「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」   作:バクシサクランオー

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引き続きライスシャワー視点


サポートカードイベント:雨の日をどう思いますか?

 

 

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 テンプレオリシュさんと戦うことを決めたライスだったけど、まずテンプレオリシュさんと同じレースを走れるかが問題だった。

 だってテンプレオリシュさんはあらゆる距離に適性を持っている。一部では『ランダムエンカウントするタイプの魔王』だなんて呼ばれるくらいに。どこにでも現れうるし、逆に言えば運が悪ければエンカウントできない。

 普通は距離適性に合わせたローテを組むものだから、誰がどのレースに出走するのかある程度の情報があればだいたい予想できるものなんだけど。テンプレオリシュさんにはそれが通用しないんだ。

 

 ライスが最も得意とするのは長距離。何ならこの国でGⅠ最長距離と名高い天皇賞(春)の3200mでもまだいける気がするくらい。たぶんもっと長くてもいけると思う。

 でも、近年のレース業界の動きって長距離は不人気ぎみというか……。マイルと中距離が世界では主流になりつつあるから。

 テンプレオリシュさんは一般家庭出身ということもあってマックイーンさんみたいな天皇賞に対するこだわりはない。世界進出を目標に据えるのなら実績を作るため、今年はマイルや中距離を中心に走っていくなんて可能性も十分ありえた。

 長距離に狙いを絞ってトレーニングするのか、それとも遭遇率を高めるために中距離路線も視野に入れてローテを組むのか。

 お兄さまとなんど顔を合わせて相談してもこれといった正解が見つからない、とても難しい問題に思えた。

 

 でも、あっさり問題は解決しちゃった。

 年が明けてすこし。当たり前のように年度代表ウマ娘に選出されたテンプレオリシュさんはカメラの前で正気とは思えないローテーションを発表して、トゥインクル・シリーズに所属するすべてのウマ娘に喧嘩を売ってみせたから。

 

「うわぁ……うわぁ……」

 

 テンプレオリシュさんが二重人格とかいろいろ聞き逃しちゃいけない情報があった気がするけど、そんなことよりも。

 ライス、見ているだけなのに胸がどきどきしちゃったよ。あと胃がきゅーっとなりそうだった。あんなことできる人っているんだ……。

 

 でもおかげでテンプレオリシュさんが天皇賞(春)に出走してくれるっていうことがわかった。ライスがいちばん得意な場所で迎え撃てる、理想的と言ってもいい環境。

 だったらあとは、ライスが間に合わせるだけだ。天皇賞(春)はフルゲートで十八人。その中に入るところから始めて、テンプレオリシュさんに勝てるようになるところまで。

 

 このごろは学園全体がざわついている。テンプレオリシュさんの宣戦布告の効果もおおきそうだけど……。

 きっと、あの有記念からずっとだ。

 あれを見て何も感じないウマ娘なんて中央にはいない。今年はみんな必死にテンプレオリシュさんと戦える枠を勝ち取りにくると思う。

 ライスはシニア級になってからの一年、何もせずに足踏みばかりしてきたようなものだから。みんなに追いつき追い越すのはとっても大変だと思うけど……ブルボンさんどうかしたの?

 

「シグナル『あきれ』を視線を媒体に発信中……。長距離レースとは劇的な成長が見込めない、技術と経験の積み重ねです。一定ラインを超えて以降は大きな進展などほぼ存在せず、ときとして後戻りして見えることさえ珍しくありません。

 精神は肉体を超越する、そんなマスターの信念に従いミッション『距離適性の拡張』に成功したこの私が保証します。ライスが菊花賞以降の目的を見失っていたのは事実ですが、その上で毎日あれだけ地道な基礎トレーニングを一日も欠かさずこなしておきながら『何もしていない』などと評価を下すのはライス本人くらいでしょう」

 

 そんないつもの無表情を崩してまで言うくらいおかしな発言だったかなあ!?

 で、でもそう言われてみれば……アオハル杯でみんなの足手まといにならないよう毎日ちゃんとトレーニングはしていた。

 〈ファースト〉の人たちと今では少しだけ仲良しだし、あのときはテンプレオリシュさんが助けてくれたおかげで大事にはならなかったけど。

 それでもやっぱり、もう二度とあんな思いはしたくなかったから。

 だから、思ったより何もしていないわけじゃなかったのかも。

 ううん、ブルボンさんがああ言ってくれたんだ。ライスも信じないと。ライス自身のことは信じきれないけど、ライスを信じてくれたブルボンさんとお兄さまのことをないがしろにしちゃいけないから。ライスは二人の信じるライスを信じる。

 

 いちおうね、勝算がないわけじゃないんだよ?

 やみくもに憧れを追いかけているわけじゃない。当たり前のことすぎてみんな言わないだけで。

 テンプレオリシュさんが発表した年間出走計画。あのローテーションには無理がある。ううん、『できるわけない』って否定したいわけじゃなくてね。

 

 たとえば長距離レースでは減量することがある。パワーが同じなら軽い方が速いから。マックイーンさんとかはそれで頻繁に泣いている。スイーツが大好きなのに体重に出やすい本人も、体重管理をしなきゃいけないその担当トレーナーさんも。すごく可哀想だと思う。

 レースに向けて身体を絞るのは別に長距離に限ったことじゃないけど、瞬発力がひときわ強く求められる短距離とかだとパワー重視でがっしりした体つきの人が多かったりするから。どちらかと言えばすらりとしている人はステイヤーに多いイメージ。

 そんな中、テンプレオリシュさんは限界まで削ることができない。理想の値まで研ぎ澄ますことができない。

 だって四月の天皇賞(春)に出走して、五月をまるまる休養に充てられたとしても、六月に安田記念と宝塚記念。

 長距離向けに仕上げた身体からたったの二週間でレースのダメージを抜いてフラットな状態に戻して、残りの二週間でマイル特化に仕上げるのはいくらなんでも無理がある。その後に中二週で中距離GⅠが控えているとなればなおさら。そんなのが一年間ずっと続くんだ。

 

 テンプレオリシュさんがどれだけ常識外れの耐久性と回復力を備えていたとしても、走りの上手さで距離の壁をある程度ごまかせたとしても。

 あのローテで走るのなら、確保しなきゃいけない安全マージンが存在する。特定の距離に専念するウマ娘なら必要としない、身体を距離に合わせて大きく作り替えるときに限界を超えないよう確保しておかなきゃいけない余白。

 桐生院トレーナーさんは自身の成果よりも担当ウマ娘を思いやる人だから、その最低限の安全マージンに上乗せしてもう一回り大きめに余裕を持たせるはずだってお兄さまは分析していた。

 そこが狙い目。弱点なんて無いんじゃないかと錯覚しそうになるテンプレオリシュさんの明確な隙。限られた距離を走ることしかできないライスたちだからこそ狙えるチャンス。

 もっとも、テンプレオリシュ陣営がその隙を理解していないはずがない。

 理解した上で決めたんだ。この時代のウマ娘を見渡して、理想値まで研ぎ澄ますことができない安全マージンありきの研鑽でも自分たちなら勝てると見込んだから決行した。

 負ければ慢心だって各方面から非難されるかもしれない。でも、勝てば絶対強者の余裕。不満を言うことはできても文句のつけようがない。

 どちらになるかは結果次第。勝った者が正義だ。

 

 ライスが勝ったらきっとテンプレオリシュさんたちはひどいことになる。

 もっと距離を定めてしっかり調整していれば勝てたんじゃないかって、痛い言葉をたくさん投げかけられることになると思う。ライスがそれで足を止めてしまったみたいに、テンプレオリシュさんも走るのが嫌になっちゃうかもしれない。

 それでも勝ちたいんだ。

 

 目標がさだまって、スタート地点にもなんとか立てた。

 あとはその間を詰めていくだけ……なんだけど。

 その彼我の距離があまりにも遠い。

 才能ではあきらかにテンプレオリシュさんに負けている。ライスには全距離走ることなんてできないし、脚質を状況に合わせて使い分けるような器用さもない。

 いちおう、長距離の適性だけならたぶん、ライスの方が上だと思う。テンプレオリシュさんは走るのが上手だから長距離までこなせるってだけで、別に長い距離に特化した身体つきをしているわけじゃないから。

 でもそれだけで埋められるような差じゃなかった。

 GⅠの舞台に立てるかな、というところまで仕上がってもぜんぜん足りない。普通の『厳しいトレーニング』程度じゃ追いつけない。お兄さまの組んでくれたメニューを順調にこなすかたわら、二月後半に開催されたフェブラリーステークスのテンプレオリシュさんを見てそう確信させられる。

 

『まさに別次元の走り。シニア級となった“銀の魔王”、その新章開幕にふさわしい一戦となりました。今日また幻想が歴史に一(ページ)変わります』

 

 シニア級に入って新しい勝負服に身を包んだテンプレオリシュさんはそれほど圧倒的だったんだ。

 どうすればいいんだろう。普通じゃないことをしないとこの差は埋められない。

 精神は肉体を超越する。それは間違いじゃないと思う。少なくともライスは自分自身でそう思える経験をしたことがある。菊花賞での勝利はただ単に生来の長距離適性の差でもぎ取ったものじゃない。

 じゃあ、とにかく山籠もりでもしてぎりぎりまで追い込めば勝てるようになるかな? あのテンプレオリシュさんに。

 ……ううん、それでもまだ足りないと思う。意味がないとは思わないし、他に手が無い以上はそれを選ばざるを得ないけど。

 

 だって、ライスは有記念のスカーレットちゃんを見ている。

 

 あの子がどれだけ真摯に長い長い時間をかけてテンプレオリシュさんを追い続けていたのか、同じチームで先輩だったライスは知っている。

 精神力だけで現実を凌駕できるのなら有記念の一着はスカーレットちゃんだった。

 さすがにライスの今の熱意が、あの子の長年の執念より勝っているなんて思うことはできない。

 ……ただ、身体の頑丈さならライスの方が上だと思う。スカーレットちゃんなら踏み込めない部分まで、ライスは研ぎ澄ますことができると思う。

 でもそれだけで結果が覆せると思えるほどのものでもなかった。それでもとにかく、キャンプのセットだけは準備しておいて――

 

「山籠もりですか? 我々もサポートとして同行しましょう」

「ブルボンさん……!?」

 

 そこで現れたのはまたもやブルボンさんだった。

 

「マスターはスパルタ式トレーニングに一家言あります。一度私が壊れた後、徹底的に再発防止に努めているので安全性もこの私が保証しますよ? ……後半はイッツ・ア・サイボーグ・ジョークです」

「笑えんぞ、その冗談は」

 

 ……たぶんライスの顏は思いっきり引き攣っていたと思う。ブルボンさんが『マスター』と呼ぶブルボンさんのトレーナーさんのツッコミに心底同意だった。

 ちなみにマスターさんは中央に数いるトレーナーの中でも有名人だ。もちろん無敗でクラシック二冠を成し遂げたウマ娘の担当トレーナーって功績由来のところもあるけど。

 『精神は肉体を超越する』って信念の持ち主で、すごく厳しいハードトレーニングを担当に課すトレーナーさん。ブルボンさんは忠実にそれらをこなしていったけど、そうじゃない普通のウマ娘はついていけないと逃げ出しちゃう子も多かったみたい。悪いうわさってよく広がっちゃうからいろいろと有名だった。

 

 あと格好もすごいの。

 どんな暗いときもサングラスを外さなくて、筋骨隆々の上半身はどんな寒い日だって白いジャージ一枚。しかも常に前を全開にしているからたくましい腹筋が丸出しになっている。

 ……正直、女子校同然のトレセン学園に勤務する指導者の姿じゃないと思うよ。ううん、もしかしたら一周回って中央トレセン学園のトレーナーらしい姿なのかもしれないけれど。一見するとちょっとカタギとは思えない。

 

――トピックを開示。マスターの昔のニックネームは“四代目”だったそうです。ちなみにその際『俺はカタギだ』と念押しされました。

 

 そのことをうっかりブルボンさんの前でこぼしちゃったときは、そうブルボンさんに教えてもらえた。

 …………本当にふつうの人は自分のことをわざわざカタギだと念押ししないような。ううん、ライスの勝手な妄想でブルボンさんのトレーナーさんを貶めるのはだめなことだ。これ以上このことを考えるのはよそう。

 ちなみにああ見えてとてもノリがよくて、一緒にカラオケに行ったときはものすごく熱烈に合いの手を入れてくれるんだって。

 『マスターのタンバリン捌きは一見の価値ありですよ。今度、一緒にいきますか?』と誘ってもらえたけどつつしんでお断りさせていただいた。

 『そうですか』とブルボンさんは表情こそ変えなかったけれど、耳と尻尾がへにゃりとなったのが少しつらかった。

 

 ちょっとどぎついジョークの衝撃で思考が明後日の方向をさまよっていたけど、ともかく。

 ブルボンさんの申し出は本当にありがたいものだった。

 もちろんウマ娘だけで判断できることじゃないから、お兄さまとマスターさんで相談して詰めるところは詰めていかなきゃだったけれど。

 お兄さまは優しいから、ウマ娘にスパルタトレーニングを実践した経験なんて無い。トレーナーである以上その知識が全くないってことはないんだろうけど、最悪ライスが独りで山籠もりした方がいいかもってところまで覚悟していた。心身を限界まで研ぎ澄ますにはお兄さまへの甘えをライスは断ち切らなきゃいけないと考えていたから。

 

「アキュートさんのところから資料もらってきた! 芝とダートの差こそあるがレースのたびに減量で研ぎ澄ます十年分のノウハウはとても参考になるからね。やったぞライス、アキュートさん本人も付きっ切りとはいかんが協力してくれるってさ!」

 

 そんなの独りよがりだった。

 お兄さまはワンダーアキュートさんのトレーナーと交渉して、それを元にライスが山籠もりで使えるメニューを作成してくれた。

 アオハル杯繋がりではチーム〈キャロッツ〉のみんなも協力してくれた。とくにゴルシTさんからは何度も意見を交換して、ライスのほんとうに限界ギリギリのラインを見極めたんだって。

 これならいけるかもしれない。極限まで研ぎ澄ますことができれば、あるいは。でも素直に喜んでばかりもいられなかった。

 

「うう……ライス、こんなにたくさんの人によくしてもらっても、何か返せるものなんて持ってないよ……」

 

 助けてもらって嬉しい。でも心配になる。

 だってライスが返せるものを持っていないのなら、代わりに払うのはきっとお兄さまだ。

 でもお兄さまは笑いながら首を横に振った。

 

「何の取引も無かったと言えばウソになる。でもねライス、大半はきみの功績なんだよ?」

「え?」

 

 テンプレオリシュさんの宣戦布告はライスが思っていたよりずっとずっと広範囲に波紋を広げていたみたい。

 このままテンプレオリシュが計画通りに無敗のまま『最初の三年間』を駆け抜けたら、きっと彼女のトゥインクル・シリーズはそこでおしまいになる。それはあまりに惜しい。

 そう考えた人たちがいた。

 

 無敗の大記録も間違いなく偉業ではあるが、それ以上にもっとトゥインクル・シリーズの中で活躍する彼女を見ていたい。

 そう考えた人たちがいて、その人たちは次にこう考えた。

 

 だから誰か強いウマ娘があの連勝を終わらせてくれないものだろうか。テンプレオリシュをもっと見ていたいから、彼女を負かすようなウマ娘を応援しよう。

 だけどテンプレオリシュが最強のウマ娘であることは事実。よほど優れた資質の持ち主が万全の態勢で挑んでようやく可能性があるかといったところ。

 どこかにテンプレオリシュに勝てそうなウマ娘はいないものか。それはたとえばマヤノトップガンで、あるいはダイワスカーレットで。そしてたとえば――ライスシャワーとか。

 

「あのライスシャワーが可能な限りの研鑽を積んで、GⅠ最長距離の天皇賞(春)でテンプレオリシュに挑む。そのこと自体に価値を見出す人は多いってことさ」

 

 みんながみんなそっくりそのままそう考えたってわけじゃないはず。トレセン学園関係者ならライスが挑むことで何らかのメリットがある人が大半のはず。テンプレオリシュさんが負けるわけないと信じていて、自分たちがいつか勝つその日のためにある程度消耗させつつデータをたくさん取ってほしいと思っている人も多いと思う。

 たとえばアキュートさん陣営は新しく担当する子の予習の一環だって明言してた。アキュートさんのトレーナーさんが言うにはその子の素質はテンプレオリシュ級で、すなわちその子もいずれ周囲から包囲網を布かれる運命にある。だから今のうちに外部から徹底包囲網に協力することでその効果と欠点や脆弱性、テンプレオリシュ陣営が取るであろう対策を参考にさせてもらいたいんだって。

 さすがにテンプレオリシュさんみたいな子が何人もいるわけないと思うけど……。

 

「それでもね、似たような子はこれまでにだっていたのよ。この人にだけは勝てないんじゃないかと膝を屈めたくなる時代の寵児。あたしの場合は赤鬼さんかねぇ。覚醒した後のあの人はほんとうに負け知らずでねえ」

 

 そう語ってくれたのは件のアキュートさん。

 お兄さまが話していた通り、ときどき山籠もりに顔を出してはライスのトレーニングを手伝ってくれたり、その経験豊かな体験談を聞かせてくれたりした。

 十年の現役経験を持つこの人に言われたら、納得するしかないよね。

 

「勝ち続けで負けが無いっていうのはどういう感じなのかねぇ。勝った時の嬉しさとか、負けたときの煮えくり返るような悔しさやトレーナーさんへの申し訳なさはよく知っとるのやけどねえ。

 自分より弱い相手としか戦えないっていうのはもしかしたら寂しいことなのかもしれんと、あたしは思うんよ。だから一回くらいは勝ってあげたかったんじゃけどねえ……」

 

 アキュートさんはその赤鬼さんに結局一度も勝てなかったんだって。

 無敗のブルボンさんに勝ったけどみんなをがっかりさせたライスと、どっちが幸せだったんだろう。

 

「惜しい線まではいったんじゃけどねえ。結局ぎりぎり届かんかったのよ。だから、せめてあたしの後に続く子たちには想いを遂げてほしくて、あたしはこうやって助太刀しとるんかもしれんねぇ」

 

 アキュートさんじゃなくても、多かれ少なかれ似たようなことは誰もが感じていたのかもしれない。

 このままじゃいけない。このまま最強の彼女の思い通りにさせていいはずがないって。

 だから各々の思惑はどうあれ、大きな流れとして『打倒テンプレオリシュ』というものがあったのは感じられた。

 

 ライスのこれまでが、トレセン学園に入学してから出会ってきた人たちが、トゥインクル・シリーズで走った三年間の中で手に入れてきたものが今のライスを支えてくれる。

 何もできていないと思っていた。みんなを不幸にしてばかりだと思っていた。応援してくれる数少ない人たちをがっかりさせてばかりだと思っていた。

 でも違った。いつかライスが菊花賞で見せた走りを今でもちゃんとおぼえていてくれた人がいた。

 いつのまに、こんなにたくさんのあたたかいもので満たされていたんだろう。

 

「……うん、応えたいな」

 

 自然とそう思えた。

 

 

 

 

 

 三月後半の阪神大賞典ではマヤノちゃんに狙いを定めて、二バ身半離されての二着。

 でも納得のいく内容だった。天皇賞(春)は一月後。この調子なら当日に限界ぎりぎりまで絞り込んだベストコンディションで挑めると確信できる。

 

「んー、ほほー」

 

 ゴール板を通り過ぎた後、マヤノちゃんはライスのことをまじまじと見て何か納得しているみたいだった。

 察しのいい子だから今のライスから何かに気づいたみたい。

 今のライスの目標はテンプレオリシュさんただ一人。……あれ? 二重人格だからふたりなのかな? と、とにかくテンプレオリシュさんのことしか見ていないから。

 ライスはマヤノちゃんで『長距離で有力なウマ娘を徹底マークする戦法』を試した。そのことをマヤノちゃんは察したのかもしれない。

 失礼なことだったかもしれない。でも選べるほどの手札をライスは持っていないから。きたるべき天皇賞(春)に向けて打てる手はぜんぶ打つ必要があった。

 同時期に開催された大阪杯で見せたテンプレオリシュさんの一バ身差の圧勝にも心はもう揺らがなかった。

 納得と、今なら届きうるという予感だけがあった。

 

 研ぎ澄まされていく。

 削ぎ落とされていく。

 

 もういくつ練習用のシューズを履き潰したかわからない。

 あたたかいもの。大切なもの。大事だったもの。これまで積み重ねてきたあれこれ。捨ててしまうわけじゃない。けど切り離されてどこかにしまわれていく。

 体重がすり減るごとにそれを燃料に魂が燃え上がるみたい。青く、青く。身体の中だけでは収まりきらなくて、目や口からこぼれだしそうなくらい。

 

 ウマ娘という存在の枠さえ今ならはみ出せそうな気さえする。

 あるいはテンプレオリシュさんの見ている世界はこういうものなのかもしれない。

 

「ラ、ライス……?」

 

 不安げなお兄さまに微笑む。

 ねえお兄さま、ライスの勝負服はおなかが隠れるデザインでよかったね。

 肋骨が浮き上がった身体なんて、ファンのみなさまにお見せできないもの。

 

 

 

 

 

 そしてついにその日が来る。

 

 前日から小雨が降り続けて、当日になってもまだ止んでいなかった。

 だからバ場状態は重の発表。淀の3200mでこれはきついかな。もうカレンダーの上ではすっかり春だけど、今日は少し肌寒く感じそう。レース前に身体が冷えてしまわないように注意しないと。

 頭の中のほんの一部分で他人事のように思考が回っている。

 空模様を見て、ここまでくる道中に見た人たちの服装を見て、今日は寒そうだと頭では理解している。でも、寒さも何も感じない。

 身体の不調とかじゃなくて、集中力の配分の問題。今のライスには余分なことに意識を向けるだけの余裕がない。

 内側から込み上げる奔流を抑え込むのでせいいっぱい。今にもはじけ飛んでしまいそうだ。

 

「……は、なるほど。今になってテンの言っていたことが理解できた」

 

 地下バ道でココンさんとすれ違った。

 ううん、すれ違うって表現は少しおかしいのかな。同じレースに出走する者同士だもん。ココンさんが立ち止まって集中力を高めていたところに、ライスが追い付いたかたち。

 

「あの時とはまるで別人じゃ――」

 

 でも、やっぱりすれ違うで合っていると思う。

 一瞥すらせずライスはその前を通り過ぎたから。

 今日の目標は一人だけ。ふたりでひとつの“銀の魔王”。

 それ以外に割くリソースなんて無い。その態度がどれだけ失礼で、された相手の心を傷つけてしまうものだったとしても。

 まっとうな人間のまま今日ここに立ったつもりなんて、もうライスには無いよ?

 

「――へぇ? ああ、そりゃそうだ。今日アタシたちはおしゃべりじゃなくてレースしに来てるんだもん。道理だね……チッ、シカトできない結果を見せてやるよ」

 

 何か言ってる。怒らせちゃったかな。

 ぜんぶレース後に聞くね。そのときライスがまだお話できる状態だったら、だけど。

 

 

 

 

 

 重圧で空気が薄っぺらく圧し潰されて、透明で見えないそれが何層にも折り重なっているみたい。

 

 テンプレオリシュさんを見たときの感想。

 芝の上に出てゲート入りする時点でみんな雨に打たれて濡れ始めているはずなのに、彼女ひとりだけちっとも汚れていないように見えた。

 圧倒的なプレッシャーゆえの錯覚。でもそんな物理法則に縛られない在り方が、もしかしたら真実なんじゃないかと思わせてくるものが勝負服を身にまとったテンプレオリシュさんにはある。

 

 ちらりと視界に入れただけでライスは自分がゲートに入る順番が来るのを待つ。

 あのひとに集中するのは今じゃない。あともう少しだけ先。

 ファンファーレが鳴る。

 

『唯一無二、一帖の盾をかけた熱き戦い。最長距離GⅠ天皇賞(春)!』

『あいにくの雨が芝を濡らします本日の京都レース場。バ場状態の発表は重となりました。この国のGⅠにて最長距離を誇るレースで悪天候がどのような波乱をもたらすのか?』

 

『三番人気はこの子、サクラバクシンオー。二枠四番での出走です』

『スプリントの絶対王者がまさかの最長距離GⅠへ殴り込み! 前走の日経賞では見事2500mを逃げ切り勝利しています。これがただの記念出走とはもはや誰も思っていません』

 

 バクシンオーさんはすごいな。ほんとうに実現しちゃうなんて。

 むかしからそうだった。周囲がどれだけ反対しても絶対に自分を信じて揺るがないで、最後には本当に叶えてしまう。

 ライスとは大違い。人間として根っこのところで敵わないなって思っちゃう。

 でも今日は3200mの重バ場なんだ。ここではライスが勝つよ。

 

『二番人気はマヤノトップガン。七枠十四番での出走です』

『先日は阪神大賞典を危うげなく制しさらなる実力を証明しましたマヤノトップガン。奇しくも本日は京都レース場にGⅠ長距離、重バ場と菊花賞を彷彿とさせる条件が揃っています。クラシックのリベンジとなるのか』

 

 マヤノちゃんとは阪神大賞典でやり合ったけど、今はもう、何も思わない。

 ライスはあのとき手札をすべて晒したわけじゃない。それはマヤノちゃんだって同じはず。

 強敵であることは間違いない。けれど、お互いに本命は別にいて。

 その本命が同じウマ娘だってこともお互いにわかっている。そういう関係だ。

 

『そして本日の主役はこのウマ娘をおいて他にいない! ここまで無敗ッ! 一枠一番テンプレオリシュ、堂々の一番人気です!』

『前走の大阪杯でも見事に勝利し、GⅠ連勝数がついに十連勝と二桁の大台に乗りましたテンプレオリシュ。無事に十一連勝目も勝ち星を刻むことができるのか、それともついに不敗神話を終わらせる刺客が出てくるのか、注目の一戦です』

 

 悪天候の長距離で最内枠。テンプレオリシュさんくらいの注目度があるのなら、下手すればスタート直後から周囲に囲まれてガッチリ最後までマークされてしまう。条件を考えればあまり恵まれた枠番ではなかったかもしれない。

 でもみんな知っている。その程度の運で左右されるような相手じゃないって。それでもみんな蓋をするように動くだろう。そうすればただでさえ長距離で必要なスタミナを少しでも消耗させることができるから。

 ひとつひとつは無駄で無益に見えることでも、重ねていけばいつかは届くかも。そう信じてがんばるしかないんだ。

 

『各ウマ娘ゲートに入って態勢ととのいました』

 

 ゲートが開く直前。観客席におおぜいの人がいるはずなのにしんと静まる一瞬。

 レースに集中できていないときは、あの静寂に責め立てられるようで吐き気すらおぼえていた。

 今はよくわからない。もとから静かなのか、静かになったのか。

 でもゲートが開いた瞬間だけはとてもクリアに感じた。

 

『今いっせいにスタートを切りました! 絶好のスタートを決めたのは四番サクラバクシンオー』

『先陣を切るのはやはりこのウマ娘、長距離も悪天候もなんのその。迷いのない走りは見ていて爽快ですね』

 

「ハーッハッハッハ! バクシンバクシンバックシーン!!」

 

 やっぱり。

 お兄さまと一緒に予想した通り、このレースではバクシンオーさんが先頭に立った。

 不慣れな長距離で重バ場という不安要素。特にバクシンオーさんはその走法が滑る足場と噛み合っていないはず。これで逃げを選ぶのは常識的に考えたら無謀だ。賢い選択とはとてもじゃないけど言えない。

 でもバクシンオーさんは賢い選択を選ぶんじゃない。賢明な判断を尊ぶ人じゃない。自分が正しいと思うことを選ぶんだ。

 学級委員長としてあらゆるウマ娘の模範であろうとするあの人は絶対に先頭を走ると思っていた。自分の後ろに続くウマ娘たちのために。

 それがバクシンオーさんの信じる学級委員長として正しい在り方だから。

 距離適性の違いから同じレースを走る機会はあんまり無かったけど。ちゃんと知ってるよ。すごい人だって見てたよ。同じ世代を走るウマ娘だもの。

 

『ぐいぐいと後続を突き放して先頭は四番サクラバクシンオー。そこから三バ身から四バ身ひらいて七番アイゼンテンツァー、外を回ります一番テンプレオリシュ、内に九番ライスシャワー、少し離れて十一番イマジンサクセス。ここまでで先行集団を形成』

『四番サクラバクシンオー気持ちよく逃げていますね。間延びした展開になりそうです』

 

 京都レース場に存在する通称『淀の坂』。第三コーナーに小高い丘が設けられているとでもいうべき特徴的な構造で、この高低差4.3mの坂をどう攻略するかが京都レース場における勝負の重要な分岐点。

 天皇賞(春)はバックストレッチからスタートするから、スタート直後から100m走る間に約2.1mの急坂を上らないといけない。坂の頂上はちょうど第三コーナーあたりにあって、そこまで緩やかに280mかけてさらに約1.8m上る必要がある。

 そこから第四コーナーまで3.5mを下って、第四コーナーを回って直線に入るまでが0.8mの下り勾配。

 昔はゆっくり上ってゆっくり下るのが鉄則とされていたけど、ミスターシービーさんやゴールドシップさんあたりが派手に活躍したから。最近は下り坂で慣性をつけて平坦な直線に向く戦法が実は有効なんじゃないかって研究が進められている。

 でも3000m級のレースにおいて、一周目はいかにスタミナを温存するかが重要って点は変わっていない。

 まだ元気な一周目だと、自然と勢いがついちゃう下り坂からスタミナに余裕がある状態でホームストレッチに入るでしょ? そこでスタンドから大歓声を浴びてしまうと、つい速度を出してしまいがちなんだ。

 でもね。ウマ娘は応援をパワーに変えることができるけど、パワーを生み出すには応援だけじゃなくてスタミナも必要なんだよ? だから自分を抑えることが大切なの。

 

 そんな定石も鉄則も知ったことじゃないと、絡まる雨も芝もウマ娘もまとめて振りほどくみたいに軽やかに。

 テンプレオリシュさんは包囲網が完成する前にひらりと内側から抜け出して、気づけば外目の周囲が把握しやすいポジションにするりと位置取っていた。

 動きそのものは目で追い難いほどに鮮やかだったけど。

 その位置につけたこと自体は、これもまた予想通り。

 これまでのレースの中で強敵がいるときは、教本通り差しの位置取りから堅実な作戦を取ることが多かったテンプレオリシュさん。だけど、今回は先行か逃げを選ぶと思っていた。

 

『二バ身離れて十七番サーキットブレーカ、少し離れて八番ムシャムシャ、その外に十二番リトルココン、内に十四番マヤノトップガンここにいた』

『十四番マヤノトップガン、今日は差しを選びました。変幻自在な彼女の走りが今日はどんなドラマを生み出してくれるのでしょうか』

 

 バクシンオーさんは速い、ものすごく、すっごく速い。

 短距離の絶対覇者として君臨していたのは伊達じゃない。去年のスプリンターズSだって最内枠のリードをテンプレオリシュさんが最後まで守り通した展開であって、スピードで凌駕されたわけじゃない。

 もしも終盤にあの速度を出されたら差しより後ろの位置からだと捉えきれない。

 もちろん常識的に考えてこの重バ場で先頭を逃げ続けたバクシンオーさんが上がり最速の末脚まで残せるなんて、ありえないけど。

 バクシンオーさんが常識と正面衝突してそれを打ち砕くところを、これまでライスは何度も見てきた。バクシンオーさんが常識にぶつかって砕けるところはもっとたくさん見てきた。

 後者だったらいい。何の問題も無い。でも前者だったら? 純粋なスピードの脅威。バクシンオーさんは大逃げと同じように、終盤に入った時点で絶対に追いつけない状況を作り得るんだ。

 

 そのリスクをテンプレオリシュさんは見逃さない。

 賭けに出なくても勝てるだけの下地があるから無駄に賭けない。先行策を選ぶことによって末脚がすり減ることも、位置取りの結果として距離のロスが生じることも、全部呑み込んだ上で万全に勝利を目指す。それでも自分が勝てると判断する。

 戦績が戦績だけに、あとマスコミ向けの言動とかの影響もあって、常識外れのド派手なイメージが世間では先行しているけど。

 普通のウマ娘なら偶に陥る打つ手なしの無策や自暴自棄や強硬策とかが無いぶん、正確な情報さえ出揃ってしまえばむしろテンプレオリシュさんの行動は読みやすい。

 もっともこれはライスとお兄さまだけで至った結論じゃなくて、チーム〈キャロッツ〉を始めとしたみんなにサポートしてもらって到達できた答えなんだけどね。

 

『少し後ろから十五番マチカネフクキタル。二バ身離れて二番ミニベロニカ、最後方からのレースとなります』

『二番ミニベロニカ、彼女の脚質にはあっていますよ。冷静にペースを保っています』

 

 そして前目につけてくれるのなら、ライスがこれまで培ってきた徹底マークの技術が十全に活かせる。

 このレース中はもうあの人を内に入れるつもりはない。ラチから五メートル離れて外側を回れば一周で数十メートルを余分に走る必要が出てくる。レースの距離が長くなればなるほど、足場が悪ければ悪いほど、この差は大きく響く。

 テンプレオリシュさんが許容範囲だと切り捨てた些細な不利を集めて、重ねて。

 最後に届かせるんだ。この刃を。

 

『第四コーナーを抜けて一周目の直線へ。雨天にも負けないスタンドの大歓声が駆け抜けるウマ娘を迎えます。先頭は依然として四番サクラバクシンオー。十一番イマジンサクセス落ち着かない様子で上がっていく』

『全体的にペースが速いですね。重バ場とは思えないハイペースです。後ろの子たちが差し返せるのか気になる開きが出てきました』

 

 雨が降り注ぐ中、きらきらと銀色に光るあの背中を追い続ける。

 不思議な気分だった。

 とても静かなんだ。

 頭はずっとくるくる回転してこれまで積み重ねてきたものを反芻しているし、魂は青く燃え盛っている。なのに心が切り分けられたみたいに凪いでいる。

 まるで夢を見ているよう。真っ白な霧の中を泳いでいるみたい。身体は熱くて苦しいはずなのに、それがどこか遠くの誰かのもののように感じる。

 

 追い続ける背中を通していつかのライスが見える。

 菊花賞に勝ちたくて必死にトレーニングをしていたライス。菊花賞に、ブルボンさんに勝ったのにため息と失望の視線しか得られなかったライス。

 また勝ちたいと魂が叫んで、もういちど積み上げた今日までのライスの走りが走馬灯のように渦巻いて見える。

 嗚呼、まちがいない。

 今この瞬間の私が最強だ。

 ふいにそう確信できた。

 

『第二コーナーを抜け二周目の向こう正面。各ウマ娘の動きが激しくなってきました。四番サクラバクシンオー、まだリードをキープしています! 四、五バ身離れて二番手は十一番イマジンサクセス。そのすぐ後ろ七番アイゼンテンツァー、その外に一番テンプレオリシュ、一バ身離れて九番ライスシャワー』

『一番人気のテンプレオリシュは現在四番手。はたして期待に応えることができるのか。それともサクラバクシンオーがこのままいってしまうか!?』

 

 ずっとこのまま走り続けられるような気がした。

 でもそんなわけ無いよね。

 レースが動く。誰かが仕掛ける。このレースは春の天皇賞。ならもうここは既に勝負所だ。

 

「今日はいい天気だね」

 

 声が聞こえる。

 身体じゃなくて魂が、触れ合って震えて伝わってくる自分以外の心の声。

 目の前の現実を塗り潰して具現する誰かのセカイ。

 

「天賦の速度を持つ時代の寵児どもと、アタシみたいなウマ娘が真正面からやり合える、実にステキな日だ」

 

 領域具現――深海廻廊

 

 どぼんと大きなものが水面に落ちた音が耳に響いたかと思ったら、水底までいっきに引きずり込まれた。

 




次回、春天決着
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