「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」 作:バクシサクランオー
感想、誤字脱字報告もありがとうございます。
U U U
この子の名前はテンプレオリシュ。
私が決めた。そう決めた。
U U U
《ああ……そういえば同じチームだったな》
何が起きた?
真っ白になった頭の中にテンちゃんの言葉が響く。
《あれはライスシャワーの【領域】だ》
『因子継承』。話には聞いたことがある。
固有スキルと称されるほど個々人の魂に由来した【領域】が、他者にも受け継がれる現象。
だが、ただ『そういう現象が起きる』ということしか判明していないはず。
トレーナーをはじめ多くの者が日夜ウマ娘のことを研究しているのに、発生条件すら定かでないのだ。
理由は単純明快。研究対象としようにもサンプルケースが圧倒的に少ないから。数少ない資料の中には『三女神の奇跡』と書きなぐりのやけくそじみた結論が残っているものさえある。
それがスカーレットに起きた。
そのこと自体は特に不思議にも思わない。
《それにしても継承された【領域】だと簒奪できないのか。これは意外な盲点だった。あくまで相手の魂から奪い取る能力。既に受け継がれたものは対象外だったわけだ。継承領域は魂に焼き付いた残影みたいなものなのかな?》
テンちゃんの落ち着いた声が思考の霧を晴らしていく。
しかし、抉られた心臓から先ほどまで漲っていた熱が一気に流れ出してしまったようだ。
何とか頭も体も動くようになってきたが、とても寒い。
あとひと息で抜け出せそうだった先頭が今では妙に遠く感じる。こんな光景は初めてだ。
『ここで先頭は入れ替わって十三番ダイワスカーレット……え? ダイワスカーレット!?』
『信じられません! いったいどこに余力を残していたというのか。なんという根性、凄まじい気迫だっ!』
領域具現――ブリリアント・レッドエース
先頭に立った彼女の世界が爆発的に解放される。
反射的に振るった七支刀は、真紅の絨毯のようにぶ厚くまき散らされた花吹雪に阻まれた。ばふりと鈍い音がして刃先が空を滑る。
防がれた? 黄金世代すら切り捨てたこの刃が?
……違う。
私が躊躇したんだ。あの美しいものに
迷いのある太刀筋で斬れる相手ではないとわかっていたはずなのに。
「ああああぁあああああっ!」
慟哭のようで、咆哮のような。
紫のオーラに見えたスカーレットが身に纏っていたものはいまやその正体をあらわにしていた。
紅と青の花吹雪。
そのときが来るまでは静かに重なっていたから紫と誤認した。
今では脈動に合わせ、動脈から吹き出るように空間を染め上げている。
「こっこだぁー!!」
領域具現――ひらめき☆ランディング
ぽわぽわとパステルカラーで満たされた空間。
ドキドキとワクワクが詰め込まれたおもちゃ箱のような世界。
マヤノの【領域】。
どこまでも的確な間合いとタイミング。動揺が静まらない刃の一閃は案の定、ひらりと躱される。
「いま……!」
さらに背後ではミーク先輩までぐいぐい押して上がってきた。
仕掛けるには遅すぎるとマークを外していたが、この機をずっと待ち続けていたのか。
忍耐強く。自分にとっての適切がいつか必ず来ると信じて。
裏付けにあるのは他力本願ではなく、信頼するトレーナーと二人三脚で積み上げた己の実力。
これだけ積み重ねた自分たちがチャンスをものにできないはずがないという、屈強な自負。
ああもう!
私の呼吸を熟知していて、なおかつそれに付け込める対応力の持ち主が複数人も同じレースにいることがここまで厄介だったとは。
身体を置き去りに思考だけがどんどん加速していく。
焦燥のあらわれ。よくない兆候だ。酸素の消費量が増えてしまう。
だいたい何故スカーレットはあれほど脚を残すことができたんだ。
逃げウマ娘は追い付かれたらそこで終わり。一口に逃げといってもいろいろ種類はあるが、前半に稼いだリードを後半まで守り通す基本スタイルは変わらないはず。
《逃げじゃなかったんだ。今日のスカーレットは先行策で走っていた》
たしかに前半の先頭はアングータさんだったけども……。
マヤノの介入もあって辛うじて先頭を守り通していたという印象だった。あれだけ序盤から激しい先行争いを演じておいて、前に一人いたから逃げじゃなくて先行? さすがに無茶が過ぎるのではなかろうか。
《きっといつもぼくらを見ている周囲もそう思っているよ。『さすがに無茶が過ぎる』って。そんなぼくらに勝つためには、無茶のひとつやふたつ押し通さないと》
ああうん、なるほどね。
納得はともかく理屈は理解した。
先行策で走り、途中で力尽きたふりをしてペースを落とし中団まで下がって息を入れる。そうやって最後の直線で使える脚を残したわけだ。
スカーレットが先行策でも走れるっていうのは知っていたけど。ここ最近は一度も先頭を譲らない逃げ切り展開が多かったから。
序盤にあれだけ前に出る気配を出していたこともあって可能性から除外していた。いつの間にあの『アタシが一番になるんだから衝動』を飼い慣らしていたのだろう。
《教えを乞うたんだ、ライスシャワーに。考えてみれば共通項が無いわけじゃない。二人とも憧れをひたすらに追い続けた者。『歴史』でも『名前』でもない。『この世界の彼女たち』だからこそ発生するシンパシーだな、ああクソどうしても偏見は抜けないものだ》
ライスシャワー先輩。
たしか夏合宿前のアオハル杯プレシーズン第二回戦の後、〈キャロッツ〉に移籍したんだっけ。
私たちがバクちゃん先輩を始めチームから莫大な恩恵を受けたように、スカーレットもきっちり先達の教えを血肉に変えていたということか。
《ま、今日このレースまで使わなかったのは別に手を抜いていたわけじゃないだろう。あの【領域】の発動条件がぼくの知っている通りなら『最終コーナー以降に五位以上の状態から追い抜くこと』なんだが、夏以降のダスカのレースってどれもこれも最終コーナーの時点で既に先頭だったもの》
ライスシャワー先輩は“黒い刺客”の異名を持つ。
無敗のクラシック三冠に王手をかけていたミホノブルボン先輩を菊花賞で仕留めたことからそれは一躍有名になった。
いつだったかテンちゃんが『ライスシャワーはもともと即興で力を発揮できるタイプじゃない。明確な目標を定め、それに向かって心身を研ぎ澄まし、薄く脆く鋭い刃でいっきに刈り取るヒットマンスタイルが彼女の本領だ』と語っていたように、有力な相手を徹底的にマークして最後の直線で刈り取る戦法が彼女の代名詞。
普段はおどおどと気弱な姿を見せているが、レース中に彼女の徹底マークを受けた者は殺気さえ感じ萎縮するという。
……うーん、あれ本当にライスシャワー先輩の徹底マーク戦法の派生なの?
ライスシャワー先輩は相手の後ろにぴったりついていくタイプだから、かなり違う感じじゃなかろうか。
相手より前に位置取りする徹底マークがあることは知っている。そうやって相手を思うように走らせずに消耗させるのだ。
でも徹底マークというには逃げと誤認するほど前に出ていたスカーレットと、後方集団の差しの位置にいた私。ちょっと距離が離れすぎていた気がする。
かろうじて共通しているのは最後の直線で差しにいったところくらいだ。私が行きたかったルートを、進路妨害を取られない絶妙なタイミングで塗り潰した。あの鮮やかさは確かに通じるものがあるかもしれない。
《付け焼き刃じゃあない。魂に残像が焼き付くほどに模倣し、噛み砕いて自分の走法に組み込んだ。いまこの瞬間にぼくらに突き立てるための刃をずっと懐に秘め続けてきたんだ》
そっか。がんばったんだ、スカーレット。
『勝負はまだ続く、続いている! 十三番スカーレット粘る粘る。二番ナリタブライアンと一番マヤノトップガンそれに猛追ッ!』
『勝負の行方はこの三人に持ち越されたか!? それともここから差しきるウマ娘が出てくるのか!!』
「いいぞ、もっと私を満たしてみせろ!」
すごいなブライアン先輩。
けっこうガッツリわき腹あたりを食い破った感じだったんだけど。
あれでもまだ致命傷には足りないのか。つぎ狙うなら首だな。
《ラスボスみたいなこと言ってらァ》
ナリタブライアンがラスボスというのは概ね間違いじゃないのが困る。
ただもっと困るのが、そのラスボスを倒してもまた新たなボス格が続々と立ち塞がるってことなんだけど。全然ラストじゃない。
たった一人ラスボスを倒せば大人しくエンディングロールが迎えにきてくれるゲームがどれだけお行儀がいいのかわかるというものだ。
「ぐ、ううう……まだまだエンジン、ぜんりょくぜんかーい!」
「アタシは……いちばんに……なってやるんだからっ!!」
衝突し、火花と共に飛び散る意志の片鱗とでも言うべきものが後続を走る私たちにぱちぱちと降り注ぐ。
意地の張り合い、覚悟の重さ比べ。そんなものはここでは大前提。
結局のところ勝敗の根底を構築するのは鍛え上げた身体の性能と、それを最適に運用する戦術。可能性が収束していくこの終盤においてはデータさえ出揃ってしまえば十分に推し量れてしまうものだ。
だから、鍛えに鍛えた体内時計と身体感覚が告げている。
このレースはスカーレットが勝つ。
私は届かない。
スプリンターズSでやったような何もかも投げ捨てた全力疾走は無理だ。
あれは1200mだからできたこと。2500mの中山レース場でやるにはスタミナも身体の強度も足りていない。
あの紅のツインテールが揺れる背中を差し切ることはできないのだ。
そう認識したとき、私の胸中を満たしたのは……ずっと焦がれてきた光景を目の当たりにしたような感慨深さだった。
何故?
だって、きっとそれは正しいことだから。
この光景を私はずっと待ち望んでいた。
何故?
だって、あれだけ努力していたのだ。
何度打ちのめされても、何度心を折られても。
そのたびに地べたを這いずり回って、砕けた心を寄せ集めて打ち直して。
そのたびに一回り成長して、それでも今の今までずっと届かなかった。
報われない努力を続けさせたのは私。
でも、報われてほしくないわけじゃなかったのに。
あれだけ才能のある子がすべてをなげうつように頑張って、報われないなんて嘘だろう。
どうして?
……嗚呼、そうか。
私、ずっとスカーレットのことが好きだったんだ。
走ることを選んでから、私は常に強者で勝者だった。
それは私以外が弱者で敗者であることと表裏一体だった。
強くなりたいと望んだわけじゃないのに。弱くなってくれと頼んだこともないのに。
私と行き会って挫けるのは相手の勝手だ。他者の感情までこちらの思うままにしようなんて烏滸がましい。
でも、それじゃあ私の感情はどうなる?
勝手に挫けて、いじけて、卑屈な目で見上げられて。そんな体験をして楽しいと思うような感性は持ち合わせてはいないのに。
テンちゃんが言うから交流は心がけていたけど、価値は見いだせなかった。
そんな中、スカーレットだけが違った。
折れないわけじゃない。挫けなかったわけじゃない。でも頭を下げたまま上目遣いでこちらを見上げることは絶対にしなかった。何度だって震える脚に活を入れて立ち上がって、また走り出した。
あの険しくも気高い瞳に見惚れた。
外の世界にも心が動く綺麗なものがあるのだと教えてくれた。
だからきっとそのときから、私はダイワスカーレットのファンになったんだ。
デジタルに初見で『同志』と呼びかけられるはずである。初めて彼女と会ったとき既に私には“推し”がいたのだから。
うっわ、はずかし。
無性に羞恥心がこみ上げる。きっとのんびり椅子に座っていたならいまごろ顔は真っ赤になっていたことだろう。実際は心肺がフル稼働していて暇な血液など一滴も無い現状だから、血が赤面なんて感情表現に回されることはないけども。
年末の大舞台で、ようやくスカーレットの積年の努力が報われる。
実に王道的。まるで何かの物語のクライマックスのようで……。
…………?
………………あれ?
ダメだ。
負けたくないぞ。
別にライバルとか、スカーレットが特別だとか、そういうのは全然関係なくて。
ただ単純に私が負けるという事実がひたすらに気に食わない。
負けたくない。すごい。初めて他の子が抱いていたこの気持ちが理解できたかもしれない。言葉の意味は知っていたけど、ようやく実感が追い付いた。
ねえ、私。
《なんだい、ぼく》
ごめん。私って自分で思っていたよりずっとずっと負けず嫌いだったみたい。
《知ってたよ。だって自分のことだもん》
そっかー。知っていたか。
他の子の場合はこの状況下でいくら負けたくないと叫んでも現実逃避にしかならないのだろうけど。
困ったことに、私たちの場合は『奥の手』があるのだ。
できれば使いたくはなかった。
これを使うとテンちゃんがひどく消耗するから。それはもう他の疲労とは一線を画したやつれ方をする。
他の能力は何をどれだけ使えばどのくらい眠ることになるのか、だいたい把握できているけどこれだけは違う。
三日かもしれないし、一週間かもしれないし、半月かもしれない。もしかしたらもっと長く続くことになるかも。
それだけの負担を半身に強いて、同じだけの時間孤独の寒さに耐えて、それでも目指すべきものが本当にあるのか。
見合うだけの価値があるものなんて滅多にあるものじゃないから、相応に使う機会は限られる。
でも今回はその『価値があるもの』だろうから。
《準備できているよ。やっちゃう?》
ごめんね。ううん、ありがとう。
やっちゃおう。
七支刀がゆらめいて、消える。
水面に映った虚像を掴もうと手を突っ込んでしまったみたいに。
これはもう、ここから先には必要ないから。
自らの奥深くへと潜っていく。
根底で繋がっている部分までたどり着いて、境界線を取っ払う。
私もぼくも消え去って、ふたつはひとつに。
青い螺旋に赤い炎がずぶずぶと沈み込んで、己を構成するものが溶けていく。
失われるのは身体でもなければ心でもない。
むりやり言葉に当てはめるのならば魂。
自分が自分で無くなる感覚は初めて経験したときには、そりゃもうひどい嫌悪を抱いたものだったけど。
今ではぬるま湯に浸るようにどこか眠たげで心地よい。
もう知っているからかもしれない。たとえ自分が消えてしまったとしても、世界は問題なく回るのだということを。ならばその先に続く道はきっとそこまで悪いものではないのだろう。
肉体的にはまばたき一つの時間。
ぱちりと目を開けたこの瞬間、双眸は紫の光を宿している。
「さあ、いこうか――
リシュでなければテンちゃんでもない、言葉遊びをするのなら『プレオ
その効果はとてもシンプルだ。
ざっくりゲーム風に言ってしまえば『一定時間あらゆるステータスが二倍』。
やれやれまったく、十倍や二十倍までいける界王拳や五十倍スタートの超化に比べたら謙虚過ぎて涙が出るね。そもそも普段は分割しているものを元に戻しているだけかもしれないし。
継続時間だって最大で五分といったところだが、この国の平地レースってせいぜい三分もあれば決着がつくんだよねー。
さっきのクリティカルヒットで活動限界はさらに削られているけど何も問題ない。
ここから世界を変えるには三十秒もあれば十分だ。
降り注ぐは流星群。
視界の中、紫色の幾重にも重なったレーンに着弾したそれは白銀色の花を咲かせる。
二倍になったのは何もスピードやパワーといった単純な数値だけではない。演算能力も耐久性もあらゆる要素が倍増している。
現状は既に可能性の一つでしかない。無数の選択肢とその結果が紫色の未来予想図として現実の上に描かれている。
選ぶ権利は
先ほどまでは道は閉ざされていたが、今のスペックならより取り見取り。これなら大外からぶん回すのではなく内側から抜けていくのがよさげかな。
『残り五十メートル! ここで間からテンプレオリシュ!? 九番テンプレオリシュがバ群の中から飛び出したっ!!』
『まるで用意されていたかのように道が開きました。これが魔王の力とでもいうのか! 凄まじい差し脚。流れている時間が、住まう世界そのものが異なるような加速!?』
白銀の花を踏み砕くたび澄んだ音が響き、また一つ可能性が確定したことを世界に告げる。
うっかり弾き飛ばさないよう慎重に。
接触などするはずもないが、こちらの余波だけでも相手側が勝手に怯んでズッコケかねない。それで進路妨害など取られたらお笑い草だろう。
一般的なGⅠウマ娘が有する空間把握能力に合わせた安全マージンをもってルートを切り開いていく。
十二番ロングウェスト。
七番サンセットグルーム。
五番エルコンドルパサー。
十番ハッピーミーク。
八番グラスワンダー。
前を塞いでいた相手。横に並んでいた相手。後ろから仕掛けてきた相手。
かつてどこかで聞いた名前もそうでない名前も、まとめて置き去りにしてさらに加速。
身体コントロールだって二倍だ。本来なら今はまだできない、地面を踏み砕かない完璧な全力疾走を前借りしてぐんぐんと先頭との距離を詰める。
一番マヤノトップガン。
二番ナリタブライアン。
残り二十五メートル。
並ばず交わして差し切って、ゴール板まであと一人。
「それはもう知っているわ」
凛とした異音が世界に混ざった。
「『
あの種目別競技大会のときジュニア級だったアンタが、ブライアン先輩相手に最後の直線のたたき合いで競り勝つなんて無理。アンタのことはずっと追ってきたから、どのくらい強いのかは誰より知っている。
身体能力が二倍にでも跳ね上がらない限りはね。だったらアンタは
吐き出されるエラーの束。
紫の世界の一角が鮮やかな
「
ぐっと並んで、そのまま突き放せない。
むしろ差し返されそうだ。
……あはっ。マジかこいつ。
これは即興じゃない。熟達の匂いがする。
ただの根性論じゃない。
ジュニア級の頃の種目別競技大会でこの手札を晒したとき、彼女はちゃんとそれに気づいていた。
有馬記念に出走した十六人のウマ娘の中でただ一人、この状況下で競り合う一瞬をずっとずっと前から想定してゲートに入ったのだ。
『中山の直線で身体能力が二倍になったテンプレオリシュ相手から逃げ切る』という極めて限定的な状況に焦点を絞って。
そのためだけのトレーニングを密かに行っていた。
トレーナーと二人三脚で。
この刹那に競り勝つためだけに。数多の時間と労力をつぎ込んだんだ。
「があああああああぁああああッ!!」
咆哮と共にダイワスカーレットがまたひとつ限界を超える。
現在進行形で計算が覆され続け、視界に映る未来との齟齬がどんどん大きくなっていく。
垣間見たのは無数の花束。
恵まれた環境。芳しい才能。色とりどりのそれが一輪ずつ散っていき、積み重なる花弁の一枚一枚が彼女の流した血と汗と涙で紅に染まっていく。
今解き放たれる真紅の絨毯が如きぶ厚い花吹雪、それを構築するために彼女が捧げたもののメタファー。
どれほどの覚悟をもってここにたどり着いたのか、万の言葉を尽くすよりも如実に触れ合う魂が教えてくれる。
「……ふふっ」
そうだよね、きみはそういうやつだ。
負けたくないのは誰にだってそうだけど。
『私』が勝ちたいのはきみだ。
「あはっ。はああああああああああああ!」
叫ぶ。
もはや自由にしていい酸素など一滴だって存在していない。だからきっとこれはイメージ。
でも何が幻想で何が本当なのか、この世界ではもうどっちだって同じことだ。
『熾烈なデッドヒート! 凄まじい叩き合いで二人が完全に抜け出した。ダイワスカーレットか、テンプレオリシュか、この勝負を制するのはどちらだ!?』
『がんばれダイワスカーレット! 初めての勝利が見えてきたっ、がんばれ!!』
不可能を可能にする青いバラと、覚悟で染め抜いた紅の花吹雪。
二つの色が絡まり合いながら放出され後ろに流れていくその様は、まるでDNAの二重らせん構造のように美しい。
彼女に勝つためにまた一つ機能を純化すれば、彼女はさらに限界を乗り越えることで競り合ってくる。
この苦しくてつらくて、どんどん視界が白くぼやけていく時間が永遠に続けばいいと思えた。
でもどんなものだって
お互いの全てをぶつけどこまでも削り合うようなひとときとは裏腹に、ゴール板はあまりにもあっけなくやってきた。
『二人並んでもつれ込むようにゴールイン! どっちだ!? 体勢的にテンプレオリシュ有利かっ?』
『……掲示板にはレコードの文字。先に三着以下の順位が確定しております。三着は一番マヤノトップガン。四着に二番ナリタブライアン。そして五着が十番ハッピーミーク』
ゆるゆると走る速度を落とす。
終わった。
そう実感した瞬間から始まる分離。身体の半分を削がれるような喪失感と地に足をつけたような安心感が同時に湧き起こる。
運がいい。またふたりに戻れるらしい。機能停止は一週間くらいかな? 一か月はたぶんかからないと思うけど。
ばさりと力尽きたように崩れ落ちる、スカーレットの前に素早く回り込みその身体を支えた。
働いていた慣性と衝突のショックは脚のクッションを使って上手い具合にターフへ逃がす。今の彼女を動かすのはまずいから。
「……やっと、わかった」
息も絶え絶えに吐き出される言葉。
たとえ紅色の髪に表情が隠されていても、ぽたぽたと頬に落ちるその滴が汗だけではないことをぼくは知っていた。
「アタシがあのとき傷つけたのはリシュだったんだ。あなたじゃない……」
「うん。ごめんねダイワスカーレット」
怖かっただけなんだ。
きみはぼくが変えてしまった世界の象徴だから。直視するのが怖かった。
ただそれだけの怯懦がここまできみを追い詰めて苦しませるなんて、予想さえしていなかったんだ。
『着順が確定いたしました。一着はテンプレオリシュ! 九番テンプレオリシュですっ。二着は十三番ダイワスカーレット。“紅の女王”、ついに初黒星となりました』
『御伽噺が伝説を超えた瞬間、“銀の魔王”テンプレオリシュこのグランプリでついにGⅠ八勝目! 現在進行形で紡がれる神話にこれからも目が離せません。それにしても三着までクラシック級の子で独占されるとは、新時代の到来を感じずにはいられませんね』
あと一歩でもダイワスカーレットの脚が壊れるのが遅ければ。
負けていたのはぼくらの方だったな。
「担架だ、はやく!」
聞いたことが無いくらい余裕のないゴルシTの声を聞き流しながら、自分より背の高い女の子を抱きしめて支え続ける。
ゆらゆら陽炎のように立ち昇る湯気から危険なくらい高温になっているのが窺えるけど、体温の高さはこちらもどっこいなので熱いとは感じない。
結局、勝敗の決定打になったのは信念でも努力でもなく、生まれ持った素質の差だったか。
「せちがらいねぇ」
天を仰いでも何かが書いているわけでもなく、ただ地上のことなど知ったことかとばかりにさえざえと澄んだ冬の青空が広がっているだけだった。
U U U
興奮と賞賛と期待……だけではないざわめきに揺れるライブ会場。
スカーレットがライブ前に救急搬送されても、ライブが取りやめになることはない。
レースが興行であるようにライブも興行だ。レースでウマ娘が故障してライブに出られなくなるのはあまり大声では言えないがままあることであり、それに合わせたマニュアルも存在している。
この場合、欠員となるウマ娘以下の順位を繰り上げにして配役するのが通例だ。特に上位三名は歌唱パートがあるので欠員のままライブ決行はありえない。
そのはずだった。
しかし順位繰り上げで三着の歌唱パートを担当するはずのブライアン先輩はバックダンサーの衣装で舞台に上がると、マイク片手に観客席に向き直りこう宣った。
「このライブ、本当に二着をダイワスカーレット以外のウマ娘で埋めて開催するのか?」
たった一言でしんと水を打ったように静まりかえる会場に、淡々と声を荒げているわけでもないのに逆らい難い覇を纏ったブライアン先輩の言葉が続く。
「怪我をしてまで限界以上を引き出したことを肯定するわけじゃない。だが、この年の有馬記念の二着はダイワスカーレットただ一人。そう断言するに値するレースだった。
ならば今から始まるウイニングライブの二着は欠けていることにこそ価値がある。そうじゃあないか?」
誰も何も言わなかった。
まるで肉食獣の様子を窺う草食獣のように皆が息をひそめていた。
どれほどの時が経ったのだろう。
パチリ、と沈黙が一つの拍手で打ち破られる。
それはパチパチと小川が流れ合流するように連鎖を重ね、ついにはライブが始まる前から万雷の拍手喝采が会場を包み込んだ。
きっと不満のある者だっていただろう。たとえ仮初のものだったとしても一着でも上のパートで踊る推しを見たいファンだっていただろう。
それでも納得してくれた。
いや、『納得させた』と表現した方が正確かもしれないけども。
でも少なくとも舞台に上がる十五人の方は事前に話を持ち掛けられて、全員が納得済みである。
言い出したのが繰り上がれば歌唱の権利を手に入れるブライアン先輩だったというのも大きいかもしれない。『あの血湧き肉躍るレースの後に代役で歌うなど御免だ』と本人はその権利を歯牙にもかけていなかったが。
観客の同意が(半ば無理やり)取れたということで慌ただしくライブの最終調整に入るスタッフたちの中、一仕事果たしたという気負いも見せずスタスタと舞台袖に戻ってくるブライアン先輩に駆け寄る。
「……あの、ありがとうございました」
こちらへ向けられる金色の瞳におずおずと一礼。
限界を超えたというのなら私も似たようなものだ。
テンちゃんはしばらくの間昏睡状態。スカーレットは私と真正面から鍔迫り合いを演じたせいで怪我をして今は病院だ。
極度の疲労に加えメンタルは大ダメージ。現在の調子は最悪の一言に尽きる。
だから見ていることしかできなくて、与えられた義務をなんとかこなす余力くらいしか残っていなくて。
なのにスカーレットの空白を空けたままライブが開催されることになって嬉しかった。
ブライアン先輩が、共に競ったウマ娘たちが、そして観客のみんなが、スカーレットと私たちの激闘にそれだけの価値を認めてくれた気がして。
スカーレットがいなくなっても当然のように彼女の抜けた穴を埋め開催されるライブに、思うところが無かったわけじゃない。
でも、もともと私は既にルールで決まっていることを自分の意思で覆すということが苦手なのだ。
だってきっとその気になれば、たいていのルールは私を縛っておくことなどできやしないから。
人間社会で生きていくためには『ルールを守る』というルールを鵜呑みにしなければならなかった。
まあ偶にどうしても納得できないこともあるけど、それはそれ。私のせいで変わることはあっても、私から積極的に否定して変えようとしたことはない、はずだ。
「別に礼を言われる筋合いなどない。ただ私自身が癪だから動いただけだ。それと――」
じろじろと私を無遠慮に眺めまわした後、出てきたのはそんなセリフ。
言葉の続きを大人しく待つ私の前で、何やらブライアン先輩は考えていたご様子だったが、軽く首を横に振った。
「――いや、別にいい。気にならんと言えば嘘になるが、よくよく考えてみればオマエがいったい誰かなどあまり興味のないことだった。
私の渇きを満たしてくれるのなら、オマエたちの正体など私にとってはどうでもいい」
「……あはは、そうですか」
これには苦笑いしかできない。
腹は立たなかった。
むしろこういう受け入れられ方もあるのかと一つ賢くなった思い。
言うべきことは言い終わったとばかりに過ぎ去る背中を見送る。
理由はどうあれ、お膳立てをしてもらったのだ。
後は私がやるべきことだろう。
給料分の仕事という意味では一着の私が間違いなく一番多く貰っているのだから。
ちなみに有馬記念一着の賞金は五億。まるまる全額がウマ娘の懐に入るわけではないとはいえ、母数が母数だけに割合だってそれなりの額になる。
……がんばろう。
身体コントロールは得意分野だ。ダンスは表情筋の動き込みで身体に叩きこんでいる。血流だって操作して、頬を染めたとびきりの笑顔だってファンにお届けしてさしあげるさ。
スカーレットがいないから物足りないライブになったなんて、絶対に言わせない。
足を引きずるようにして何とか学園まで戻ってきた。
いや、ちゃんと桐生院トレーナーに送り迎えしてもらっているけどこう、心情的に。
ウマ娘とトレーナーの関係によってはレース勝利を祝して一緒にごはん食べたりするのかもしれないけど。
桐生院トレーナーと私はそのあたりわりかしドライだ。プライベートな寄り道は一切なしで帰ってきた。
これは明らかに私側の性質に依るものだろう。ミーク先輩の場合だともっと距離を詰めた対応をしているのが見て取れる。デジタルはよくわからん。基本的には私と同じ人見知りだけど、一部ブレーキが壊れていて猪突猛進するからなあの子。
わたしがんばった。
ライブは成功した……と言っていいんじゃないかな。
たぶんね。拍手も声援もすごかった気がするし。テンちゃんがいないから客観性に欠けた独断でしかないけども。
年末のこの時期だ。帰りの道中が混雑していたこともあり、学園までたどり着くのになかなか時間を使ってしまった。日はもう既にとっぷり沈んでしまっている。
レースの反省と今後の課題の洗い出しは中山レース場の控室と帰りの車内で既に終わらせているし、クールダウンも十分に済ませた。
インタビューだって今日受ける分は全部ちゃんと受けてきた。練習の成果が光る出来だったと思う。
ようやく私の自由時間だ。
寮生活のつらいところ。門限があるので一度は大人しく自室に帰ったが、身体も心も疲れ切っているのになかなか眠れない。
ちなみにココンは既に寝ていた。今日はよほど熱心にトレーニングをしたのか、部屋への出入り程度では起きる気配もなかった。
有馬記念を勝ったルームメイトにお祝いの言葉の一つも無いとは相変わらずなやつだ。祝われても困っただろうけど。
仕方がない。
コートを引っ掛けスマホをポケットに入れると意を決して窓を開ける。
向かうのは学園の校舎。
「よっ、ほっ、えいしょっ」
闇に紛れ人目をかいくぐって移動し、壁を蹴って一気に校舎の屋上まで駆け上がった。
この時間ならもう施錠されているだろうから、誰かがわざわざ屋上まで上がってくることはあるまい。ルームメイトに気を遣う寮の自室以上にプライベートな空間だ。
何かあった時の為に学園のセキュリティーは三次元MAPで頭に入れておいたから、うっかり警備会社を呼んでしまうような失態もない。
こうやって実際に使うのは初めてだけどね。テンちゃんならともかく、まさか私が悪用する日が来るとは当時は想定もしていなかった。
空にちらほら星が見えることにため息をつきながら、電話帳から選ぶのは母のケータイ。三コールもしないうちに出てくれた。
「……もしもし」
「あらリシュ! 有馬記念勝利おめでとー!!」
第一声からハイテンションの祝辞。
それだけで少し、寒さが薄れた気がする。
「すごいレースだったわね。だいじょうぶ? 怪我してない? 少しでも痛いところや違和感があったらちゃんとトレーナーさんに言うのよ?」
「ん、大丈夫」
我が身体ながら呆れるほどに頑強だ。
この時間になるまで帰れなかったのは桐生院トレーナーに精密検査を受けさせられたからというのもある。
結果、問題なし。もちろんダメージが無いわけではないが、あくまで常識の範疇。食べて寝てを繰り返せば遠からず万全に戻るだろう。
奇跡の対価は往々にして前払い。あるいは全力を出しても身体がそれに耐えられるように、着々と二年間積み上げてきた貯蓄がギリギリのところで踏みとどまらせてくれたのかもしれない。
スカーレットの脚は壊れたのにね。
命に別状がなければ屈腱炎のように選手生命が断たれるわけでもない、ただの骨折だと先ほどLANEに着信が入っていたけど。
「じょーぶな身体に産んでくれてありがとう」
「あっはっはっは! どういたしましてー。でも結局はあなたが頑張ったからよ。ネットニュースでも速報が飛び交っているわよ。クラシック級でGⅠ八冠これは皇帝を超えたーとか、URAの重賞連勝記録更新ーとか、いろいろ」
そうだ。私はすごいのだ。
世界の歴史に目を向ければまだまだ比較にならないバケモノ記録はあるけど、国内という括りではわりとすごい記録をたくさん打ち立てたのだ。がんばったのだ。
自慢の子供になる権利は十分に持っているはずなのだ。
だから、今なら聞ける。
「ねえ……わたし、生まれてきてよかった?」
テンちゃんが起きているときはこんなこと聞けないし、そもそも聞く気もおきない。普段の私は自分で言うのも何だが自己肯定感のカタマリだから。
でも、人間社会で生きていくうえで周囲と異なる存在であることに負い目を感じず生きていくなんて無理だ。
幼少期、私は病弱なウマ娘だった。
意識が朦朧としていることも多くて記憶は曖昧。ただ、体調を崩すたび専業主婦だった母が付きっ切りで看病してくれたことは憶えている。
なのにその頃の私はあまり泣いたり笑ったりしない子供だった。我が子とはいえ、きっと尽くし甲斐の無い相手だった気がする。
三歳になるころにようやく体調が安定し始め、積年のテンちゃんの努力あって外部とのコミュニケーションの概念を理解した私は少しずつ泣いたり笑ったりし始めた。
五歳になると少しずつ走れるようになった。このころの私がたぶん一番普通のウマ娘っぽかった。
しかし走るようになると今度は急速に規格外の身体能力が顔を覗かせ始め、これまでの病弱はいったい何だったのかと思うほど健康になった。
小学校に進学し数年もしないうちに、名門のスカーレットを粉砕する実力者になった一般家庭の私はやっぱり浮いた。
友達の家に遊びにいったりとか、逆に友達を家に呼んだりとか。一度も経験が無いとまでは言わないけど。
あまりにも『まっとうな子供らしい思い出』を私は両親にプレゼントすることはできなかったと思う。むしろ次から次へと気の休まる暇は無かったのではなかろうか。
愛されていることは知っている。
でも、一度ちゃんと聞いておきたかった。
その結果、意に沿わぬ返答だったら取り返しがつかないほど傷つくと薄々理解していたのに。
これは信頼かな。それとも甘え?
「……リシュ、おぼえているかしら? あなたが産まれる前、まだお腹の中にいたころの話なんだけど」
少し間が空いた後、母は穏やかな口調でそう切り出した。
いやいや、記憶力に自信がある私でも流石に産まれる前は無理だよ。
無理……のはずだ。
あれ? 何だろう。記憶の指先が埃の被った箱にひっかかる感覚。
「あなたを授かったとわかったとき、お父さんもお母さんもとても嬉しかったわ。でもね、お医者様に言われたの。『この子は産まれてくることができないかもしれない』って」
かちゃんと鍵が開いた。
思い出した。
私じゃない『私』の記憶。
私たちウマ娘はある日、自分が誰かを自覚する。
でもそれはある程度の年齢になって自我が発達し、外部とのコミュニケーションを取れるようになることが大前提だ。
当然ながら、そうなる前にこの世を去ってしまうウマ娘も一定数が存在している。
名前が無いから生きることができなかったのか、生きる必要が無いから名前を与えられなかったのか。
名前の無いウマ娘。
この世に生を受けたとき、私はその一人だった。
次回、答え合わせ