「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」 作:バクシサクランオー
感想、誤字脱字報告もありがとうございます。
U U U
前略。
痩せました。
うん、意外とあっさりだった。
私はアスリートだ。それもたぶん世界でも有数の。
運動量は常人の比ではない。消費されるカロリーも相応。むしろ引退時に『もう食べなくていいんだ』と安堵する者が出てくるくらい、体質次第では必死になって食べなければガンガン痩せていきかねないのがこの業界である。
《ウマ娘は比較的好きなもの好きなだけ食ってる傾向があるけど、ヒトミミなら食事も完全にトレーニングの一環だからなあ》
食事管理の効果がヒトミミほど顕著だったのなら、アオハル杯以外の分野でもチーム〈ファースト〉はもっと活躍できていたかもしれない。
ヒトミミのようにガッチリ管理してもデータ通りの成果が出ない、育成者泣かせの不思議生態を体現しているのがウマ娘という存在なのだ。
そういう意味では曲がりなりにも管理プログラムを実践レベルで完成させた樫本代理もまた、レース業界の歴史に名を残す偉人なのかもしれない。出会いがアレだったのがつくづく惜しまれる。
ともあれ、自重しなければ必要以上に食べてしまうという事実を念頭に置き、カロリーを計算しながら食事するようにすれば私の体重は適正値まで簡単に戻った。
いやまあ、モンブランをうっかり床に落として涙目になっていたというメジロマックイーンさん。その気持ちが理解できるようになった程度にはつらい時間でもあったけど。
考えてみれば桐生院トレーナーもテンちゃんも静観している時点で、体重の増加もあくまで許容範囲でしかなかったということだよな。
なにぶん初めての体験だったもので取り乱した。
《短期間で効果が絶大であることがもてはやされるのが昨今の風潮だけど……ダイエットなんて聞こえの良い言葉を使ったところで要するに身食いだ。短期間にごりごり削れば身体に悪いに決まっている。理想を言えばもうちょっと緩やかに体重を落としたかったね》
テンちゃんはそう言うけど、私はこれでよかったと思っている。
年頃の女の子として太ったままでいたくないという、感情的な理由を除いても十月前半には
《アニメ時空ではオールカマーと同日だったから九月後半のはずなんだけど、わりとこのあたりのイベントってズレること多いんだよね》
別名、『秋のファン大感謝祭』。
他の学校で言うところの文化祭のようなものなのだが、中央トレセン学園はそこらの学校とは規模が違えば質も違う。
当日はウマ娘の保護者の他にファンを始めとした多くの客が学園を訪れ、ファン参加型のイベントが多く行われる。生徒が催し物として出店する屋台や喫茶店のたぐいも多く立ち並び、運が良ければ店番をしていた推しに接客してもらえるかもしれない。
ちなみに『ファン感謝祭』と呼ばれる催しは春と秋の年二回開催されており、春のそれは体育系の配色が濃くなる模様。
駅伝やバレーボール、フットサルなどなど。レース以外の分野で発揮される中央ウマ娘の身体能力が好評である。
他の学校で言う体育祭みたいなもの……と言い切ってしまうには屋台やお化け屋敷をやっているところもあるけどね。お祭り騒ぎを忘れないトレセン学園らしいと言えるだろうか。
《考えようによってはファンへのサービスを忘れない営業精神と見ることもできるね》
そう聞くと単純にスポーツだけを楽しむ学生でいられないのかと世知辛くもあるねえ。
いつか語ったことがあっただろうか。
普段、周囲の方々は私たち中央のウマ娘が普通の学生として過ごせるように節度ある距離感を保ってくれている。プライベートを切り売りする芸能人ではなく、走ることを第一に据えたアスリートとして扱ってくれる。
ファン感謝祭はそんな理解あるファンの方々へ、私たちの方から歩み寄る日だ。
普段はアスリートとしての色合いが強い私たちがまるで芸能人のように立ち振る舞い、ファンの皆様が溜め込んだ推しへの情熱を存分に発散できるよう働きかける感謝の日。
春と秋で体育系と文化系の違いはあるが、共通した理念がひとつある。それはファンのためのイベントであるということだ。
つまり多くのファンを持つスターウマ娘は特別な役割を担わされることが多い。そして私は無敗のクラシック三冠に王手をかけ、あのサクラバクシンオーを打ち破って全距離GⅠ制覇にリーチをかけた新進気鋭のスターウマ娘なのだ。ウマ娘としての力量はまだまだ発展途上だが、客寄せパンダとしては今がまさに旬。
はい、用意されています私の個人イベント。
ファンの皆様方に肥えた秋のウマ娘のお姿をさらす羽目にならなくて本当によかったよ。私にもその程度の常識と社交性、あと羞恥心は存在しているのだ。
とはいえ九月後半にスプリンターズSがあり、十月後半には菊花賞がある。
その間に入る形でのファン感謝祭だ。私だってファンの方々から受け取った分はできるだけ返そうと考える程度の義理人情は持ち合わせているつもりだが、いろいろとリソースがカツカツ。
新しいことを一から始めるには体力も時間もまるで足りない。
ルドルフ会長やエアグルーヴ先輩がきっちり生徒会業務をこなしつつしっかり成果を出しているのだから、トゥインクル・シリーズとの両立が不可能とは言わないが……。
《誰かにできたからと言って、自分にもできるとは限らないんだよなぁ。誰かの当たり前に自分の当たり前を合わせるような考え方は嫌いだよ。
それに少なくともシンボリルドルフやエアグルーヴは比較対象として適当な相手ではないだろうから》
だよね。
あの人たちが他人の分まで苦労を背負う生き方をしているのは尊敬こそするが、自分も右に倣おうとはこれっぽっちも思わない。
私の個人イベントと言っても、何も一人で回さなければいけないわけではない。そこまでは学園も求めちゃいない。
要するにファン感謝祭のプログラムに『テンプレオリシュのイベント』として記載できて、そこに行けば私がメインの催しを満喫できる。そういう時間と場所を用意してくれという話だ。
だからといってGⅠレースに圧迫されたタイトな日程で用意できる程度のリソースで、理想を言えばわざわざ来てくださったファンの方々に満足していただけるボリューム感。そんな催しを考えるなど無理難題でしかない。
うん、無理難題だと思っていたんだよ。
テンちゃんはあっさり原案を作成すると桐生院トレーナーと相談して詳細を詰め、さらっと生徒会の承認を得て学園に企画を通してしまった。
私の半身って実はすごく頭いいよね。
聖蹄祭当日。
文化系に特化したというだけあって、本当に多種多様な催し物が色とりどりにファンの方々をお出迎えしている。
自主と自律を重んじるこの学園らしく、催し物はクラス単位のみならずチーム単位、なんなら有志の集まりや個人でもきちんと手続きを踏めばスペースと予算を確保できる。それゆえの多様性だろう。
まあ、流石に個人で枠をひとつ確保しようとなると相応のクオリティを企画書段階で求められるらしいが。それに割り当てられる場所の面積は原則として催し物の参加人数に比例するから、結局それなりのものをやりたいのならある程度の人数は必要となる。
「ふえええ、ど、どうしよう~。はぐれちゃいました~!?」
来訪者が多ければこういう子も出てくる。
涙目でオロオロしているウマ娘の前を、そのまま横切ろうとした。見覚えのない顔で、制服じゃない。身体はだいぶ育って見えるけど受ける印象的に本格化もまだ来ていないようだし、親とはぐれてしまった迷子の小学生といったところか。
来訪者の中からこういう子が出てくることは想定の範疇で、学園もちゃんとその対策を取っている。見回りしている役員が誰かしらいるはずだから、私が出しゃばらずともこの子の問題はいずれ解決する。
それにこのご時世、スマホだってある。この子かその保護者のどちらかが少しでも冷静になれば簡単に合流できるだろう。
私はこれから自分主催のイベントをこなさねばならないのだ。私以外に誰もいないというのならともかく。きっと私以外の誰にだって助けてもらえる子に手を差し伸べて、貴重な自由時間を消費してやるほど私は社交的でもお人好しでもない。
そう思っていたのだけど。
《は? メイショウドトウ? いや覇王世代が年下かよ!? 見かけないなーとは思っていたけどさぁ……》
テンちゃんの驚愕した声が脳内に響き渡る。
どうやらスルーはできないようだ。
「……どうしたの? 迷子?」
仕方がないので私が声をかける。
いつものやつ。根拠不明の『ネームド』認定。こんなとき相手が困っていたのなら、ほぼ確実にテンちゃんは放っておけない。
しかし私たちにはこれから個人イベントが待ち受けている。その事実は依然として変わらないのだ。
ファンのための催しで、トーク皆無というのはありえない。テンちゃんにはそのトークタイムをまるごと引き受けてもらう予定なのだから、こんなことで活動時間を削らせるのはしのびなかった。
脳内でわちゃわちゃやっている限りはどれだけテンちゃんが私に指示出ししても、テンちゃんに疲労が溜まることはないからね。
「えっ、あああ、あのー、在校生の方ですかぁ?」
「うん。道案内くらいならできるよ」
今の私は学園指定の冬用コートを羽織っているから、中央の生徒と判別するのは容易だ。
さらにギンピカ呼ばわりされる髪を三つ編みにしてまとめキャスケット帽の下に押し込み、伊達眼鏡をかけている。別にサングラスのように派手な配色の双眸を隠せるわけではないが、フレームとレンズだけで顔の印象というのは意外と変わるものだ。
さらに気配を
芸能人のように立ち振る舞わなければならない一日。だから、芸能人みたく変装するのは何も間違ったことではないはずだ。任された仕事はちゃんとやるからさ、それ以外の時間は自由にさせてよ。
「すみませんすみません、きれいな出店だなって見惚れていたら両親とはぐれてしまいまして~」
いや、そんなぺこぺこ謝られても。
自信なさげに背中を丸め、上目遣いで私をおずおず見つめる少女は、何故だか誰より困っているはずなのに私に何度も頭を下げていた。
《こういうタイプの子はね、相手に世話を焼いてもらうって状況になった時点で『相手に迷惑をかけている』と罪悪感を抱くものなのさ》
ああ、それはわからなくもない。
だが案内し終わった後に言われるならともかく、まだ声をかけただけだぞ? 謝罪の前払いとは珍しい。仕方がない。受け取ってしまった代金分くらいは世話を焼いてやるか。
「スマホは? 聖蹄祭のパンフレットに学園の簡易MAPは載っているはずだし、お互いの現在位置がわかれば合流できるんじゃないかな」
「ああ~ごめんなさいぃ、思いつきませんでしたぁ。よかった、これで……あ、あれ? ポケットの中でひっかかって……ああっ!?」
「おっと」
勢い余って秋の空へと旅立ちかけたスマホを即座に追いかけジャンプキャッチする。
うん、正直ポケットから取り出すのに悪戦苦闘し始めた時点でこの展開は読めていた。人混みの中だろうと、スマホが飛んだ方向が私から見て少女を挟んだ対面側だろうと、想定の範疇なら追いつくのはわけない。
「ほら、どうぞ」
「は、はやい……これが中央のウマ娘……?」
「おーい」
「あ、すみませんすみません! ありがとうございますううぅ~」
少女は呆然と着地した私を見ていた。差し出されたスマホも目に入らないほどその紫の瞳は純粋な感嘆で満たされていた。
最近の私を見る一般ウマ娘の目って、恐怖とか敵意とか畏怖とかが大なり小なり宿っているんだよね。
単純な話だが少しこの子のことを好きになってきたかもしれない。好意には好意で返したくなるものだろう。
「よし、これでぇ……あれ? ええええ、どうしてぇ? 何でこんなに充電が減って、あ、ああああああっ、待ってくださ~い、消えないで~~!」
受け取ったスマホを開いた少女だったが、わざわざ画面を覗き込まずとも状況が把握できる見事な実況だった。
充電が切れてしまったらしい。真っ暗になった画面を涙目で見つめながらプルプルと垂れ下がった耳と尻尾を揺らしている。
「なんでぇ? 私グズでドジでノロマだから今日は絶対にスマホは持ち歩かないとって、昨日は忘れないように枕元に置いて、充電器に差し込んだのもちゃんと確認したのに~」
「あー、差し込んだのに接触不良で充電できていないことって偶にあるよね」
この短い付き合いで既に判明しつつあるドジっ子っぷりを鑑みるに、充電器を枕元まで移動させた際コンセントにプラグを差し忘れた可能性も高そうだが……確かめる術はないので接触不良が悪いことにしておこう。
ライスシャワー先輩とはまた似て非なるベクトルで因果律の捻じれを彼女から感じる。直感ですごく失礼な決めつけだが、たぶんこの子もツキが無いタイプのウマソウルの持ち主だ。
「親御さんの電話番号おぼえているなら私のやつ貸してあげられるけど?」
コートのポケットから自分のスマホを取り出して見せる。
ついでに視線は少女に向けたまま、テンちゃんの指示に従ってLANEを開きメッセージを送信。
相手は聖蹄祭実行委員に所属している生徒のひとり。テンちゃんの知り合いである。今の時間帯は暫定的に設置された迷子センターに勤務しているはず、だそうだ。
つくづくテンちゃんのコネってどの方面に伸びているのか予想できない。
送信内容は迷子をひとり確保したことの報告と、その子の保護者が訪ねてきていないかの確認。
すぐに返信が来たので一瞬だけ視線を落とす。
迷子になった我が子を探しに来た保護者は何人かいるが、残念ながら彼らの探し人の情報は目の前の少女とまったく合致しないようだ。
まあそんな気はしていた。落胆は無い。
「ごごごめんなさいぃ~思い出せないですぅ~」
「だよね」
ぷるぷる震えながらの謝罪も想定の範疇だ。鷹揚に受け流す。
今どき知人の電話番号をいちいち打ち込むなんて私たちの世代ではやらない。電話帳機能に登録されたデータから直通が基本だ。スマホを忘れたときに友人へ公衆電話から連絡を取ろうとして、小銭をわざわざコンビニで作ってきたのにいざ受話器を前に友人の電話番号を思い出せないなんて失敗談は偶に聞く。
私は何気なく見たものも簡単に思い出せるから共感しにくい苦労だけどね。
《時代の変遷って激しいものだなぁ。少し前なら両親の電話番号くらいは暗記していたものだが、今の子たちは電話を借りるんじゃなくて、一人一台自分のスマホを持っているのが普通なのか……》
テンちゃんがやけにしみじみしていた。
「ううううぅ、もう六年生のお姉さんなんだからって、いつまでも頼ってちゃダメだよねって、あんしんカバンを手放さなければよかった……」
まだ六年生なのか。
デカいな。どこがとは言わんが。下手すると当時のスカーレットさえ上回るんじゃなかろうか。
なんでも、『あんしんカバン』というのはこの子が小さいころに持たされていたお守りのようなものらしい。
絆創膏やタオル、連絡先など。この子は昔からよく転んだりはぐれたりしていたので、有事の際に役立つもの一式をまとめて入れたカバン。
『これがあれば、なにが起きても大丈夫』という母親の言葉と共に渡されたそれは道具としての機能以上に、少女の精神安定に役立っていたようだ。
それも彼女は自覚していて、そして小学生から中学生への境界線というのは当人たちにとって非常に大きいものだ。
成長したいと思う。新たなことに挑戦して。
成長したのだと願う。稚拙なこれまでを変えようとする。
ましてやここは天下の中央トレセン学園。たとえレースを志していなくとも、ウマ娘に生まれたのなら一度は憧れを抱くと言われる場所。まあ、これは私たちが中央の生徒だからという主観のバイアスも大きかろうが。
そんな憧れかもしれない地に新たな自分で挑んだ彼女は、思いっきり裏目に出てしまったというわけだ。
《まあ挑戦しないと失敗もできないからね。どんまいどんまい》
それ、私の中で言ったって向こうには聞こえないでしょ。
「はぐれたときはどうやって合流するかとか、決めてない?」
「あ、あああ! あります、決めてますぅ!」
ぱっと少女の顔が明るくなった。
この子のドジは一朝一夕のものではない。である以上、その家族も対応に慣れてるはずと踏んだが予想通りだったか。
「迷子になったときは慌てないで、次に向かう予定の場所で合流って決めてましたぁ! 忘れてましたぁ! すみませ~ん!!」
「ふーん、思い出せてよかったね」
《迷子を放置して次の
今日の学園の中は特にね。
普段から学園の平和を守っている警備の存在はもちろんのこと。聖蹄祭実行委員に生徒会、さらにはバクちゃん先輩みたいな自主的に見回りしている生徒も幾人か存在している。安全性という意味では世界でも有数ではなかろうか。
「それで、次はどこに行く予定だったの?」
「テンプレオリシュさんの『世代征服ライブ』です~!」
「そっかー」
センスという点では微妙なところあるよね、私の半身。
だいたい、クラシックロードはまだ菊花賞が残っているんだから『世代征服』は大言壮語が過ぎやしないだろうか。これがレストランのメニューだったら食品偽造で訴えられて負けるレベルだ。
「奇遇だね。私もこれから特設ライブ会場に向かうところだったんだ。一緒に行く?」
事の次第を追加でLANEに送信し、二人並んで学園の人混みの中を歩く。
これで万が一この子の親御さんが迷子センターの方に向かっていたとしても入れ違いや待ちぼうけになることはないだろう。
「ファンなの? テンプレオリシュの」
「い、いえ、その~……お父さんがテンプレオリシュさんの大ファンなんです~。何も持たないところからたった一人でレースの世界に飛び込んで、瞬く間に実力で周囲に認めさせてしまった生き様が素晴らしい。見習いたい、って~」
ファンにとってレースというのは娯楽コンテンツの一つ。
ゆえにどれだけそのウマ娘が好きだったとしても基本的に呼び捨てだ。たまにファンの間で愛称が流行していたりして『○○さん』や『○○様』と呼ばれていたりするけど、それは敬称まで含めてそのウマ娘を指す呼称となっているだけである。
一方で、レースに携わるウマ娘にとってトゥインクル・シリーズを走るのは偉大なる先達だ。ゆえに敬称を付けて呼ぶのが当たり前。
この子は私たちのことをずっとさん付けで呼んでいる。脚の筋肉のつき方からそうじゃないかと思っていたが、どうやらこの子もそれなりに走り込んできたウマ娘のようだ。
「私はその~、憧れるのも烏滸がましいといいますか~。テンプレオリシュさんは自信に満ち溢れていて、何でも出来てぇ。なんだか遠いところにいるお方という感じがして、あまりぃ……」
「ふぅん」
しゅんと背中を丸めて俯く、その膝の裏をびしりと尻尾で叩いてやる。何もないところで自分の足に引っかかって転びかけていたからだ。他意はない。
ひゃああああ!? と彼女は大仰な悲鳴を上げて仰け反った。その動作で絡まりかけていた足が正しい動きに修正され、転倒は未然に防がれる。
「あ、ありがとうございます~」
何事かと集まりかけた周囲の視線を、コイツが転びかけただけですと手を振って散らした。
《叩いてお礼を言われるとなんかこう、アブノーマルなプレイみたいな感じがして妙な気分になるな……》
うるさいよ。
本来ならこんな人口密度の高い場所を横に並んで歩くなど避けたいのだが、このドジっ子がこうしてドジを踏むので後ろについてこさせる形だとフォローが面倒なのだ。
実際、こうして歩き始めてから既に物理的干渉だけで三回。手を出す前の段階でさりげなく解消した回数はその倍以上にもなる。
……やや大げさな言い方だが、私が同行していなければこの子は果たして特設ライブ会場までちゃんとたどり着けたのだろうか。下手すると私のライブが始まる前どころか、終わるころになってもまだ道半ばでドジを踏んでいそうな危うさがある。
この子、やっぱりライスシャワー先輩の同類だ。
確率を超越した運の悪さに要領の悪さ、常人ならさっさと諦めて別の道を模索するところで腰を据えて粘ってしまう諦めの悪さ。そしてその粘り勝ちで一定の成果を出してしまえる底力。似て非なる存在ではあるけど似通っている部分も多い。
ライスシャワー先輩の特異性が不運や不幸に特化しているのに対し、この子はドジや間の悪さが目立つけども。お互いに人付き合いが苦手そうだし、案外深く知り合えばそのまま仲良くなりそうな気がする。
《『深く』っていう部分がポイントだな。普通にやったらお互いに人見知りが発動して会釈してすれ違うだけになりそうだ》
そうだね。
もしもこの子が中央に合格できたら、ライスシャワー先輩と引き合わせてみるのも面白いかもしれない。
中央で切磋琢磨してるとつい失念しそうになるが、中央に合格できる時点でウマ娘としては相当のエリートだ。常識的に考えれば目の前のこの少女と同じ制服を着て再会できる可能性はそう高くないし、そもそも彼女の口から中央を目指すという宣言を聞いたわけでもない。
ただ不思議と、何となく彼女とはこれっきりという気がしなかった。少なくとも素質は肉体、メンタル共に中央でも上位に食い込めるものがあると思う。私ほどではないけど。
「あ、あのぉ~」
上目遣いでおずおずと少女が訪ねてくる。
「ん、なに?」
「もしかして、テンプレオリシュさんとお知り合いだったりしますかぁ~?」
「あー、うん、そうね。知ってる。すごく知ってる」
世界でも私ほどテンプレオリシュのことを知っている者はいないだろう。
ああいや、でもどうだろう。私しか知らないテンプレオリシュがいる反面、私にはわからないテンプレオリシュというのもきっと存在しているはずで。
案外どこかの第三者が作成した『テンプレオリシュ問題集』なんてものが存在したら、桐生院トレーナーあたりにはあっさり点数で負けるかもしれない。
「あのあの、きっと私、テンプレオリシュさんのことマスメディア越しにしか知らなくてぇ。同じ中央の生徒から見たテンプレオリシュさんってどんなお方なのでしょうかぁ~?」
んん、これは……。
《どうやら『自分の見当はずれの発言でリシュの気分を害した』と彼女は考えたようだねえ》
そんなに不機嫌そうに見えたんだろうか。ちょっと反省。いまだに揺れ動く情緒の制御が上手くいっていないようだ。
見当違いだからと、ちゃんと知ろうと一歩踏み出すあたり、この子もやはりいい子なのだろう。気質が根本的に善良なのだ。
同じ年下でもテイオーみたいに物怖じしない性格ならともかく。この子みたいな人見知りで内向的な気質の持ち主が、年上の不機嫌そうな相手に一歩踏み込むのはどれほどの勇気がいることやら。
「そうだね。ひとつ、きみの御父上の見識と異なる点を挙げるとするなら」
意識して、表情と口調が柔らかくなるように。
感情がより表層に出るようになったのなら、気遣いや優しさも意図して表に出していけばいい。
見えない優しさは美徳だと思うが、今の私にはまだまだ縁のない応用問題だ。
「テンプレオリシュはひとりじゃなかったよ」
「は、はえ~?」
なんだその反応。
「いつだって誰かに助けられていた。独りで出来ることなんてたかが知れているから」
テンちゃん然り、桐生院トレーナー然り。私は常に誰かに支えられながらここまで来た。
何かひとつ始めようと思えばその段階で既に必要な分と、足りない現状が見えてくる。
その足りない分を全部自分ひとりだけで用意するのは、ハッキリ言って無駄だ。既に持っている誰かの助力を得た方が効率的で質も高い。
《自分ひとりで何でもできる気でいるやつなんて、何も始めたことがない人間だけさ》
今回のライブだってそうだ。もしかすると私の負担が一番少ないかもしれないくらい、多くの人の手を借りてしまっている。いちおう名目上は私主催の催し物なのに。
きっと、それでいいのだ。いや、心苦しいのは否定しないけど。
「はあぁ~。あんな何でも一人でやれちゃいそうなお人でもそうなのですね~」
「そうなのですよ」
他人に煩わされることなく自分のペースで物事を進められるというのは確かに大きなメリットだ。それは認める。
しかし一日は誰だって平等に二十四時間。マイペースに進めたところでそれは変わらない。そしてレースはウマ娘を待ってはくれないのだ。ゲートはどこまでも無情に開く。
無駄だらけで進み続けられるほど中央は甘い場所じゃないんだよ。少なくとも私たちが走っているところはね。
《目的地周辺に到着しました。案内を終了します》
カーナビかな?
あれってまだ後部座席から聞く経験しかしたことないけど『ここまでは自力で来れるんだ。ここからの案内が欲しいんだよ!』って状況わりと多いよね。
さてテンちゃんの言う通り、話しているうちに特設ライブ会場の手前まで来たわけだが。
……多いな人。もはや溢れていると表現したくなるレベル。
これ全部私を見に来た人ってマジ?
うん。とりあえず、ひとつひとつ問題を解決していくとしよう。まずはどうやってこの中から少女の保護者を探すか。
「おーい、ドトウー!」
「こっちよー!」
「あっ、おとうさ~ん、おかあさ~ん!」
即座に解決した。あちらが勝手に見つけてくれた。
これが親子の絆か。いや、親御さんたちはライブの列に並んでいたのではなく、ライブの受付に並ぶ人々の流れの全体像を確認しやすい位置に陣取っていたようだ。
なるほど、あれなら娘がここに到着した時点で気づけるか。
……列に並ばなかったせいでライブではいい席にはありつけそうも無いが、それは仕方あるまい。取捨選択、何かを選べば何かを失うというものだ。
主催者である私なら何とかできるかもしれない。彼女たち親子に便宜を図ってやれるかもしれない。
しかしそれはいかにも日本人らしく真面目に順番待ちをしていた、何の咎も無い私のファンから三人分ほどその行為の報酬を奪うということだ。
それほどの不条理を押し通さねばならないような義理を、私は別に彼女たちから受け取った憶えは無い。
だから、娘が迷子になったせいでライブ会場の端っこでライブを見る羽目になった。そういう結果のままでいてもらおう。
私がやるべきはえこひいきではなく、たとえ会場の端っこであろうと来てよかったと、ファンに満足させてやることだろう。
ぽてぽてと親に駆け寄る、その少女の進路上にさりげなく私の身体をちらつかせ動きを誘導する。気づかれない程度の威を飛ばし、無自覚に萎縮させリズムを変化させる。
普段レースで使っている技術がこんな風に活用されるとはね。何が役に立つのか人生とはわからんものだ。さすがに親御さんの前でビシバシ物理的干渉するわけにはいかない。
私がいなきゃこの期に及んでこの子、三回は素っ転んでいたぞ。
「よかった~、会えた~!」
「もう。電話は繋がらないし、LANEも既読にならないしで心配していたのよ?」
「ごめんなさ~い! スマホの充電が切れちゃったの~」
「やはりそうだったか。合流地点をここにしたのはいいが、よくよく考えてみれば俺たちのドトウが一人でここまで来れるかはなはだ疑問だったからなぁ。
ライブが始まるまで待って、それでも来なかったら迷子センターに行こうかって母さんと話していたところなんだよ」
親と合流した少女の姿にほっと一息。
保護者のもとに送り届けることができたのだから、私はこれでお役御免。肩の荷が下りたというものだ。
ちなみに余談だが。
ウマ娘は生まれたときに親から付けられるヒトと同じ名前と、ウマソウル由来のウマ娘としての名前の二つを持っているのが普通だけども。
ウマ娘としての名前を自覚したときから、家族間ではウマ娘としての名前で呼び合うのが慣習となっている。うちの家庭でもそうだ。リシュとテンちゃんで呼ばれることの方が圧倒的に多い。
なんでもより深く魂と結びついている方の名前で呼ぶのだとか、何とか。テンちゃんはウマ娘の名前を前面に出すことでウマソウルを安定させているのだろうと言っていた。うん、よくわからん。
この習慣はだいたい本格化が終わるまで続けられる。その後にどちらの名前で呼ばれる機会が多いかは、そのウマ娘がどんな生き方を選んだか次第。
一般的にはヒトミミと同じ名前で生きる者が大半だが、レース関連で身を立てた者は業界を引退するまで、あるいは引退した後も長々とウマ娘としての名で呼ばれ続けることもあるそうだ。
私はどうだろう。テンプレオリシュの名前も嫌いではないけれど。ヒトの名前は両親が考えて付けてくれたものだ。今は埃を被っているコイツをいつかは使い倒してやりたいかな。
「うん、ひとりでは無理だったと思う。こちらの、こちら、の……あああああああっ!?」
突如として少女が悲鳴を上げ、身体全体で私の方に向き直った。
なんだよ騒がしい。
「ごめんなさいぃいい~! お名前をお伺いするのを忘れていました~!? あのあの、あなた様のお名前は……ひぃいいいいい~!?」
だからうるさいって。
ぺたんと耳を伏せて顔をしかめる私の前で、ペコペコと少女はコメツキバッタのように頭を下げた。
「大変ご無礼つかまつりました~!! まさか自分の名前を名乗りもせずに人の名前を尋ねてしまうなんて……あのあの、私メイショウドトウっていいますぅ! ふつつかものですがよろしくお願い申し上げますぅうううう!!」
おちつこうか。焦燥で日本語が不自由になってるぞ。
それにしても。
この子の名前はやっぱりメイショウドトウだったわけだ。テンちゃんって何が見えているのやら。
騒がしい娘に寄り添うように彼女のご両親が私の方を向く。
大の大人が二人揃って深々と頭を下げてきたので私も会釈を返した。この年頃の私たちにとって大人に頭を下げられるというのはそれだけで居心地が悪い。
「どうも、娘が大変お世話になったようで」
「なんとお礼を申し上げればよいか。大変だったでしょう?」
ええ、まったく――なんて正直に返すほど私の社交性は死滅していなかった。かといって芳潤であるはずもなく。
「いえいえ、お礼というなら先払いでしっかりいただいておりますよ――ぼくらのライブに来てくださった。それだけで十分すぎるほど」
『えっ?』
こういう時、さらりと外連味の利いた返しができるのはテンちゃんだ。するりと運転が切り替わる。
一家の疑問符が重なる中、キャスケット帽を脱ぎながら伊達眼鏡をはずす。さらにヘアゴムを指で抜き取って頭を軽く振ると、三つ編みの影響など感じさせない滑らかな動きで葦毛がしゃらんと腰まで広がった。
あまりにも特徴的なその存在感に、周囲の空気から音が拭い去られる一瞬。
「テンプレオリシュ、よろしくね」
自己紹介にしっかり自己紹介を返すお行儀の良さ。ぱちんとウィンクするサービス精神。ついでのようにメイショウドトウちゃんの頭に載せられるキャスケット帽。
「あげるー。じゃ、準備があるんでぼくはこのへんで。またライブで会おうぜぃ。あるいは来年、おそろいの制服を着て……とかね!」
そして圧倒的なオーラにその場が完全に呑まれ、正気に戻る前にさっさと離脱する判断力。うーむ、流石だ。
綺麗な歯並びを誇るような攻撃的な笑みを浮かべ、白目を剥いて硬直している少女の鼻をピンと指ではじくと、そのまま身をひるがえしてテンちゃんは跳躍した。
ぴょーんぴょーんと三次元的な軌道で人混みの合間を縫って特設ステージに真正面から着地。ようやく認識が追い付き悲鳴じみた歓声が爆発するのを尻目に、さっさと舞台袖に引っ込んでいく。
うーん、こんな派手なことして怒られないかなぁ。
《怒られたら謝ればいーよ》
うーむ、強い。
メイショウドトウちゃんだっけ? 気絶していたけど、いいのあれ?
《いーのいーの。ドトウは強い子。何度でも立ち上がるさ!》
ふーん。
何度でも立ち上がるからってそれ無遠慮にメンタル蹴り倒していい免罪符になるわけじゃないと思うんだけどなぁ。
まあいっか。そろそろ本当に時間がヤバい。
すれ違っただけの後輩になるかもしれないどこかの誰かより、数十分後のライブ本番の打ち合わせの方が私にはよほど重要だった。