「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」   作:バクシサクランオー

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変わらぬこと、変えていくこと

 

 

U U U

 

 

 図書館の自動ドアが開いた時、館内の空調が効いていることにほっと安堵する。

 そんな時期になってまいりました。

 雨と暑さが同時に来たら蒸し暑くて地獄だけど、今年は雨が降ればすっと涼しくなるからその点は救いかな。

 

 六月は世間一般的に安田記念だとか宝塚記念だとかG1レースを始めとしたイベントいっぱいだけど、私的カレンダーでは小休憩。

 マツクニローテを無事に完走したとはいえ、そのダメージは着実に私の中に蓄積されている。夏の猛特訓に向けていちど疲労をしっかり抜くために今月のトレーニングは軽めというのが桐生院トレーナーと話し合って決めた方針だ。

 いちおう七月の夏合宿の前にはアオハル杯二回目のプレシーズンがあるから、それに向けた調整はしないといけないけどね。

 人間は快楽にはいともあっさり鈍感になれるくせに、不快には過敏だ。特に一度勝ち取った恵まれた環境から滑り落ちることにはひどくストレスを感じる。

 

《だからこそここまで地球上にはびこる生物の覇者になれたわけだけど、ただ幸せに生きるためには困った生態だよねぇ》

 

 まったくね。

 私も勝ち取ったもの、今のアオハル杯のバックアップをふんだんに受けた上質な各種トレーニング環境を失いたくない。何ならもっと上を目指したい。

 今の〈パンスペルミア〉はランキング九位。相手次第のところはあるけど、次もきっちり勝ってキリよく五位圏内を目指したいね。

 

《次のアオハル杯、リシュはどういう布陣になると思う?》

 

 うーん、とりあえず短距離はバクちゃん先輩かな。安定した勝ち星という意味で短距離のあの人ほど頼りになるウマ娘もそういない。

 

《だねー。まったくもって異論はないよ。とりあえずバクシンオーがいるなら逃げで短距離に放り込んでおけって感じだったもんな》

 

 中距離はテイオーに任せてみるのも手だと思う。

 あのプライドの高い天才サマのことだ。デビューしたてのジュニア級である彼女にあえてエースを任せることで彼女にも周囲にも奮起を促せるだろう。それだけのものを彼女は既にチームの面々に示している。

 テイオーの潜在能力(ポテンシャル)ならこの時期でも既に勝ち星が見込める範疇ではあるし、何より本人にとって貴重な経験値となるはずだ。

 

《最近のアオハル杯って以前ほどピリピリもガツガツもしてないものね》

 

 感情には消費期限がある。

 特に怒りという感情はひどく燃費が悪い。何かきっかけがあるたび燃え上がる怒りっぽい人はいても、『怒り続ける』ことができるのは数時間がせいぜいだろう。

 これが憎悪ならじりじりとくすぶり続けることもあるらしいが、ウマ娘は基本的に温厚な気質の持ち主が多い。強い憎しみを抱くこと自体が非常に稀であり、実際私も何かを憎んだ経験なんて記憶を漁ってもぱっとは出てこない。

 ヒトミミの目には、それは美点に映るらしいけど。

 当の本人たる私たちからしてみれば『憎むのが苦手』というのは欠点なんじゃないかと、思うことが無いわけでもない。

 まあそれはさておくとして。

 

 一年前、樫本代理がアオハル杯を介して学園生徒たちへ吹っ掛けた喧嘩は大いなる怒りと共に受け止められた。

 だが、一年間もずっとずっと怒り続けることなんてヒトミミにもウマ娘にも不可能なのだ。時間が経てば経つほどに、当初とは異なる動機の割合が大きくなっていく。

 アオハル杯でチーム〈ファースト〉が優勝すれば、学園は教育管理プログラムのもと徹底管理主義下に置かれるという大前提は変わっていないけど。

 『チーム〈ファースト〉は憎むべき悪の尖兵で、それを正義の名のもとに断罪すればハッピーエンド』なんて、無邪気に信じ続けるにはトレセン学園の生徒たちは歳を取り過ぎていた。

 

《ヒーローやヴィランや魔法使いや変身ヒロインなどなど、無邪気に信じて憧れる純真な子も一定数存在してるけどね》

 

 それは否定しないけどほんの一握りだから、うん。

 私が知る限り大多数の生徒は子供っぽいと思われることを嫌い、大人っぽく振る舞うのがカッコいいことだと思っている。そして大人とは賢い存在なのだという幻想を抱いていて、少しでも自分を大人に見せようと自分が賢く見える立ち振る舞いに飢えている。

 賢くなるための勉強は嫌いでも、賢い自分を気取りたいお年頃なのだ。チーム〈ファースト〉を盲目的に悪者扱いするのは子供っぽくてダサい行為だという風潮を、私と同じ顔と名前を持ったどこかの誰かさんがせっせと水面下で流行らせた効果は相応に出ている。

 

《特に今年の初めにどこかの誰かがチーム〈ファースト〉を一人で撃破したって噂が流れたあたりから、『自分たちが〈ファースト〉を撃退してこの学園を救わなければ!』って切羽詰まったウマ娘が消えていった気がするねー》

 

 いったいどこの誰がやらかしたんだろうねー。

 たったひとりのウマ娘の行動の影響なんてたかが知れているけども。

 速ければ正義。それが中央の掟だ。より正確に言うのなら、それを掟とすることを厭わない鬼が集う場所が中央。

 いまや無敗のクラシック二冠ウマ娘の影響力は蝶の羽ばたきよりも強い。

 

 他力本願。

 言ってしまえばそんなあまり前向きには捉えられない言葉になってしまうのだろう。

 でも、悪いことばかりでもなかったと思う。

 アオハル杯から学園の行く末を懸けた決闘という色合いが薄れ、本来のお祭り騒ぎとしての性質が徐々に戻ってきたのだ。

 今では純粋に『勝つため』だけの理由でアオハル杯を走るウマ娘ってわりと少数派な気がする。

 あるウマ娘は次のレースの練習を兼ねて。またあるウマ娘は憧れのあの人と一戦交えるために。肩の力を抜いて走る子が増えてきた。

 

《今はまだ理子ちゃんの牽制がきいているからアオハル杯そのものに対するモチベーションも全体的に高いけど。管理主義うんぬんの問題が解決して数年もすればアオハル杯のためにアオハル杯を走るウマ娘はかなり減ってそうだよな》

 

 うーん、廃れるはずだよ。

 アオハル杯は間違いなく楽しいお祭り騒ぎなのだけど、お祭りは長々と続けられるものではないというのがよくわかるね。

 まあ日程的にもね。よりによって宝塚記念に有記念、いわゆるグランプリと呼ばれる大レースの直後に開催されるのだ。

 二大グランプリに出走したウマ娘が、直後のアオハル杯を全力疾走するようなことがありうるのだろうか。仮に本人に意欲があったとしても、身体が許さない気がする。たいてい直後のレースは回避するか、出走したとしても故障しない程度に軽く流すことになるだろう。常識的に考えて。

 つまり、グランプリに出走できるような強くて話題性のあるスターウマ娘が輝きにくいスケジュールになってしまっている。どうしてそんな時期に開催することになったのやら。

 

《アオハル杯の本質はあくまでチーム戦、つまり不特定多数が脚光を浴びるステージってことだ。もともとはG1に出走できないような子たちに、少しでもスポットライトが当たるよう用意された場だったんじゃない? 知らんけど》

 

 まあ少し話が脱線しかけたけど。

 今のアオハル杯はトゥインクル・シリーズの裏で行われるもうひとつのドラマというより、トゥインクル・シリーズの補助的な役割で使われることが多くなり始めている。

 だからプレシーズン第二回の長距離部門は、菊花賞のリハーサルとして有用な一走になるはずだ。マヤノの担当になるんじゃないかな。

 

《長距離レースって本当に少ないものね。URAファイナルズやTSクライマックスのラストを長距離にするのって狙わないとまず無理だもん。

 クラシック級は輪をかけて出走できるレースが少ない。それをノーリスクで実力者たち相手に、極めて実戦に近い形式で練習できるっていうんだから、練習として見たアオハル杯は極めて有用だよ》

 

 同じ理由で私はダート部門を担当させてもらいたいな。

 七月前半開催のジャパンダートダービー。日程的にステップレースを挟む余裕はない。かといって、これまでずっと芝の舞台で勝負してきたのにいきなりダートG1に挑戦というのも据わりが悪い。

 

《アオハル杯で一度慣らし運転ができるのならありがたい話だよね。ステップレースも挟まず収得賞金にものを言わせていきなりG1に殴りこんでくるぼくらを、他のダート専門のウマ娘がどう見るかという点を度外視すればだけど》

 

 それに関しちゃ私だって思うところがないわけではない。

 公言したことはないが、私がこの時期にダートG1を目標に選んだ最大の理由は幼少期にダートの訓練に費やした時間とお金を無駄にしたくないからだ。

 どこかでダートG1をとっておきたくて、だったらクラシック級のときにしか出走できないこれがちょうどいいかな、なんて。そんな理由で自分たちの領土に踏み入られるなんて面白いはずがない。

 ただ、強い私が弱い彼女たちを気遣い、配慮して、そっと邪魔にならないよう道を譲るのは道理に反するとも思う。

 軽視していいわけじゃない。敬意は絶対に必要だ。

 だけどここはトゥインクル・シリーズ。たった一人が勝利に笑うため、それ以外の敗者たちが血の涙を流すことが当然の摂理。それを是とした者が集う悪鬼羅刹の住処。

 

《躊躇いなく踏みにじり、胸を張って高笑いする。それがここで勝者に求められる敗者へのマナーなのさ》

 

 さすがにそれは極論だと思うけど、否定する言葉もない。

 ただまあ、芝で活躍する一部のウマ娘が言うみたいに、ダートが芝に比べて劣るとは思わないかな。

 

《ダートが芝の二軍だなんて、それお前アメリカでも同じこと言えるの? ってやつだよね。こっちの(サンド)とあっちの(クレイ)で違いはあるけどさ》

 

 ただこの国においては芝とダートの間には賞金額という明確な差があり、金額の差はそのまま需要の差に繋がる。稼げるのなら稼げる方にいくのが人情というもの。

 芝とダートの両方を走れるのなら、多くの者は芝の舞台を目指す。そうやって人数が増えれば当然、高い資質の持ち主がいる可能性だって高くなる。レースの品質が高まればファンもそちらに集まるようになる。

 芝とダートに品格の差があるかはともかく、全体的な扱いに格差が生じているのはただの事実だった。

 それに合致しないのは金額以上の価値、あるいは金額以外の価値をレースに見出しているアグネスデジタルのようなごく一握りの例外だけだろう。

 

 そう、ジャパンダートダービーにはデジタルが出走するんだよな。

 ずっとダート路線を走ってきた彼女にとって初めてのG1。あちらにとってはいい迷惑かもしれないけど。

 ウオッカと走った日本ダービーは楽しかったから。

 デジタルと競うジャパンダートダービーもきっと楽しい。少しばかりワクワクしている自分がいる。

 

《いや、デジたんがウマ娘と走るのを迷惑と思うことはないだろ。どちらかといえば担当が共食いする桐生院の方が……》

 

 それもそうか。

 桐生院トレーナーにはいつも迷惑をかけている気がする。

 担当ウマ娘に迷惑をかけられるのがトレーナーの仕事だ、なんて意見も聞いたことはあるが。必要以上に被害を被っているというか。

 ハズレくじを引いたと思われないよう、少しずつでも何かしら返していきたいものだ。

 

《ふふ、少し変わったねリシュ》

 

 そうかな? そうかも。

 昔の私なら桐生院トレーナーに“ダービートレーナー”の称号を贈れたことだって何も思わなかっただろう。せいぜい、ボーナスの査定の加算要素が増えたかなーなんて淡々と流していたはずだ。

 でも、ダービーに勝って。

 テレビやネットや新聞の報道越しじゃなくて。勝ったよと、自分の言葉で伝えたい人たちの中に桐生院トレーナーがいて。

 ふっと思ったんだ。ああ、もっと私たちのことを知っておいてほしい。テンプレオリシュというウマ娘がテンちゃんとリシュというふたりでひとつの存在であることを。

 まあ結果的には無駄な行動だったわけだけども。

 

《無駄ってことはないだろ? 自分の口で打ち明けたいと思い、実行に移した。それにはそれだけの価値が含まれるはずさ。ただ既に周知の事実だったというだけの話で》

 

 そうなのかなぁ。

 勇気だか覚悟だか、最初はどうでもいいことだったとしても、時間が経てば無駄にハードルは積み上がっていくもので。これまでのんびりだらだらと逃してきたきっかけを捕まえ乗り越えるためにいろいろかき集めて。

 えいやっとばかりに乗り越えたのに『はい、知っていましたよ』だもんなぁ。

 ……その後に『打ち明けてくださってありがとうございます』って丁寧に一礼されたから、不信感とかそういうのは皆無なんだけども。

 大人ってずるいや。

 ともすれば同年代と見紛いそうな童顔の桐生院トレーナーではあるが、私よりはるかに人生経験を積んだ女性なのだと事あるごとに思わされる。

 自分で気づいたわけじゃなくミーク先輩に教えられたのだから、誇れることじゃないと本人は苦笑していたけど。

 ミーク先輩かぁ。前々から思ってはいたけど、案の定気づかれたことにさっぱりこちらは気づけなかったなぁ。

 テンちゃんはさ、ミーク先輩はテンプレオリシュ()二重人格(私たち)だってことにいつから気づいていたと思う?

 

《わりと初期の方からじゃないかな? ミークの【固有】って要するにシミュレーションだっただろ? ぼくらを再現しようとしたときにリシュとぼくで個別に表示されても何ら不思議じゃないっていうか》

 

 やっぱりテンちゃんはわりと最初から想定済みだった感じ?

 

《まさか……いや、やめておこう。ぼくの勝手な想像でみんなを混乱させたくないからな……!》

 

 みんなって誰だよ。

 はいはい、テンちゃんってそういうところあるよねぇ。あくまで私の人生なんだから、必要以上に口出ししないっていうかさ。

 テンプレオリシュは私たちなんだから、テンちゃんの人生でもあるのに。

 

《でも誰にどのタイミングでカミングアウトするのかは何かに後押しされるんじゃなくて、マイペースに決めておきたい要素だっただろ? 下手に誰が勘付いているなんて知ったら絶対にギクシャクしたじゃん》

 

 それは……まあ、そうかも。

 自分では隠すようなことじゃないと思っていたけど。

 いざカミングアウトするとなると、タイミングを逃して無駄に時間が経過したという理由以外の部分で、不安が込み上げてくる部分は確かにあったから。

 ありがと。ちゃんと待ってくれて。

 

《どういたしまして》

 

 これで〈パンスペルミア〉初期メンバーはだいたい私たちが私たちだってことが共通認識になったわけか。

 デジタルは年始におそるおそる確認されて。

 マヤノは皐月賞のすぐ後にさらっと触れられた。

 ミーク先輩はわりと最初の方から気づいていて、桐生院トレーナーは朝日杯FSの時点では既にミーク先輩から知らされていたらしい。

 

 あと知らないのはバクちゃん先輩だけかぁ。いや、もしかしたらミーク先輩みたく気づいている可能性はあるけど。

 あの人は本当に読めねえ。先輩にこう言っては何だが、純正のおバカなのは間違いない。でも稀に『あれ、このひとすごくあたまいいのでは?』と感じるときもある。

 

《頭がいいとか賢いなどの語彙で表現される単純な知能指数じゃなくて。自分が大切だと定義したものを絶対に見誤らない叡智の香りがたまーにするよね》

 

 そうそう、まさにそんな感じ。しかも率先して自分が前に出る行動力と奉仕精神も持ち合わせている。尊敬すべき人で、嘘偽りなく尊敬している先輩だ。

 うーむ。仲間外れにする気はまったくないのですけども。あのひとが気づいたうえで黙っているのであれば、わざわざこちらから言及するようなことでもないかな?

 

《すーぐ他者とのコミュニケーションを疎かにするよねぇ。後回しにしたところで好転することなんてめったに無いし、仮に主観的に好転して見えたとしてもそれは誰かが尻拭いに奔走した成果であって総括的にはたいがいマイナスだゾ?》

 

 ぐふっ。頭じゃあ理解しているつもりなんですけどね? 染み付いた生態はなかなか改善できないといいますか。

 別に知られたところで、誰かの秘密を大声でふれまわるような人じゃないけど……いや、やるか?

 声がめちゃくちゃデカいからなあの人。廊下をバクシンしながら本人は内緒話のつもりの腹式呼吸が校舎の隅々まで響き渡るっていうのは十分にありうるぞ。

 二重人格っていうのは絶対に秘密にしたいってものでもないけど、異常であり異端であることは単純に事実だ。不特定多数に自分は異常者ですよと喧伝するのはなんというか、人類社会において適切な行動ではない気がする。

 

《マイノリティーとマジョリティーの相互理解は時代と共に進んでいると思うけどね? バリアフリーとか障害者手帳とかさ。理想的な成果に届いているかはともかく》

 

 かもね。

 でも私のことをよく知らない相手から私とテンちゃんのことを偉そうにああだこうだ言われるのを想像するとモヤッとしちゃうんだよ。

 必要とあれば胸を張って堂々と主張しよう。負い目なんて全くない。

 だけど、わざわざ顔も名前も知らない相手に自己主張を届けたいとまでは思わないかな。

 

《だからバクシンオーへの情報共有は見合わせようって? いいよー。必要になったら行動を起こすのが中央のウマ娘だ。ゲートに入る気にならないなら、まだそのときではないのだろう。ゲート難で困るのはぼくじゃないからいくらでも高みの見物ができますわな、わはは》

 

 テンちゃんの同意も得られたのでバクちゃん先輩との距離感はひとまず現状維持で。

 

 さて、デジタルは次のアオハル杯プレシーズンどこの距離にいくのかな?

 いちおうジャパンダートダービーに向け調整を優先し出走を回避するって可能性も無くは無いけど。あの重度のウマ娘オタクがチーム戦という一風変わったアングルからウマ娘ちゃんたちを拝めるチャンスをふいにするとは思えない。

 今まで通りダート? でもなぁ、アオハル杯のダート部門ってたいていマイルなんだよね。一方のジャパンダートダービーは2000mの中距離だ。

 私はジャパンダートダービーまでにダートレースを走る感覚を掴みたいからそれでも有用だけど、普段からダートを走り慣れているデジタルにとっては最適なリハーサルとは言い難いだろう。

 勝ち星の安定と、今後彼女が芝の舞台で躍進する下準備を考えるのなら今回はマイル部門を担当してもらうのが妥当か。

 まあいざとなれば『上振れした根性育成を三段階マイルドにしたみたいなステ』とテンちゃんがわけわからん褒め方をしていたミーク先輩が層の薄いところを補ってくれるだろうし、誰がどこに行っても最終的な勝ち上がりは見込めるのだが。

 

《来年にURAファイナルズがあることを考えるとそろそろ衰え始めるかと思っていたけど、ミークは間違いなくまだピーク真っただ中だよねーアレ。本格化が終わった後の衰えは思ったより急に来るのか、それともぼくらが関わったことで生じた変化なのか。わからないから後者と前向きに捉えておこうか》

 

 本格化がいつ始まっていつ終わるかはウマ娘本人にだってわからないし、決められない。

 ただ、あの不思議でマイペースな先輩の能力が衰えの兆しを見せたところで、私の尊敬する先輩であることには変わらないだろう。

 明らかにコミュニケーションが得意じゃないのに頑張ってチームのリーダー務めているところとか、本当にすごいよね。

 

 私たちが頭の中でやりとりしている間、外からはぼーっとしているように見えるそうだ。

 私は四六時中テンちゃんと会話しているといっていいので、もしかすると年がら年中寝ぼけてるように見えるのかもしれない。

 裏を返せば脳内で会話がダラダラと垂れ流されるのは私にとって日常茶飯事。肉体はよどみなく動き、図書館の中をゆったりと進んでいく。

 念のため言っておくと、別にサボってるわけじゃないよ。

 中央に来るようなウマ娘はたとえ休養すべきタイミングであったとしても、目の前でライバルが走っているとそれ以上の努力をしようとする。

 それを遠くから見る人たちは勤勉だとか、努力家だとかのんきに褒めそやすけど。

 

《中央に来るようなやつは、ことレースに関しちゃ()()()じゃないのが大半だよね。頭のネジが数本はずれていて、回路がいくつかぶっちぎれていたり繋がっちゃいけないところに繋がっていたりする。

 傍から見ている分には楽しいだろうけど、二重の意味で真っただ中にいる身としては笑いごとじゃないんだよなぁ》

 

 相変わらず言いにくいことをスパイス利かせてズバッと言うなあテンちゃんは。反論の余地はない。洒落た言い回しに好感を覚えるくらいだ。

 まあそんなわけで、休養が必要とされたウマ娘はトレーニングの場に出てくること自体が非推奨となる。私にはあまり共感できない感覚だが、どうしても自分もやりたくなるらしい。

 そこをなんとか我慢して見学に留めたとしても。見稽古と同じ理論で自分が直接走らずともチームメイトの走りを見ているだけである種の経験値にはなる。なるのだが、それをやると脚は休んでいても体力と気力はがっつり消耗する。身になるほどの精度で観察するというのはそれほどエネルギーを必要とする行為なのだ。

 休養という目的を考えると、ウマ娘はそもそもその場にいない方が望ましい。

 だから私もその例に漏れず、レースの疲れを抜き体調を整えると決めた六月はトレーニングをする〈パンスペルミア〉の面々と同じ空間さえ共有しない時間が多くなるのだった。

 

 私はたぶんその場にいたところで必要以上のトレーニングをやりたくなるような精神構造の持ち主ではないだろうけど、〈パンスペルミア〉はチームだ。

 『あの子のときはトレーニングの場に顔を出してもよかったのに、私はダメなんですか?』なんてトラブルの種は芽が出る前から摘むに限る。

 ウマ娘は寂しがりな子も多いので一人で放り出すとそれはそれで問題があるのだが、私は集団でいる方が負担になるマイノリティーだし、何より一人ではあっても独りではない。

 桐生院トレーナーも一年以上の付き合いだ。そのあたりの機微はしっかり押さえてくれていて、私を自由に行動させてくれる。

 

《ダービーではわりと無茶をしたからね。しっかり休んでいこう》

 

 そうだね。

 溜め込んだ【個性】のストックを立て続けに使わされた日本ダービー。『まさか』というよりは『ついに』と言うべきだろう。

 ウオッカは強かった。

 波のある子だとは思っていたけど、最高潮のウオッカはあれほどまでのものだったとは。

 彼女との再戦の約束――『次の東京レース場では負けない』ははるか彼方、下手すればシニア級の秋のジャパンカップまでお預けだけども。

 日本ダービーのウオッカであれほど血潮の滾るレースを経験できたのだ。

 これから先、夏合宿でその実力を跳ね上げた同期達に百戦錬磨のシニア級を交えたG1レースの数々が私を待ち受けることを考えると。

 いったいどれほどの激戦を味わうのだろうか、脚が疼く想いだ。

 

《ああそうだ。スプリンターズSと年末の有記念では手加減する余裕がない。ローテーションである程度の回復を見込んだとしてもだ。脚の完成度を考えると、それ以外のレースで全力を出すとどこかで罅が入る可能性がある。

 せっかくURAがクラシック級のみの戦場を用意してくれているんだ。ジャパンダートダービーのデジタルと菊花賞のマヤノは一バ身で仕留めるぞ》

 

 ……はい? マジで言ってますかそれ。

 分野は異なれど私と同じ世界を知る天才たちなんですけど。

 

《お、リシュ。あっち》

 

 注意喚起に内側に向いていた思考が一時中断され、外に引っ張り出される。

 示された方は本棚が遮蔽になって目視しづらいが、両手いっぱいに分厚い本を抱えた女性がさらにもう一冊取り出そうと精いっぱい背伸びしていた。

 あの姿勢で、あの重心。衣服の上から推察される彼女の筋力と、取り出そうとしている本の座標が有する位置エネルギーと本そのものの重さを鑑みるに。

 指先が引っかかった本が本棚から飛び出した勢いで盛大に素っ転ぶなあの人。下手すりゃ抱えている本の重量で受け身も取れずに怪我しかねない。

 計算が終わる前には動き出していた。自分のことをお人好しだと思ったことはないが、労せず助けられる相手をわざわざ見捨てて後味の悪さを今日一日抱え込むこともあるまい。

 何よりテンちゃんが言い出した人助けだからね。

 

「うっ、あヴぁぁ!?」

 

 骨格的にたぶん三十代にも届いていないだろうに、完全に乙女を明後日の方向に捨て去った野太い悲鳴を上げながら女性の身体が倒れ始める。

 間に合う。

 それがわかっていたから慌てなかった。

 集中によりスローモーションのように引き延ばされた世界の中、右手を彼女の腰にまわす形で抱え、少しお行儀が悪いが膝を使って宙に散らばる本を回収。地面に落ちて折り目などがつかないよう左手の上に積み上げていく。それでも手が足りない分は尻尾を使ってくるりと落ちる前にすべて回収した。

 

《こういうときってウマ娘は便利だよなー》

 

 私からすれば手が足りないときに尻尾を使えないヒトミミの方が不便そうに感じるけどね。まあ、私ほど器用に尻尾を使うウマ娘もあまり見たこと無いけど。

 

「……ほへ?」

 

 何が起きたのか理解できない様子でぽかんと目と口を見開く女性。

 彼女の主観からすれば、転びかけたと思った次の瞬間にはちっこい葦毛のウマ娘に抱えられているようなもんだろう。

 彼女を支える手をそっと離すと呆然自失の態ではあったが、ふらふらと不安になる足取りながらもちゃんと図書館のカーペットの上に自分の足で立ってくれた。

 

《あれ? この人……》

 

 テンちゃんの知り合い? 顔が確認できる位置になったのでしげしげと眺めてみるが、私の記憶にヒットするものはない。

 年のころは桐生院トレーナーとそう変わらないだろうか。ただ化粧っ気が無くスキンケアも怠っているようで、実年齢より若く見られがちな我らが担当に対し彼女は逆に老けて見える。髪も伸ばしているというよりは、最近美容院にいけていない無造作なぼさぼさ具合だ。

 特に眼鏡の下で黒々と存在を主張しているクマがやばい。何徹目ですか? と聞きたくなるような命にかかわる黒さをしている、気がする。そんな徹夜続きの人間なんて見たこと無いからあくまで印象の話だけど。

 

《リシュは本当に興味のないことは端から憶えないねぇ。学園の出入り業者の人だよ。今年の初めくらいから毎日寮の洗濯物の運搬担当してる新米ランドリー業者さん。

 ふーん、地方のトレーナーライセンス持ってたんだ。それで今はバイトで生計を立てながら中央の勉強をしているってとこかな》

 

 どうしてわかるのか、と思ったら私が拾い集めた書物のタイトルで一目瞭然だった。『中央トレーナー理論応用編 地方からのランクアップ』『ターフの走り方』『URA問題集』etc。地方のトレーナーライセンスを取得済みの人間が中央のトレーナーを目指すための教材ばかりだ。

 地方は中央の二軍なのかという問題の是非はさておき、単純にライセンス取得の難易度という観点で見ると中央の方が桁違いに難しいのは事実。テンちゃん曰く地方の三流大学と国立大学の入試以上の格差があるとか。

 

《つまりそれだけ人材に品質差があって、それ相応につぎ込まれる金も違う。どうせ投資するならリターンがより見込める方ってのは当然の理論だからね。

 人材に差があり、設備にも差がある。だからこそ才能ひとつでその差を埋めたオグリキャップはヒーローなんだな。いや、この世界だとヒロインか?》

 

 しみじみと述懐するテンちゃん。

 そちらに付き合ってもいいのだが、たぶんこの話題はだらだらと続くことになる。ならば今はやはりこちらが優先だろう。行動を起こした以上はその後の対処もせねばならない。

 見知らぬ他人と話すため腹の底に力を入れつつ、私は口を開いた。

 

「お怪我はありませんか?」

「おっふぁ!? え、ほんもの? ううぇ、ふへっ」

 

 おかしいな。怪我をさせるような受け止め方はしていないのだけど。

 どこかに頭でも打ったのだろうか。あきらかに挙動不審だ。

 そろそろ司書さんに『図書館ではお静かに』と注意されるのではないかとヒヤヒヤしていたが、女性はぐっと込み上げるものを飲み下すように黙り込むと、ゆっくりと頭を下げた。

 

「……あ、ありがとうございました。おかげさまで怪我一つありません」

 

 顔を上げたその目は理知的ですらある。まあ寝不足の影響か目つきはいささか悪かったし、第一印象の『変人』を払拭するほどの力も無かったけど。

 

《なるほどね。この人はぼくらのファンなんだ。急に推しが目の前に現れたからテンパリの極みに達していたというわけだな》

 

 ふむふむ。脳内にて語られるテンちゃんの解説に内心で頷く。

 これでもデジタルと一年以上の付き合いがあるのだ。彼女たちのようなイキモノの生態にはそれなりに知見を重ねており、目の前の女性がそれと同類というのは納得できる話だった。

 それに私たちはNHKマイルCと日本ダービーの変則二冠を達成し、無敗のクラシック三冠に王手をかけているウマ娘。もはやトゥインクル・シリーズを代表する優駿と言ってよい存在であり、この手の輩に遭遇するのも今となっては珍しい話ではない。

 ……自分で言ってて何様のつもりなのやらと羞恥と自嘲が込み上げそうになるが、本当にそれが客観的事実なのだ。同期を血祭りに上げた戦果なのだから、気恥ずかしさ程度で誤魔化してはいけないよな。

 

《だけど初対面の相手が一方的にこちらを知っているというのは不快なものだ。そのことを彼女は認識していて、だからあえて『助けてくれた初対面の相手』への対応へと自らの行動を律した。うん、好感》

 

 そうだね。少なくともいつだったか、スカーレットと一緒にゲーセンにいったときに話しかけてきた男性ファンよりは好印象かも。

 

「それはよかった! この本、どこまで運びましょうか?」

「え? へいえうぇ? い、いえ! そこまでしていただくわけには!?」

 

「ついでのようなものですよ。ウマ娘にとっては軽い荷物ですが、貴女にとってはそうはいかないでしょう?」

「え、えとー、でも」

 

「いいからいいから」

 

 この愛想の良さとぐいぐい距離を詰める言動は言うまでもなくテンちゃんの運転である。

 

《ちょっと確認したいことがあってね》

 

 そう言って肉体の支配権を引き取ったテンちゃんは舌先三寸で女性を丸め込むと、びっしり机の一角を勉強用具が占領しているスペースまで本を片手に同行するのであった。

 

 

 


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