「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」 作:バクシサクランオー
感想、誤字脱字報告もありがとうございます。
今回は前半が三人称視点。後半がダスカ視点です。
U U U
無敗のクラシック三冠と無敗のトリプルティアラが達成され、付随する数々の偉業にレースの歴史が一ページどころではなく更新された十月。
しかしそれが終わっても今年のレースはまだ終わりではない。むしろここからが本番とばかりに年末にかけて数多くの激闘が待ち受けている。
主なGⅠだけ数えても十一月前半にはエリザベス女王杯。
ダートではJBCクラシック、JBCスプリント、JBCレディクラシックの三つが同日開催。
十一月後半にはジャパンカップとマイルチャンピオンシップ。
十二月前半にはジュニア級の優駿が初めて経験するGⅠタイトルである朝日杯フューチュリティステークスと阪神ジュベナイルフィリーズ。
中央で開催される数少ないダートGⅠであるチャンピオンズカップもこの時期だ。
十二月後半には言わずと知れた有馬記念と、その年を締めくくるジュニア級の集いホープフルステークス。
ダートでは全日本ジュニア優駿と東京大賞典。
これだけのGⅠタイトルが燦々と並び連なっているのだ。
その中でもエリザベス女王杯はティアラ路線を戦い抜いたクラシック級のウマ娘が、シニア級の実力者たちと女王の称号を懸けて争うレースという立ち位置になっている。
「それじゃあ、もう一度確認するよ。エリザベス女王杯には出ないんだね、ウオッカ?」
某日、トレーナー室にて。
ゴルシTとその愉快な担当ウマ娘たちはミーティングを行っていた。
尋ねられたウオッカは髪をかき上げながらニヒルに笑う。彼女がカッケェと信じている仕草のひとつだ。
「ああ、俺はマイルチャンピオンシップを選ぶぜ! ……タイキ先輩とトゥインクル・シリーズでやり合えるのはたぶん、そこがラストチャンスだろうからな」
レースにおけるウマ娘の全盛期は短い。
これはスポーツマン全般にも当てはまることではあるが、本格化という不思議要素があるウマ娘においてはなおさらその傾向が顕著だ。
いちおうトレーナー側には本格化が終わった後でもウマ娘を走らせ続けるノウハウが確立されてはいるが、本格化の最中にあるウマ娘と終わったウマ娘の間には無視しえない差異が存在する。特にレース頻度への耐久性という一点は努力ではいかんともしがたい。
ドリームトロフィーリーグが夏と冬の年二回しか開催されないのはれっきとした理由があるのだ。逆に言えばたとえ盛りを過ぎたウマ娘でも年二回にレースを絞り、研ぎ澄ませることができれば全盛期に近い能力を発揮できるということでもあるが。
「タイキ先輩の走っている姿は、生でも映像でも何度も見て勉強させてもらった」
優等生らしくマイルから長距離までバランスよく走りこなすスカーレットに対し、ウオッカの距離適性はマイルと中距離に寄っている。
しかしその中でマイラーとしての適性は、磨き上げれば世代ではなく歴代を相手に勝負できるだけのものがある。
ゴルシTと呼ばれる彼女の担当トレーナーはそう判断し、またウオッカも素直にその評価を受け入れ貪欲に先達から学ぶ姿勢を欠かさなかった。アウトローを気取っておきながら根は素直で真面目な少女である。
同じチーム〈キャロッツ〉に所属する、最強の称号を冠したマイラー。教材とするならこれ以上は望めまい。
「スプリンターズSでタイキ先輩が三着だったのは、一着のリシュと二着のバクシンオー先輩が純粋にやべーやつらだったからだ。それは間違いねえ。でも俺の知っているベストなタイキシャトル先輩なら最後の直線でもう一波乱あったはずなんだ」
本格化の長さは個人差が大きい。
例えば日本ダービーの勝者たち。己の全てを燃やし尽くすように勝利した後、燃え尽きてしまったようにひっそりとレースの歴史に消えていくダービーウマ娘は一人や二人ではない。彼女たちの中には故障で引退を余儀なくされた者だけではなく、本格化がそこで終わってしまった者も一定数いる。
かと思えば、九年間も第一線を張り続けたなんて経歴を持つダートウマ娘も存在している。本格化は不思議要素ではあるが、同時にれっきとしたウマ娘の身体を構成する要素の一環。負担が少ないダートの方が本格化は長続きする傾向にあるようだ。
ただ、概ね三年が平均と言われている。
『最初の三年間』が重視されている所以だ。
「タイキ先輩の戦績ならまず間違いなくドリームトロフィーリーグへの招待状は届いてんだろ。むしろあの人に出さないなら夢杯マイル部門は誰に出すんだってレベルだし。
だがな、それじゃあ遅すぎんだよ。俺がドリームトロフィーリーグに行くまで待ってもらうなんて、俺の方が待ちきれねえ。トゥインクル・シリーズの間に“最強マイラー”世代交代するならこのタイミングじゃねえと。じゃあやるっきゃねえって!」
タイキシャトルはウオッカがジュニア級になった頃には既に“最強マイラー”の称号で呼ばれていた。
つまりそれ以前に相応の戦績を積み重ねていたということであり、本格化の平均年数から考えるとそろそろ衰えの兆候が見られてもおかしくない。
それをウオッカは嗅ぎとったということだった。
「うん、わかった。ちなみに、その後の有馬記念はどうする?」
「あー……すげー心惹かれるけど今年はパスかなあ。俺が欲しいのはいつだって参加賞じゃなくて勝利だ。『有馬はマイルだ』なんて話も聞くけど、今の俺であの面々に中山の2500mは挑戦じゃなくて無謀ってもんだろ」
「そうだね。じゃあその分マイルCSは今年度の締めくくりにふさわしい仕上がりで挑もう」
鼻の利く子だな、とゴルシTは声には出さず思う。
この世代で『勘が鋭いウマ娘』といえば満場一致でマヤノトップガンの名前が真っ先に挙がるだろうが、脅威を直感的に嗅ぎ分ける能力はウオッカもなかなかのものだ。
ジュニア級の種目別競技大会の際あからさまな存在感を放つ怪物ナリタブライアンのみに捉われず、テンプレオリシュの脅威も的確に読み取ったように。いまだ十分とは言い難い力量でありながら“領域”の具現を感じ取ったように。
カッケェものに素直に憧れる性分、その延長線上の力。
本人はあまり認めたがらないが彼女自身は常識的な感覚を持つがゆえに。彼女とは異なる感覚の持ち主を、自らが憧れを抱くものの気配を敏感に察知することができる。
個性豊か過ぎる彼女の他の同世代たちではこうはいくまい。
今はまだ無意識下の防御としてしか活かせていないが、いずれ成熟して能動的に活用できるようになれば。
きっと勝負所を巧みに嗅ぎ分ける彼女の強力な手札となることだろう。
とはいえ、あくまで感覚的な分野の話なのでこの段階で自覚させても逆効果だ。意識し過ぎて嗅覚が鈍るだけ。
強敵を前に目先の勝負に捉われず。ゴルシTはじっくりと育成計画を練り上げていく。
ちなみに幸か不幸か、現時点で既にサクラバクシンオーはマイルCSの出走回避を表明している。
何でも来年の中長距離に今から照準を合わせていくとか。
マイルならいつでも取れるという自信の表れか。あるいはバクシンオー陣営もどこかでタイキシャトルの衰えを感じ取ったのかもしれない。
今ここで雌雄を決するに値せずと。
真相がどうあれ、マーク必須のレジェンド級が一人出走してこないことが確定しているのは事実だった。
となれば、他にマークするべき優駿に割くリソースの余裕が出てくる。
「桐生院トレーナーのアグネスデジタルも次走をマイルCSに定めているという話だ。芝GⅠこそ初挑戦だけど、ダートGⅠのジャパンダートダービーでは二着という実力者。
テンプレオリシュは幾度か『次は彼女と芝で雌雄を決したい』と口にしていたらしいし、もしテンプレオリシュが菊花賞で消耗しなければマイルCSでそれを叶えるつもりだったのかもしれないね」
「ほーん、デジタルが来るのか……」
実はアグネスデジタルというウマ娘の世間からの評価はあまり芳しいものではない。
なにせトレーナーの名門たる桐生院の歴史の中でも空前絶後の名伯楽と言われつつある桐生院葵トレーナー。彼女が担当する三人のウマ娘のうち、先輩がハッピーミークで同期がアレだ。
広い適性と高水準の実力があるのは認めるが、他の二人に比べると見劣りする。口さがないものに言わせれば下位互換。
「へっ、前門のタイキ先輩に後門のデジタルってか? 上等ォ、燃えてくるってもんじゃねえの。末脚勝負を仕掛けてみるのも面白えかもな!」
そしてそんな無責任な第三者の妄言を真に受ける者などこの場には一人もいない。
不敵な笑みを浮かべるウオッカの脳裏によぎるのは夏の一幕。
祭拍子の中で得た気づき。
――浴衣でどや顔リシュさんにカウンターでどや顔するマヤノさんとかこんな季節イベント超限定レアスチル無課金で見ちゃっていいんですか本当に? うへへ、これは脳内に永久保存決定版ですな――は、え? あ、ハイ。すみませんウオッカさん。聞こえていませんでした。お手数ですがもう一度お願いします。
正直、あのときまでウオッカはデジタルのことを見縊っていた。
何しろ同期が同期だ。担当トレーナーは異なるが、チームメイトという意味合いでアオハル杯チーム〈パンスペルミア〉まで区分を広げればマヤノまでいる。
同情していた、と言い換えてもいい。
それが屋台でこれでもかとばかりに己が才気を振り回すリシュとマヤノの天才コンビを目の当たりにして、心底幸せそうに涎を垂らしているデジタルを見て。
――常日頃からこんなことやってるコイツらとずっと一緒にいて、こんな蕩けた笑みを浮かべることが俺にもできるか?
ふと浮かんだ疑問に身体が震えた。
アグネスデジタルはウマ娘オタク。そのことは知っていた。
だが彼女がいるのは安全な画面の向こう側ではない。中央という魔窟だ。
画面を通してなお目が眩む輝かしさは、この距離では身も心も焼かれる劫火に等しい。
太陽に近づき過ぎたイカロスは蝋で固めた翼を焼かれて海に墜ちた。デジタルは一年以上もの間、特等席で燦々と浴び続けて今もなお笑っている。
次いで連想したのは風呂の温度。同じ湯船であっても小さな子供にとっては泣きだすほどの高温で、大きな体を持つ成人にとってはちょうどいい湯加減。
テンプレオリシュやマヤノトップガンといった希代の優駿が放つ光は、このアグネスデジタルという無自覚の天才が己を磨く環境にとって『適温』なのだ。
「まったくよぉ。自信無くすぜ、どいつもこいつも。これでも俺、地元にいるときは天才って言われてたんだぜ?」
「あらウオッカ。自信を持ちたいのなら比較対象が間違ってるわよ。リシュを選んだトレーナーが選んだもう一人だもの。アイツに潰されないくらいガッチガチの天才に決まっているじゃない」
スカーレットが優等生然とした笑みを浮かべる。
うっせーと咄嗟に反発したくなったウオッカだったが、幼少期からリシュを追いかけ続けたスカーレットの言葉だ。これ以上無い説得力がある。
無言で肩をすくめるのが精いっぱいの反抗だった。
「うん、そうだね。スカーレットは予定通りエリザベス女王杯でいいのかな?」
「はい。それで大丈夫です」
ゴルシTが今度はスカーレットに話を振る。
「本命は年末の有馬記念。エリザベス女王杯ではシニア級が参戦してくるGⅠレースの感覚を掴もう」
現時点でエリザベス女王杯へ出走を表明しているウマ娘の中に、いわゆるレジェンド級ほど突出した実力者は存在していない。
そしてスカーレットがシニア級のウマ娘と相対するのは公式戦でこそ初めてだが、学園行事では珍しいことでもない。アオハル杯などその最たるものだろう。
それら非公式戦の戦績とゴルシTの手元にある各種データが示している。単純なスペックでいえばスカーレットというウマ娘はクラシック級の現時点で既に平均的なシニア級に比肩、あるいは凌駕していると。
ただし、シニア級とはすなわち中央という魔境で何年も戦い、勝ち抜き、生き残ってきたウマ娘である。
彼女たちがGⅠというタイトルに懸ける熱意、あるいは執念とでも呼ぶべきものは決して軽視していいものではない。
それらの事実をしっかり認識した上で、ゴルシTはこう続けた。
「八割の力で勝つことを目標にしようか。夏に成長したのは君のライバルだけじゃない」
スカーレットの強みは常に全力全開を出せるところだ。
優等生の仮面に反し、レース中は熱血で脳筋。何ならレース中に限って言えばウオッカの方が優等生じみたスマートな戦術を用いているかもしれない。
だが、それでは足りないのだ。年末の大舞台を見据えるのであれば。
「はい」
スカーレットは躊躇なく頷いた。
彼ができると言えば自分はできる。そう信じられるだけのものを今日まで積み上げた。トレーナーとの関係性にも、自分自身にもだ。
「ひゅー、言うねえ」
先ほどのお返しとばかりに今度はウオッカがまぜっかえす。
太陽に手を伸ばしたところで届かない。階段を順当に上っていては寿命が先に来てしまう。
本当に目指すのならどこかの段階でロケットに乗り込み飛ばなければならない。たとえ爆発四散するリスクを抱えたとしても。
この判断が身の丈に合わぬ夢に手を伸ばし足元が疎かになった愚行となるのか、それとも大局を見据えた布石となるのかは結果次第だろう。
勝てば英断。負ければ慢心。それがレースという世界だ。
揶揄の色で包んで誤魔化してはいるが、ウオッカの態度の本質は『それは本当に慢心じゃないんだよな?』というひねくれた心配。
突発的に開催されるゴルシ検定一級に比べたらわかりやすすぎる問題だ。トレーナーは彼女へ穏やかに笑いかけた。
内心を見抜かれたと悟ったウオッカはきまり悪そうに目を逸らし前髪をいじる。
「さて、それじゃあそろそろ聞いていいかな」
ある意味で、ここまではお膳立てだ。
本番はここから。長い準備期間だったが必要な工程だったとゴルシTは判断する。
なにせ、これから心のやわらかい部分に深々とメスを入れるのだから。
「ねえスカーレット。君が勝ちたいのは
純粋な危険性は『表』の方が上だが、『裏』の存在に気づかなければ勝ち筋すら用意できない。そんな厄介極まるふたりでひとつのウマ娘。
ずっと勝利を目指して追いかけ続けた彼女がその存在に気づいていないわけがない。
「あん? 『どちら』って……」
「まーまー、ひとまず聞こうぜぃ」
ゴールドシップに諫められたウオッカは気づく。
困惑を浮かべたのが自分だけだったということに。
ちなみにこの場にいながらゴールドシップが静かだったのは、バランスボールの上でブリッジしながらコサックダンスのステップでトレーナー室を周回することについ先ほどまで熱中していたからだ。極めてどうでもいい情報である。
「アタシもそれを知りたいと思っています」
どこかで予想していたのだろうか。
覚悟があったのだろうか。
自分でも驚くほどに凪いだ声色のまま、スカーレットはこれまで誰とも共有できなかった『はじまり』の蓋を開く。
それはポケットの奥にしまい込まれた記憶。
からからに干からびて風化して埃だらけになって、もはや元がどんな色をしていたのか思い出せないほど変わり果ててしまっているけれど。
言ってしまった後悔と、言えなかった焦燥だけがずっと消えていない。
U U U
ずっとずっとむかし。アタシはまだ自分がダイワスカーレットだと気づいていなかったし、アイツもまだテンプレオリシュじゃなかったころの話。
いまのアイツからは想像もつかないけれど。
初めて会ったときのアイツは、教室の隅で静かに本を読んでいる大人しい子だった。
どんなクラスにも一人はいる内向的なタイプ。人付き合いが苦手で、誰かと話すときに視線が合わない。
ウマ娘ということが少しだけ珍しいけど、それだってあくまでヒトと比べたら少数派というだけのこと。スペシャルウィーク先輩の地元のド田舎みたいに同年代にウマ娘が一人だけなんてことはない。
体育の授業のときだって目立った活躍をするわけではない。むしろウマ娘の平均からすればどん臭い方。
派手なのは配色だけ。銀ピカの葦毛と、赤と青の色の違う双眸。
本当にそれだけの、視界に入らない存在だった。
一方のアタシはクラスの中心。
先頭に立って誰かを引っ張るのは苦じゃなかった。むしろ誰かに前に立たれる方がストレスになるような気質だった。
小さいころからいろんな習い事をやっていたおかげで優秀だったし、先生に頼りにされることが多くて。
それで小さい子供にとって『先生に頼りにされる』って絶大な権威を持つのよね。
あの頃のアタシは“一番”だった。自分が一番であることを疑わずに済んだ、振り返ってみれば貴重で幸せな時間。
あの頃に戻りたいとは、これっぽっちも思わないけど。
たくさんの友達。やるべきこともやれることも山ほどあって。よそ見とも退屈とも無縁の毎日。
言ってしまえば、実のところアイツとは接点が無かった。
活動範囲が違い過ぎて、同じウマ娘ということもあり存在は認識していたけど。
意識はしていなかった。ウマ娘じゃなければ認識さえろくにしていなかったかもしれない。
すべてがひっくり返ったのは、暑さの残る秋に行われた運動会。
学校の行事。誰もが必ず一種目には出なきゃいけなくて、主張の強くなかったアイツは余った枠に押し込まれた。
アタシほどこだわりが強い子はそういないけど、誰だって一番になりたいもの。
つまり、アタシという一番が確定しているために二着争いをしなきゃいけないちびっこレース。その出走者リストにアイツの名前は載ったわけだ。
「がんばれー!」
母親と、仕事を休んで父親まで応援に来てくれた。
たったそれだけの理由でアタシたちのそれまでは無惨に踏み砕かれた。
後から知ったことだけど、当時のアイツってそれはもう慎重に慣らし運転をしていたらしい。
小学校に入る前は病弱で、しょっちゅう寝込んでいたというアイツ。ろくに身体を動かす機会も無くて、体育の時間を含めて何がどこまでできるのか、じっくり時間をかけて探っていた最中だったようだ。
その細心の注意で幾重にも掛けられていたブレーキは『両親にいいところをみせたい』という幼稚な動機であっさりまとめて天の果てまで吹っ飛ばされて、全力を出したアイツにアタシは後ろからまくられてぶっちぎられた。
手を抜いていたわけじゃない。優先順位が違っただけ。
実際、無茶をした代償として直後にアイツは保健室に搬送されて、その後しばらくは脚に包帯を巻いていたっけ。
でもそんな詳細な事情、アタシたちには知る由も無かったから腹が立った。
……違う。強がりだ。
怒りが無かったわけじゃない。
でも一番強かった感情は『恐怖』。
アイツが本気を出した瞬間、背後で爆発したプレッシャーに全身鳥肌が立った。
人間社会で生活しているうちはなかなか経験することができない、動物として根源的な警告。
アタシたちが人間社会に迎合しきっていない幼い子供だったというのも大きいのかも。アイツへの恐怖は大人よりも、子供の方が如実に感じているようだった。
でも人間社会には馴染みが無い感情だからこそ、社会を運営していく上では軽視されがちなものだ。
徐々に孤立していくアイツを先生は見かねて、仲良くするように言った。そして先頭に立って行動する役目を与えられたのは“一番”のアタシだった。
こんなバケモノ相手に、いったい何を話しかければいいっていうのよ。
義理と使命感とプライドに雁字搦めにされ、悲鳴を上げる本能をむりやり抑えつけて、『この子とは仲良くできる』ということをクラスのみんなにアピールするためだけに、なんとか言葉を絞り出す。
「この前のレースすごかったわね。このままいけばトゥインクル・シリーズでも走れるんじゃないかしら?」
人間、困窮すると最も身近な話題しか出てこなくなるのだと初めて知った。
アタシにとってレースとはそれだけ近しいもので、あまりに多くのものを注ぎ込んだものだったから。
嫉妬もあった。羨望もあった。
今になって振り返ってみれば、木っ端みじんに踏み砕かれたプライドを慰める意図もあったのかもしれない。自分がただ弱かったと思うより、相手が非常に優れていたのだと考えた方が受け入れやすいものだから。
それで諦めがつくわけじゃないけど。
「え、そうなの? ……だったら、目指してみようかなぁ」
ほえほえとのんきに笑うアイツを見て肩の力が抜けた。
アイツはバケモノだったけど、ふつうの女の子だった。
そして同時に思った。
ああ、この子レースに向いていないなって。
さっきも言った通り、アタシはずっと前からトゥインクル・シリーズを走るために努力してきたから。トリプルティアラを達成するのが夢だったから。
走りの才能とレースの才能が必ずしもイコールではないことを、当時すでに心のどこかで理解していた。
速く走る。それだけではレースの才能は半分しか満たせていない。
何人も同時に同じコースを走って、自分以外の全てを押しのけて一着にならないといけないのだ。
他者を踏みにじる覚悟と執念。
それがアイツの気の抜けた笑顔からは感じられなかった。
巨大な竜が湖を歩けば、その余波で湖のほとりにいる生き物は津波に押し流されるかもしれない。でもそれは巨竜に悪意があるわけでもなければ、押し流された生物だった残骸を見て心を痛めないわけでもないのだ。
そこまで具体的な喩えが当時できていたわけじゃないけど、漠然とそんな風に理解した。
理解していたのに、アタシは発言を訂正しなかった。
少しずつ、ぎこちなく始まったアタシとアイツの関係は。
積み重なる前に大きく変動する。
人間と人間がコミュニケーションを取るためには言葉が必要不可欠で、それはどちらかがもう片方に話しかけることで成立する。
いつもアタシの側から話しかけていた。慣れてくると話題にはそう困らなかった。
少し仲良くなって、アイツの側からも話しかけてこようとしてきた。
人付き合いに不慣れなアイツは、きっと今日のお天気よりもずっとずっと身近で当たり前な話題から入った。
「ウマソウルってうるさいよね?」
「えっ」
「えっ」
聞き返してしまった。
怒っているのでもなく、悲しんでいるのでもなく、きょとんとした表情。
さっきまで仲良くピクニックしていたのに、前触れもなく崖に突き落とされたような。
ゆっくりとスローモーションのように落ちていく。引き延ばされた時間の中で焼き付くお互いの表情。
痛みすら湧いてこない、ごっそり抉り取られた絶望。
常人離れした身体能力で逃げ出したアイツに追いつく術を、アタシは持ち合わせていなかった。ううん、追いかけることすらできなかった記憶がある。
生まれて初めて取り返しがつかないほどに人を深く傷つけた。
反射的に理解したその事実を認めるのが怖くて、いろいろとまとめてごちゃごちゃ考えた。
そして決めた。アタシのわかる範疇のことは全部告げて、それから謝ろう。
ごめんね。きっとあなたはレースに向いていないから。無理しなくていいんだよって。
でも、負けたままの状態でそれを言っても。まるで勝てない強敵を舌先三寸で丸め込んで退場させようとしているみたい。それは嫌だったから。
ちゃんと勝ってからあの子に言おう。負けっぱなしなんて性に合わないし。
きっとアタシなら、いつか勝てるはずだから。
そうと決まればトレーニングだ。なにせ相手はバケモノ。並大抵の努力で打倒できる相手じゃない。
想いがどれだけあっても、実力が伴わなければ結果は出ない。
努力すれば努力するだけ成果は出るはずだと、苦しければ苦しいだけ報われるはずだと幼いアタシは盲信して走り込み――
「あはは、きみは天才なんだねぇ」
次に会ったあの子は、もう今のアイツになっていた。テンプレオリシュを名乗り始めたのもこのすぐ後のこと。
取り返しがつかない喪失を経てなお生きるために、人は変質せざるを得ない。その事実を学んだのもこのときだ。
引き込んだのはアタシで、突き飛ばしたのもアタシ。
アタシは責任を取らなければならない。
幼少期の記憶とは容易く歪むもの。
時系列を考えたらそこにあるはずのないものが存在していたり、あるいは逆にあってしかるべきものが存在していなかったり。
常識的に考えれば憶え違いであることは間違いないのに、その記憶が正しいとしか思えないこともしばしば……。
憶えているという一点のみがただ事実なのです。