「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」 作:バクシサクランオー
感想、誤字脱字報告もありがとうございます。
U U U
手練手管、というやつだろうか。
図書館の静寂を必要以上に妨げぬよう、しかし手早く効率的に。
するするとテンちゃんは女性の個人情報を引き出していった。所要時間はほんの三十分程度だっただろうか。
あっという間に身内の距離感まで踏み込む技術は見事の一言。ときに母親のように優しく、ときに従姉のように挑発的で、そしてときには妹のように甘えん坊。そうやって右に左に相手の情緒を振り回して、自分の都合のいいように場の空気を織り上げていく。
こういう場面を内側の特等席から見るたびに思うのだが、本当に私と同じ声帯と顔を使っているのだろうか。私がどう頑張ってもあんな声は出せないし、あんな表情は作れない気がする。
《ふはは、人生経験の差ってやつさ。ま、必要のないことまで覚えようとする必要はないんじゃない?》
自慢気のようでいて、どこかそっけない。
本当に自信のあることは屈託なく胸を張るのがテンちゃんだから、この手の技術はテンちゃんにとってあまり好ましいものではないのかもしれない。
でも、できたら便利そうだよなとは素直に思う。できるようになるため時間と労力をつぎ込みたいかと問われたら頷くことはできないから、まあ無責任なあこがれだ。
《やってて楽しくないわけじゃないけどね。容姿、声質、頭の回転にカリスマ性、こっちの手札は一級品揃いだからまるでゲーム感覚でさくさく進めることができるし。
そう、良くも悪くもゲーム感覚が抜けきらない俯瞰だからこその手腕なんだろうねぇと自分で勝手に不機嫌になってるだけだよ》
よくわからん。上手なのは事実なんだから素直に誇ればいいのにね。
とりま、テンちゃんが聞きだした彼女の半生は以下の通り。
曰く、親戚筋にトレーナーが多かったので、特にこれといった強固な志望動機も無く自身も地方のトレーナーに就職。
「……いざその職に就いてみて『思っていたのと違う』っていうのはある意味で当たり前なんですよ。素人が見える範囲なんてほんの入り口でしかないんですから。
だけど、私には足りないものが多すぎた。能力も、想像力も、そして覚悟も」
そう彼女は悲し気に吐き捨てた。
彼女は山のように失敗を積み重ねた。それは新米社会人としては当然のこと、ある意味通過儀礼とさえ言える。
ただ、トレーナーという人種が他の職業と明確に違う点は『トレーナーの失敗=担当ウマ娘の不利益』という図式が成立する点だろう。
中央でも生え抜きのエリートである桐生院トレーナーやゴルシTのように一年目から担当を持つような無茶をやったわけではない。順当にチーフトレーナーの指揮下に入り、チームの中のサブトレーナーとして経験を積みつつ雑用ばかりの日々。
でも彼女の手もウマ娘の人生の一部を支えていたのは間違いなく事実で、そしてそれはサラサラと指の間から零れ落ちていった。
もっと学生の間に熱意をもって取り組んでいれば。そこそこの成績が取れたことに満足して教科書を雑誌に持ち替えていなければ。
もっと零さずに済んだものがあったはずなのに。明確に言葉にしたわけではないが、心が聞こえてきそうな表情で彼女は語り続ける。
「私と同じ時期にチームに入って、そして最後まで勝たせてあげられなかった生徒が学園を去る前に、言ってくれたんです。『あなたと走れてよかった』って、笑顔で」
そのときはただ、申し訳ないくらいの気持ちだったのだという。
でもその夜なかなか寝付けなくて、気づけば炎天下の汗のようにぼろぼろ涙がこぼれていて、ようやく取り返しのつかない何かが壊れたことに気づいた。
そうなってしまうととてもじゃないがトレーナー業を続けることなどできやしなくて、何もかも投げ捨てて逃げるように地元を去ったそうだ。
「でも生きていくためにはお金が必要で、お金を稼ぐためには働かなきゃいけないので」
府中に来たことに積極的な意図など無かった。ただ見つかった就職先がこの地域だったというだけの理由。
頭が回らない状態で、できるかぎり条件のよさそうな雇用条件を選んだ。そして未来ある新人でもなければキャリアのある人材でもない相手に、就活シーズン関係なく年中無休でこれ見よがしの好条件を掲げて求人している企業など――
「ブラック企業くらいだったというわけですねぇ。そこからさらに何とか再就職に成功して今に至りますが、あそこの過酷な労働環境のおかげでストレスの足りない生活にどこか不安を覚えてしまう体質になりまして。気絶寸前まで自分を追い込まないとなかなか眠れないんですよ。えひ、うひひひ」
それは眠るのではなく一般的には『気絶する』と言うのではなかろうか。
目の下のクマは何も勉強のし過ぎというだけではなさそうだ。こうして顔見知りになった以上、斃れられては寝覚めが悪いので適度にご自愛していただきたい。
しかしこういう現代社会の闇を目の当たりにすると、相対的に私の口座残高のありがたみが増すよね。
最近はダービーウマ娘になったことによる特別衣装ぱかプチのロイヤリティまで口座残高に加算されて、額が現実味の無い桁数になり始めたせいで『おお、なんかまた増えたな』くらいに感覚がマヒしていたけど。
今度改めて感謝を捧げておくとしよう。稼げているという事実に。少なくともその数字が意味を持つ間、私は理不尽で不本意な労働を強いられずに済むのだから。
「だけど、『あなたがいい』って言われてしまったので」
何もかも捨てて逃げたはずなのに、気が付けばまだウマ娘の絡む職場にいて。
交流のできたひとりから、逆スカウトを受けたそうだ。地方のトレーナーだったという経歴も明かしていない、向こうからすればただの出入り業者のバイトでしかないはずの彼女に対して。
まあそういう話はたびたび聞く。ウマ娘とトレーナーの間を結ぶ、理屈を超えた運命的な出会い。私たちの場合は溺れる者が縋った藁が虹色SSRチケットだったけど。
《さすがに中央に来るような子で直感にすべてを懸けるなんてエキセントリックすぎる生き方をしている子もそういないと思うから、もしかするとアドバイスのひとつでもしたのかもね。靴下のすり減り具合、ジャージの泥の跳ね具合からでもトレーナーならわかることはあるだろう》
とはテンちゃんの分析。
どうなんだろうね。中央の人材の極まり具合からすると、逆に直感にすべてを懸けるような生き方をしているウマ娘がいても私はまったく不思議に思わないけども。
それに元地方のトレーナーとはいえ、今のこの女性はただのランドリー業者なんでしょ?
所属しているウマ娘全員に十分な指導が行き届いているとは言えないのが中央の現実ではあるけど、それでも中央に所属している以上そこは中央のテリトリーだ。
迂闊に口出しするようなことするかな? 中央のトレーナー同士のいざこざとはわけが違う。下手すれば喧嘩じゃ済まないよ。
《それでも困っているウマ娘がいればとっさに手を差し伸べてしまうのがトレーナーという存在なんじゃないかな》
テンちゃんはトレーナーに夢見過ぎじゃない?
しょせんはあいつらヒトミミも私たちウマ娘と同じ人間に過ぎないよ。
《たはは。これは手厳しい。そうだね、そうかもね。でも色眼鏡だとわかっていても、それでも幻想は捨てきれないんだな。もう染み付いちゃって剥がせないよ》
じゃあそのあたりは私がフォローするとして。
もちろん、件の彼女も引き受けるつもりなど無かったという。
まあ当然だろう。二つ返事で引き受けるほうがどうかしている。
目につく問題点だけでも掃いて捨てるほど。中央トレーナー試験は東大入試にも喩えられる狭き門。仮にそれを最短で一発合格しても中央トレセン学園に就職できるのは来年度からだ。
そもそも心が折れている。地方ですらマイナスの成果しか出せなかった人間が、どうして中央でウマ娘を支えることができるというのか。
なのに結局こうして、彼女は勉強を進めている。
「どうしてなのか、自分でもわかりません。『あなたと走れてよかった』と笑顔で言ってくれたあの子の言葉を、嘘にしたくないから、なのかな?」
その濁りきった瞳の奥に宿る光は、私の知るトレーナーたちのそれと同じものだった。
まあ、テンちゃんが夢見ちゃうのもわからんでもないかな。
それで、どうしてわざわざテンちゃんが表に出てまで彼女の半生を語らせたのかって理由なんだけど。
《リシュは気づいていなかっただろうけど、彼女とは結構エンカウント率が高くってね。それもここ最近じゃない。一年以上前、それこそ中央に入学したばかりの時期からたびたび目にしていたんだ。これはストーカーかトレーナーのどっちかだろうって思っていたからこの際に身元を洗ってみたのさ。よかった、トレーナーの方で》
テンちゃんは本当にトレーナーを何だと思っているんだ。
《ウマ娘が異世界の魂を降ろした巫女なら、トレーナーはそれを外部から支えるある種の霊媒体質の持ち主だと思っているよ。トレーナーがヒトミミばかりであることに疑問を覚えたことはない?》
名選手が名監督の素質を有しているとは限らない。
具体例を挙げるのならマヤノは間違いなく天才であるが、その世間とは一線を画した感性ゆえに何を言っているのか周囲に理解してもらえないことが往々にして存在する。
感覚派の天才の発信をまんべんなく受け止めきるには、受信側にも同等とまでは言わないが相応の器量が必要とされるのだ。
一握りの天才しかその指導についてけない伝説の監督というキャラクターは少年漫画ではよくあるパターンだが、指導者として考えれば一握りの天才しか育成できない者を優秀と判断していいのかは疑問の残るところ。
そもそも選手に求められる資質と指導者に求められる資質はまったく別のものだ。選手としては優秀でも、単純に指導が下手ということもあるだろう。
それを差し引いても選手として名を馳せた者が引退後、監督に就任する例は枚挙にいとまがない。
人間は動物だ。理性である程度融通を利かせることはできるが、自分より弱いと感じる相手の言うことに従うのは本能的に難しい。
選手として成功を収めた実績は、『コイツは自分より格上だ』という権威にダイレクトに繋がる重さがあるのだ。
相手の言うことに素直に従える。
意外と軽視されがちだけど、指導の場ではかなり重要なファクターである。
場合によってはたとえ純粋な指導の技量が三流だったとしても、その権威が合わさることで一流の指導者としての成果を上げることだってあるかもしれない。
しかし、ことトレーナーに焦点を当ててみるとヒトミミ率がとても高い。
トゥインクル・シリーズで活躍したウマ娘が第二の人生としてトレーナーを選ぶケースが極端に少ないとも言う。それとも私が成功したケースを知らないだけだろうか。
少なくとも、著名なウマ娘はセットでそのトレーナーの名も知られるものだが。著名なトレーナーの顔ぶれがヒトミミばかりなのは純然たる事実である。
《ウマ娘の知能がヒトミミに劣るなんて俗説も聞いたことはあるけど、それハヤヒデやシャカールの前でも言えるのって話だよ。確かにウマ娘とヒトミミでその生まれ持った性分の差異はある。
でもそれがトレーナーの適性の差、比率をここまで左右するほどのものとは思えない。それ以外にヒトミミにあってウマ娘にはない要素があると考えた方が自然だね》
異世界の名前と歴史をウマ娘に引き継がせる不思議な存在、ウマソウル。
テンちゃんの分析曰く、その『歴史』に干渉するのがトレーナーの秘められた役割らしい。
《都合のいい『歴史』を活性化させて史実通り、あるいは史実以上の成果を出す。そして都合の悪い『歴史』を鈍化させて故障や事故をやり過ごすのもトレーナーの適性のうちなんだ、たぶんね。
ぼくの見立てが正しければ桐生院はまんべんなく活性化させるのに優れたタイプ。鈍化させるのは人並みってところかな。
ゴルシTは不都合を鈍化させるのが非常に上手い。一方の活性化は平均よりやや上といったところだ》
そう言われてみれば合点のいくこともある。
以前に聞いたウマ娘の成り立ち。あの理論でいけば運動神経抜群で容姿端麗、歌もダンスも教えられるレベルの我らが桐生院トレーナーはウマ娘として生まれてもおかしくない逸材であるはずだ。
しかし彼女はヒトミミ。てっきり相性の合致するウマソウルに巡り合えなかったのかと思っていたが。
器が既に『トレーナーの資質』で満たされていたのかもしれない。そういう意味ではウマソウルを受け入れるだけの空き容量も、ウマ娘として生まれてくるために必要な素養なのか。
……ふと思う。
もしその理屈が正しいのであれば。
他者のウマソウルまで奪い取ってストックできる私の器はいったいどれだけ容量がガバガバなのだろう。
あるいは順番が逆で、器があまりにも
《つまりトレーナーとは無自覚な運命干渉系の異能の持ち主。ゆえに相性のいいウマ娘とはスタンド使いのように惹かれ合う。連続サポートカードイベントって要するにそういうことなんじゃないかな。じゃないと三年もかけてすべてのイベントを目撃するなんてそうそうありえないだろう》
テンちゃんの言葉の続きにズレかけていた思考が戻る。相変わらず何を言っているのかは理解できなかったけど。
異能の持ち主ねぇ。たしかにその理論に当てはまりそうなトレーナーがぱっとひとり思いつくな。
ゴルシT。彼が成し遂げた数々の偉業。
ウマ娘との相性は重要だと思うが、それでも育成というのは経験がものをいう世界だと私は思っていた。
彼が天才なのは間違いない。だが、それにしたって成果を出し過ぎだ。自分の脚でレースを走るようになってからは特にそう感じるようになった。
それがオカルト方面で空前絶後の才覚の持ち主だったのだとすれば、まあ納得できる話ではある。努力や経験ではどうしようもない隔絶したアドバンテージがそこにあるのだから。もちろん表側から目視可能な純粋なトレーナーとしての力量もかなりのものがあるのは大前提だけども。
仮にこれらのテンちゃんが独断と偏見で並べ立てた仮説が真実だったのなら。それを知った一般トレーナーたちはどんな感想を抱くのやら。
努力や時間の経過ではどうしようもない壁が彼との間に存在するのなら。彼らは絶望するのだろうか? それとも安堵するのだろうか。
「うん、いいね! おねーさんのこと気に入っちゃった。貴女はトレーナーになるべき人種だと思う」
「ふぇ、うえ?」
「だからおねーさんの努力が実るよう、ぼくも応援するよ。何でも言って! 気が向いたら叶えてあげるからさ」
「え、えええ……!?」
気が付けば表側ではテンちゃんがそんなことを言っていた。『なんでも叶えてあげる』じゃないのがいかにもテンちゃんらしい。さりげない現実主義者で、嘘になりそうなことは言わないひねくれた正直者だ。
未成年のウマ娘が『応援』といっても、いい歳した大人相手に何ができるのやらと思わなくも無いけど。相手はウマ娘オタク。ウマ娘に応援されるというだけでご褒美か。
しかもそれが中央の生徒とあれば、中央トレーナー志望者にとってはまるで慈雨のように温かく降り注ぐ期待にもなりうるのではなかろうか。
さらにそれが現無敗のクラシック二冠にして新たな無敗の三冠候補ともなれば。ある意味で業界のトップを邁進するプロフェッショナル。その助力や助言はあるいはトップトレーナーでさえ机にニンジンを積み上げて欲する価値がある、かもしれない。
……でも別にテンちゃんの決定に異論があるわけじゃないんだけどさ。
そこまで肩入れするような何かがこの女性にあったかな? 妙に親身な気がするんだけど。
《どんなサポカとそのイベントを揃えられるかというのは育成の成果に直結するのはいまさら言うまでもないことだろう。
つまり、ぼくらが入学した当初から『ぼくらという超ド級人権サポカ』を引き寄せていた彼女はトレーナーの資質がゴルシTに匹敵する可能性がある。是非とも早急に中央トレーナーに就任していただきたいものだね》
ふむふむ。言っていることの半分も理解できん。
でもそれって要するに、桐生院トレーナーに将来有望な商売敵を増やすってことじゃないの?
そりゃあ桐生院トレーナー本人は気にしないだろうけどさぁ。むしろトレーナーが一人増えればその分担当してもらえるウマ娘が増えるのだからいいことですねって心からの笑顔を浮かべそうなお人だけど。
彼女の担当ウマ娘としては、自分のトレーナーの将来に暗雲をわざわざ招来するのは気が引けるぞ。
《そのくらいで潰れる桐生院じゃないさ。何ならこのおねーさんが見事中央のトレーナー試験に合格したときにぼくらが顔つなぎしてやれば、そう遠くない将来にありうるかもしれない葵ちゃんが大規模な公式チームを立ち上げる可能性の一助にだってなるだろう。
それにトレセン学園の運営に必要な雑務は各トレーナーで頭割りだろうし、人手が増えるに越したことは無い。葵ちゃんに負担ばかりの選択じゃあないよ》
私も何だかんだ桐生院トレーナーに対する好感度はこの一年の付き合いで高まったけど。
テンちゃんもたいがい桐生院トレーナーのこと好きだよね。
《そりゃあSR桐生院には初期勢の頃にさんざんお世話になったからね!》
なんじゃそりゃ。
私とは異なる情報源で桐生院トレーナーのことを信じている、というのは何となくわかるが。
《それに、ぼくらは少しばかりウマ娘を刈り取り過ぎた。そろそろ『植林』を意識しても罰は当たらないさ》
テンちゃんの声のトーンがやや変わる。
……そっか、そういうのも考えないといけない立場になってきたのかなぁ。
打ち砕いても蹴散らかしても、それでもなお残骸を拾い集めて束ねて固めて立ち向かってくるウマ娘の目の輝きはとてもよく印象に残る。
でもそれは彼女たちが少数派だからだ。二度と同じレースを走ることは無いだろうと感じる方が『普通』だからこそ、イレギュラーが記憶に鮮やかな色を残すのだ。
そのうちいったい何人が心折れトゥインクル・シリーズから去っているのだろうか。私がいるせいで例年より脱落者の数は増えていそうだとは薄々察している。わざわざ調べて傷を深くするほど悪趣味ではないので具体的には知らないけども。
もし目の前のトレーナー志望の女性がストレートで中央に合格したとしても今年度すぐに配備されることは制度的にありえない。
常識的に考えれば彼女がトレーナーとしての手腕が最大限に発揮される状況、自分だけの担当ウマ娘を持つ頃には私はトゥインクル・シリーズを引退している。
桐生院トレーナーやゴルシTの活躍が華々しすぎて失念されがちだが、普通の新米トレーナーというのはどこかのチームに入りサブトレーナーとして数年の経験を積むものだ。
ダービーの勝利者インタビューの
でも、それこそサブトレーナーとして彼女が育成に関わったウマ娘が私たちと走ることはあるかもしれない。
ごくごく低い可能性ではあるが桐生院トレーナーたちと同様、初年度から個人で担当を持つことになったとしたら。アオハル杯で雌雄を決することになる可能性だってゼロではない。
この
《たしかにこのおねーさんがトレーナーになるのを支援したところで『あやうくマルゼンスキーみたく競走不成立になるところを、おねーさんの担当ウマ娘が出走してくれたおかげでレースが成立したぜ!』みたいな直接的な恩恵をぼくらが受けられる可能性はゼロに等しい。
でも俯瞰すれば、このおねーさんに時間と労力を少しばかり投資するのは損にならないと思うんだ。仮におねーさんが今年の中央トレーナー試験に合格できなくてもね》
まあ、私たちの目標レースはG1ばかりだからマルゼンスキー先輩の逸話みたいに他のウマ娘に逃げられることで競走不成立になる可能性は低いと思うけど。
わかったよ。テンちゃんの思惑をすべて理解できたかは正直あやしいけど、納得できた。テンちゃんが感じた運の捻じれを信じよう。
彼女がトレーナーに成れなかったせいで、歴史に蹄跡を残すことができたかもしれないウマ娘がひとりデビューすらできずピークを逃すのは残念すぎるものね。
《よーし、じゃあリシュの同意が得られたところで飴の前払いといっとくか。モチベーションが無ければ何も始まらないものな!》
かくしてテンちゃんは勉強する女性と密着するような姿勢で身体を並べると、『この記述は合ってるけど言葉が足りないねー』『ここは間違い。正しくはこう』と赤ペンで彼女の教材(もちろん図書館の蔵書ではなく女性が持ち込んだ私物)にちょこちょこ書き込み始めたのであった。
身体を動かすたびに肘やら髪やらが当たり、そのたびにビクンビクンと痙攣し湧き上がる何かと奇声を必死にかみ殺して耐える女性。あれは本当に飴になっていたのだろうか。『そろそろ切れちゃいけない血管が切れるんじゃないか?』と心配な顔色になってたけど。
でもまあ、かみ殺しきれなかった奇声が積み重なったことで召喚された司書さんから『図書館ではお静かに』とレフェリーストップが入り彼女は一命を取り留めた。夢を叶える最初の一歩で突然死という誰にとっても不本意な惨劇は回避されたのである。
その日は連絡先を交換してお開き。
故郷にいたころは学校の連絡網と両親を含めてなお両手の指の数で足りる程度の電話帳登録件数だったけど。
中央にきてから増えたものだと、しみじみ数という目に見える形で自身の社交性の成長を実感する。
かくして私のプライベートな時間の使い方に新たな項目が加わったのだった。最低限のトレーニングしか無い六月もなかなかどうして暇にならないものだ。
悪い気分じゃないけどね。
何点か『変則二冠っておかしくない? 何か理由あるの?』という質問をいただいたため追記
以下、それに対する感想返しのコピペです
『感想ありがとうございます。実績が持つ位の差ですね。
クラシック二冠はたしかに偉業ですが、反面どちらも中距離で、かつクラシック三冠の道半ばとも言えます。
半面、マツクニローテを完走した変則二冠は完走済みの偉業であり、なおかつ『多彩な適性を持つ強いウマ娘の証明』でもあります。
口上は短いに限ります。今回の戦場が『芝を走っていた強力なウマ娘がダートにまで侵略を仕掛けてきた』というシチュエーションなので、数ある偉業と異名の中から『変則二冠』が最適であると判断しました。』