「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」 作:バクシサクランオー
感想、誤字脱字報告もありがとうございます。
U U U
カラオケはわりと好きだ。
マイクを握って性格が豹変するのも、歌う曲によって別人のような雰囲気になるのも、この場においてはままあること。
テンちゃんと私の関係性は別に隠していることじゃないけど。
無遠慮にツッコまれたら煩わしいな、と思う程度の相手とでも気軽に遊びに行ける。テンちゃんと私が気兼ねなく表に出ることができる場所だから。
特にトゥインクル・シリーズを走るウマ娘は私を含め、例外なく歌って踊れる美少女なので。
カラオケボックスは友達と遊びに行く際の有力な候補になりがちだったりする。
仕事でウイニングライブして、プライベートでまで歌って本当に楽しいのかと、かつての私が今の私を見れば疑問に思うかもしれないけど。
意外と楽しいぞ。
テンちゃんの論評を引用すれば『美少女が歌って踊ってキャッキャしているのを見て不愉快になる人間ってそういない』からな。
まあたしかに、昔の私なら人間への苦手意識の方が勝って楽しみきれなかったかもしれないけど。
今の私は素直に楽しめる。本番のライブじゃとてもできないアドリブやネタも、プライベートな個室だとバンバンできるしね。
メンバーにデジタルがいるとすごく快適。
気配りが行き届いているし、合いの手も上手いし。ジャンルが偏っているとはいえレパートリーも豊富。
ジュニア級の出会ったばかりの頃はまだぎこちなさもあったが、シニア級にもなった今では〈パンスペルミア〉の面々相手なら水を得た魚のようにイキイキと場を盛り上げてくれる。
ミーク先輩はあののんびりした普段の調子に反し、実は早口言葉が得意だ。『人間卒業試験』と揶揄されるような、本来人間が歌うことを想定していない超高速のボカロ曲を彼女とデュエットするとすごく楽しい。
ちなみにこれが桐生院トレーナー担当の内輪の集まりではなく〈パンスペルミア〉のメンバーだったりすると。ここでバクちゃん先輩がスピード勝負という観点から張り合っては舌を噛んで悶絶し、その隣でマヤノが早口言葉のコツを『わかっちゃった』して歌いきった後にどや顔するんだ。
はっきりとその光景が目に浮かぶようだ。うむうむ、だいぶ私も対人経験値が蓄積されたものだな。悪くない。
ま、現在の私はテンちゃんとふたりで一人カラオケを満喫中なんですけどね。
交互に歌うのもデュエットするのも、ここにいるのは自分だけなので自由自在。こういうのも偶にはいい。
いやまあ、待ち合わせ場所をカラオケボックスにして人を待っているだけなのだけども。
学生という立場に有名人という属性が追加されるとね。人目を気にせず誰かと待ち合わせできて、なおかつ騒がしくしても周囲に迷惑を掛けないところってなかなか無いのだ。
何度か歌っているうちに採点システムが把握できたのでいったん百点を取って、そこから曲を変えながら一点ずつ減らしていく遊びをしていると九十五点を取ったところで待ち人が来た。
「お、おまたせしました……!」
防音はしっかりされているのだろうが、それでも扉が開くと廊下越しに別の部屋で歌っている誰かの声が漠然と流れ込んでくる。
そんな歌声と共に私たちの部屋に入ってきたのは、いつか図書館で知り合ったテンちゃんの知り合い。中央トレーナーを目指し勉強していた彼女だった。
「ん、へーきへーき。たいして待っていないから。まあ座りなよ」
「あ、は、はいっ。で、では失礼します……!」
まるで職員室に連行された小学生のように恐縮しながらこわごわとソファーに身を沈める、私たちより最低でも一回りは年上の女性。年上の貫禄はあまり感じない。
この場には私たちと彼女の二人しかいないというのに、妙に空間に空きがあるのは心の距離の表れだろうか。
「おじいちゃ、いえっ、祖父からお預かりした新作の勝負服。たしかにここまでお持ちいたしました……!」
ソファーに座った彼女はまるで爆発物を押し付けるように勢いよく、同時に繊細な芸術品を扱うようなうやうやしい手つきという矛盾した仕草で手に持った荷物を私に差し出した。
彼女と今日ここで待ち合わせした理由は端的に言ってしまえば、彼女が私の勝負服を作ってくれた職人さんのお孫さんだったからだ。
世間は狭い。いや、単純に偶然とも言い難いか。
レースという広いようで狭い業界。幼少期から関係者の中で過ごせば自然と自らも同じ道を選ぶ可能性も高まるというもの。
それにしたってジュニア級から続く私のGⅠレースを陰から支えてくれた勝負服の職人さんと、図書館で偶然出会ったトレーナー志望の女性が血縁者というのには驚いたが。
運が捻じれている、というやつか。
この因果は私たちと彼女、いったいどちらが引き寄せたものなんだろうね。
「ねねねね念のためおおおお受け取りのサインを。い、いえ、いえいえいえ! 決して疑ってるとかそういうわけではなくてですねっ、ただでさえイレギュラーなことをやっている分手続きはしっかり守らないと――」
「まーまー、落ち着いて」
彼女の言う通り、本来なら勝負服は年度代表ウマ娘の表彰後に贈呈されるものだ。
ただ、私はやりたいことがあったので一部順番を変えてもらった。
持つべきものは
メイクデビューからここまで十二連勝。重賞だけ数えても十勝、うちGⅠは八つ。様々な記録を更新したこの実績は中等部の少女の我儘を押し通せるだけの重量を有するようになった。
「ドリンクバーはちゃんと二人分注文しておいたから。お茶飲む?」
「うひえっ、いえそんな恐れ多いあっあっあっありがとうございます……」
しかし妙にテンパっているというか。
テンちゃんに押し付けられるようにして受け取ったグラスを両手で抱えるように持ち、ちびちびと中身をストローで啜る彼女は普段にも増して変人だ。
声を潜めるような口調なのに力が入り過ぎて語尾は叫ぶような感じになっているし、語彙のチョイスも微妙にバグっている感がある。
「よし、難しい話の続きは後回し。とりあえず一曲いっとこ?」
「あっはい」
初対面のときからひどいクマが印象的な人ではあったけど。
もしかしてあのとき以上に眠れていない?
《たぶんね》
睡眠不足。
身近にして単純明快な体調不良の要因。
身近だから軽視されることも多いが、重度なものになれば冗談抜きで命に係わる。
以前と違い化粧をしているのは社会人としてのマナーかと思っていたが。
私の生物としての本能が、目の前の存在が非常に弱っていると告げている。
中央のライセンス試験はもう合格発表まで終わっていたはずだ。
いくら私が傍若無人とはいえ、ラストスパート中だったり発表待ちでドキドキだったりする受験生をパシリに使うほど感受性は死滅しちゃいない。
きっと一般的なそれとは異なるとはいえ、いちおうこれでもトレセン学園に入る前に受験生という立場は経験しているのだから。
それにしても、上手いな。いろいろと。
テンちゃんに押し付けられたマイクを断り切れなかったような流れだったのに。
おずおずとチョイスしたのは、さっきまで私が歌っていた曲と同じアーティストの新曲。
どこまで計算してのことかはさだかでないが、仮にこれが担当ウマ娘とカラオケにいった状況と仮定すれば、それだけでウマ娘から担当トレーナーへ向けられる親近感はいや増すことだろう。
歌そのものも悪くない。
別にライセンス試験に歌唱の項目があるわけではないが、先にも述べた通りトレーナーとウマ娘が共に歌うのは中央においてままあることだ。
それはプライベートに限らない。ウイニングライブの練習はトレーナーの領分ではないとはいえ、ウマ娘が自身のトレーナーにアドバイスを求める光景も偶に見られる。
うちの桐生院トレーナーのように教えられるレベルで歌って踊れるトレーナーも、いないわけではないのだし。
さすがは中央のトレーナーを志望するだけある。
いや、もしかすると既に『志望』の二文字は取れているのかもしれないけど。彼女の合否など興味が無かったから結果を知らないのだ。
受かっていようが落ちていようが、どうせテンちゃんが上手くやることだろう。
どうにもテンちゃんは彼女に特別目をかけている節があるから。
《なんだ、やきもち?》
少しだけ。ほんのちょっぴりね。
腹筋が貧弱なのだろう。あと肺活量も乏しい。発声にやや難があったが、逆に言えば気になった粗はそれくらい。意外と滑舌がいいし、声質も綺麗に響く。
巧みな音程で最後まで歌い上げたことを示すように採点システムは九十二点をたたき出し、テンちゃんは笑顔で拍手をした。
そして口を開いて、一言。
「うん、死にそうな顔しているね! なにかあった?」
我ながら一曲歌わせておいて言うセリフではない。
私も似たようなことを思ったけどさ。
「あ、え、う? えーっと……」
そんな扱いをされて怒りのひとつも見せないのだから人が好いというか、なんというか。
苦労しそうだな、と思う。
中央に来るようなウマ娘は一癖も二癖もあるやつばかりだ。付け込まれると言えば聞こえは悪いが、この性分のまま中央のトレーナーを務めれば必要のない苦労までいろいろと背負い込む機会に恵まれることだろう。
まあ現在進行形で苦労をかけているウマ娘は私たちなのだけれども。
「試験に合格して、今年からもう中央のトレーナーとして働くんだろ? 新生活の準備で疲れちゃったか」
へえ、合格していたんだ。
中央のトレーナーは慢性的な人手不足なので、昨年合格して今年から勤務というのは別におかしなことではない。
考えてみれば私は受験を経験していても、就活はやったことがない。ゆえに思い及んでいなかったが、新生活を始めようとしている社会人を顎で使うのはなかなか酷なことをしていたのかもしれない。
《URAに所属しトゥインクル・シリーズを走るウマ娘である時点で既にプロフェッショナルだよ。そもそも中央でメイクデビューにこぎつけるって、そこらの就職活動よりよっぽど難易度が高いからな?》
そう言われてみればそうだったかも。
「でもそれだけじゃないよね?」
ぎこちない愛想笑いで肯定しようとしていた彼女に、ついと一歩踏み込む。
急に間合いを詰められて追い付かない意識の間隙に、一言。
「間に合わなかった、か」
あまりにも軽い口調だった。
ドリンクの入ったグラスを押し付け、マイクを押し付け、そのついでにホットスナックを相手の手元に渡してやるような日常的な何気なさだった。
実際、ありふれた話である。
私の周囲を見ていると感覚がバグるが、本来レースというのは一人の勝者のためにそれ以外が敗北する世界だ。
中央において引退までに一勝を経験できるのは全体の三割程度。
何かと敗北道中がマスコミに喧伝されるウララだって今ではGⅠに挑戦可能な上澄み中の上澄みなのである。たぶん具体的な数字を出すと上位七パーセントくらい。いやもっと少ないか。計算の仕方次第じゃ三パーセント割るかも。
そもそも中央に合格したウマ娘のうち、トレーナーと契約してメイクデビューまでこぎつけることができるのは六割五分くらいだったはず。残りは勝ち負けの舞台に上がることすら許されないまま学園を去る。
名義貸しなんかが黙認されてこの数値だ。ちゃんとトレーナーの指導を受け、勝ち目がある状態でレースに出走できるウマ娘はいったいどの程度になることやら。
シニア級まで走り続けられた時点で『生き残り』。
中央はそういう魔境で、つまるところ目の前の新米トレーナーと将来の約束をしていたウマ娘さんは生き残れなかったのだ。
それだけのことだった。
「う……あ……ああ……!」
かろうじて保っていた社交性の仮面。
それがテンちゃんの一言でしたたかに傷つけられ、あっけなく決壊した。
「ま、まにあわな、かった……!」
思考がどこまでまともに機能しているのか、テンちゃんの言葉をオウム返しのように繰り返しながらぼろぼろと涙をこぼす。
「どうして……どうしてぇ……?」
いや知らんし。
私は、目の前の彼女が将来を誓い合ったウマ娘の名前すら知らない。学園を去った生徒である以上、ルドルフ会長なら憶えているかもしれないけれど。
私はルドルフ会長とは違うのだ。自分が直接関与したわけでもない終わりまでいちいち憶えていられないし、その気も無い。直接この脚で命運を踏み砕いた相手だってうんざりするほど存在しているのだから。
《まあ、シニア級になるまでそれなりに大暴れした自覚はやんわりあるし? あれを見たことが心折れる原因の一つになった可能性は無いことも無いかなー》
ウマ娘が学園を去る理由は多岐にわたる。
しかしトレーナー候補をこの道に引き込んでおいて、自分だけがお先に失礼してしまう理由となるとどんなものがあるだろうか。
まず考えられるのは怪我か。グラスワンダー先輩が“不死鳥”と呼ばれるのは複数回の怪我から復帰し、その上で新たな戦果をたたき出したことに由来する。
つまりそれだけの偉業なのだ。
これはレースに限らない話だが、怪我が治っても選手として復帰できないことは多い。
アスリートの身体は緻密に組み上げられた精密機械に等しい。そして機械と違い生物の身体は絶えず変動し、些細なことでバランスが狂う。
些細なことでも狂うバランスが、怪我という一大事で大きく狂ってしまうとなかなか元の感覚を取り戻せなくなる。たとえ日常生活に支障が出ないレベルで回復できても、選手としての生命は取り戻せない。
それが怪我というものなのだ。
病気もあり得る。
繫靭帯炎や屈腱炎など、発症した時点で致命的という病気は一つじゃない。
治療に長期間必要だったり、再発率が高かったり、中にはそもそも原因や治療法がいまだにはっきりしていないものも存在する。
致命的といってもあくまでレースを走れなくなるだけであり、通常の病気のように生物学的生命を脅かすものではないが……命懸けで走っているウマ娘たちの顔を知っているだけに『不幸中の幸い』なんて言葉は軽々しく使いたくないかな。
故障ではなく一身上の都合で別の進路を選ぶことになった、という可能性もあるか。
不義理といえば不義理だが、不幸は少なくなるのでこれなら個人的にはまだマシだ。
トレーナーを逆スカウトするようなウマ娘が自ら心が折れるとは考えにくいが、感情というのは賞味期限も消費期限も存在しているものだ。時と共に変質せざるを得ない。
それに親の声を無視できなくなったという線もある。
私の場合は両親が全面的に協力してくれているし、投資された分に見合う結果をちゃんと出せた自負もあるが、特に後者に該当するウマ娘などほんの一握りだろう。
たいていの夢は踏み砕かれる運命にある。中央のフルゲートなら最大で十七個。
トレセン学園では一般教養もちゃんと時間割の中に入っているが、一番力を入れているのがレースであることは誰の目にも明らかだ。
努力は無駄にならない。
綺麗な言葉であるし、嘘ではないとも思う。
ただその努力の成果を踏みにじってきた身から言わせてもらえば。標語として掲げる分には十分だが、当事者に投げかける言葉としてはいささか無責任だろう。
レースの勝者は一人だけ。その一人が出走した誰よりも努力してきたなどと、いったいどこの誰が保証できるというのか。
努力せずにレースに臨むウマ娘などここには存在しない。勝利を求め、そして叶わなかったその他大勢に『その努力は無駄じゃない』と誰が言えるというのか。
たしかに無駄にはならないだろうさ。将来的に何かしらには繋がるのだろうさ。
でも勝てなかった。
それだけが事実だ。滴り落ちる汗の中に涙を隠すウマ娘にとってはそれがすべてだ。その瞬間において、それが報われない無駄な努力でなくて他の何だというのか。
そんな彼女たちの無駄な努力を見ていられない者たちがいる。
中央のウマ娘と言っても肩書を剥ぎ取ってしまえばただの小娘だ。肉親から愛情と心配を滲ませた声でもっと他の道があるはずだと説かれたとしたら。心が揺らがずにいられるのは本当に覚悟の決まったほんの一握りだけだろう。
そしてそんな一握りは、たいていの場合そこまで追いつめられるまでに大成する。現実は非情である。
「どうして笑うの……?」
いろいろ考えていたが、どうやら少しばかり見当違いな方向に考えを巡らせていたようだ。
ぼたぼたと涙と共にこぼす言葉からそれを察した。
「ごめんなさい、ありがとうって……どうして謝るの? どうしてお礼を言うの? 間に合わなかったのに。なんで、あの子と同じっ、笑顔で……!」
なんとなく、気持ちがわかる気がした。
レースで負けたことのない私が、レースに負けることさえできなかった彼女のいったい何がわかるのかと言われたらそれまでだが。
「きっと、おぼえていてほしかったんだと思う」
これはテンちゃんではなく私の言葉。
トレーナーを持つウマ娘としての言葉だ。
最近はTPOに合わせ意識して敬語を外せるようになってきた。偉いぞ私。着々とコミュニケーション能力が上がっている。すごいぞ私。
「……え?」
「思い出すときに、泣いた顔じゃなくて笑った顔を思い出してほしかったんじゃないかな」
もしも私が桐生院トレーナーと袂を分かつ日が来るとすれば、そのように行動する気がする。
痛みも苦しみも、無念も未練も、すべて自分のものだ。
ウマ娘である自分だけのものだ。トレーナーには渡してやらない。
たとえそれが、相手側にとっては喜ばしい行いではないとわかっていても。
「そんな、ちがうっ。違う違う違う……!」
目の前の彼女はいやいやと子供が駄々をこねるように首を横に振る。
私の言葉を否定しているというよりは、自らに向けられたウマ娘たちの想いを否定しているように見えた。
「だって私は間に合わなかった……もしも、私がぐだぐだと下らない寄り道せずまっすぐトレーナーを目指していたら、きっと、なにかが……変えられたんじゃないかなぁ?」
「そうだね」
しれっと肯定。
これはテンちゃんだ。
「きみはとても優秀なトレーナーの素質の持ち主のようだから。きみが彼女たちに寄り添うことができていたら、もしかすると運命を変えることができていたかもしれない」
えげつない。
相手の傷口を認識した上で嬉々として指をねじ込み掻き回す。
これは私にはできない所業だ。
気づかないでやったことは何度かある気がしなくもない。
「でもどれだけ後悔したところで過去は変えられない。終わったんだ。彼女たちのレースは始まる前に終わっちゃったんだよ」
「は……え……」
無防備に弱さをさらけ出したところを無遠慮に叩き折られて、完全に脳内が漂白された様子で彼女は呆然とこちらを見やる。
依然として頤から滴り落ちる滂沱の涙が、頭が働かずとも心は悲哀で満たされていることを表していた。
「仕方ないなぁ。おいで?」
いったい何がどう仕方がないというのか。
柔らかな笑みを浮かべ優しく両手を広げるテンちゃんの胸に、彼女は吸い寄せられるように顔を押し付け慟哭する。
「うああぁあああああ……!!」
「よしよし。つらかったねえ。過去は変えられないけど、未来はここからの選択次第だ。彼女たちのために何ができるのか。今どうすればいいのか、教えてあげようかぁ?」
とんとん、と子供をあやすように背中を叩くテンちゃん。
ときに、ここのカラオケボックスには各部屋にそれなりに大きな鏡が設置されている。噂によるとそれは内部に監視カメラが仕込まれたマジックミラーなのだとか。
言ってしまえば防音設備がしっかり施された密室だ。中で客が変なことをしないよう監視する目的もあるだろうが、防音設備の密室であるがゆえに急病などで倒れた等の際に外部からそれを把握する安全対策としても必要なものだろう。だから、その存在そのものに嫌悪感は無いのだけれど。
鏡にテンちゃんの顔が映っている。
自分の顔を指してこんなことを言うのもなんだが。
悪魔というのはこんなふうに笑うのだろうな、というのが率直な感想だった。
《おいおい、誤解しないでおくれよ? 別に陥れようってわけじゃない。むしろ本当に本気で真摯にアドバイスするつもりさ。ここで潰れてもらっちゃ困るからね。
ただ、今日ここでこうやって年下の女の子の胸を借りて大泣きしたんだ。彼女はぼくらに一生頭が上がらないだろうなぁ》
いつからこの展開を、どこまで予想していたことやら。
そしてこの展開に持ち込んだことで私はいったい何を得られるのだろう。
待ち合わせ場所にカラオケボックスを指定したのはテンちゃんだ。
着替え用のジャージを用意しておくよう、私に指示を出したのも同様に。
聞いた時は受け取った勝負服の試運転でもするつもりなのかと思っていたが、こういう理由だったのか。
たしかに涙と涎と鼻水でぐちゃぐちゃになった服で帰る気にはなれない。
《コネとカネっていうのはその重みで身動きが取れなくなったりすることもあるけどサ。やっぱり無いよりはあるに越したことは無いからね》
私はピッカピカの一般家庭出身だ。
お金持ちの名門に比べると家が貧乏とかいうレベルではなく、血統書付きの一般市民。
家系図を遡ってもレース関係者の名前はそうそう出てこないし、レースに勝利したウマ娘ともなれば皆無。もっと本腰入れて探せばどこかしらは繋がっているかもしれないけど、少なくとも直系ではない。
名門だとか一族だとか、そういう血統がモノを言うこの業界においては例外中の例外。当然、血縁関係でコネは有していない。
個人的にはそういうのは桐生院トレーナーが補ってくれる分で十分に感じていたのだけど、それは私が対人関係に興味が無かったからかもしれない。
テンちゃんは事あるごとにこうして自身の影響力が通じるコネクションを増やそうとしている節がある。
彼女は私の知り合いというよりテンちゃんの友達って感じが強いから、別にどう付き合おうとテンちゃんの勝手なんだけど。
こんなんでいいの? 友達じゃなかった?
《友情とは利害を求めないもの。ただ、友情の原材料は打算と有為ってだけの話さ》
あっそう。
また性格が歪みそうな人生哲学が一つ増えたのであった。
「強くなれ」
囁く。
雑音に塗れたこの空間の中で、その声はどこまでも静かに響いた。
澱みを許さぬ透明に満ちていた。
「この世界では弱者の言葉に価値は無い。強くなれ。高みまで上り詰めろ。そうなれば自然と周囲はきみの言葉を求めるようになるだろう。何故その高みに至ることができたのかと、動機を知りたがるだろう。
そのときに語るんだ。きみが今のきみになるために失ったウマ娘たちの話を。そうやってようやく、彼女たちの物語は世界に刻まれる。彼女たちの人生の価値はきみが決めるんだ。その値札はきみがつけるんだ」
もしかするとそれは、私にさえ明かしたことのないテンちゃんの哲学の一端だったのかもしれない。
口の上手い私の半身ではあるが、脊髄で適当に喋っているときとは異なる言葉の重みを感じる。
「あなたと走れてよかったと、笑ってくれた彼女の笑顔を嘘にしたくないと思ったんだろう? 忘れるな。その想いは絶やしちゃいけない炎だ」
右も左もわからず、それでも諦めるということだけはありえないと。
かつて己を奮い立たせた信念の炎を、いまここでこっそりとおすそ分けしている。
何となく、そんな気がした。
《だってぼくら、この一年でレース業界を焼け野原にする予定じゃないか。まあ勝負の世界だ。焼き尽くしちゃう分には問題ない。強者の総取り、そういうルールで成り立っている世界だから。
でもそのままやりたい放題やって電撃引退っていうのも引け目を感じるくらいには、この世界のことが好きになってきただろう? 種を蒔くくらいのことは意識してやってもいいんじゃないかな》
そういえば、いつかも言ってたね。植林。
この一年、きっと引退するウマ娘は例年以上になる。
彼女たちを引き留める術を私は持たないし、そのつもりもない。誰かを理由にして留まっていい業界じゃないと思う。
ウマ娘の性分的に自分のためだけに走る者は少数派だろうが、最後の最後で挫けそうな自分の心を守るのは己のエゴだ。それが無きゃ耐えられない。
だから、本当に取り返しがつかないくらいまで壊れてしまう前に逃げられるなら逃げてしまえばいい。
私がつい袖を引いてしまうのはスカーレットくらいだ。
でもきっと、私に憧れてこの業界に足を踏み入れる子だって増えるはずなんだ。
そういう子たちが芽吹くための土壌を作っておく。
そして中央で慢性的に不足している最も代表的な資源はトレーナーで、だからこうやって少しでも質の良いものを増やしておく。
これはそういう地道な緑化活動なのかもしれない。
己を真に捕食者と定義するのであれば、獲物を捕り尽してしまわないよう心を配るのも知恵のある獣として当然の行いなのだろう。
結局、泣き疲れて眠ってしまうまでテンちゃんは彼女を抱きしめてあげていた。
寝落ちするまで泣き続けるとか、赤ん坊かよ。
……いや、それだけ疲労を溜め込んでいたと考えれば情状酌量の余地はあるか。
チッ、命拾いしたな。
裏側にいるときでも漠然と肉体の感覚は共有している。涙と涎と鼻水でベチョベチョになってしまった上着が腹立たしい。
一月という季節柄、重ね着していることもあり肌に湿り気をダイレクトに感じるわけではないけども。不快なものは不快だ。
《まーまー落ち着いて。まだ少し時間は残っているし、歌ってスッキリしちゃおう》
眠っている真横で歌って起きないかな?
《大丈夫じゃない? これだけ大音量でCMが流れる中寝入ったわけだし。それに吐き出すものはあらかた吐き出し終えたわけだし、起きちゃうならそれはそれで構わないさ》
それもそっか。
というわけで遠慮なくマイクを握る。
もちろん持ってきた着替えに着替えてからだし、眠ってしまった彼女は手荷物を適当に枕代わりにソファーに転がしておいた。
時間終了の電話が来ればすぐにでも全部の荷物を抱えて出られる態勢を整えておく。
先ほど二曲続けて同じアーティストの曲を歌ったせいか、選曲時におススメが出てきたので適当に入力する。
決まった何かを歌いたいというより、テンちゃんと何かを歌いたい気分だった。
案の定、よほど疲れていたのか私たちが歌い出しても彼女はもぞもぞと蠢くだけで目を覚ます気配はない。
大人になるとここまで自分を追い込まないといけなくなるのか。
他者と比べ悦に入るなんて趣味の悪い話ではあるが。
経済破綻でも起こらない限り、少なくともこと労働面に関しては余裕がある己の人生をちょっぴり幸福に感じた。
既に私の貯蓄は一般人の生涯年収を超えているし、この一年でさらに増える見込みだ。これはレースの賞金に限った話ではなく、現在進行形で毎月ぱかプチなどのグッズ売り上げがせっせと私の口座を潤してくれている。
つまり生活水準を一般レベルに合わせるのならこれ以上無理に働く必要は無い。
私にとって仕事とは働かないと食っていけないからなどという切実な動機から強制される行いではなく、その仕事内容そのものに己の時間と労力を費やすことに価値を見出した行為になるはずだ。
生きるために死ぬような目に遭っているやつらに、少しくらい優しくしてやろうかという気にもなる。
振り子のように振れ動く情緒。
この感情の振れ幅にも慣れていかないとな。
掛かりやすくなったのは私の成長の結果だ。何かの失敗や欠陥ではない。
つまり治るものではないし、治さなければならないものでもない。
受け入れた上で再び支配下に治める必要がある。
「おーい、時間だよー。起きろー」
「はっ……!? うわあ、ガチ寝してた!?」
結局時間が来るまで数曲歌い通して、平均で三点ほど目標の点数からズレた。
今日がレースじゃなくてよかった。
0.1秒あれば一バ身の差がつくのが私たちの生きる世界の速度。
シニア級のGⅠともなれば悪手を身体能力のごり押しで補うのにも限界があるし、仮に補えたところで無茶をした分の付けは身体に蓄積されていくだろう。
空想の産物のようなローテでこの一年を駆け抜けようとしているのだ。余分な疲労はわりと冗談抜きで死活問題である。
「本日は本当にご迷惑をおかけいたしましたっ! ……まさか完全に寝入ってしまうとは」
「なぁに、ぼくたちは友達じゃあないか。この程度で迷惑なんて思わないよ」
「おうふっ。身に余る光栄で逆につらい。吐きそう」
「きみの涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃになったぼくの服をちゃんと洗って返してくれたらすべて水に流すさ」
「あっ、ちゃんと洗濯はさせるんですね」
「本当はまるで気にしていないんだけどネ。何もさせなかったらそれはそれできみは気に病みそうだから。一つ区切りをつけて手打ちってわけ」
「重ね重ねお気遣いありがとうございますぅ……」
準備は着々と整いつつある。
宣戦布告の時は刻一刻と迫っていた。