「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」   作:バクシサクランオー

65 / 133
冒頭部分にとあるキャラクターが特定の創作ジャンルを揶揄するような発言をしておりますが、そのキャラの極端な行動の動機を裏付ける描写であり、当作品にそれらの創作ジャンルを否定する意図はありません。

お気に入り登録、評価、ここすき
感想、誤字脱字報告もありがとうございます。


ふたりでひとつのプロローグ

 

 

U U U

 

 

 もはや語るのも恥ずかしい手垢だらけのテンプレを経て私がチート能力と共に転生したとき、私が宿った肉体には先住者がいた。

 話が違う。死産になるはずの子供に成り代わると聞いていたのに。

 この子、まだ生きてるじゃあないか。

 死にたくない。消えたくない。生きたいと。言葉にならないかすかな魂の炎が必死にゆらめいて訴えかけてくるではないか。

 やっぱり女神の甘言など乗るべきではなかったようだ。

 

 たとえばの話。

 ヤクザだかマフィアだかに拉致されたとする。

 無理やり整形されて工作員に仕立て上げられ、新たな戸籍を用意されたとする。

 その顏も戸籍も元々は別の誰かのもので、そいつは既に始末されて死体もコンクリ詰めにされて海に沈められ墓さえないものとする。

 自分は拉致された被害者だからと、何の罪悪感も無しに別人の顏と身分で第二の人生を歩めるだろうか。その家族や友人に接することができるだろうか。

 

 極端な喩えだが、その上役を反社会組織ではなく神に変更したものがいわゆる『成り代わり』や『憑依』と呼ばれるジャンルだろう。

 人形劇で黒子が見えないことがお約束であるように、娯楽であるうちは気にしないお約束を遵守していた私ではあるが、自分がやれというのは御免被る。

 

 私は突き飛ばされただけだから。

 もう終わってしまったことだから。

 今さらどうしようもないから。

 着地地点にいた赤ん坊の頭を踏みつぶした事実に開き直って、血と脳漿で汚れた足跡を残しながら意気揚々と歩きだせる人間だっているのだろう。

 私はそうでなかったというだけの話。

 

 ああ、だめだ。長々と考えている暇は無い。

 いまにもこの炎は消えてしまいそうだ。

 このままただ静観していれば遠からずこの炎は消え、あの女神が言った通りこの死産になるはずだった身体は私のものになるのだろう。

 どうすればいい?

 

 ……いまだこの世界に降り立ったばかりで存在の輪郭があやふやな私なら、輸血のように己の魂をこの炎に注ぎ込むことでこの子の糧になることができるかもしれない。

 成功するかわからないが、それが『できる』ということは直感的に理解できた。

 

 まったく、藪医者もびっくりだ。

 医療に従事する医者や看護師が人を救う権利を手に入れるため何年勉学に励むと思っているのやら。

 しかし魂の取り扱いなどどこに行けば免許が取れるのかさっぱりだし、何よりこの子には一秒だって猶予はない。

 やるか、やらないか。

 あるのはただ単純な二択で、私の選択は決まっていた。

 

 死にたいわけではない。

 消えたいわけでもない。

 そうでなければ女神の誘いなど断っていた。

 

 だが、私は自分が誰だったかを憶えている。

 どこで何をして生きてきて、どのように死んだのか。ちゃんと記憶している。

 自慢できる最期ではなかったかもしれない。やり直したくないといえばウソになる。

 でも私の人生は終わったのだ。

 一度死んだのに見苦しく別の身体を求めるなんて、そんなの悪霊とどう違うのだ。

 私が私の人生を穢すわけにはいかない。

 

 これが芋虫に生まれ変わって、その日のうちに小汚くジャージャー鳴く鳥の雛の餌になる来世とかなら全力で抵抗もしただろうが。

 何の罪もない赤ん坊の糧になれるというのなら、このセカンドライフもさほど悪いものではないと感じる。

 かくも私の中の命の価値は不平等なのだ。この薄汚れた幽霊モドキの魂よりは、無垢な赤子の魂の方が私にとって価値がある。

 

 よし覚悟完了。

 じゃあね、おちびさん。

 私はどのみちここでおしまいだけど、きみはちゃんと生まれることができたらいいね。

 

 

 

 

 

 ……そう、思っていたのだけど。

 実際はこれが始まりだったのだ。

 

 

 

 

 

 私は生き延びた。

 とはいえ、失血死寸前の人間に輸血したらたちまち元気いっぱい! とはいかないように。

 一命を取り留めたというだけで、現状を把握できるだけの余力が生じるまでにはそれなりの時間を要したけれども。

 

 まずこの子は生きている。

 ちゃんと産まれてくることができた。

 その点では大成功と言ってよい。

 だがその場しのぎの荒療治だったことに変わりはなく、まだまだ魂は不安定。

 それに連動するように身体の調子も思わしくなく、意識が混濁する時間が多かった。検証がなかなか捗らなかったのはこういう体調面の制約も大きい。

 

 この子が生きているのに、何故か私も生きている。

 全部注ぎ込んだつもりだったのだが。体感的に四分の一ほど残っている。

 調べていくうちに、どうもこれが原因らしいというものがわかってきた。

 転生特典。チート能力。

 私の魂に付与されていたこれを、この子は注ぎ込まれた際に同時に取り込んでしまったらしい。その超過したキャパシティの分、私の魂は食べ残されたのだ。

 

 この子の魂は一部分が人外(かみさま)のそれだ。

 精神構造が異なるという比喩表現はよく聞くが、この子の場合は比喩抜きで材質が異なる。根本的な感覚の差異、価値観のギャップは生涯ついて回ることになるかもしれない。

 同時に今はまだ肉体も魂も不安定極まりないが、安定したらどうなることやら。

 ずる(チート)というだけあって、往々の物語において転生特典というのは本人の努力ではなく神様に外付けで与えられるものだ。いわば道具であり、使いこなす過程はあっても自身と同一のものではない。

 私だってそうだ。私の魂に残留したチート能力は自身とは別のツールとして認識できる。

 この子の場合は違う。完全に血肉と一体化している。

 これが成長と共にどのような影響を及ぼすのか、しがないテンプレ転生者でしかない私にはまるで予想がつかないけれど。

 幸か不幸か、私とこの子の魂は根底の部分で一体化していて、この子は私のことをもう一人の自分自身と認識している。

 そして今のところ、己以上に知識と判断力に秀でた優秀な半身として従順に判断を委ねてくる。

 この関係性が続くのなら、何とか人間らしい価値観を教え込むことも可能かもしれない。

 

 また、喪失した魂のことだが。

 私が失ったのはいわば『世界に干渉する権利』のようなものらしい。

 私に残されたのはおよそ四分の一。その範疇を超え一日二十四時間のうち六時間以上活動することはどう頑張ってもできなかった。

 ただ、私を取り込んだこの子は私自身の延長線上にカウントされる様子。

 この子の五感を通じて世界を感じたり、この子に指示を出して間接的に世界に干渉したりする分には問題が無い。

 

 まあ、人生二周目の幽霊モドキとしてはずいぶんと上等な待遇か。

 赤ん坊の生態は本能と反射で大部分が構成されているとはいえ、それでも成人済みの記憶と人格の持ち主に食事や排せつを経験するのは厳しいものがある。

 存分に裏方に回らせてもらうとしよう。

 あと記憶と言えば、自分がどこの誰で何をしていたかなどのパーソナルな部分が綺麗に虫食い状態になって思い出せなくなっていた。

 魂と共に前世の記憶を失うのは別に不自然なことではないが、何やら作為的なものを感じなくもない。

 が、私以上にこの子を優先できる理由が一つ増えたと考えればそう悪いものでもないか。

 いざ自分を犠牲にするとき前世の家族の顏でも浮かぼうものなら、さすがに躊躇してしまったかもしれないから。

 

 

 

 

 

 この子は本来、ここにいなかった。

 こうやって生きているのは理不尽で不条理で、あまりにも不平等なことだ。

 ……これは別に私の感傷ではない。

 わざわざ言いに来るのだ。わけのわからないモノたちが。

 

 ここがそういう世界なのか、はたまた元の世界でもそうだったのに私に霊感が無かっただけなのか。

 この世界には霊的なものが存在している。

 外なる女神由来のずる(チート)で生存しているこの子の枠を、あわよくば奪い取ろうと付け狙ってくる。

 お前のそれが許されるなら自分たちだっていいじゃないかと。まあその気持ちは理解できなくもない。

 

 手を出した瞬間ばくりと喰われているけどね、この子に。

 この黒いモヤモヤは果たしてウマ娘が持つ不思議パワーの一部なのか、それとも転生特典由来のものなのか、はたまた両者が混然一体と化した結果なのか。

 そうやって無数の雑霊を食い散らかした結果、不足気味の魂が徐々に補填されて体調が安定していくのは笑うべき事柄なのだろうか。

 どうやら私が学習させてしまったらしい。喰えば生き延びることができるのだと。

 

 初めて見たときこそ飢えた獣に人肉の味を教えてしまったかとひやひやしたが、よくよく観察を続けてみるとこの子が自分から牙を剥くことはなかった。

 『差し出されたものを喰らう』。

 それがこの子の原初に刻まれた生き方なのだろう。逆に言えばあの悪霊どもの直訴は、この子にとっては餌を差し出されたに等しいということでもある。

 根本的に格が違い過ぎる。霊障に関して心配する必要はなさそうだ。

 

 

 

 

 

 正直なところを告白するなら、私たちが長生きできるとは思っていなかった。

 結局のところその場しのぎの繰り返し。

 勢いが衰えれば転倒してそこでおしまいの自転車操業。

 

 そしてその運命を覆そうとも思わなかった。

 私たちは本来この世界にいるはずのない存在。

 無理を通して生き続ければ、そのうち私たちがいなければ本来活躍していたであろう子たちの枠を奪い取ることになるだろう。

 それだけの能力がこの子にはある。なにせ、かみさまを食べた少女だから。

 ただ一人のために多くのものを犠牲にする。それは『悪』と評されるべき生き方だろう。

 だから偶然と幸運が尽きたとき、そこが寿命なのだと潔く終わりを受け入れるつもりでいたのだ。

 

「ウマソウルってうるさいよね」

「えっ」

「えっ」

 

 あの瞬間までは。

 

 この子は生きている。

 この子はごく当たり前に、普通に、生きているのだ。

 それが世界の『ごく当たり前』や『普通』と根本的に異なっているだけで。

 たったそれだけのことに、ようやく気づいた。

 

 だったら何故この子の『普通』が世界にとっての『異常』だという理由だけで、この子の方が道を譲らねばならないのだ。

 いつかと同じ、魂に火がついた。

 

 考えろ。

 どうすれば生き延びることができる?

 

 要するに魂が足りていないのだ。

 この子にはウマ娘としての名前が無い。

 もしかしたら私がそのまま成り代わり転生していたら存在していたのかもしれないが、魂を注ぎ込んだときの欠落で消えてしまった。

 この子にはいわゆるウマソウルと呼ばれるものが存在していない。ウマ娘に本来なら供給される“願い”が無ければ、その“願い”を受け止める器も無い。

 それが自転車操業から脱しきれないそもそもの理由。

 

 だったらウマソウルを用意すればいい。

 この子自身が言ったことだ。いや、私が言ったんだったか。

 憑依転生者もウマソウルも、異なる世界からやってきた『名前』と『歴史』をパッケージされた情報集積体という意味では広義で同じものだろうから。

 私の正体を尋ねられた時に、適当にそう返した気がしなくもない。寝ぼけているからといって幼い子供に適当な返事をしてはいけないな。反省しよう。

 

 だがそれが今は打開策になる。

 私自身がウマソウルになればいいのだ。

 足りない分は外部から補えばいい。ウマ娘はこの世界に星の数ほどいるのだから。

 噂に聞く【領域】。要するに世界を一時的に上書きするほど屈強な魂の発露だろう。あれをちょっぴり齧り取ればこの上ない素材となるはず。

 となれば、やっぱりテンプレ転生者らしくレース業界にこの子の未来を誘導することになるか。

 

 しかしどれだけ中身を集めても受け止める器が、押し固めるための鋳型が無ければ意味が無い。

 括るための名前が必要だ。

 ……正直、候補はある。

 初めて鏡を見たときぱっと頭に浮かんだ名前。

 きっと私がいなければ両目とも綺麗な青になっていたのであろう瞳は、私が宿った影響か右目が赤く変じてしまっていた。

 銀髪で、オッドアイで、転生者で、二重人格みたいなもの。

 何よりイメージしやすい。どういう方向性で売り出せばいいのか明確だ。

 それはこれから大衆の想いを、願いを、信仰を集めようとしている身としては否定しがたいメリットだった。

 

 よし決めた。

 この子の名前は今日からテンプレオリシュ。

 私はちょっとお喋りでうるさいウマソウル。

 私が決めた。そう決めたっ!

 

 この子がテンプレオリシュと言う名のウマ娘なのだと、世界に押し切ってやる。

 問題は、この子が自分の名前をテンプレオリシュなのだということを受け入れるか。

 そこにわずかなりとも疑問を持たれてしまえば、その名は鋳型には足りえないだろう。

 ……まあその点に関しては大丈夫か。

 この子との信頼関係は十分だ。

 ぶっちゃけ私が何を言っても、真相はどうあれ私の言うことだからそれが真実でいいと受け入れてくれるくらいにこの子は私のことを信じ切っている。

 

 そう思ってくれるくらい私がこの子に対して誠実であったということ。だからこそ、この子を騙しきるために吐く嘘はこれが最初で最後だ。

 ま、AIと人間の最大の差異は嘘が吐けるか否かだっていうし。これも人格を有したウマソウルのご愛敬ってことで。

 いずれこの嘘も真実に変わるときが来るんだからさ、許してもらおう。

 

 道具は用途に適した形状をしている。

 

 獣を狩る槍ではなく、獲物を狙う弓でもない。

 道を拓く斧や鎚ではなく、守るための鎧や盾でもない。

 他者を喰らって生き延びると決めたとき、モヤモヤとしていた黒はおのずと剣の形をとった。

 剣というのは人殺しに適した道具だ。

 逆に言えば、人を斬る以外の用途では使いにくい道具ということでもある。それ故に闘争のシンボルとして剣が廃れた今でも世界で幅広く用いられているのだ。

 自分がこれからやろうとしてることをダイレクトに見せられたみたいで、ちょっと笑った。

 

 この子がいなければもっと正しい世界があったかもしれない。

 この子に奪われなければそこで別の子たちが笑っていたかもしれない。

 その事実を、これから成される悪を私だけが記憶してあげるから。

 痛みを知ろうか世界、ただひとりのために。

 

 たくさん考えよう。

 この世界の成り立ち。この世界の在り方。

 勝ち方。強くなる方法。負けない方法。

 私の持っている知識はあくまでここと相似したフィクションのものだけど、これだけ似ている以上はきっと無駄にならないはず。

 何をどれだけ積み重ねればこのゲームがクリアできるのか、そもそもクリア条件すら定かでないけれど。

 人生なんてそんなものだろう。

 むしろ事前知識とチート能力があるだけ、前世よりずっとイージーモードですらある。

 

 

 

 

 

 さて、とはいえ何から始めたものやら。

 ……そうだな、キャラづくりの一環として。

 

 一人称をそれっぽく『ぼく』に変えてみようか。

 

 

U U U

 

 

 思い出した。

 私の口調は昔のテンちゃんの真似だ。

 

 妹が大好きな姉を何でもかんでも真似したがるように、私もテンちゃんの真似をして話し方を覚えた。

 でもテンちゃんがキャラづくりを始めたとき、その真似をすることは許されなかったので私はそのまま置き去りにされたんだ。

 

 ずっと、守られてきたのか。

 

「三女神さまに何度もお祈りしたわ。どうかこの子を私たちから取り上げないでください。産まれてきてくれたのなら、ちゃんと一生をかけて愛しますから。

 普通じゃなくてもいい。五体満足じゃなくたっていい。重い障害を持っていたって構わない。ただ私たちの子供として生まれてくれたら、それだけでいいから……」

 

 電話口の向こうでは母が懐かしむように穏やかな口調で語っている。

 

「そうしたら、あなた達は奇跡を起こして産まれてきてくれた。しかもその奇跡を起こした天使まで私たちの娘になってくれたの。これほどの幸せがあるかしら?」

 

 もう一つ思い出した。

 

 テンちゃんを最初に『テンちゃん』と呼んだのは母で、それは私がテンプレオリシュになる前の話だった。

 私のヒトとしての名前を、テンちゃんは共有していないのだ。

 天使のテンちゃん。

 安直も一周回ればなかなか気づけないものである。

 

「リシュ、いい? 親にとってはね。子供は生まれてきてくれた時点で百点満点なの。あなた達はひとりでふたり分だから百倍で一億万点ね!」

 

 大変だ。算数が息をしていない。

 

 生きているだけで百点満点。

 朝ちゃんと起きられたらさらに加点。

 おはようを言えたらさらに加点。

 家事を手伝えたらさらに加点。

 テストでいい点が取れたらさらに加点。

 どんなことがあっても合格点より下になることは無く、プラスアルファの加点要素しかないのだと母は言う。

 

「生まれてきてよかったかって? もちろん。それだけで満点合格よ!」

 

 きっと私が本当の意味でウマ娘になったのは、スプリンターズSのときだ。

 銀の魔王という鋳型に集めた“願い”を情動で焼き固めて、世界に刻みつけた。

 テンプレオリシュというウマ娘が存在していることをようやく世界に認めさせたんだ。

 道理であれ以来、情緒が揺れ動くようになったと感じるはずだ。

 逆だった。あのときまで私の魂は未完成だったのだ。

 

 【黒喰(シュヴァルツ・ローチ)】と【白域(ホーリー・クレイドル)】も、実のところ厳密な意味では『【領域】に似た何か』だったのだろう。

 転生チート? とかいうものと私たちの起源が合わさって発現した【領域】モドキ。本当の意味でテンプレオリシュの【領域】と呼べるのは【十束剣(トツカノツルギ)】から。

 『奪い取った因子を束ねて造った、実質無銘のかみさまの力を宿した剣』。わかってしまえばかなり露骨に私の本質を表している。

 

「ありがとう。私たちの娘に生まれてきてくれて」

 

 それらの事象に父も母も、何も関与してはいない。

 でも私たちがちゃんとウマ娘になるまで。

 十四年もの間、何一つ不自由なく幸せに生きることができたのは間違いなくこの両親のおかげだった。

 

「……こちらこそ、ありがとう。あなた達の娘に生まれてきて、わたしは幸せだよ」

 

 大人ならこんなとき涙を流しても恥ではないと諭すのかもしれないけど。

 私はまだまだ子供だから、声が震えないように頑張って抑え込んで上を向いた。

 夜空の星がぼやけ、街の灯りと混ざって頬を流れ落ちる。

 頬を撫でる風がとても冷たくて、零れる滴の熱さを浮き彫りにしていった。

 

「ばかね。そういう言葉は結婚のときまでとっておくものよ」

「…………前向きに検討はしておく」

 

 結婚願望が無いわけじゃないつもりだけど、どうだろう。

 いまさら自分以上にカッコいい人がいる気がしなくなってきた。

 

 これもナルシストっていうのだろうか。

 

 独りは寒い。

 それは変わらないけど私は満たされていた。

 

 

U U U

 

 

 後日、都内某所の病院の個室にて。

 

「……で、アタシにそれを聞かせてどうしろっていうのよ?」

 

 いまだテンちゃんがまどろむ中、私はスカーレットのお見舞いにきていた。

 限界を超えた彼女の脚が負った代償は骨折および筋肉の断裂。

 容態は安定しており経過も良好なため、退院そのものはそう遠い話ではないという。

 

 でも、その後のリハビリはどれほどかかるのだろう。

 半年か、それとも一年か。

 『復帰』にかかる時間だけでもそれだ。

 彼女が再び『勝利』を掴み取るまでの過程はどこまでも遠く長く、霞んで見える。

 

 そんなこと知ったことかとばかりに病室に押し掛けた(一応本人およびそのトレーナーに了承は得た)私はすべてをぶちまけた。

 私とテンちゃんの関係性。

 その全てを余すことなく、ろくに整理すらせず、思いつく端から手当たり次第にありったけを。

 

 足を固定され、ベッドの上に寝そべったまま冷めた視線を向けてくるスカーレットの対応も宜なるかな。

 私にとっては重要なことだったとしても、第三者的にはこんなことされたって迷惑だろう。

 

 別にどうこうしろってわけじゃなくて、ただスカーレットには知ってほしいと思っただけなんだけど。

 でも、それを素直に伝えたら私とスカーレットの関係性が決定的に変わってしまうような気がして。

 何となくそれは嫌で、避けたい事だった。まだ彼女には走っていてほしいから。

 

「やめないでほしい」

 

 想いの表層だけ切り取って言葉の殻に包む。

 スカーレットの視線にはいつもの鋭さが失われていた。

 肌を刺し肉を抉る、あの熱が足りていなかった。

 

「あら、どうして?」

 

 スカーレットがふっと笑い、肩をすくめる。

 まるで燃え尽きてしまったかのような穏やかさ。

 

「まるまる二年、ううん、それよりずっとずっと前から備えて。作戦を練りに練って、トレーナーと綿密に打ち合わせして。最後には脚がこのざまになるくらい、全部使って限界を超えて走って……。それでも届かなかったアタシに、これ以上なにを求めるっていうのよ?」

 

 まったくもって返す言葉が無い。

 彼女は私たちに勝つため、あまりにも多くのものを犠牲にした。

 私たちは最強だ。

 私たちと競うということはすなわち、敗北の痛みを知れということである。

 絨毯と見紛う大量の花吹雪を染めるほど血を流したスカーレットに、これ以上の痛みを強いるのは酷というものだった。

 それでも私が走るとき、同じ世界にきみがいてほしいんだ。

 

「あれはもう使わない。今年の有記念、スカーレットは負けたけど、私が勝ったわけじゃない」

「……なによ。手加減してやるから今度は勝ち目があるって言いたいの?」

 

「違う。あれは私の力じゃあなかった」

 

 他者の【領域】を奪い取るのも、状況に応じて奪い取った【領域】を我が物顔で振りかざすのも、いずれも私たちの力だ。

 埃をかぶっていた記憶の箱が開いた今、それは力強く肯定できる。

 まー、あの記憶の解放は今回の『紫』で重なっていた副産物で、テンちゃんが独占していた記憶のいくつかがこちらに転がってきただけ。テンちゃんの記憶がすべて共有されたわけじゃないから、もしかしたらテンちゃんには別の意見があるかもしれないけども。

 少なくとも私は自分の【領域】を全肯定している。

 

 だがその肝心の『紫』は違う。

 あれだけ強力で使用中は全能感すら覚えるのに、それでも私がなかなか使いたいと思わなかった理由。

 使うとテンちゃんがひどく消耗する。それだけが敬遠する動機ではなかったのだ。

 きっと、本能的に察していたのだろう。

 あれは(リシュ)でもぼく(テンちゃん)でもなく、この世に生まれてきていたかもしれないプレオ何某の力。

 私たちのものじゃない。

 

 今からだってその気になれば、『紫』の状態をずっと維持し続ければ、私たちはひとつの存在になることだってできるかもしれない。

 二重人格は異常だ。それは間違いない。自己否定や卑下ではなくただの事実。ならばその解消は正しいことなのかもしれない。

 思えばテンちゃんはいつだってその選択肢を脳裏に留めていたように感じる。

 でも私は嫌だ。

 周囲にとっての『正しい』ことだからといって、どうして私がそれに従わなければならないのか。

 世間の正義と私の当然が共存できないというのなら、世間の正義を粉砕して己が縄張りを主張しよう。それを成し遂げるだけの力は持っているつもりだ。

 

 だから私はひとりの未来を選ばない。

 テンプレオリシュとは(リシュ)ぼく(テンちゃん)、私たちふたりを指す名前だ。

 

 だからもう、私は『紫』を二度と使わない。

 封印などという気障な理由ではなく、自分のものでないから。

 あれはたまたま私の手の届くところにあった他人の能力なのだ。

 他人のものは勝手に使わない。至極当然の道理である。

 

「ふぅん……で?」

 

 説明する私の前で、スカーレットはほっそりとした指を頤に添えた。

 その憮然とした表情は様々な感情を押し込んで包み込んだ包装紙のようにも思える。

 で? と言われても困るのだけど。私はテンちゃんほど会話の組み立てが得意ではないのだから。

 わりと文脈がおかしくなる気もするけど、思っていることは一通り伝えておくか。

 

「私、負けないから。テンプレオリシュが最初に負けるのはダイワスカーレットに決めた。だからきみが帰ってこないなら私は無敗になる」

「はあ!? ……いや、負けないってそれアンタが決めることじゃないでしょ」

 

 一瞬だけ表情にいつもの熱が戻ったけど、またけだるい冷静さに埋もれてしまった。

 さっきからスカーレットの発言が正論尽くしで困る。

 きみってそういう賢いやつじゃなかっただろ。テストで満点取るために何日も夜遅くまでかけて教科書とノートを丸暗記して、その反動でテスト当日に熱を出すような頭の悪い優等生だったじゃないか。

 実際にそんな醜態を晒したことは無いけどこう、イメージ的に。スカーレットをちゃんと知っている人間に言えば『ああ……』とかなりの人数が頷いてくれると思う。

 

「そうだね。私の決めることじゃない」

 

 いつかテンちゃんが言っていたように、『無敗』は目標ではなく結果だ。

 本当に『無敗』を目標に据えるのなら自分より強い相手と戦うなど言語道断。自分より確実に弱い相手を、確実に勝てるステージで迎え撃つのが常套手段となる。

 それは中央のウマ娘のあるべき姿ではない。

 百戦錬磨のライバルたちとしのぎを削り、走り抜けてからようやく気づく。一度も負けていない。そんな戦果こそが価値のある『無敗』。

 

「でも私はそう決めたんだ」

 

 私はここまで幸か不幸か、一度も負けずにここまで来れてしまった。

 その敗北にはそれなりの値札がついていると思う。

 スカーレットは私にとって特別だから。

 彼女が積み重ね、手繰り寄せた、たった一度のステージ。それすら無惨に踏み砕いたのが私。

 でもスカーレットの努力が報われてほしいと思っているのも本当なのだ。彼女が血反吐を吐いてまで求めたものが、ぽっと出のどこかの誰かにあっさり奪われてしまうなんて、そんなのあんまりじゃないか。

 テンちゃんなら世の中そんなものだと嗤うだろう。

 私だって否定はしない。シニア級は魔物の巣窟だ。このまま一度の敗北も経験せず引退できるとはあまりに甘い見通しだと思う。

 先日勝利した有記念はその年の最高峰が集うグランプリとはいえ、しょせんはたった一回のレース。枠は最大で十六しかなく、まだ見ぬ強敵は四肢の指を総動員しても足りぬ。

 

 それでも、それでも初めて負けるのならそれはスカーレットがいい。

 スカーレットじゃないと嫌だ。

 そんな子供じみた我儘を覚悟という額縁で飾り付け、胸を張って掲げる。

 それがスカーレットにできる、今の私の精一杯だった。

 いわゆる推し活。うん、少し違うか?

 

「なによ。シニア級からは大人しく雑魚狩りにでも専念するつもりなの?」

「いや、シニア級の目標は春と秋のシニア三冠。ついでにダートと短距離とマイルのGⅠも制しておきたいと思っているよ」

 

 あまりに私があっさり言ったせいかスカーレットは絶句した。

 

 クラシック三冠と春秋シニア三冠の制覇は入学前からテンちゃんが掲げていた目標だ。

 今ならわかる。テンちゃんはそうやって前人未到の大記録を打ち立てることで『テンプレオリシュ』に捧げられる“願い”を確固たるものにしようとしていたんだ。

 私が天寿を全うするまで、私に捧げられる人々の“願い”が途切れないように。霧のように不安定な私が消えてしまわぬように。

 でもその未来にテンちゃん自身の枠は無い。あえて切り捨てているわけではない。どっちでもいいだけ。

 テンちゃんは仮に自分が“願い”を流し込まれた結果として物言わぬただのウマソウルと化しても構わないと思っていた。

 もちろんテンちゃんが消滅したらひどいことになる。なにせ私たちからブレーキ役が消滅するのだ。半ば確約された大惨事である。

 

 それでもいいと思っていた。

 自分の価値を安く見積もっていたわけではなく。生まれる悲劇を軽視していたわけでもなく。

 たとえレース業界が壊滅状態になったとしても、きっといつかは復興する。仮にもう取り返しがつかないほど壊れきってしまったとしても、そのときはそのときでウマ娘たちは新たな道を選ぶだろう。

 極端な話、事態がいきつくところまでいってしまって全人類が滅亡する結末になったとしても。この星の支配者が変わるだけだ。世界は滞りなく続いていく。

 自分がいなくなれば困ることが起こるし、泣く人も出てくる。でも別の誰かがなんとかして解決するし、涙はいつか乾くか枯れる。何かが消えたら何かで埋まるのだ。一度死んだ『彼ないし彼女』はそう悟った。

 

 割り切っているというか、達観しているというか、はたまた厭世的とでもいうべきか。

 まあそうでもなければ、一度死んだからといって名前も知らぬ赤ん坊のために自らの魂を捧げるなんて極端な選択肢を選ぶこともないか。

 

 手の届く範疇は全力で誠実でひたむきに。そうでない部分は相応に。

 私の性格のルーツを見た気分だ。

 そう考えるとクラシック級に上がったばかりの年始。〈ファースト〉とひと悶着あった後にテンちゃんの優先順位が変更されたのはかなりすごいことだったんだなあ。

 

 ただ、当時と今ではいろいろと状況が異なっている。

 たぶん現状はテンちゃんが想定していた中でも最高に近い上振れ。

 テンちゃんの性分から考えて『全レースで勝利』などという快挙を大前提に計画立案するはずがない。どこで躓いてもリカバリーが利くようにリソースを管理していたはずだ。

 つまりシニア級を目前に既に『テンプレオリシュ』として確立している今、私に注がれる“願い”はだいぶ余裕がある。

 

「今年の年度代表ウマ娘は私で決まり。だから、その場で(テンプレオリシュ)私たち(二重人格)であることを(おおやけ)にする。新しい勝負服もそれに合わせたデザインにしてもらうつもり」

 

 だったらそれを有効活用しよう。

 ただの『テンプレオリシュ』ではなく、『ふたりでひとつのウマ娘(テンプレオリシュ)』に改めて“願い”を集める。

 未来のいかなるレースにおいても、とある二重人格のウマ娘が残した偉業が比較に出されるほどの偉業を打ち立てるのだ。

 シニア級のわずか一年間で無敗のまま春と秋のシニア三冠を制し、ついでに短距離とマイルとダートのGⅠも獲っておく。そうすればこの国の平地レースにおいて最終的に立ち塞がる壁は常に私たちの記録になるだろう?

 そうやって膨大な“願い”を獲得する下地を用意しておけば、私たちがふたり揃って天寿を全うするくらいできるんじゃないかな。

 

「負けるならスカーレットがいいとは言ったけど、スカーレットだからほいほい負けてやると言ったつもりはないよ」

 

 いつだったか、テンちゃんが自己犠牲というものを揶揄していたことがある。

 あれは九割がた崇高な善意かもしれないけど、きっと残り一割は『たった俺一人の犠牲でこれだけのものが救える俺の価値SUGEEEEE!!』というねじくれた承認欲求の発露だよねぇと。

 我が身可愛さで目が曇っているだけかもしれないけど、テンちゃんの行動にそういう陰湿さは欠けているように思う。

 私が常にテンちゃんに肯定されているように、私も常にテンちゃんを肯定しているので、私たちに承認の欠乏は無いというのもあるけど。

 必要だからやる。足りない分は諦める。本当にそんな感じ。その諦める部分が生きている人間と大幅に異なるだけで。

 心の一部がずっと死者のままなのだ。

 

 だから私はそれを変えてしまいたい。

 私の人生ではなく、私たちの人生なのだ。ふたりでないと意味も価値も無いのだ。

 それを理解させる。テンちゃんの死者の部分をやっつける。私たちはふたりとも今を生きているのだと。

 私はテンちゃんを一生かけて()()()()()たい。

 それが今の私の目標。

 そのためなら無理も無茶も無謀も踏み砕いて走り抜けてみせよう。

 

 感情ばかりが先走りどうにもまとまりのない私の話を、しっかり一通り聞き終わった後でスカーレットは大仰に嘆息してみせた。

 

「……アンタさぁ、それを聞いてアタシが復帰に意欲的になると本当に本気で思ってんの?」

「私も自分のプレゼン力の貧弱さに涙が出そうだよ」

 

 それでも、私と彼女の関係に限って言えば正解だったようだ。

 スカーレットの目に力が戻った。

 このままターフに帰ってきてくれたら嬉しい。

 それがどれだけ残忍な期待なのか、漠然と理解しているし、漠然としか理解できていないけど。

 

 

 

 

 

 そして、スカーレットの目に力が戻ったところで彼女が入院中の怪我人であることに変わりはない。

 長居し過ぎた。

 あの強がりと見栄のカタマリであるスカーレットの表情に疲労が滲みだしたのを見て、ようやくその事実に気付いた私は簡素な別れの挨拶を告げ、そそくさと病室を後にしたのだった。

 

「……ありがとうございました」

 

 病室を出てすぐ、そこに待機していたゴルシTに頭を下げる。

 

「いいや、こちらこそ助かった。どれだけトレーナーが親身になったところで大人と子供の境目を乗り越えることはできないからね」

 

 ゴルシTは穏やかに頷いてくれた。

 実に大人だ。桐生院トレーナーが尊敬している人物だと公言している理由がよくわかる。

 

「大人としての手助けは最大限を用意できる。けど、同年代のウマ娘になることは俺には無理だ。そして今の彼女に必要なのはどちらもだと思う。だから、こちらこそありがとう」

 

 もともと足は人間にとって第二の心臓と言われるくらい重要な器官であるし、ウマ娘にとって走れないストレスは健康被害が出るほどに甚大だ。

 身体のどこかが壊れればそれを庇うように身体全体の動きが歪み、不自然な負荷が蓄積した結果、別の部位が連鎖的に壊れていくことだってある。

 だけど今スカーレットが動かせないのは脚だけであって、ナースコールを押すくらいのことはできる。それでも彼がこうして病室の前で待機していたのは彼がトレーナーで、スカーレットが彼の担当ウマ娘だからだろう。

 

 彼の担当ウマ娘はスカーレット一人ではない。

 だがウオッカは怪我したライバルに嫉妬して腐るような性分はしていないし、ゴールドシップ先輩は言わずもがな。

 ゴールドシップ先輩は自分のやりたい事しかやらないし、やりたいことにしか興味が無いお方だ。後輩が故障して、担当が故障するという初めての事態にトレーナーが対処している中、あの人の今一番やりたいことは彼らの助力になっているはず。

 きっと今頃、下手なサブトレーナーを凌駕する精度でチーム〈キャロッツ〉の運営をサポートしていることだろう。

 チームメイトの故障とチーフトレーナーの頻繁な不在で精神的に不安定になっている者は多かろう。ウマ娘、トレーナーを問わずだ。そんな彼らを支えるため普段のおふざけの仮面をかなぐり捨てて、真面目に立ち振る舞わなければならない状況はきっと多い。

 スカーレットがある程度回復してきたあたりで、反動がくることを今から覚悟しておいた方がいいかもしれないな。

 

「そうだテンプレオリシュ。君はたしかスカーレットの幼馴染だったよね?」

 

 準備するべきはヘルメットかゴーグルかパスポートかを検討していると、ゴルシTにそんなことを尋ねられた。

 同郷で、同じ学校で、同じ学年で、何度も同じクラスになった関係を幼馴染と呼ぶのであれば間違ってはいないけども。単純に友達とも呼び難い、安易に定義したくない私が抱いている微妙なディスタンス。

 そんな思春期丸出しの自分語りを今の彼が求めてるとも思えないので素直に頷いておく。

 

「こんなことをここで聞くのもなんだけど、スカーレットの親御さんが好きなものって知っているかい? あるいはアレルギーとか苦手なものの情報でも助かるんだけど」

 

 ああ、なるほど。

 ゴルシTが一部のトレーナー勢から蛇蝎のごとく嫌われているというのは知っていたが、その理由をいま肌で納得した。

 

「……スカーレットも連れて行くんですか?」

「ご明察。さすがはこれから歴史に名を刻むウマ娘だけあって君は敏いね。学校なり学園なり、外部から隔離された社会っていうのは内部の感覚も隔絶したものが蔓延しがちだ。こうやって機会を見つけて外気に触れさせてやらないといけないのさ。

 君は親御さんからお預かりした大事なお子さんで、怪我をしたらその親御さんを悲しませることになる。決してこの業界ではよくあることで済ませてはいけないんだって」

 

 彼は菓子折りを手にスカーレットのご両親へ謝りにいくのだ。

 よそ様の子供を預かっておきながら怪我をさせた大人の責任として。

 そしてその場にスカーレットも同行させるのだろう。ただでさえ大人が頭を下げている場面に出くわすと居心地が悪くなるのが、真面目に生きてきた優等生なお子様の生態というものだ。

 しかも頭を下げているのが自分の大事なトレーナーで、下げられているのが自分の大切な親。そして原因は自分。二度と怪我をしてはいけないと心に刻まれることだろう。第三者の立場で想像した私ですらげんなりするくらいだ。

 中央という魔境。それが叶う場所かは、さておいて。

 

 彼はあまりに普通の人間過ぎる。

 中央は魔境。レースのためにあらゆるものを犠牲にする修羅が集う場所。単独なら排斥されるべき要素も、周囲も皆同じ存在であるためむしろ共感を持って受け入れられる鬼の住処。

 そんな中、何も捨てることなく欠けることなく、そのくせ犠牲を払った何者よりも成果を出せる規格外の才気の持ち主が彼だ。

 あの桐生院トレーナーですら欠落があるというのに。彼女の場合、幼少期から名門桐生院の娘として勉学に励んできた代償で一般的な幼少期の経験に乏しい。今でこそアニソンのひとつも歌えるようになってきたが、トレーナーになったばかりの頃は趣味らしい趣味も友人と言えるような相手も存在していなかったと聞く。

 いったい自分のやってきたことは何だったのかと、中央によくいる程度の天才ごときでは自らの行いと犠牲にしてきたモノの価値をまとめて否定されたように感じたことだろう。

 

 彼の人間らしさには惹かれるものがある。

 テンちゃんの記憶曰く、私のズレた部分は人外(かみさま)由来の成分らしいし、まあそりゃあこういうの大好きそうだよね。

 夏合宿のときにも少し思ったが、何か一つ掛け違えば彼と一緒にトゥインクル・シリーズを駆け抜ける未来もあったのかもしれない。

 

「……あいにくスカーレットのご両親は多忙な方でして。あまり会ったこともなくて、よく知らないんです。スカーレット自身一緒に過ごせる時間が少なかったみたいですし。お役に立てず申し訳ない」

「そうか、ありがとう。参考になったよ。それなのにしっかり時間を作ってくださった保護者の方々には礼を尽くさないといけないな」

 

 選抜レースの後に声をかけてくれたのが桐生院トレーナーでよかった。

 私は今の自分が好きだ。

 

 

 

 

 

 そうやって、なんとかかんとか孤独をやり過ごして。

 ついに待ちに待ったいつもの充実が訪れる。

 

《……ん、おはようリシュ》

 

 インフルエンザで一週間寝込み続けたようなガラガラ声。

 この極端な消耗が嫌だったから使わなかったんだ。それで正解だったと今は思っている。

 

「おはよう、テンちゃん」

 

 ねえテンちゃん。

 私ね、やりたいことがたくさんできたんだよ。

 きみと話したいことがいっぱいあるんだ。

 聞いてくれる?

 時間はまだまだたっぷり余裕があるはずだから。

 

 おはよう、私たち。

 これからもよろしくね。

 




これにて今回は一区切り!
ついにクラシック級編終了! お疲れ様でした!!
また『テンプレオリシュとは何者なのか』という大テーマにもこれで一区切りです。
次章からは己が何者であるのかを選んだ彼女たちの新たな物語となります。

いつも通り、一週間以内におまけを投稿予定……
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。