「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」 作:バクシサクランオー
感想、誤字脱字報告もありがとうございます。
今回は全編三人称視点です
U U U
「アタシは知りたいんです。あのとき傷つけたのがどちらのリシュだったのか」
「…………」
一通り語り終えたスカーレットは何気なく目の前のティーカップに手を伸ばす。
聞きに徹していたウオッカも何をどう言えばいいのかわからない空白を埋めるためカップに口を付けた。
手に取っただけでふわりと鼻孔をくすぐる香り。するりと口内を通っていく爽やかな甘さ。やや冷めた温度が、長々と語り続けて渇いた喉にはこれ以上ない適温だった。
ほっと一息つき、そこでようやく思考が追い付く。
はて? いつの間に紅茶など用意されていたのだろうか。
彷徨わせた視線が楚々とした動作でポットを片付けるゴールドシップを捉えた。
「ああっ!? す、すみません!!」
「うえっ、ゴルシ先輩!?」
「おいおい、飲んどいて『うえっ』は無いだろぉ?」
まさか自分はぼさっと座ったまま先輩に紅茶を入れさせてしまうとは。
顔面を蒼白にして立ち上がったスカーレットとウオッカに、ゴールドシップは実に男前なキレのある笑みを浮かべてみせた。
「いーんだよ。これくらい先輩にやらせろって。喋り続けてのど渇いたろ? でもお茶菓子は勘弁な! この前マックちゃんがパクパクしちまって在庫が尽きてんだよー」
こう言われてしまうと、後輩として好意を無下にすることもできない。
赤面しながらおずおずと着席し、かすれた声でありがとうございますと感謝を告げるのがいま後輩たちにできるせいぜいだった。
まるで超一流の従者のごとく音も気配もなく人数分の紅茶を用意するなど、本当にこの葦毛の奇行種は底が知れない。
このような気品のある仕草を見ると、まるでどこぞのご令嬢のようにも見える。まあ先日のゲリラライブで道行く人々を感涙せしめた生きた木魚ビートなどを鑑みるに、超絶無駄に各種スペックが高いだけかもしれないが。
「ありがとうゴールドシップ」
一方の彼女の担当トレーナーは慣れたもの。
ゆっくりと紅茶を啜り、味に賛辞を呈する余裕すらあった。
「うん、美味しいよ。相変わらず君は紅茶を入れるのが上手だね」
「へへっ、まーざっとこんなもんよ」
まさかいつも紅茶を入れさせているのか。
さすがゴルシT、只者ではない。
声に出さず戦慄する若輩たちを尻目に、彼は淡々と言葉を紡ぐ。
「……スカーレットのモチベーションが純粋な熱意だけじゃないことは、前々から予想していたよ」
罪悪感。
それは人間が抱く感情の中でも意外なまでに大きく、長々と居座る性質を有する。
何度打ち負かされ傷だらけになろうとテンプレオリシュに挑み続けるその姿勢は、単なる負けず嫌いというだけでは説明できないものだった。
「でも、それを含めて君にとって悪いものじゃない。そう見えたから深く介入するのはやめておいたんだ」
ダイワスカーレットは贖罪に人生を捧げるような殊勝な少女ではない。
生真面目ではあるし、一度決めたことをやり遂げる根性もある。
だが悲劇のヒロインを演じる己に陶酔するような、安っぽい自己憐憫の精神からは程遠いところにいるウマ娘でもあった。それはこの場にいる全員の共通認識である。
筋金入りの負けず嫌いであることも、自分が一番でなければ気が済まないのも、まったくの偽りなき事実なのだ。
競い合っていた彼女たちがどこか楽しそうに見えたのも、同様に。
再びカップを傾け一口。
嘆息を紅茶への感嘆に混ぜ込んで、ゴルシTは深々と吐き出した。
「ふぅー……それにしても、まさかウマソウルに独立した人格が宿っているとはね」
幸せの青い鳥は自宅にいたわけだ。
彼女たちの心を優先したその決断に後悔は無い。
だがあれだけ推論を重ねた疑問の詳細な解答が、ここまであっさり転がっているとやはりため息の一つくらいは抑えきれないというもの。
そんな彼の様子に恐る恐るウオッカが尋ねる。
「なあトレーナー。ウマソウルって喋んのか?」
「いいや、聞いたことのない症例だね。中央のトレーナーという、ことウマ娘に関しては世界でも有数の情報が集まる地位についてはいるが、初めて聞いたケースだ。ウオッカ、きみだって自分のウマソウルが喋ったことはないだろう?」
異世界の歴史と名前が宿っているというウマソウル。
その存在がウマ娘の人格形成に影響を及ぼしているという学説は、わりと主流なものではある。
どこまで厳密に信奉しているかは個人差もあるだろうが、トレセン学園でウマ娘やトレーナーを対象にアンケートを行えば、完全に否定する者は圧倒的少数派だろう。
信じるか信じないかではなく、『ある』か『ない』かでいえば『ある』と考えるにたる経験を中央の住人は一度ならずしているものだ。
だが、それでも人格そのものが宿っているというのは聞いたことが無い。
「そりゃあなあ……スカーレットはどうなんだよ?」
「アタシだって無いわよ。でも、リシュはあのとき確かにそう言ったの」
「うん。そのことに関しては疑っていないよ。強いて言うのならマンハッタンカフェのそれが近いかな?」
ウマ娘の生態はいまだに科学では解明しきれない不思議要素に満ちている。
そしてどれだけオカルトだ、ありえないと声を大にして主張したところで『ある』ものは『ある』し、『ない』ものは『ない』のだ。
目の前の現象を過不足なく事実として受け入れる。どれだけ昨日までの常識が邪魔をしたとしても、私情で得られる情報を歪曲しない。それが本当の意味で科学的ということなのではないだろうか。
トレーナーをしているとそんな機会には十分すぎるほど恵まれてしまう。そして適応できなければトレーナーだけではなく、担当しているウマ娘たちまで巻き込んで転んでしまうのだ。
職業柄、未知を己の中で既知に組み替えていくプロセスには慣れていた。
マンハッタンカフェはウマ娘の中でもオカルト現象と縁の深い少女だ。
彼女には彼女以外の誰にも見えない『お友達』がいる。
それだけならいわゆるイマジナリーフレンドというやつなのだが、どうにも『お友達』は実在しているらしい。というのも物理的な干渉が一度ならず、複数人によって目撃されているのだ。
ラップ音にポルターガイスト、掴まれたり引っ張られたり等々。挙句の果てに『お友達』の影響なのか『お友達』以外のこの世ならざる存在もマンハッタンカフェの周囲に集まっているようで、彼女の周りでは霊障が絶えない。
外部に干渉している時点でまったくのイコールではないのだろう。ただ本人にしか認識できないパートナーを有するサンプルケースにはなる。
「『うるさい』ってことは、内部での意思疎通が頻繁に行われているということか。それも幼少期から日常的に……」
中核となるピースを見つけたことで一気に完成へと近づいていくパズルのように。
スカーレットからもたらされた情報を契機に、ゴルシTの脳内で様々な仮説が具体性を帯びていく。
「ゴールドシップ、きみは年末どうするんだい?」
「おーん? あー、今年はアタシの年じゃねえからな。パスだパス。中山の観客席で壺磨いといてやるよ。まー行くならジャパンカップの方だな。年末のアオハル杯に備えるやつだって一人は必要だろうしなー」
「そうか、わかった」
「そんなあっさりでいいのかよ!?」
思わずといった感じでツッコむウオッカ。
この葦毛はその実力と破天荒なキャラクターが相まって非常にファンが多い。ほぼ確実にグランプリレースのファン投票では上位にランクインすることだろう。
それを理解した上でゴルシTは脳内にある今年の有馬記念の出走者リストからゴールドシップの名前を削除した。
彼女が気分屋なのはいつも通り。だが気が乗らずダルいからやりたくないという平時のものと、本当に本気でやりたくない場合の二種類が存在することをゴルシTは長い付き合いで知っている。
「うん、今回はこれでいいんだよ」
表面上の言動こそ軽いが、今回は後者だ。
たとえこの状態でも彼が言葉を尽くしてお願いすれば、もしかするとゴールドシップは一度くらいなら自分を曲げて担当の意思を受け入れてくれるかもしれない。そのくらいの信頼関係はある。
だがそれは気位の高い彼女に『自分を曲げさせる』というタブー中のタブーを犯させる行為。
有馬記念というレースが持つ価値と格式を鑑みた上で、それでも割に合わない。
そもそもレースというものは一回ごとにウマ娘の心身をすり減らす行為。その方が当人の為になると言うのならいざ知らず。
既に『最初の三年間』を終え、レジェンド扱いされているゴールドシップは既にレースで成功を収めたと言える状態。そんな彼女を記録や周囲の思惑のために、無理やり走らせるだけの動機をゴルシTは見いだせなかった。
ともあれ、ゴールドシップが出走しないとなれば大局を左右する大駒が一つ欠けるということだ。
スカーレットの勝ち筋に幅が出てくる。
「ウマソウルに自我があるのなら、通常なら感覚的に扱っている不思議な力をある程度能動的に使える可能性もあるかな……」
今のうちに判明してよかったと思うべきだろう。
ただでさえ強敵なのに、未だ明かされていない手札に備えた安全マージンまで必要になってきた。確証はないが確信はある。絶対に何かしてくると。
脳内の成長曲線、その目標地点に修正を加える。
「うん、わかりきっていたことではあるけど。有馬記念はかなり厳しい戦いになるね。トレーニングも相応のものになるけど――」
「はい。覚悟はできています」
なんつー顔で笑いやがる。
ウオッカは内心で吐き捨てた。
年頃の少女がしていい表情ではない。
いや、それどころか人間の顔じゃない。鬼とか夜叉とかそういう類のアレだ。
己の全てを賭して勝ちにいく。
そういう覚悟が滲んだ表情だった。
同時に脳裏を過るのは現国の教科書に載っていたコラム。読んだ時にはしっくりこなかったが、やはり文豪とは巧みで適切な表現をするものらしい。
「……『
マヤノとコイバナしていたときに遠目に見えたそれは甘酸っぱくてキラキラしていた。対しこれはまるで違う、黒くてドロドロしていて煮え滾った感情。
恋ではないのだろう。古代の哲学者が三つに区分したという、
それでも人間が生み出した不自由な言葉の枠に納めるのなら、やっぱり『それ』くらいしか適切な言葉が見つからない。
ぼそりとつぶやいた言葉は隣のゴールドシップにしか届かなかったようだ。
ちらりと視線を流しただけで煽るでもなく笑うでもなく、ハジケリストにしては極めて珍しくスルーの姿勢だったのは先輩なりの気遣いだったのだろうか。
『強い! 絶対に強いっ! ダイワスカーレット、シニア級相手にエリザベス女王杯をみごと勝ち取ったッ!』
『穢れ無きトリプルティアラに女王の王冠を添えましたダイワスカーレット。これは年末の大舞台にも期待が否応なく高まりますね』
有言実行。
クラシックとシニアの間に横たわる経験差をものともせず、スカーレットはエリザベス女王杯を勝利してみせた。
最初に奪った先頭を最後まで自分以外の誰にも許さず三バ身差の完勝。最近派手な勝ち方をするやつが一人や二人ではないのでライトなファン層の感覚がバグりがちだが、三バ身は十分に完勝の範疇である。
反発を招かない程度に喜びをあらわにした後、スカーレットはトレーニングに没頭した。
研ぎ澄ますほどに刀身は痩せ細るのが摂理。彼女は目に見えてやつれていった。
マイルCSが間近に迫り最終的な調整段階にあるウオッカと、まだまだ年末に向け地力を高める猶予があるスカーレットという違いはある。だがそれを差し引いても彼女の消耗具合は同じ担当トレーナーで同期であるウオッカの比ではなかった。
「おいおい、負けられない戦いがそこにあるってか? 年末はまだまだ先なんだからあんま張り切りすぎんなよ。身体もたねーぞ」
「バカねウオッカ。負けていいなら戦うまでもなく譲ってしまえばいいのよ。負けられないから戦うんでしょう」
……ちょっとばかし返答のフレーズに心がときめいたのは秘密である。
しかしその理屈でいうのなら『負けられない戦い』にここまで『負け続けてきた』少女に、いったい何を言えるというのだろうか。
どうしようもない執念の熱量を改めて思い知らされただけで、すごすごと引きさがることしかできなかった。
いや、迫力を前に出てこなかったけどさ。お前わりとどうでもいいことでいちいち張り合っているじゃねえか――などと普段の行いに対するツッコミが湧いてきたのはその日の寝入る直前で、翌朝目が覚めてそれを言おうにも既に相手は朝練に行ってる始末。
「なー、トレーナーよぉ。ほんとうにこのままスカーレットを走らせていいのか?」
ウオッカなりにかなり悩みに悩んだが、どうしても我慢しきれずついにはトレーナーに相談するに至った。
「というと?」
「あー……釈迦に説法つーか、おかしいことを言ってんのは自分でも自覚してんだけどさ。このまま有馬にスカーレット送り出すと、ヤバい気がして」
本当に変な話だ。
目の前にいるのを誰と心得ているのだろう。
あのゴールドシップの担当トレーナーである。ゴールドシップの『最初の三年間』を故障なく完走させ、今もなおチーム〈キャロッツ〉故障なし伝説を続けている化物だ。
「だぁー! なんで俺がこんなことでぐちぐち悩まねえといけねえんだよ!?」
ぐしゃぐしゃと頭を掻き回しウオッカは天に向かって絶叫する。
相談を持ち掛けておきながらその態度はかなり失礼で理不尽じゃないかと、脳内でどこか冷静な部分が客観的なツッコミを入れたがそれに耳を傾ける余裕もない。
嫉妬もあるし、心配もしている。
公式戦では今のところ負け続けだが、それでもウオッカは彼女のことをライバルだと思っているから。
だが、同時にこうも感じるのだ。
ウオッカは自分にはまだまだ未来があると思っている。
今負けても次は勝つと自然に思える。
死というものがいずれ自分に訪れるということは理解している。
思春期ゆえにそれが自らに降りかかるシチュエーションを夢想したことも一度ならずあるが。
しかし本当の意味でその概念を隣人としたことはない。この平和な国において死はフィクションの住人だ。
今のスカーレットはそうではないように見える。
ウマ娘にとって『走る』というのは『生きる』というのとほぼ同義。中央に来るような者にはなおさらその傾向が強い。
そうであるにも拘らず、もしもその一戦に勝てたらすべてを喪ってもいいと、陶酔でもなく熱狂でもなく心の底から思えるレースがあるのだとすれば。
それはウマ娘にとってどれほど幸せなことなのだろうか。
たった一度にレース人生の全てを賭しても構わない心情など、ウオッカには理解も想像もできない。
その理解も想像もできないことを、できないままに否定するのは本当に正しいことなのか。
ただ自分が理解できないものに恐怖して、共感できないことに嫉妬して、拒絶しているだけなのではないだろうか。
生真面目な性分ゆえにそんな自分への疑惑を切り離せない。
見ていて不安を掻き立てられる現状と不透明な未来。ウマ娘の本能とこれまで培ってきた常識や良識。警告を発する直感とトレーナーへの信頼。
いくら早熟な者が多いと評判の中央トレセン学園とはいえ、中等部二年分の人生経験しか積んでいない少女の頭は相反する要素を雑多に詰め込まれてパンク寸前だった。
「たしかにリスクはあるよ」
さらりと。
ゴルシTはウオッカの懸念を認めた。
「……へ?」
「テンプレオリシュは強敵だ。彼女を凌駕するためには限界の一つや二つ、レースの中で超える必要がある。そしてスカーレットなら間違いなく超えられるだろう」
だが、限界とは怠惰の大義名分ではないのだ。
心の限界。身体の限界。そして命の限界。
強靭な精神力があれば超えられる。超えてしまう。
そうやって壁を乗り越えて、帰ってこられなくなる。
レースの歴史は数多のウマ娘の血と屍で綴られている。
駿大祭の神馬駆という、彼女たちの想いを供養する伝統行事が存在するくらいには。
多くの者は限界にぶつかって、そこで諦める。たどり着けなかった場所だから、その先に理想郷があったはずだと夢想する。
だがトレーナーはそうではない。
どんな断崖絶壁に見えようと、必要なら登山計画を用意してルートを確保して乗り越えさせる。
彼らにとって『限界突破』とはポジティブな幻想ではなく、ただのリスクなのだ。少なくともゴルシTにとってはそうだ。
「……それでも走らせんのかよ?」
「うん。スカーレットがやりたがっているというのがまず一つ。トレーナーの仕事はウマ娘の夢を目標に変えることだからね」
「夢を叶える、じゃなくてか?」
「叶えるのはウマ娘自身さ。俺たちにできるのは道を整えて地図を用意するところまで」
代わりに走ってやることはできないし、仮に代わりに走って勝利してもそれはウマ娘の夢の成就ではなくトレーナーの偉業だ。主に人類を超越した方面での。
夢を叶えるといえば聞こえはいいが、言い換えてしまえば達成できるかわからないし、そもそもその手段すら明確ではないということでもある。
目標は違う。明確に手段が存在していて、一つ一つ着実にノルマを達成していけば、いずれは到達できる。あるいは到達できなかったとしても、それは失敗という明確な結果と区切りが存在している。
日本でも有数、下手すれば世界でも指折りの敏腕トレーナーと目されているこの男は己の仕事をやけに俯瞰的というか、良い言い方をすれば分をわきまえた捉え方をしていた。こういうところがトレーナーを聖職と見做す他者から嫌われる所以なのだろう。
「それにだね……ウオッカ、運命ってあると思うかい?」
そう尋ねられたウオッカはレモンを皮ごと口に含んだような顔をした。
「おいぃ。まさかスカーレットが有馬記念を走るのは運命だからーなんて寝ぼけたこと言うんじゃないだろうな相棒?」
「まさか。運命を信じるか信じないかという話だったらそれは個人の勝手だ。だけど『ある』のだとしたら、それに備えないといけないのがトレーナーという職業でね」
どれだけ声を大にして『そんなものはない。オカルトだ』と主張しようとも、そこに存在するものが無かったことになるわけではない。せいぜい周囲の人間に呆れられて『はいはい、お前の中ではそうなんだろう。もうそれでいいよ』と距離を置かれるだけだ。
運命というものが存在し、それが愛馬に不利益をもたらそうとしているのなら、それに対策を立てるのがトレーナーの仕事なのである。
「俺はこの業界ではまだまだ若輩者だけど、その短い経験の中でもウマソウル由来で受け継がれるという名前と歴史がこの世界に干渉したと思しき瞬間を幾度となく見たことがある。ウオッカ、きみにもおぼえは無いかい?」
「それ、は……」
子供のころから憧れていた日本ダービー。
その最後の直線で確かに感じた。生まれる前から知っていたような光景。魂の歯車がガッチリ噛み合うような一体感。
「まあ、無いとは言わねえけどよぉ……」
ウオッカは友達とのコイバナで鼻血を出してしまう程度には純情な乙女ではあるが、同時に己の選んだ道と積み上げた努力に誇りを持つアスリートだ。
己の行動が異世界からもたらされた筋書き通りだったなどと言われて『そうか、これは運命だったのね!』とキャッキャウフフできるほど、その脳内は花畑ではなかった。
もにょもにょともの言いたげな彼女にゴルシTは苦笑しながら訂正を入れる。
「ああ、勘違いしないでほしいのは別に俺たちが運命の操り人形だと主張したいわけじゃないんだ。名前も歴史もあくまでウマソウルと呼ばれるものを構成している要素の一つに過ぎない。『ある』以上は計算に入れておかないと正確な答えにはたどり着けないというだけの話さ」
4という数字が気に食わないからこの数式からは4を無視して計算します、などと言っていればいつまで経っても正しい解答は出ないだろう。
そこにあるものをあると過不足なく認めてようやく計算の準備が整う。ゴルシTにとっては本当にそれだけのことだった。
「ダイワスカーレットというウマ娘と有馬記念の間には強い因縁が存在している。それが異世界の歴史において、クラシック級の今のタイミングのものだったのかまではわからないけど……。
確かなのはこの世界のダイワスカーレットは今まさに有馬という大舞台で積年のライバルと決着をつけることを望んでいて、それはあちらさんも同じだってこと。こうなってくると因果が強固に結びついてしまってね、外部からの干渉ではちょっとやそっとでは動かせないんだ」
多分に感覚的で非科学的な、しかし確かにゴルシTがこの業界で自身の目で培った経験だった。
ここで思い出しておきたいのが、この学園におけるトレーナーとウマ娘の関係性だ。
この両者は指導する側とされる側ではあるが、教師と生徒のように一方的な力関係にあるわけではない。より具体的かつ露骨な差異を挙げれば、その契約は双方のどちらからでも打ち切れるのだ。
そのことを持ち出されたウオッカが血相を変える。
「もしもスカーレットのありさまを見かねて有馬を出走回避させようとすれば、アイツが契約を一方的に打ち切ってよそのトレーナーに流れるってのか!?」
「彼女に冷静な判断力があればそんなことはしないさ。ただ、テンプレオリシュが絡んだときの彼女はどうも冷静さに欠けるからねえ……」
万に一つも起こりえないことではあるが、可能性はゼロではないとゴルシTの頭脳は冷徹に俯瞰している。
「
東大を超える難易度とも言われる中央トレーナー試験に合格できた以上は無能ではなかったのだろう。きっと能力相応の熱意だってあったはずだ。
しかし中央に来て挫けてしまうウマ娘がいるのと同じように、トレーナーも現実を前に挫折する者がいる。理想は日常になり、ただ金を稼ぐための仕事と成り果てる。
ダイワスカーレットという優駿の担当に居座れるのなら、彼女の安全や未来を軽視することは十分にありえた。
そしてURAもそれを止めはしないだろう。
当の本人が望んでいるというのがまず大義名分として強すぎる。
利益の観点からしても無敗のクラシック三冠ウマ娘と無敗のトリプルティアラのウマ娘がその年の有馬記念で雌雄を決するという話題性。しかも二人は同郷の幼馴染という因縁付き。
比喩抜きで空前絶後の話題性。民衆はそれを望み、レースが興行である以上それをURAが拒むことはできない。
秋川理事長や樫本理事長代理はウマ娘のことを第一に考え行動する善人だが、組織という世界では見るからにお子様な秋川理事長はもちろん樫本代理ですら若すぎる。大勢を覆すには至るまい。
「まあいろいろ言ったけど、要するに今は下手に止める方が危険なんだ。どのみちダイワスカーレットが有馬記念に出走する流れになるのだとすれば、うちの担当ウマ娘でいるのが一番安全で一番勝率が高い」
「お、おう。すげー自信だな」
まあ言うだけの実績はあるしなと納得するウオッカに、ゴルシTは苦笑して肩を竦めてみせた。
「ここだけの話、実はトレーナーが自分の天職だと思ったことは無いんだ。やればやるだけ至らない部分が目につくようになって、年々下手になっているような気さえすることもある。でも、俺以外のトレーナーは俺以上に至らないところが目につくから」
「……トレーナーのそういうところ、かなりリシュに似てると思うぜ」
『自分のできる当たり前』が周囲と隔絶し過ぎている。当たり前にできることをすごいすごいと賞賛されても、得意げになるより何故周囲はできないのかともどかしさが先立つ。
強者に生まれついた無意識下の傲慢さが二人の共通項。ただ無自覚というわけではなく、それを他罰的な言動や周囲の蔑視に変換しない穏やかな気性もそっくりだ。人生経験の差か本人の気質の差か、ゴルシTの方が社交性は遥かに上だが。
他の誰かに任せるよりも自分がスカーレットを見た方が一番安全というのは嘘偽りのない彼の本音なのだろう。
「大丈夫。スカーレットは故障しないし、させないよ。そのために俺がいるし、きみがいる。だろう?」
言葉には力が宿る。
決して大きいわけでも、荒げているわけでもない穏やかな声色にはすっと身体に染み渡る滋味のような温かさがあった。
ダイワスカーレットは有馬記念を走り、ちゃんと自分たちのもとに帰ってくる。そう納得させる説得力があった。
極論、トレーナーとは相手に自分の言うことを聞かせる仕事である。そういう意味でも目の前の男は確かに超一流の天才なのだ。
「……やれやれ、世話のかかる優等生サマだぜ」
素直に首肯するには気恥ずかしくてウオッカは憎まれ口でごまかす。
ライバルであり続けるために過度な馴れ合いは厳禁なのだ。
U U U
「なあマヤノ」
「なーにートレーナーちゃん?」
「本当に今年じゃないとダメなのか?」
スポーツタオルで顔の汗をぬぐっていたマヤノは、ゆっくりと顔を上げる。
そこには心配そうな表情を隠しきれていない彼女の担当トレーナーがいた。
「トレーナーちゃんは間に合わないと思うの?」
「違う! そうじゃなくて……」
反射のように飛び出た否定を嬉しく思う。
マヤノの見立てでも自分の身体は有馬記念にはバッチリ仕上がる。それなりにタイトなスケジュールにはなるが、当日には菊花賞のとき以上の力を発揮できるようになっているだろう。
その見解が一致したことにおそろいだねーとそれだけで嬉しさ一つ、その上で心配してくれていることに重ねて嬉しさ一つだ。
えへへーと笑み崩れるマヤノにトレーナーは気勢をそがれた様子を見せたが、軽く首を振って躊躇いを振り払うと言葉を続けた。
「今年の有馬記念はテンプレオリシュにダイワスカーレット、ナリタブライアンの三名の出走がほぼ確実。
桐生院トレーナーのところからさらにハッピーミークも出走するかもしれないという話だし、黄金世代の何人かがドリームトロフィーリーグ移籍前に有終の美を飾ろうとしているという噂もある」
観客にとっては夢の舞台だが、自らの担当を勝利に導くべきトレーナーからすれば夢は夢でも悪夢の祭典である。前世でいったいどんな悪行を積み重ねたのだという話だ。
あくまでクラシック級のみで構成されていた菊花賞とは比べ物にならない激戦。その菊花賞のときですら大きく消耗したマヤノを誰よりも身近で見てきたトレーナーからすれば、いまだ発展途上の彼女を今の段階で送り込むには過酷すぎる戦場のように思えた。
「マヤノの成長期はこれからが本番だ。たしかに夏で君は一気に伸びたけど、シニア級以降はそれ以上の成長が予想できる。
リシュちゃんは春秋シニア三冠を狙うって話だろう? 今は無理をせず、天皇賞・春あたりに狙いを定めた方が……」
「うーん、でもたぶん。今年の有馬記念がリシュちゃんにはいちばん勝ちやすいよ?」
マヤノトップガンの直感はよく当たる。
それは周知の事実であり、その優れた感性にふさわしいトレーニングメニューを用意しようと四苦八苦の日々を送っている彼女の担当トレーナーは骨身にしみて理解している。
「…………えっと、詳しく聞かせてくれる?」
「いいよー。リシュちゃんはね、何も考えていないときがいっちばん強いの」
思考が介在しない極度の集中状態。
それがマヤノトップガンから見たリシュの一番の強みだ。
多くのウマ娘にとって想いは力に変わるが、リシュの場合はそれに当てはまらない。むしろノイズになりうる。
周囲を節操なしに取り込んで勝手に最適化する霧の在り方。何色にも染まるように見えて、その実すべてを自分の色にする傲慢な無色透明。
それがリシュの恐ろしさにして真価。
「でもね、スカーレットちゃんといるときのリシュちゃんは違う。すごく人間っぽくなる」
思い出すのは夏合宿。
リシュは基本的に感情表現が控えめだ。
常日頃から頭の中で会話しているため外からぼんやりとしているように見えるし、笑うときも唇を緩めるような微笑に留まることが多い。
マスコミが取り上げるのはもっぱらレース直後や、最近だとスプリンターズSの対サクラバクシンオー時の映像が多いので誤解しているファンも多いが、走っているときの彼女はほとんど自身の感情を見せない。
だが〈キャロッツ〉との合同訓練時、スカーレットを相手にしているときは違った。
「走っている最中だったのに声を上げて笑っていたの。あんなリシュちゃん初めて見た」
走り終わった後に反芻して、水中から浮上するようにようやく喜色を浮かべるのでもなく。取り込んだ誰かの欠片が消化しきれず外部にはみ出るのでもなく。
あのとき確かにリシュ自身の感情が素直に発露していた。思考を介在させず集中の水底に沈むいつもの彼女ではなかった。
「マヤがいっぱい考えてたくさん頑張ってようやくたどり着けるリシュちゃんのゆるいところ、スカーレットちゃんはそこにいるだけで引き出せるんだよ。ちょっとずるいよね」
つまりねー、とマヤノは言葉を続ける。
今年の有馬記念じゃないといけない理由。きっと一回経験すれば、それさえも彼女たちは弱点を自覚して次には克服してしまうだろうから。
公式レースで初めてぶつかるここが最大のチャンスなのだ。
「スカーレットちゃんはね、存在そのものがリシュちゃんの天敵なんだよ」