て続けに使った。あとどれだけ手札が残っているのか、同時に使えるのかまでは知らん」

「まいったなぁ。戦えば戦うほど強くなるなんて、本当に魔王みたいじゃないか。うーん、これは困ったぞ」

 

 口調は相変わらずのんびりとしていたが、自分の頭をぐしゃぐしゃと片手でかきまわすその仕草は本当に困っているときのゴルシTの癖だとこの一年の付き合いでナリタブライアンは知っている。

 

「どう対策を立てたものか……ウオッカも勝たせてあげられなかったなぁ」

「あいつが負けたのはあいつの未熟だろう。アンタが気にすることじゃない」

 

「レースに間に合うよう成熟させることがトレーナーの仕事だからね。未熟が原因ならこちらの責任さ」

「フン、そうか」

 

 淡々と紡がれる言葉の奥に激情の気配を感じ取り、ナリタブライアンはそれ以上触れなかった。レースに負けた悔しさがウマ娘にしか本当の意味では理解できないように、担当を勝たせてやれなかったトレーナーの悔しさはどれだけ気心の知れた関係になろうとウマ娘には理解できないものなのだろう。

 ましてや、相手は(面白いやつだとは思っているが)自分の担当でもない、アオハル杯チームのチーフトレーナーという浅い関係だ。無知は配慮の無さの免罪符にはならない。相手の誇りを汚しかねない言動は慎むべきだ。

 

「ブライアン先輩……」

「なんだ、スカーレット?」

 

 ここにもひとつ、激情をなんとか腹の底に飲み下した声がある。

 飲み下してなおせり上がるそれは声を震わせ、滴となって目から零れ落ちていたが。当然それをわざわざ指摘する無粋は持ち合わせていなかった。

 

「アイツは、あの力をいつから持っていたと思いますか?」

「最初からだろう。これまでは使うまでもなかったというだけの話だ」

 

 かといって傷つけないよう気遣いしてやるほど優しいつもりもない。それをダイワスカーレットが求めているとも思わなかった。

 

 実際、ナリタブライアンとしてはひとつパズルのピースが埋まった心地だ。

 一年前の競技別種目大会、彼女はリシュに敗北した。

 負けるはずのない勝負だった。紙一重の否定しようのない敗北(にがみ)だった。

 なぜ負けたのか、後からどれだけ考えてもわからなかった。

 

 もともと生徒会役員がイベントをサボタージュしては示しがつかないと、口うるさい同僚の説教を避けるための参加であり意欲には乏しかった。

 世間ではG1クラスなどと評されていたらしいがしょせんは学校行事。

 レースの格式ばかりに目を奪われ本質を見失うのもばからしいが、重賞には格に応じた重みというものが確かに存在している。

 目ぼしいものはなく、さっさと走り終わってしまおうなどと考えていたのが当時のナリタブライアンだった。

 今はターフの上にいるもう一人の後輩に語ったところの『恐怖を忘れた獣』というやつだ。慢心の対価に肉となり果てた。

 だが、それを差し引いても覆しきれない差が当時のリシュとナリタブライアンの間には存在していたはずなのだ。

 

(あのときの『紫』はまだ見せんか)

 

 “領域”は強力な切り札ではあるが、あくまで手札のひとつにすぎない。

 あのときのリシュは純粋にぶ厚かった。その厚さが単純な手札の応酬では埋めきれない根本的な実力差を覆したのだ。

 走り終わった直後、リシュの瞳は紫に輝いていた。そのときはまるで気にしていなかったが、のちに改めて向き合ったときに彼女が赤い右目と青い左目を持つオッドアイだと知り、あの時のリシュが特殊な状態だったと気づいたのだ。

 ダービーという生涯一度の大舞台。ウオッカという優駿を前に本気にはなったのだろう。だが、底はまだ見せていない。

 

「いつ以来か……十二月二十五日(クリスマス)がこんなにも楽しみなのは」

 

 夏が来る前にもう冬のことを考えている。そんな己の滑稽さも相まってナリタブライアンは肩を震わせて静かに笑った。

 

 

 

 

 

 その隣でダイワスカーレットも震えていた。

 己を内側から蝕む感情に耐えるため、じっと寒さを堪えるように両腕で自身を抱きしめながら。

 まだ熱の冷めぬターフをじっと、瞬きもせず見つめていた。

 

 音というのは大気の振動だ。振動である以上、それ以上の大きな振動に塗り潰されたら消えてしまう。

 これだけの大歓声の中、これだけ距離が離れている位置関係、そこで交わされる会話など聞こえるはずがなかった。

 常識的に考えれば、聞こえるはずがないのだ。

 強いて理屈を付けるのならばカクテルパーティー現象と呼ばれる騒音の中で自分の必要な音声だけを拾う人間が生まれつき有する選別能力に、ウマ娘の優れた聴覚が合わさった結果だろうか。

 あるいはただ単純に、言葉を交わす二人の少女のどちらもがダイワスカーレットにとって特別である。ただそれだけの理由なのかもしれない。

 

「すごかった、ウオッカ」

「あー……そうかよ……」

 

 興奮を隠そうともせず、はしゃいだ様子でリシュが言う。

 つい先ほどまでその矮躯に漲っていたエネルギーの総量を示すように濛々とその身体からは湯気が立ち昇り、ぼたぼたと汗が滴り落ちている。だがぴょんぴょんと刻まれるステップやぶんぶんと振り回される小さな手は小憎らしいほどに軽やかだ。

 疲労に敗北が積み重なって今にも折れそうな背中を晒しているウオッカとはどこまでも対照的。だがそれを気にした様子もなくリシュは言葉を続ける。

 

「どれだけ距離が離れても安心できなかった。次の瞬間には追い抜かされる気がしてならなかった。ゴール板を駆け抜ける最後まで脚を緩めることができなかった」

 

 いつもの彼女らしからぬ、しかし間違いなく『いつものリシュ』だ。ときおり見られる性格が豹変したときの彼女ではない。

 いつもの彼女が、いつものぼんやりをかなぐり捨てて興奮していた。

 五バ身の勝利。ここ最近リシュのレースでは見られなかった圧勝。しかしその事実も彼女が狙って一バ身を演出し、自らの脚に掛かる負荷を最小限にしているという前提を加味すれば評価は反転する。

 ウオッカは温存を許さぬほどに、リシュの背中へ迫ったのだ。

 

「うん、だから、すごかった」

 

 乏しい語彙は貧弱すぎるコミュニケーション能力の発露だけではあるまい。勝利という美酒は他のどんなものよりウマ娘を酔わせる。

 テンプレオリシュというウマ娘はこれまで無敗。それはただの公式記録。本人の主観ではいったいどうだったのだろう。

 この日本ダービーは、ひさしぶりに彼女が『勝った』と思える勝利だったのではないだろうか。こんなにも酩酊するのなら、どれほど久しぶりの()()だったのだろうか。

 ついにはわっほーいと子供のように両手を天に上げ始めた相手を、ウオッカは呆れた様子で見つめていた。

 

「はぁ……少しはわかった気がするぜ」

「うん?」

 

「スカーレットがあれだけ走り続けられる理由。たまったもんじゃねえよなぁ……いつもぼんやりどこかに焦点を合わせていた視線の中心に自分がいて、まるで宝物を見つけたみたいに大はしゃぎされてよ……それを嬉しいと思っちまうんだから」

 

 ウオッカは俯いて表情を隠す。頭髪の陰からこぼれる無数の雫はきっと汗だけではない。

 込み上げるものを何とか処理しようと彼女は両手でぐしゃぐしゃと頭を掻き回していた。

 勝利で得られる快感や達成感とはまた性質の異なる喜悦。ダイワスカーレットにもおぼえがある。断じて認める気は無いが。

 

「だぁー! おっかしいだろ、そんなんじゃダメだって。『認めて貰って嬉しい』『もっと見てほしい』なんてライバルに抱いていい感情じゃねえよ……勝てなくなっちまうよ、そんなの……」

「うん? 尊敬している相手に認めてもらいたいって思うのも、同じレースを走るウマ娘を尊敬するのも、そんなにおかしいことかな?」

 

 今にも崩れ落ちそうな弱音を、迷いのない澄んだ声色がそっと掬い上げる。

 ただまあ、しれっと『自分はウオッカに尊敬されているウマ娘である』ことを前提に言葉を紡ぐあたり、本当にリシュはリシュだ。

 白く麻痺していたはずの思考に、少しばかりイラッとしたものが混ざる。ほんとそういうところよ、ばーかとここで小さくつぶやいたところで芝の上の二人に届くはずもない。

 

「……わるいことじゃねえのかな? 間違ってるわけじゃねえと、本当に思うか?」

「え? うん」

 

 少し戸惑ったのは自身の答えに躊躇いがあったわけではなく、何故相手が念を押してくるほど迷っているのか理解できなかったからだろう。そういう思考をトレースできてしまう腐れ縁の年月が無性に腹立たしい。

 

「じゃあよぉ、お前の認めて貰いたい尊敬する相手って誰だよ?」

「え? ……あー、うーんと」

 

 リシュは自分の中で完結している。生命球よろしく日光だけで維持できるような精神構造をしている。

 他者に敬意を払うだけの情緒と社交性はあるが、誰かに縋りつくような渇望を抱くことはない。そんなこと、いまさら確認するまでもないことだ。

 ぐしぐしと乱暴に袖で顔を拭い、少し赤くなった目で顔を上げたウオッカにもわかりきったことだろう。

 

「へっ、正直者が」

 

 そう苦笑すると、ウオッカは胸を張ってびしりと親指を下に向けた。そこには先ほどまで彼女たちが走っていた、青々としたターフが広がる。

 

「決めたぜ。何でもできるリシュに何でもアリで勝負するのは流石に無謀だ。それは何だろうと自分が一番にならないと気が済まねえどこかの一番バカに任せた。俺はジェネラリストじゃなくてスペシャリストになる」

 

 あるいは、レース場か。

 

「東京レース場じゃあ俺はもう二度と負けねえ。そう決めた。いま決めた!」

「あ、そう。しばらく私は東京レース場を走る予定はないからなぁ。また来年、出会ったらよろしく?」

 

 興奮が醒めてきたのか、いつもの霧のようにふわふわと掴みどころのないリシュが戻りつつある。

 それにしたってあの宣言にその返しはないと、他人事ながら思わざるを得ないダイワスカーレットであった。

 ただ、そのように冷静なふりをして俯瞰を気取っていても。

 

 どうして自分はあそこにいないのだと、溢れる想いと涙をこらえることはできない。

 

 わかっている。自分の選んだ道だ。

 仮に信念を曲げてオークスではなくダービーを選んだところで、その先に未来は無かった。

 ウオッカのように新たな何かを掴むことはできず、わかりきった結果に自己満足すら得られない。ただ敗北という二文字だけを背負いへたり込むことしかできなかった。

 山頂だと思っていたところはいいとこ中腹でしかなかった。白い霧に覆われた峰がどれほどの高みに聳え立っているのか、今のダイワスカーレットでは想像さえつかない。

 踏破したいのならこの選択しか無かった。正解以外の何物でもない。それでも心は見苦しく求めてしまう。後悔を吐き出す。

 

「どっしゃい!」

「ごふっ!?」

 

 平手一発。背中にもろに入り、息が詰まる。

 ごほごほとむせながら視線を向けるとそこにいたのは案の定、容疑者筆頭かつ言い訳無用の現行犯ゴールドシップだった。

 焼きそばを売りさばきに姿が見えなくなっていたはずだが、いつの間にか隣に座っている。気づかないうちにダイワスカーレットの座席はあのナリタブライアンとゴールドシップに挟まれる絢爛豪華な特等席になっていた。

 二十万人を収容できる東京レース場にもかかわらず本日は満員御礼だと解説が言っていた気がするが、どうやってこの観客が飽和状態の中で隣席を人知れず確保したのかは永遠の謎である。まあゴールドシップ先輩だし、ですべて説明がついてしまうのでそれ以上の考察は必要ない。

 

「けほっ、なにを――」

 

 とっさに言おうとした文句は、鋭利ですらある美貌を前に溶けて消えた。真剣な表情をしている。ただそれだけでゴールドシップというウマ娘は印象が変わる。

 時と場合によってはこの表情のまま奇行を繰り出すのだが、不思議と今はそうではないとわかった。

 

「なあスカーレット、後悔しているか?」

「いいえ」

 

 その強がりは驚くほどにすんなりと少女の口から飛び出した。

 まるで出番を今か今かと喉で待ち構えていたみたいに、負い目も見せずに超特急で飛び出していった。

 いや、もしかすると本当に嘘ではないのかもしれない。

 あの場にいない己を痛烈に悔やむダイワスカーレットがいるのは事実。しかしそれは、別にこの選択を良しとするダイワスカーレットがいることとは矛盾しないのだ。

 二重人格などでなくとも、人の心はもともと複雑怪奇で二律背反が当たり前。

 吐き出された言葉に血肉が宿っていく。

 乱暴に手の甲で涙を拭うと、そのまま服で手を拭いた。ハンカチも使わないなんて普段の自分ではありえないが、今の心情にはちょうどいい。

 

「アタシは、これでよかったんです」

「そうかよ」

 

 ニヒルに笑うゴールドシップ。一昨日にドラミングで暖を取ろうとしていた葦毛の奇人と同一人物とはまるで思えない。ちなみに今は五月なので、そもそも暖を取る必要に迫られる季節ではない。

 

「『二兎を追う者は一兎をも得ず』って言うけどよお、あれって実は『二兎を追わぬ者は二兎を得ず』ってことわざとセットになってるの知ってっか?」

「堂々と嘘をつかないでください。いたいけな後輩が信じたらどうするんですか」

 

 中国由来の故事成語のような顔をしておいて、実は西洋のことわざ『if you run after two hares you will catch neither』の翻訳だということを知っていれば物知りのたぐいだろう。

 

「追いかけりゃあいいのさ。目指す先に二匹いようが、周囲に何を言われようと。オメーが二匹きっちり捕まえたとき、嗤っていたやつらはようやく自分が手ぶらであることを焦り始める。いつだって世界はそういうもんだからよ」

「……はい」

 

 めずらしく脊髄だけじゃなくて脳も使っている、何を言っているのか理解できる会話だった。だがよくよく思い返してみれば、こと後輩の面倒を見るという点に関して言えばゴールドシップはゴールドシップなりにこれまでも誠実だった気がする。

 いつもの調子では先輩としての役割を果たせないのならおふざけの仮面をずらすこともある。あるいはそういうところを含めてダイワスカーレットがこの一年間先輩として付き合ってきた『ゴールドシップらしい』のかもしれない。

 

「オメーが諦めねえ限り、うちのトレーナーは絶対に道を用意して背中を押してくれっからよ。ちょっと場合によっちゃ崖に見える道みてーなやっぱ崖みたいなもんになってっかもしれねーけど、それでもオメーなら進めるだろ?」

「もちろんです」

 

 そうだ。諦められるなら、投げ出してしまえるのなら、今ここにいない。

 視線の先、ふとリシュがこちらを見た。この大観衆の中からこちらを見つけ出したというのだろうか。そのくらいならあっさりやってのけるだろう。

 

「アタシはアイツに勝ちますから。ぜったいに」

 

 ふふんと向けられたこれ見よがしなどや顔に、とりあえず指を立てて返しておいた。

 

 

 




【その夜の一コマ】
「案の定、テンちゃんが先に寝てしまった……」
「もっと今日のことを語り合いたかったのに……」

これにて今回は一区切り!

例によって一週間以内におまけを投稿予定です
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